プロローグ カカシ
馬車は土の道をゆっくりと進んでいた。道が石畳とは違い、舗装されていないせいもあろう。揺れるたび私は柔らかいクッションを腰に当てながら、右手の車窓を覗く。
村の収穫はすっかり終わっていた。川に沿った穀物畑は刈り取られたばかりで、膝丈ほどの茎がところ狭しと並ぶ。私がここにくる日は、麦は決まって見事な黄金色をしていた。豊穣の彩りに心を打たれ、小さい頃、畑の間を何度駆け回ったことか。真っすぐでないこの道も、馬車で揺られるには不格好だが、歩くには心地よいはずだった。
反対に左手の窓には葡萄畑が広がった。小高い斜面に連なる低木から、重たそうな果実が稀に顔を見せてくる。風が通ると、実はこちらに首をもたげるものの、しぶとく掴まっていた。
実りを見せる畑には、カラス除けか、村人の服を着たカカシが厳しく、新しい住人となる私を睨んでいる。カカシは大きくて上から物を見ているようで苦手だ。あれに口があり、私を追い払わず、攻撃しないとわかれば、少しでもその意識は変わっただろう。私は膝の上で汗ばんだ手を握る。
「あれが夜な夜な動くはずないって、サフィも言っていたんだし。そんなに怖がらなくてもいいはずよ。この村はいい人が多いんだから」
サフィラスは年上なのに、“サフィ”と勝手に呼び捨てにしているのは秘密だ。私は視線を逸らさないようカカシを睨み返した。あれは目を離した隙に、少しずつこちらへ移動してくる怪物のように見えてならない。向こうに気づかれないよう、そっと車窓のカーテンを閉じる。背もたれに体を休めながら、足元にある鞄を見つめた。
裁縫箱に、櫛に、最低限の服、それから蜜蝋に、髪紐。髪の毛が解けていないか、後ろに手を回し、乱れ具合を確認する。
サフィラスを見送る時ぐらい、整えていたい。
でも彼が気に入っていたのは、決してこんな姿ではないだろう。髪紐すらつけず、走り回って絡まった枝毛。鼻水を垂らしながら、とにかく笑って走る私。止まることを知らず、つい余計なことまで聞いてしまう口。そのどれもが、大人になった私から抜けていた。
この懐かしさを、誰より愛おしく語ってくれる人と。今日は棺のない送別をしに来た。
しかし突然、背もたれに体が押しつけられる。御者が騒ぐ声とともに、扉を開けた。
「すみません、お嬢様。牛が道をふさいでしまって、馬車を止めるしかなく」
外に出てみると、まだ畑の道半ばだ。堂々とたたずむ牛は先を急ぐこともなく止まっている。農家の人が小枝で軽く叩くものの、牛はきょとんとしていた。
「私はここから歩くから。馬車はゆっくり来てちょうだい」
「ですがお足元が」
そう言われる矢先、靴の先が妙に染みてくる。水たまりが今まさにできていた。牛はすっきりしたような顔で用を足すと、その辺に生えている雑草をむさぼりだす。
まさか……こんなことになるとは。ここに来る前、私は身だしなみを完璧に整えたつもりだった。
「サフィ……牛ぐらい、退けてくれたっていいじゃないの」
笑いそうになって、慌てて唇を噛む。私は靴も濡れた靴下も脱いだ。それを馬車に残して、村を歩く。茅葺き屋根の民家は一本道に沿って並ぶ。扉は明け放たれたまま、たまにガチョウや鶏が迷い込み、子どもたちが追い出すようなはしゃぐ声が響いた。
「あの人、裸足だよ!お母さん、あれ見て!」
「こら!人に指を差さないの」
笑い物になるのを私は裾で足元を隠しながら、道の先にある丘を登る。ここを上がるときは、私の歩幅にサフィラスはいつも合わせてくれていた。どんなに遅くても、彼は少し先で後ろを何度も振り向き、私を見守ってくれる。手を伸ばせばすぐ届く距離に。手を繋げば、必ず握り返してくれた。
そんな思い出深い丘も越え、私は要塞のような城の中庭に足を入れる。中庭に向く廊下の窓。西の壁は蔦が絡まり、窓が開きにくい。それはサフィラスがいた頃と同じだ。見慣れた景色を一望し、息を吸う。ふと杖をつく音が響いた。私はここに遊びに来たわけではない。
サフィラスが剣を託した男に嫁ぐ。それは父の判断だけで進められるものではなかった。辺境伯家に剣を返さず、あの男に託したのには理由がある。私はそう信じている。そうでなければ、彼が選んだ相手に、私は剣を返してくれるようとっくに求めていた。
杖の音が近くで止まる。白髪混じりの髪を後ろできっちりと結んだ父が咳払いをした。
「ネリネ、なぜ靴を履いておらぬ」
「これにはその……事情があって」
牛にやられたんだと、情けない言い分を父には聞かせられなかった。
「今すぐ洗ってきなさい。私はこれから、ことを進めなければならぬ」
「あの、お父様。サフィラスの葬儀は終わっていますから。一緒にお墓を見に行きませんか」
父は振り向かず「足の汚い者とは並べぬ」と、また足を引きずって歩いて行った。




