第三章
六月の終わりが近づくと、店の棚は目に見えて低くなった。
売れた本もあるし、箱に入れられた本もある。前は背伸びしないと見えなかった上の段が、いつのまにか近くなっていた。通路の端には細く畳まれた段ボールが立てかけられ、レジの後ろにはガムテープの輪がいくつも転がっている。
それでも、店はまだ店だった。
ガラス戸を引けば鈴が鳴るし、雨の日には古本の匂いが少し濃くなる。店主は値札を貼り、会計をし、ときどき棚の位置を直す。その動きの中に、もうすぐ終わる場所のあわただしさはあっても、投げやりな感じはなかった。
一箱棚の話は、そのあと何度も出たわけではない。
店主が「喫茶店の人に聞いてみる」と一度だけ言い、数日後に「たぶん大丈夫そう」とだけ付け足した。置く本の数も、棚の大きさも、読書会をするかどうかも、何ひとつ決まっていなかった。それでも、決まっていないまま消えるものではなくなったことだけはわかった。
僕は放課後に店へ寄って、箱へ入れる本と最後まで棚に残す本を手伝って運んだ。
勝手に触っていいものか、最初はわからなかった。けれど店主が「それ、こっち」とか「その箱、重いから下から持って」とだけ言うようになってからは、前より手を出しやすくなった。
重たい単行本の箱を持ち上げるたび、腕がじわじわ痛くなる。
それでも、前みたいに丸椅子へ戻るだけでは終わらなかった。
*
最終日の朝は、ひどい雨だった。
学校は午前で終わったけれど、僕はほとんど授業を聞いていなかった。黒板に書かれた日付の横で、チョークの粉が湿気を吸って少しにじんでいた。窓の外のグラウンドは白く霞み、部活の声も聞こえなかった。
放課後になるのを待って、僕はそのまま駅へ向かった。
雨宿り書房の前には、見たことのない人が何人か立っていた。
閉店の紙を見てから入る人、傘をたたむ場所がなくて少し戸惑う人、ただ入口を眺めるだけで去っていく人。仮囲いのせいで駅からの人の流れが店の前へ寄るようになっていて、以前なら素通りしていた人まで立ち止まっていた。店の中も、いつもより混んでいた。通路の狭さのせいで、人が二人すれ違うたびに肩や鞄がかすかに触れる。
僕は奥のほうへ入り、空いた棚とまだ残っている棚のあいだに立った。
年配の女性も来ていた。
大学一年の女子も、濡れた前髪をハンカチで押さえながら入ってきた。
二人とも店主に長いこと話しかけたりはしなかった。
ただ、本を一冊買って、店の中をひとわたり見て、帰る前に小さく会釈をした。
店主も、それに対して特別なことは言わない。
「ありがとうございました」
いつもと同じ声で、そう言った。
それが、この店にはいちばん合っていた。
夕方になると、客足は少し落ち着いた。
ガラス戸の外では、ロータリーを回るバスのランプが雨粒の向こうで滲んでいる。
店主はレジ横の小さな札を裏返して、「本日閉店」と見える向きにした。
その手つきを、僕は少し離れたところから見ていた。
何か言わなければいけない気がした。
でも、ありがとうも、お疲れさまも、どれも少し違う気がした。
店主のほうが先に顔を上げる。
「手、空いてる?」
僕はうなずいた。
「じゃあ、そのへんの文庫、箱に入れて」
最後の作業は、思っていたより事務的だった。
棚から文庫を抜き、箱へ入れる。向きをそろえる。重くなった箱の口を閉じる。ガムテープを切る。そんなことを何度か繰り返すうちに、しゃべる必要のない時間が続いた。
それがありがたかった。
全部の棚が空になるわけではない。
一箱棚へ持っていく分が、壁際の小さな箱に分けられていた。文庫、詩集、短編集、エッセイ。数えてみれば、ほんとうに一箱ぶんしかない。
「少ないですね」
気づくと、僕はそう言っていた。
店主は箱の中を見て、笑う。
「一箱だからね」
それから、いちばん上に積んだ薄い詩集の端を指で押し込む。
「でも、このくらいのほうが、逃げ道あっていいかも」
逃げ道、という言葉が、この人らしいと思った。
外の雨は、閉店の時間が近づくほど強くなった。
最後の客が帰ったあと、店主はレジの引き出しを閉め、ガラス戸の鍵を回した。
鈴は鳴らなかった。
店の中に、自分たちしかいない静けさが残る。
店主はしばらく入口の内側に立ったまま、ガラス越しの駅前を見ていた。
僕も、少し離れて立っていた。
「終わった」
店主が言う。
独り言みたいな声だった。
僕は返事をしない。
何を返しても、少し違う気がした。
店主は振り向いて、レジ横の丸椅子を見る。
さっきまで何も言わなかったのに、必要なことだけは先に見つける人だと思った。
「これ、持ってく?」
僕は一瞬、意味がわからなかった。
「え」
「喫茶店。椅子、あったほうがそれっぽいかなと思って」
丸椅子は、脚の塗装がところどころ剥げていた。
最初に「そこ、座ってて大丈夫」と言われた日から、ずっと同じ場所にあった椅子だった。
僕はすぐにはうなずけなかった。
店主は少しだけ首を傾げる。
「重いけど」
「……持ちます」
そう答えると、店主は「じゃあお願い」と言った。
その言い方があまりにもいつも通りで、僕は少し息がしやすくなった。
*
看板が外されたのは、その翌週だった。
学校帰りに駅前を通ると、ビルの脇の壁には、もともと何もなかったみたいな四角い跡だけが残っていた。白い仮囲いは前より高く見えて、駅前広場の案内図まで新しいものに貼り替えられていた。その前を通る人は、そこに本屋があったことを知らないまま歩いていく。
僕は少し立ち止まってから、また駅のほうへ歩いた。
なくなった、と思った。
*
七月の半ば、店主に教えられた喫茶店は、駅前から少し離れた古い商店街の角にあった。
ガラスの扉に小さく「喫茶 ひつじ雲」と書いてある。店の中は雨宿り書房より広いのに、置かれている椅子やテーブルの高さのせいで、むしろ少し落ち着いて見えた。コーヒーの匂いと、古い木の匂いが混ざっている。窓から入る光が白っぽくて、カウンターの天板に落ちた影の輪郭がやわらかかった。
一箱棚は、壁際の窓の下に置かれていた。
文字通り、一箱だった。
木の箱を横に倒しただけの簡単な棚に、本が二段で並んでいる。その脇に、雨宿り書房から持ってきた丸椅子が置かれていた。箱の上には、前の店で使っていた小さな手書きのポップが一枚だけ立てかけてある。紙の端は、店の湿気とは違う場所の空気ですでに少し反っていた。
雨宿り書房
その文字を、僕はしばらく見ていた。
店主は棚の前で、並びを少し直している。
「狭いでしょ」
そう言ってから、
「でも、前より風通しはいい」
と付け足した。
喫茶店のマスターは五十代くらいの男で、棚を見ている僕に「座るならそっち使っていいよ」とだけ言って、置きっぱなしだったコースターを一枚だけ丸椅子の横へ寄せてから、カウンターのほうへ戻っていった。布巾でカップを拭く手つきが、急がないのに淀みがなかった。店主と同じで、踏み込みすぎない人なんだと思った。
月に一度だけ、閉店後に小さな読書会をすることになった。
最初の回は、店主と僕と大学一年の女子の三人だけだった。雨のせいで誰も来ないんじゃないかと、始まる前に店主が窓の外を二回見た。
丸椅子と、喫茶店の椅子を二脚。棚の前に寄せて座る。マスターが水を三つ運んでから、カウンターに戻った。
しばらく、誰も話さなかった。カウンターの向こうでカップが棚に戻される音だけが、静かに続いている。女子が棚から一冊抜いて、表紙を手のひらでなぞってから開いた。店主はそれを見ているだけで、始めようとも、何か読もうとも言わなかった。
そのまま、誰かが好きな本の一節を読んで、ほかの二人が聞いて、少し黙る。それだけの時間が三十分ほど続いた。不安定なくらい、始まりたての集まりだった。
僕は最初の二回、ほとんど何も話さなかった。ただ、棚の端に並んだ薄い詩集を見るたびに、受験のころにここで詩集ばかり買っていたあの人のことが浮かんだ。
二回目の終わりに、店主がその一冊を抜いた。
「これ、あんまり動かないから、いったん下げるかも」
その言い方は軽かったのに、僕は反射的に、
「それ、置いといたほうがいいです」
と言っていた。
店主がこちらを見る。
僕も、言ってから少し遅れて口をつぐむ。
たったそれだけのことなのに、店の空気が少しだけ止まったみたいだった。
「……そっか」
店主は詩集を戻した。
責める感じはなかった。
でも、そのあと僕は、何を根拠にそんな言い方をしたのか自分でもわからなくなった。
次の読書会まで、その一冊がちゃんと棚にあるかどうかを、僕は店に入るたび先に見てしまった。
丸椅子に座って人の声を聞きながら、前と少し似ていて、でも同じではない時間の流れを見ていた。ここには喫茶店の音がある。カップの触れ合う音。スプーンが皿に当たる音。コーヒー豆を挽く低い音。そのぶん、前より静かではない。けれど、誰かが黙っていても浮かないところは、ちゃんと似ていた。
*
夏休みに入ったばかりの午後、読書会の前に僕は一人で棚の本を入れ替えていた。
文庫を一冊抜いて、別の短編集を差し込む。手書きのポップが少し斜めになっていたので、指で直す。そういう作業をしていると、あの店がなくなったあとも、自分の手だけは前の続きに触れている気がした。
扉の鈴が鳴る。
振り向くと、高校生くらいの男の子が入口のところで立ち止まっていた。
制服ではなく、黒いTシャツに薄いリュックを背負っている。入ってきたのに、そのまま一歩目を決められない感じが、昔の自分に少し似ていた。
喫茶店のマスターはカウンターの奥にいる。
店主はまだ来ていない。
その子は棚のほうを見て、それから店の奥を見て、やっぱり帰ろうか考えているみたいだった。
僕は手に持っていた本を箱へ戻す。
喉のあたりが少し詰まる。
話しかけなくてもいい、と思う。
でも、そのままにしたくないとも思う。
少し迷ってから、僕は言った。
「そこ、座れます」
声は思っていたより小さかった。
届かなかったら、それで終わるくらいの小ささだった。
それでも、ちゃんと届いたらしい。
その子は僕を見る。
驚いたような顔をしてから、丸椅子のほうを見る。
「……いいんですか」
僕はうなずく。
「はい」
それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。
でも、それで足りる気がした。
その子は小さく会釈して、丸椅子に座る。
座ったまま、すぐには本に手を伸ばさない。
僕は棚の前へ戻る。
やがて読書会の時間になって、店主と大学一年の女子が来た。女子は棚の前を通りながら、詩集の背に一度だけ指を触れた。年配の女性はその日は来なかった。マスターが人数ぶんの水を運んできて、店の照明が夕方仕様みたいに少しだけ落ちる。
店主が棚から一冊抜いて、「今日はこれ読んだ人いる?」と聞く。
誰もすぐには答えない。
前なら、その沈黙の中で息をひそめて終わるのを待っていたと思う。
でも、その日は違った。
僕は自分の膝の上に置いていた文庫を少し持ち上げる。
「……これ、少しだけ」
店主がこちらを見る。
大学一年の女子も見る。
丸椅子の子も、顔を上げる。
僕はページを開く。
声は最初だけ少し震えた。
けれど、一行読むと、次の一行も読めた。
店の中には、喫茶店の匂いがした。
窓の外では、夏の終わりかけの雨が細く降っていた。
読み終えると、誰かがすぐに何かを言うことはなかった。
カウンターの奥で、氷の当たる小さな音がした。
その少しの沈黙が、嫌ではなかった。
店主が、遅れて小さくうなずく。
丸椅子の子は、まだ何も言わなかった。
でも、帰りそうな顔はしていなかった。
僕は文庫を閉じる。
窓の外では、まだ細い雨が降っていた。




