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第一章

 雨の日のほうが、駅前は少し静かになる。


 夕方のロータリーを回るバスの音も、コンビニの前でたむろする高校生の笑い声も、濡れた空気を一枚挟むだけで遠くなる。傘の縁から垂れる水滴を見ながら歩いていると、自分まで少し薄くなれた気がした。


 学校からの帰り道、僕は改札の前をまっすぐ抜けて、古い雑居ビルの脇に回る。飲み屋と整骨院と学習塾の看板のあいだに、見落としそうなくらい小さな文字で「雨宿り書房」と出ている。看板はだいぶ色褪せていて、晴れた日にはかえって目立たない。


 ガラス戸を引くと、鈴がひとつ鳴った。


 いらっしゃい、とは言われない。


 そのかわり、レジの奥にいた店主が一度だけ顔を上げて、すぐに手元へ視線を戻す。それで十分だった。来たことはわかっているし、何かを求められているわけでもない。その適当さに、毎回ほっとする。


 店の中は狭い。大人二人がすれ違うには少し気を遣うくらいの幅しかない通路の両側に、天井近くまで本棚が並んでいる。棚と棚のあいだの隙間は場所ごとにわずかに違って、奥へ行くほど人ひとりぶんの余白が細くなる。古本の背表紙は、文庫の焼けたクリーム色や単行本のくすんだ赤や緑が混ざって、雨の日は特に湿った匂いを濃くした。新しい本屋みたいな明るさはないし、整いすぎてもいない。雑然としているのに、触っていい散らかり方だった。


 僕は鞄を肩から下ろして、いちばん奥の丸椅子に座る。


 ここに初めて入ったときも、たしか雨だった。


 中学三年の十一月で、制服の冬服に変わってすぐのころだ。あの頃のことは、思い出そうとすると細かいところが曇る。教室の後ろで誰かが笑っていたこととか、スマホの画面に自分の名前があったこととか、担任が面倒くさそうな顔で「気にしすぎるな」と言ったこととか、そういうものが順番もなく浮いてくる。学校が終わっても家に帰りたくなくて、駅前を無意味に何周もして、雨から逃げるみたいにこの店へ入った。


 そのとき、店主は今より少し長い髪を後ろでひとつにまとめていて、僕の濡れた制服を見て、少しだけ首を傾げた。


 それから、「そこ、座ってて大丈夫」と言った。


 たったそれだけだった。


 何があったのかも聞かれなかったし、本を買えとも言われなかった。親に連絡したほうがいいとか、学校は大丈夫なのかとか、そういう正しいことも何ひとつ言われなかった。ただ、ここにいていいらしい、ということだけがわかった。


 それ以来、僕は週に二、三回ここへ来る。


 何も買わない日もあるし、文庫を一冊だけ買って帰る日もある。こっちが何も言わなければ、向こうも必要以上には話しかけてこない。ただ、同じ空間に誰かがいて、黙っていても追い出されない。それだけで十分だった。


 レジ横で、店主が値札を貼っている。


 細い指で古い文庫本をひっくり返し、小さなシールを貼っては、ぱたんと閉じる。髪は今日は肩のあたりでひとつに結ばれていて、薄いグレーのシャツの袖が少しだけまくってある。年は二十代後半くらいだと思うけれど、実際いくつなのかは知らない。名前も、店の古いレシートに印字された苗字でしか知らない。


 喋らない客も、長居する客も、棚の前で十分くらい動かない客も、変なものとして扱わない。それだけで、世の中の大半よりましだった。


 店の外で、車が水を跳ねる音がした。


 僕はなんとなく顔を上げて、入口のガラス越しに外を見る。道路の向こうには、白い仮囲いが雨に濡れて鈍く光っていた。少し前まで喫茶店だった角の店は窓が板で塞がれ、その隣の古いビルの壁には工事予定の紙がたわんで貼られている。駅へ抜ける近道だった細い通路は先週から柵で塞がれていて、帰り道の人の流れまで少し変わっていた。駅前は、いつのまにか順番にほどかれている途中みたいだった。


 自分には関係ないと思っていた。


 駅前が少し変わるくらいで、何か困ることなんて別にないと。


 けれど、その日は店に入ってすぐ、入口の横に一枚の紙が貼られているのに気づいた。


 コピー用紙に、事務的な字で印刷されている。


 このビルは再開発に伴い、本年六月末をもって閉館いたします。


 一瞬、意味が頭に入ってこなかった。


 閉館。


 ビルが。


 ということは、この店も。


 僕は立ち上がりかけて、やめた。紙を近くで見れば何か変わるわけでもないのに、椅子の脚が床を引っかく音だけがやけに大きくなりそうだった。


 代わりに、もう一度ゆっくり文字を読む。


 六月末。


 今日は三月の終わりだから、三か月くらいしかない。


 そんなにすぐなのか、と考えた瞬間、喉の奥が変に狭くなった。息がしづらいわけじゃない。ただ、何か言葉にしようとすると、出口のあたりで詰まる感じがした。


 店主はまだ値札を貼っていた。


 紙のことに気づいていないはずがないのに、いつもと同じ顔で、いつもと同じ手つきで本を棚へ戻していく。


 僕は立ったまま、しばらく迷った。


 口を開きかけて、閉じる。息だけが少し浅くなる。聞けばいいだけなのに、喉のあたりで言葉が固まって、そのまま落ちていく。


 店主のほうが先に気づいた。


 「見ちゃった?」


 僕はそちらを見る。


 店主は文庫本を一冊持ったまま、少しだけ困ったように笑った。


 「まあ、そういうことらしい」


 声も大きくないし、わざと明るくもしていなかった。ただ事実を言っているだけみたいな口調だった。


 僕は何か返そうとして、結局、「……いつ」とだけ言った。


 「六月の終わり。更新しないんだって」


 更新しない。


 誰が。


 大家が、なのか、店主が、なのか、両方なのか。聞きたいことはあったけれど、もう次の言葉は出なかった。


 店主はそれ以上説明しなかった。ただ、本を棚に戻してから、入口の紙を見ている僕に向かって言った。


 「べつに、今日すぐなくなるわけじゃないから」


 慰めなのか確認なのか、よくわからない言い方だった。


 僕はうなずく。


 外ではまたバスが回って、濡れたロータリーをゆっくり曲がっていく。ガラス戸がかすかに震えて、棚のいちばん上に積まれていた雑誌の端が揺れた。


 いつもと同じ店の音だった。


 なのに、さっきまでとは少し違って聞こえた。


 この匂いも、この狭さも、この丸椅子も、六月の終わりでなくなる。


 僕は鞄からスマホを出して、画面をつける。すぐに消して、また開く。


 何を撮るのかも、何を残せるのかも、まだわからなかった。

 それでも、このままなくなるのを見ているだけなのは嫌だった。


   *


 その日は結局、文庫を一冊買って帰った。


 薄い青色のカバーがかかった講談社文庫で、前にも棚で見たことがある短編集だった。読みたかったから買ったのか、何も買わずに出るのが落ち着かなかったのか、自分でもよくわからない。レジで小銭を出すとき、指先が少し濡れていて、十円玉がうまくめくれなかった。


 「袋、いりますか」


 店主が聞く。


 僕は首を振った。


 いつも通りのやり取りだった。なのに、今日はその「いつも通り」がうまく飲み込めなかった。この人はさっきの紙を知っていて、僕も知っていて、それでも値札を貼って、本を売って、袋がいるか聞く。そうしなければならないからそうしているだけなのか、本当にそれで平気なのか、わからなかった。


 「ありがとうございました」


 僕は会釈だけして店を出た。


 雨は少し弱くなっていて、アーケードの切れ目から落ちる雫が、歩道の端に細い線を作っていた。白い仮囲いの向こうで、重機の動く鈍い音がする。見上げると、雑居ビルの二階の窓に雨粒がへばりついていた。あの窓の内側にも、塾だとか事務所だとか、誰かのいつもの場所があるのかもしれなかった。


 帰りの電車に乗ってからも、僕は買ったばかりの文庫を鞄から出せなかった。


 家に帰ると、台所の灯りだけがついていた。僕は制服のまま自分の部屋に入り、鞄を下ろして、そのまま床に座った。


 スマホを開く。


 検索欄に「駅前 再開発」と打って、途中で消した。


 代わりに写真フォルダを開く。何もない。今日は結局、一枚も撮らなかった。


 撮ればよかった、とそのとき初めて思った。棚とか、丸椅子とか、入口の看板とか。けれど、店の中でスマホを向けるのは、なんとなくためらわれた。許可もなく撮るのは違う気がしたし、もし嫌な顔をされたらと思うと、それだけで無理だった。


 ベッドの脇に放った文庫本の上へ、雨で湿った前髪が落ちる。


 僕はスマホを握ったまま、古本屋の中を頭の中で順番に歩いた。入口のすぐ左に新書の棚、その隣に海外文学、奥に文庫、右側の低い棚には雑誌とZINE。レジの横には値札を貼るための小さなハサミと、セロテープと、書きかけのメモ帳。思い出そうとすると、見えていたはずのものが意外と曖昧だった。


 なくなるとわかってから、急に見えなくなる。


 翌日の放課後、僕はまた店へ行った。


 昨日と同じように鈴が鳴って、店主が一度だけ顔を上げる。棚の並びも、雨の匂いも、丸椅子も変わっていない。なのに、僕は昨日より落ち着かなかった。店のどこを見ても、「あと三か月」という字幕がうっすら重なっている気がした。


 いつもの椅子には座らず、入口近くの棚の前に立った。鞄の中のスマホに何度も触る。撮りたい。けれど、勝手に取り出すところを想像しただけで肩が固くなる。


 店主が棚に雑誌を差し込みながら、「探してる本ある?」と聞いた。


 僕は首を振り、それから、今言わないとまた何もしないまま終わると思った。


 「……写真、撮ってもいいですか」


 店主はすぐには答えなかった。棚に添えていた手を下ろし、初めて真正面から僕を見る。


 「店の?」


 「……記録、したくて」


 自分でも驚くくらい、正直な言い方だった。


 店主は少しだけ目を細めてから、「人が写らないなら、いいよ」と言った。それから、「変な顔で写さないでね」と付け足す。たぶん冗談だった。


 僕はスマホを取り出す。画面越しに見ると、いつもの店が少しだけ別のものに見えた。入口近くの棚、焼けた背表紙、床の擦れた木目、雨で少し曇ったガラス戸。シャッター音は消してあるのに、撮るたびに胸の奥で小さな音がした。


   *


 それからしばらく、僕は店へ行くたびに少しずつ写真を撮った。棚、値札の束、真鍮の小皿、雨で曇ったガラス戸。店主は「床の傷まで撮る人、あんまりいないよ」とだけ言う日もあったけれど、止めはしなかった。


 何日分か並べてみると、撮りたいものが少しずつわかってきた。古本そのものより、本が置かれている感じだった。誰かが立ち止まるための隙間とか、椅子の位置とか、レジから店の奥まで見通せない狭さとか。


 でも、写真だけでは足りない気もした。


 そのことを意識したのは、四月の半ばの、よく晴れた金曜日だった。


 雨の日の店がいちばん好きなのに、その日は拍子抜けするくらい明るかった。西日がガラス戸から斜めに入り、文庫本のビニールカバーがところどころ白く光っている。店に入った瞬間、奥の棚の前に、見たことのある後ろ姿があった。


 いつも夕方の同じくらいの時間に来る年配の女性で、癖のない灰色のカーディガンをよく着ている。肩にかけた布の手提げは、日に焼けて少し薄くなっていた。毎回ほとんど同じ棚の前に立つ。エッセイと旅行記の境目あたりだ。買う日も買わない日もあるけれど、いる時間はだいたい同じくらいで、三十分ほど静かに本を見て帰る。


 名前は知らない。


 たぶん、この店に来る人のほとんどの名前を、僕は知らない。


 その人が、棚から一冊抜き取って、しばらく表紙を見ていた。やがてレジへ持っていくのかと思ったら、手を止めて、入口の横に貼られた閉館の紙のほうを見た。


 視線だけで、長く。


 それから本を戻し、レジには行かず、そのまま店を出ようとする。


 僕はなぜか、落ち着かない気持ちになった。


 この人も、きっとここがなくなると知っている。


 でも、それだけだった。


 知って、見て、帰る。それは僕も同じで、責める理由なんてないのに、なぜか少しだけ焦った。知っているだけでは何も残らない、という考えが、最近の僕の中では前より強くなっていた。


 そのとき、店主がレジから声をかけた。


 「今日は買わないんですか」


 やわらかい声だった。


 年配の女性はガラス戸に手をかけたまま、少しだけ振り返る。


 「また今度にするわ」


 「そっか」


 店主はそれ以上引き止めなかった。


 女性も、特に続けて何か言うわけではなかった。ただ、出ていく直前にもう一度だけ店の中を見回した。その短い視線が、なぜだか写真に撮るよりはっきり残った。


 その日の帰り道、僕はずっとそのことを考えていた。


 写真で残せるのは棚や椅子や紙の端だけで、あの人がこの店をどう見ていたかまでは残らない。


 だったら、書いてもらうしかないのかもしれない。


 そう思った瞬間、自分で考えたくせに、無理だと思った。


 誰が書くんだろう。


 いきなり紙を置いておいて、そんなものに気づく人がいるのか。気づいたとして、わざわざ何か書く人がいるのか。そもそも、店主が嫌がるかもしれない。


 帰宅してからも、僕はノートの切れ端に「この店で覚えていることがあれば」と書いて、すぐ消した。「思い出」と書くときれいすぎる気がした。


 四回くらい書き直して、最終的に、


 この店で覚えていることがあれば、よかったら書いてください。


 という一文に落ち着いた。


 よかったら、を入れないと命令みたいになる気がした。


 翌日、学校の授業中、僕はノートの端にその文を何度も小さく書いた。


 黒板の数式を写しながら、無地の情報カードくらいの大きさなら店の雰囲気を壊さないか、とか、ボールペンも置いたほうがいいのか、とか、そんなことばかり考えていた。


 放課後、百円ショップで名刺サイズの無地カードと透明の小さなケースを買った。レジに持っていくとき、店員は何も気にしていないのに、自分だけが後ろめたい買い物をしている気がした。


 家でカードに同じ文を何枚も書く。


 印刷したほうがきれいだとは思ったけれど、家のプリンターは壊れたままだった。字はもともとうまくない。何度か失敗して、書き損じを丸めて捨てた。


 結局、いちばんましな字で書けた一枚を見本にして、残りはできるだけ同じようになぞった。


 日曜の夕方、そのカードと透明ケースを鞄に入れて店へ向かう。


 雨は降っていなかったけれど、空の色が低くて、夜になる前の駅前はどこも少し早足だった。店に入ると、レジの前に見覚えのある後ろ姿があった。高校生ではない。黒いスプリングコートの裾から細い足が出ていて、肩に大学名の入ったトートバッグを提げている。


 受験期によく見かけた人だ、と思った。


 冬のあいだ、参考書売り場でもないのに、閉店前の時間によくこの店へ来ていた。問題集や赤本ではなく、薄い詩集や文庫を一冊だけ買っていくことが多かった。受験生がどうしてそんなものを買うんだろうと、そのころの僕は少し不思議に思っていた。


 その人がレジに文庫を置く。店のカバーを断って、買ったばかりの本の表紙を手のひらで一度なぞるのが見えた。


 会計をしながら、店主が言った。


 「ひさしぶり」


 「引っ越しとかでばたばたしてて」


 大学一年の女子は笑って、それから入口の紙に気づいたらしく、表情を少し変えた。


 「あ、ほんとに閉まるんですね」


 店主はレシートを渡しながら、「ほんとにね」と言った。


 女子は紙と店の奥を見比べるみたいにして、言う順番を決めるみたいに少し黙る。


 「受験の帰り、よく来てたんです」


 その声は、説明というより独り言に近かった。


 「覚えてる」


 店主が言う。


 「参考書じゃなくて、毎回べつの本買ってた子」


 女子は少し笑ってから、レジ横の細い棚に置かれた文庫を背の高さでそろえるみたいに指先で触れた。


 「落ちた日も来たんですよ、ここ」


 僕は思わずそちらを見た。

 僕の知らない時間の店が、その人の声で急に近くなる。


 女子は僕の視線には気づかないまま続ける。


 「帰る前に、ちょっとだけ静かになりたくて。ここ、ちょうどよかったんです」


 店主は、はいとかいいえとか言わずに、「そっか」とだけ返した。


 それが、この店らしかった。


 女子は帰り際、もう一度閉館の紙を見てから出ていった。ガラス戸の鈴が鳴って、店の中が元の静けさに戻る。


 僕は鞄の中の透明ケースに触れた。


 今なら出せるかもしれない、と思った。


 でも、やっぱり無理かもしれないとも思った。


 数分あと、店主がレジで古い伝票をまとめ始めたのを見て、僕は椅子から立った。足がうまく前に出ない感じがしたけれど、そのままレジまで行く。


 「あの」


 店主が顔を上げる。


 今日は二回目だった。


 それだけで、胸の奥が妙に熱い。


 僕は鞄から透明ケースを取り出した。中には無地のカードが十枚ほど入っていて、いちばん上の一枚にだけ見本の文が書いてある。


 「……これ、置いてもいいですか」


 店主はケースを受け取らず、まず中を覗き込んだ。


 「何?」


 「この店で覚えてること、書いてもらえたらって」


 言いながら、自分で言葉の拙さがわかった。もっと気の利いた説明がある気もしたけれど、今さら出てこない。


 店主は見本のカードを一枚抜いて読む。


 声には出さない。


 読み終わってから、少しだけ首を傾げた。


 「アンケートみたいな?」


 「……たぶん」


 たぶん、では説明になっていない。自分でもそう思う。


 店主はカードをケースへ戻す。


 「なんで?」


 その問いに、僕は一瞬止まった。


 結局、出てきたのは、


 「……残るかなと」


 という、半分も形になっていない言い方だった。


 店主はそれを聞いて、笑わなかった。


 「残るか」


 小さく復唱してから、ケースをレジの横へ置いてみる。値札の束と募金箱のあいだの、あまり目立たない場所だった。


 「書く人、いるかな」


 「……わかんないです」


 店主は少しだけ口元をゆるめる。


 「じゃあ、置くだけ置いてみるか」


 それは賛成とも、保留ともつかない言い方だった。


 でも、断られなかった。


 それだけで、その日の僕には十分だった。


   *


 書く人は、すぐには現れなかった。


 レジ横の透明ケースは、三日たってもほとんどそのままだった。店主が会計のたびに邪魔にならないよう少しずつ位置をずらすので、そのたびに僕は、目立ちすぎたか、逆に目立たなさすぎるのかもしれない、と思った。


 失敗だったのかもしれない。


 そう考え始めたころ、いつもの年配の女性が店へ入ってきた。


 その日は雨で、グレーのカーディガンの肩口が少しだけ濃くなっていた。女性はいつもの棚の前で何冊か本を抜き差ししてから、ふとレジ横へ目を向けた。透明ケースに気づいたらしく、近寄って、いちばん上の見本カードを読む。


 僕は奥の丸椅子に座ったまま、見ないふりをしていた。


 けれど、視界の端ではずっと追っていた。


 女性はバッグの中を探り、何か書くものを探しているようだった。ペンが見つからないらしく、少しだけ眉を寄せる。そのしぐさを見た瞬間、僕の体が勝手に動いた。


 立ち上がって、レジの前まで行く。


 「……あの」


 女性が振り向く。


 正面から見ると、思っていたより年上だった。六十代くらいかもしれない。目尻に細い皺があり、濡れた髪がこめかみに張りついていた。


 僕はケースの端を指さした。


 「ペン、そこです」


 声は小さかったが、聞こえたらしい。


 女性は一瞬きょとんとしてから、「あら」と言った。


 店主がいつのまにか、ケースの横に細いボールペンを一本置いていたのだった。僕はそれを知らなかった。


 「ありがとう」


 女性はそう言って、ペンを取った。


 たったそれだけで、耳のあたりが熱くなる。


 僕は逃げるみたいに椅子へ戻った。


 女性はカードを一枚抜き、棚のそばに寄ってしばらく立ったまま書いていた。すぐには投函せず、折りたたみもせず、書き終わったあとも少しその字を見ているようだった。それからケースへ静かに戻し、本を一冊だけ買って帰った。


 店主は会計のあと、すぐにはカードを見なかった。


 僕も見なかった。


 見たいとは思ったけれど、その紙だけは、書いた人の時間がまだ乗っている気がして、勝手に触るのは違う気がした。


 閉店間際、客がいなくなってから、店主がケースの中を覗いた。


 「一枚入ってる」


 報告みたいに言う。


 僕は丸椅子に座ったままうなずいた。


 店主はカードを取り出して、少しだけ目を走らせる。読み終えても、すぐには何も言わない。カードを裏返し、もう一度表に戻す。


 「読む?」


 唐突に言われて、僕は顔を上げた。


 「……いいんですか」


 「置いたの、君だし」


 店主はカードを半分こちらへ差し出す。僕は立って受け取る。


 字は小さくて整っていた。


 夫が亡くなってから、家にまっすぐ帰る前にここへ寄ることが増えました。

 本は詳しくないけれど、ここで少し立ち止まってから帰ると、家の中が前ほど静かすぎなくなりました。


 そこまで読んで、僕は指先に少し力が入るのを感じた。


 紙なのに、重かった。


 店主はレジに肘をつかず、まっすぐ立ったまま、カードではなく文庫の棚を見ていた。


 「本は詳しくない、っていいよね」


 その言い方に、冗談とも本気ともつかない薄い笑いが混ざる。


 僕は何も返せなかった。


 店主はカードを受け取って、ケースの下へそっと差し込んだ。


 「捨てられなくなるやつだ」


 そう言った声は、ほんの少しだけいつもと違っていた。


   *


 それから、カードは少しずつ増えた。


 毎日ではない。何も入らない日もあれば、三日続けて空のままの日もある。それでも、ときどき一枚、忘れたころにまた一枚と増えていく。大学一年の女子が書いていったカードには、


 受験の帰りに寄っていました。

 落ちた日も、ここで詩集を一冊買ってから帰りました。

 静かな場所があるだけで、ぎりぎり大丈夫な日がありました。


 とあった。


 僕はその「ぎりぎり大丈夫」という言い方が、妙に頭に残った。


 そういう日を知っている人の字だった。


 店主は、カードが増えても過剰に喜んだりはしなかった。「また一枚ある」とか、「今日は空振り」とか、その程度のことしか言わない。ただ、閉店後にレジ周りを片づけるとき、ケースの中のカードだけは妙に丁寧に揃えるようになった。


 僕は写真を撮り続けながら、ときどきカードの位置を直し、ペンのインクが出なくなれば新しいものに替えた。


 そういうことをしているうちに、前ならしなかった動きが少しずつ増えた。会計のあとに乱れたカードを整えるとか、棚から落ちそうになっている文庫を戻すとか、入口のマットがめくれていたら足先で直すとか。その程度のことだったけれど、ただ座っているだけだったころとは違っていた。


 四月の終わり、雨の強い日があった。


 駅前の仮囲いは白ではなく灰色に見え、ロータリーの街灯も早い時間から滲んでいた。店へ入ると、客は僕だけだった。店主はレジの奥で古い段ボールを畳んでいて、僕を見ると「濡れてる」とだけ言った。


 僕は制服の袖を見下ろした。傘を差していても、風があると肩口は濡れる。


 「タオルあるけど」


 言われて、僕は反射的に首を振った。


 「……大丈夫です」


 店主はそれ以上勧めず、代わりにレジ下の小さな冷蔵庫から缶コーヒーを二本出した。一本を自分の横へ置いて、もう一本をレジの端に置く。


 「ホット。熱いから気をつけて」


 僕は少し迷ってから近づき、缶を取った。指先がじんわり熱くなる。


 「ありがとうございます」


 言ってから、自分でも少し驚いた。ありがとうございます、を自分から口にしたのは、思ったより久しぶりだった。


 店主は小さくうなずき、プルタブを開けた。


 雨の音が、ガラス戸と換気扇と屋根を別々に叩いていた。


 僕はレジのそばに立ったまま、缶のあたたかさを手の中で転がす。


 「中三のときも、こんな感じだったよね」


 唐突に店主が言った。


 僕は顔を上げる。


 「最初に来た日」


 店主は缶コーヒーを見たまま続ける。


 「制服、びしょびしょで、今よりもっと喋らなかった」


 僕は笑えなかった。


 否定もできなかった。


 「覚えてるんですか」


 「そりゃね」


 店主は少しだけ肩をすくめる。


 「毎日来る子だったし」


 毎日、というところで胸の奥が少しざわつく。実際、あのころの僕はほとんど毎日来ていた。学校に行った日も行かなかった日も、帰り道の時間をどこかで薄めないと家に帰れなかった。


 店主は僕の顔を見なかった。


 見ないまま言う。


 「何があったかは知らないけど、あのとき、ここに人がいるほうがいいなと思った」


 缶の熱が少し弱くなってくる。


 僕はうつむいたまま、プルタブの縁を指でなぞった。


 「……助かりました」


 声は自分でも驚くほど低かった。


 でも、店主には聞こえたらしい。


 「ならよかった」


 それだけだった。


 それだけなのに、中三のころから喉に引っかかったままだった何かが、少しだけ下に落ちた気がした。


 外では強い雨が、仮囲いを叩いていた。


 僕は缶コーヒーを飲み干してから、しばらくレジ横のケースを見た。透明な壁の向こうに、カードが五枚入っている。たった五枚なのに、前よりずっと店の中に厚みが出た気がした。


 写真とカードだけでは足りないのかもしれない。

 残すなら、もう少しちゃんと残したい。

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