おしまい
「何の騒ぎだ?」
腰に来るような低音が響いたと思ったら、事務所に、ダブルのスーツを着こなした渋い男性が入ってきた。
「所長!」
直哉が嬉しそうな声をあげる。
入ってきた男性は、菊池デザイン事務所所長、その人である。
直哉がフランスに出ることができたのも、彼のデザインが国中に知れ渡ることができたのも、彼の知名度があったからこそだ。
直哉は、所長を見て嬉しそうな顔をしたものの、彼の不機嫌そうな顔に、眉尻を下げる。
「申し訳ありません。陽花里が、突然サポートをやめると言い出して」
その言葉に、所長は片眉を上げて驚いたように陽花里を見る。
陽花里はぶすれて腕を組んで椅子にどさりと座りなおした。
所長への態度の悪さに、直哉が光に眉を顰めるのが横目で見えた。
イライラは最高潮で、とりつくろう余裕もないのだ。
彼は、そのまま視線を巡らせて、両手を胸の前で握りしめている瑠衣に目を留める。
目が合ったことに喜んで、瑠衣は嬉しそうに所長に駆け寄った。
「所長!私、すごく頑張ってサポートしているんです!もう仕事もほとんど一人でできてます!」
その瑠衣の態度にも、陽花里は眉をピクリと動かすだけで無反応だ。
「分かった。それは後から確認させてもらおう」
体を寄せてくる彼女を器用に避けて、所長は陽花里の前にしゃがみこんだ。
目を丸くする直哉と瑠衣を無視して、彼は陽花里のお腹に手を当てた。
「ストレスは体に悪いと言っているだろう?」
「あと少しだから、大丈夫だと思ってたのよ」
陽花里の機嫌の悪い返事に、彼は苦笑する。
そして、おもむろに立ち上がり、全員を振り返った。
「みんなには黙っていて申し訳なかった。子供ができたんだ。陽花里は今月いっぱいで休ませる」
ざわめきが起こるが、驚くと言うより、祝福の意味のざわめきだった。
「子供!?--って誰のだ?」
「何それ、不倫してたってこと!?」
――この二人以外は。
「不倫なんてしてないわよ」
ぎりぎりと瑠衣を睨み付ける陽花里を宥めるように、所長が彼女の肩に手を置く。
「もちろん、俺と陽花里の子だ。陽花里は俺の妻だからな」
所長――朝月 遊飛がにこやかに答えた。
菊池デザイン事務所の所長、菊池 遊飛と陽花里が結婚したのは、三年前の話だ。
入社当時から口説かれて、ずっと付き合っていた。
そして、陽花里の父――これが数々の不動産などを所有する資産家で、彼が婿入りすることを条件に陽花里との結婚を認めてくれたのだ。
三年前は、『菊池デザイン事務所』が『朝月』に変わるなどといろいろな憶測が飛び交っていたが、それも過去の事。
陽花里が所長の妻だと言うことは、全員が知っていた。
しかも、結婚前は陽花里に会うためにわざわざ出社してくるような状態だったから、溺愛されていることまで。
呆然とたたずむ直哉を見て、遊飛は首を傾げる。
「お前には、結婚するって伝えただろう」
結婚式の時、直哉はちょうど大きな仕事を初めて任された時で、帰って来られなかったのだ。
「聞きましたけどっ……!相手、聞いてないです!」
――なんでだ。
陽花里が呆れた目を向けても、直哉は顔を赤くして叫ぶ。
「どこかの令嬢だと聞いていて……!帰国してから紹介してもらおうとしてたんですよ!所長が忙しそうで言い出せなくてっ……!」
彼はちょっと涙目だ。
遊飛の名字が菊池から、朝月に代わっていることすら気が付いていなかったという。
そういえば、そういう契約書関係は全て陽花里が処理するので、所長名が載ったような書類を直哉は見なかったかもしれない。
「紹介も何も……お前ら、一緒に仕事してるからなあ」
今さら紹介も何もあったもんじゃない。
「何で言ってないのよ」
「う~ん?俺が陽花里に惚れてることなんて、みんな知ってると思ってた」
遊飛は本気で不思議がっているようだ。
「陽花里は、光グループの令嬢だ。一人娘なんで、俺が婿養子に入った」
そのせいで、前よりももっとクソ忙しくなったという言葉がくっついてきたが、それについては陽花里は無視をする。
それを望んだのだって遊飛だ。
陽花里が手に入るならと、婿養子の話に飛びついたのだ。
「令嬢っ……!?」
直哉の、その表情は失礼だなと思いながら、陽花里は何も言わずに彼を見つめるだけにした。
「お金持ちだったなんて……」
瑠衣の呟きがどうにもずれている。
陽花里がお金持ちだったら、何か態度が変わるはずだったのだろうか。
今さら変えられても、気持ちが悪いだけだが。
直哉との仲を疑っていたのなら、ここで遊飛が出てきて安心するところだろう。
陽花里は、目を見開いて固まる瑠衣に目を向けて言った。
「仕事はほぼ一人でできるのね?じゃあ、私は安心して休みに入らせてもらうわ」
ひゅっと息を呑み込んで彼女が何かを言おうとする。
しかし、それよりも早く、遊飛はにこにこと言う。
「よかった。陽花里が最近ストレスをためていてな。赤ちゃんに良くないと思っていたんだ。早めに俺のサポーターに動かそうとしていた」
だからこそ、陽花里は今月いっぱいで異動する予定だった。
本来なら、遊飛のサポーターなんて……
「そっちの方が過重労働だわ」
呆れた声をあげても、陽花里の文句は聞き入れないつもりらしい。
異動前までは、初期であるし、妊娠のことは隠そうと決めていた。
こんなことで発表になるなんて情けない。
仕事については、遊飛の傍で、出来るだけをするということになっていた。
遊飛が陽花里に絶対に無理はさせないし、きついときはすぐに気が付けると言う。
そんなので仕事していていいのかと思う。
陽花里は立ち上がって、頭を下げた。
「突然でご迷惑をおかけします」
そして、もう呆然とたたずむ二人には視線も向けずに、資料を全てその場に残し、陽花里は出口向かった。
遊飛は、瑠衣を振り返って、余所行きの笑顔で彼女に言う。
「期待してるよ」
固まる彼女の後には、直哉にも
「まあ、お前が指導すればいいだけの話だから、頑張れよ」
遊飛は軽く手を振って、陽花里の後に続いて事務所を出る。
出た途端、言い忘れたことがあったと、顔だけを出して、彼は言った。
「陽花里に手を出したりしたら――潰すからな?」
陽花里に聞こえないように、直哉に告げられた言葉は、脅しには充分であった。
直哉は機械仕掛けの人形のようにカクカクと動いて頷くことしかできなかった。
その後、陽花里が安定期に入っても、彼女をサポートに戻すことは遊飛が頑固にオーケーを出さなかった。
直哉はどれだけ陽花里に助けられていたのかを理解した。
――自分が出したデザインを、陽花里の提案で改善させたところは、数え切れなかった。
なかなか先方が頷かなくなった状態を見て、代わりに遊飛が忙しい中時間を捻出してプロジェクトに参加した。
もちろん、先方は非常に喜び――プロジェクトは大成功を収めるのだった。