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理想の孤独死【完結済み21.5万文字】  作者: Shimizu Atsushi


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第一話 男

 男は自分の住むアパートへ向かって歩いていた。いつものスナックで、いつもの酒を飲んだ帰り道だった。ただ違ったのは、珍しく初めて出会った男、若者と話したことだ。


 二月の夜の空気は冷たかった。白々しい街灯の光が規則正しく並び、やけにコントラストの強い影が、伸びたり縮んだりしていた。


 若者は、自分の孫ほども年下だった。「大学の卒業論文のテーマが昭和のアニメでした」と言った。男は普段、初対面の人間と話すのが苦手だった。だからいつもそういう場面では、何を話せばいいのか分からなくなる。でも今夜は違った。若者が口にするアニメのタイトルは、どれも自分が子供の頃に観ていた番組だったからだ。


 宇宙人と戦う巨大なロボット。人類を救うため宇宙を往く戦艦。そういうものだ。気がつくと、男は珍しく饒舌になっていた。自分でも驚くほどに。




 男は昔から、自分の仕事についても、必要がない限り人に話すことはなかった。大抵の場合は、理解されなかったからだ。


 それでも努力はした。できるだけ難しい言葉は使わず、相手の分かりそうな言葉を探して説明したがうまくいくことはなかった。実際のところ、それは男にもよく分かっていなかった。彼にとってそれは自分のなかで流れている歌を言葉にしているだけだったからだ。


 その代わり、仕事以外の好きなことは熱心に話した。特にアニメのことだ。それは少なくとも仕事の話よりは伝わった。時には同じ熱量で語り合える人もいた。そういう時に、男は普段より、自分がこの世界の一員であるように感じた。


 だが歳とともに、そんな話のできる人は少なくなった。段々と見知らぬ誰かに話す時、相手の顔色を伺うようになった。人の迷惑になることを極端に恐れるようになった。かといって無難な話題を見つける能力はなかった。しだいに口数は少なくなっていった。昭和のアニメの話ができる友人は、とっくにいなくなっていた。




 男は自分のアパートに辿り着いた。手すりのところどころのペンキが剥がれ、めくり上がった金属の階段を上り始める。革靴の足音が妙に響いた。


 男は今はフリーの編集者だった。在宅の仕事が多く、あまり人に会うことはなかった。だから革靴を履くのも久しぶりだった。今日は取引先の会社に顔を出す必要があり、古ぼけたそれを引っ張り出していた。ただそれは、ブルペン暮らしのピッチャーを肩慣らしもせず、いきなりマウンドに上げるようなものだった。歩くたびに足の小指が、キシキシと悲鳴を上げていた。それよりも気になったのは、左肩に掛けたバッグだった。普段より重く感じ、痛みもあった。




 二階の一番奥が男の部屋だった。ドアノブに手をかけると、小さくピッという音がした。重くなっていた瞼を引き上げ、ドアについているカメラに右目を近づける。今度はピッという音とともに、カチャりと鍵が開いた。ドアを開けると、自動で点灯したLEDライトが部屋を照らした。


 小さなキッチンとトイレに挟まれた通路の先に部屋があった。ベッドと机、二枚のモニター、そして本棚。八畳ほどの狭い空間だが、よく考えられた配置だった。なかでも本棚は特別だった。左右の壁一面に作られたそれには、男が長年かけて集め、何度かの引っ越しをくぐり抜けてきた、選りすぐりの本やフィギュアが整然と並べられていた。


 男が丹念に育てた部屋だった。


 違和感があるとすれば、天井の片隅に備え付けられたカメラの存在だ。レンズの横で光る赤いランプが、撮影中であることを示していた。


 男はそれを気にする風もなく、硬い革靴を脱ぎ、小指を解放した。肩に食い込んでいたバッグを玄関に下ろすと、コートも脱がず、そのままよろよろと部屋へ進む。ドサリとベッドに腰を下ろし、ゴロリと横になった。


 胸がひどく苦しかった。バッグを下ろしたのに、相変わらず左肩が痛む。胸の痛みは急速に酷くなった。グッ、と巨大な石が乗ったような圧迫感に、思わず右手を胸に伸ばし抑えるが、なんの効果もない。大量の冷たい汗が男の顔に滲んだ。


 男はなにか声を出そうとした。だが、それに必要な空気を肺に取り込むことができなかった。僅かなうめき声を漏らすのが精一杯だった。右手が体の中にある心臓を掴もうとするように強く握られ、震えた。身を横たえたまま、苦しげな視線が、なにかを探すように壁の本棚を彷徨う。


 一瞬、目当てのものが視界の隅に入ったがそれが限界だった。


 再び訪れた苦痛の波が、轢き潰すように意識を断ち切る。そのまま十秒ほど小刻みに体を震わすと、やがて胸が微かに動くことを除き、男の動きが止まった。その胸の動きも、三分ほどで止まった。暫くすると、部屋の電気が消えた。もうそこで動くものはなかった。




 それから二十二分四八秒後、男の胸から小さい音が鳴り始めた。その様子を天井のカメラが捉えていた。

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