第一話 男
男は自分の住むアパートへ向かって歩いていた。いつものスナックで、いつもの酒を飲んだ帰り道だった。ただ違ったのは、珍しく初めて出会った男、若者と話したことだ。
二月の夜の空気は冷たかった。白々しい街灯の光が規則正しく並び、やけにコントラストの強い影が、伸びたり縮んだりしていた。
相手の若者は自分の孫ほどの年齢で「大学の卒業論文のテーマが昭和のアニメでした」と言った。男は普段、初対面の人間と話すのが苦手だった。でも今夜は違った。若者が口にするアニメのタイトルは、どれも自分が子供の頃に観ていた番組だったからだ。
宇宙人と戦う巨大なロボットや人類を救うため宇宙を往く戦艦といった話だ。気がつくと、男は珍しく自分でも驚くほど饒舌になっていた。
男は昔から、自分の仕事についても、必要がない限り人に話すことはなかった。理由は大抵の場合は、理解されなかったからだ。実際のところ、それは男にもよく分かっていなかった。彼にとってそれは自分のなかで流れている歌を言葉にしているだけだったからだ。
その代わり、仕事以外の好きなことは熱心に話した。特にアニメのことだ。それは少なくとも仕事の話よりは伝わり時には同じ熱量で語り合える人もいた。そういう時、自分がこの世界の一員であることを感じた。
だが歳とともにそんな話ができる相手は消え、誰かと話す時には相手の迷惑にならないように顔色を伺うようになった。無難な話題を見つけることができなかった男は仕事での最低限の会話以外、ほとんど喋らなくなっていた。
アパートに辿り着いた男は、ところどころペンキが剥がれ手すりの階段を上り始める。革靴の足音が妙に響いた。
男はフリーの編集者だった。普段は在宅の仕事が多く革靴を履くのも久しぶりだった。今日は取引先の会社に顔を出す必要があり、靴箱から古ぼけたそれを引っ張り出していた。おかげで歩くたびに足の小指がキシキシと悲鳴を上げていた。ただそれよりも気になったのは、左肩に掛けたバッグだった。普段より重く感じ、痛みを感じていた。
二階の自分の部屋にたどり着いた男がドアノブに手をかけると、小さくピッという音がした。続いて重くなっていた瞼を引き上げドアについているカメラに右目を近づける。カチャっと鍵が開くと同時に、自動点灯のLEDライトが部屋を照らした。
小さなキッチンとトイレに挟まれた通路の先の部屋が見えた。八畳ほどの狭い空間にはよく考えられた配置で、ベッドと机、二枚のモニター、そして左右の壁一面に作られた本棚には、男が長年かけて集め、何度かの引っ越しを耐え抜いた選りすぐりの本やフィギュアが整然と並べられていた。
男が丹念に育てた部屋だった。
違和感があるとすれば、天井の片隅に備え付けられたカメラの存在だ。レンズの横で光る赤いランプが、撮影中であることを示していた。
男はそれを気にする風もなく痺れた小指を解放すると、肩に食い込むバッグを玄関に下ろした。そのままコートも脱がず泳ぐように辿り着いたベッドに横になった。
胸がひどく苦しかった。バッグを下ろしたが胸の痛みは急速に酷くなっていた。大量の冷たい汗が男の顔に滲んだ。
なにか声を出そうとしたが、それに必要な空気を肺に取り込むことができなかった。僅かなうめき声を漏らし右手が心臓を掴むように強く握られ震えた。身を横たえたまま、苦しげな視線が本棚を彷徨う。
男が一瞬、何かを見た。しかし、さらに強い苦痛の波が意識を断ち切った。
そのまま十秒ほど小刻みに体を震わすと、やがて胸が微かに動くだけになった。その胸の動きも、三分ほどで止まった。暫くすると、部屋の電気が消えた。もうそこで動くものはなかった。
それから二十二分四八秒後、男の胸から小さい音が鳴り始めた。その様子を天井のカメラが捉えていた。
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完結後に少し文章を修正しています。
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