第1話 2人の邂逅〜その詳細
その日のレッスンは結依と一緒だった。2時間踊って30分休憩。休憩所で飲み物を買って座ってスマホをいじっていると、結衣が入ってきた。
「隣、いい?」
「…構わないけど」
「ありがと」
結依も私と同じ炭酸水を買っていた。スマホを見てる結依に声を掛けた。
「さっき私ミスしたでしょ」
「Bメロの転調したところね。」
「…あそこカバーしてくれたじゃない?」
「あぁ、うん。」
「あの…あ、ありがとう。怒られなくて済んだ。」
「神田さん、怖いからね。どういたしまして。」
そう言いながら、結衣はスマホに目を落とす。私もスマホに目を落とした。しばしの沈黙。休憩の時間が終わった。
レッスン後。浅倉さんは大森さんと帰るらしい。じゃあ…
「2人きりだね、市川さん」
「…2人の時は下の名前で呼んでって言ってるでしょ」
「あはは。ごめんね、杏」
「…いいけど。ほら、」
私は右手を差し出す。結依はニヤニヤとこちらを見つめていた。
「ほら、早く」
「何を?」
「……手ぇ繋ぐの!」
「よく言えました。」
結依が私の手を握る。しばらくのデートだ。
「あ、そういえば明日からレッスン3日間休みじゃない?その…うち、来ない?1人で過ごすのも寂しいしさ」
「3日?いいよ。同性ならうちのママも文句は言わないだろうから。」
「じゃあ買い出し、付き合ってね」
「もちろんだよ。」
バイバイと言ってお互いの駅に向かう。結依と過ごす3日間、楽しみだ。
翌日。スタジオが終わり、ボーカルレッスンの途中だ。自販機でジュースを買い、飲んでいると大森さんが通り過ぎていった。
「(あの子も分かんない子よね。ま、関係ないけど)」
「市川さんお待たせ」
「ボーカルレッスン長かったね」
「ほら。今日コーチ体調悪かったから」
「そうなんだ。じゃあ行こうか」
「そうだね。」
研修所を出ると、結依が耳元で囁く。
「行こっか、杏」
顔が真っ赤に染まる。私は強引に結依の手を引いた。
「ほら、早く行くよ!」
結依はくすくすと笑っていた。
「何作るの?」
「ハンバーグとエビフライ」
「重いね…」
「ここ最近軽いものしか食べてないでしょ。たまには重いものも入れなきゃ。」
「うーん…」
杏が次々に食材をカゴに入れていく。しかも高いものばかり。
「パナマ海老じゃなくて普通のエビに…パン粉も普通のでいいから!」
結果。2人で5500円。両手に袋を持ち、杏宅に向かう。
「手ぇつなげないね。」
「…もっといいことするから」
「ふふ、待ってる。」
杏宅
「ただいま」
「お邪魔します。やっぱり杏の家は落ち着くね。」
「長くいるからじゃない?さ、夕飯の準備しよ。」
「そうだね。」
髪を縛ってツインテールにする。と、唐突に杏が抱きついてきた。
「どうしたの?」
「可愛い。ツインテール可愛い。結依の匂い好き。」
好きモードに入ったか……こりゃしばらく夕食は作れないかな。
「ほら、杏。お夕飯作ろ?あとでいっぱい可愛がってあげるから。」
不服そうな顔をしながら、粛々と準備を進めていく。私はエビに卵・片栗粉・パン粉をつける役、杏は揚げる役だ。
「あぁ、いい感じじゃない?そろそろいいと思うよ。」
「じゃあ上げるよ…はい。」
「いい色。ちょっと生じゃないか一匹食べてみるね…ん?」
「…」
杏が私のエプロンを掴み、真っ赤な顔で私から箸を奪った。咄嗟に落ちるボタンエビ。
「…あーん」
あぁやりたかったのね。杏はエビを持ちながら真っ赤な顔をしていた。
「あーん…んっ」
「どう…?」
「いい感じに火通ってるよ。ハンバーグも作っちゃお。」
あっという間に晩餐会である。飲み物はコーラで。
「明日丹念に体ケアしないとだめね…。太ったら嫌だから」
「私も付き合うよ。いただきます。んっ!美味しい。杏も食べなよ。」
「いただきます。んっ、ハンバーグ肉汁凄っ」
「我が家秘伝の焼き方だからね。はい、杏あーん」
しばらくの沈黙の後、また顔を真っ赤にしながら口を開ける。
「杏可愛い。好きだよ。」
「食事中に言わないでよ…」
食後、お皿を洗ってる私を尻目に杏はエクササイズをしていた。
「結依、あたしの分は洗わなくっていいからね」
「ついでだから洗っちゃうよ…はい終わり」
「エクササイズする?」
「私はいいかな。お風呂入ろうよ。」
「そうだね。」
そして浴室。
「やっぱり杏の家のお風呂は広いね。未来ちゃんが見たら喜んじゃうね。」
「そんなでもないけど…」
「だって2人並んで座って洗えるんだよ?十分広いよ。」
頭と体を洗い終わり、浴槽に身を沈める。いい気分だ。杏がまた顔を真っ赤にしている。
「杏いい加減に慣れなよ。付き合って3か月だよ?」
「まだ3か月よ!」
しょうがないので優しく抱きしめた。
「杏、暖かいね。」
「そりゃまぁ、恒温動物だし…」
「ねぇ、私が吸血鬼だったらどうする?」
「え、何をいきなり…」
そう言って私は杏の首筋に軽く噛み付いた。
「んっ…」
杏の香り、杏の体温、杏の全て。全てが好き。
「…跡残っちゃうじゃん」
「残してるんだよ」
「なんで」
「杏は私だけのものだから。」
「…そう。それより」
杏が顔を真っ赤にしながらだっこをせがむポーズをする。私はそのまま杏を抱きしめた。
――――――――――――――――――
「杏柔らかいね。」
「そんなの結依も一緒でしょ」
「杏の方が柔らかくて好き」
「…私もだよ」
「え?何?」
「何でもない!」
結依がこちらを見つめる。私は顔に血液が集まっていくのを感じていた。
結依の頭を撫でる。その手で結依の喉を軽く撫でる。気持ちよさそうに目を瞑る。ネコみたいだ。
結依が私にのしかかり、服のボタンを外していく。私はされるがまま、服を脱がされる。あっという間に下着だけになった。
「じゃあ、始めよっか」
――――暗転――――――
何時間経っただろう。もう一度お風呂に入ろうか。
「結依、お風呂入る?沸かし直すけど」
「そうだね。入りたいかな。」
浴室。私は湯船に浸かり、結依は頭を洗っている。
「杏のシャンプーいい匂いするね。高いの?」
「行きつけの美容院の専売品だよ。」
「今度買ってきてよ。お金は払うから。」
「分かった。明後日結依を送ったあと美容院行くからその時に買っとく。」
「よろしく〜」
次は私が頭を洗い、結依が湯船に浸かる。
「浅倉さんじゃないけど、足を伸ばせるお風呂っていいね。」
「そうかな」
「そうだよ。なかなか都内に足を伸ばせるお風呂のある家無いんだから。結依が羨ましい。」
「一人暮らしも大変だけどね。」
お風呂上がり。全身の水分を取りドライヤーを掛けようとすると、
「私にやらせて?人の髪にドライヤー掛けるの、夢だったの。」
「その夢を人の頭で叶えないでよ。よろしく。」
「任せて〜」
初めて、というには妙に手慣れている。温度調整が出来るタイプのドライヤーだが、温度調整も適度に良く、手慣れている。
「はい、終わり。」
「あ、ありがと。じゃあ次は私が」
「あ、私人に髪触られるのだめなんだ」
「だめなんかい!」
ドライヤーを落としかけた。結依はくすくす笑いながら、
「嘘だよ。むしろお願い。」
「なんでこんな漫才まがいのことを…」
「ごめんごめん」
私のシャンプーの香りに混じって、いい香りがした。結依自体が発する香りだろう。とてもいい匂いだ。
「杏?熱いよ?」
「あ、ごめん…はい、終わり」
「ありがとう。わー!すごいサラサラツヤツヤ!」
「くしも欲しい?」
「欲しい!」
「じゃ、買ってくるね。」
「ありがとう!楽しみ!」
お風呂上がり、窓を開け外気を入れる。寒くもなく暑くもない、ちょうどいい気温だ。
「はー、涼しい。」
「はい、アイスティー。ペットボトルで悪いけど」
「ありがと。」
「…私、結依に会えて良かった」
「何をいきなり?」
「…私、こんな性格じゃない?だから…友達とか…少なくて。でも、生きてて良かった、会えて良かったって思う。」
「私も杏と出会えて良かったよ。出会ってくれてありがとう」
そう言って結依は私の額にキスをした。
「もう寝る?」
「杏は?」
「まだ眠くないかな」
「明日…もう今日か。休みだし、眠くなるまで起きてよっか。」
「…」
「どうしたの?」
「結依が私の母親なら良かった。」
「え、何いきなり」
アイスティーを唇に当てながら、ぽつりぽつりとルイが呟く。
「うちの母親厳しくてさ。夜更かしとかさせてくれなくて。wonderに応募したのはアイドルになりたかったからだけど、実家から出たかったのもあるんだ。」
「そうなんだ。でも、杏一人暮らしの割にはいい家住んでるよね。」
「お父さんが支援してくれてるんだ。助かってる。」
「そうだね。」
「結依は?結依の事、もっと知りたい。」
そう言いながら私の手を握る。少しだけ震えていた。
私はその手を握り返しながら話す。
「私は産まれた時からお父さんがいなくてね。」
「えっ」
「死んじゃったのか離婚したのかは分からないんだけど、お父さんはいなかった。でも比較的ゆるーく育てられてね。」
「羨ましい…」
「ごめんね。ただアイドルやりたいって言った時は反対された。陸上部もあったしね。最終的には両立することを条件にwonderに応募したんだ。」
「そっか…結依も大変だったんだね。」
「杏に比べたら。そうでもないよ。」
「色々あるんだね。」
「そうだね」
気がつけば2人目が合った。結依がニコッと笑って
「外でも散歩してみる?ねむくなるかもよ。」と言った。
私は結依を抱きしめた。柔らかく、暖かい。
「私はこうしてたい。結依と2人で過ごせるなんてそうもないから。」
「レッスンの後2人で帰れるよ?だからわざわざ私の家の近くに部屋借りたんでしょ?」
「コソコソするのが嫌なの!私は堂々と結依の彼女でいたい!」
「じゃあwonder辞める?」
「っ…」
「wonder辞めたら2人暮らしできるよ?同性ならうちのお母さんも許すだろうし。」
「…」
「杏はwonderの私が好き?それとも素の平塚結依が好き?」
「どっちもに決まってるでしょ!」
「ならもう1つの選択肢。私がwonderを辞めて、杏はアイドルを続ける。私はwonderに未練はないし。」
「私は…」
「私は?」
ニコッと笑いながら問い返される。
「私は歌って踊ってる結依が好きだし、素の結依も好き!結依の全部を愛してる!だから辞めるなんて言わないで。分かった。周りにどう思われても堂々と結依と一緒にいる!バッシングを受けたっていい!」
「覚悟決めたね。」
そう言って結依は私の頭を撫でながら言った。
「一緒に寝よっか。お布団に2人入ってれば暖かくなって眠くなるかも。」
2人で布団に入る。ジワジワと体温が私たちを支配し、まどろみ始める。
「おやすみ。」
そうして結依との1日が終わった。
「んっ…うぅ…」
「…?」
謎のうめき声で目を覚ますと、杏が悪夢にうなされているようだった。
「杏?」
「んっ…やめて…痛い…ごめんなさい…」
「杏!」
杏の体を大きく揺らして起こす。目を覚ました杏は汗びっしょりだった。
「結依…ごめん」
「謝る事ないよ。夢の詳細も聞かないし。大丈夫、私がいるでしょ?」
そう言って、私は杏の華奢な体を抱きしめた。
「汗まみれだから…」
「構わないよ。私は杏の味方。私がいることを忘れないでね。」
「うん。ありがとう…」
「朝ごはんつくろっか」
「うん。その前にシャワー浴びていい?」
「いいよ」
「浴びてくるね。」
杏がシャワーを浴びている間に、朝食を作る。杏の家の冷蔵庫の中身は意外と充実している。卵を取り出して卵焼きを作っていると、杏がシャワーから出てきた。
「シャワー浴びてきた…あ、朝ごはん作ってくれてるの?ありがとう。」
「勝手に冷蔵庫開けちゃってごめんね」
「いいよ。気にしないで。私は何をすればいい?」
「じゃあお味噌汁作って欲しいな」
「分かった」
20分後、朝食が出来上がった。杏がキッチンから叫ぶ。
「コーヒーか紅茶どっちがいい?」
「じゃあコーヒーで」
「結依、コーヒー飲むんだ」
「飲むよ。飲み始めたのは高校に入ってからだけど。」
「へー、意外。はいコーヒー」
「ありがとう。杏は紅茶派なんだね。」
「紅茶しか飲めないの。コーヒーは苦いから嫌」
「可愛い」
「な、何をいきなり…」
狼狽える杏を尻目にコーヒーを口にする。
「さ、食べちゃお。」
「うん。いただきます。」
「いただきます。」
「今日は何する?」
「買い物に行きたいなって」
「いいよ、付き合うよ。」
「ありがとう。ベーコンカリカリして美味しい」
「でしょ?カリカリベーコン好きなんだ」
自分で言うのもなんだが、私は料理が得意だ。高校に持ってくお弁当は自分で作っている。
「ごちそうさまでした。美味しかったぁ。」
「ごちそうさまでした。杏の作ったお味噌汁美味しかったよ。」
「ありがと。さ、支度しちゃお。」
お互いにメイクをし合う。杏はやっぱりメイクが上手い。私もライブの前に杏にメイクを教えてもらったこてがある。
「よっし!行こう結依!」
「うん。手、繋ぐ?」
「う…うん…まだいいかな…」
意外とウブである。鍵を掛けて、駅へと向かう。目的地は渋谷だ。
杏の家は渋谷から電車で20分のところにある。事務所にも電車1本で行けるから便利だ。
「渋谷久しぶりだなー」
「なんか杏は頻繁に来てるイメージだけど」
「1人で渋谷には来ないよ。何だったら中学時代から来てない。」
「そうなんだ。珍しい。」
「結依は渋谷ってイメージが無いよね。」
「私は渋谷滅多に来ないからね。あんまり洋服に興味ないから」
「えっ意外。結依のファッションセンスいいなって思ってたのに。」
「そう?大体洋服屋滞在時間30分だよ。」
「えー!」
杏がこんなに表情を変えるのは珍しい。wonderの時は常に目尻が上がっていたから。私だけの杏だ。
「ここ来たかったんだよね。入っていい?」
「入ろうよ。もっと可愛くなろ?」
「ちょっと!往来の道で頭撫でないで!」
杏が顔を真っ赤にしながら私の手を振り払う。私は杏の手を引いて洋服屋に入った。
30分後、試着室から出てきた杏を見て、私は思わず抱きしめてしまった。
「ちょ、ちょっと!」
「可愛い。可愛すぎる。このファッションで行こう。私が払うから。」
「え、そんなのいいよ!ってか離して!」
「あ、ごめん。」
杏の顔は真っ赤だった。渋谷に来てから杏の顔はずっと真っ赤だ。
「誰のせいよ…」
「何か言った?」
「いや、別に。ちょっと待ってて会計してくるね。」
「うん。」
店の外で待っていると、変な男に声を掛けられた。無視を決め込んでいたが、その後もしつこく声を掛けてきた。
「お姉さん可愛いね!ちょっとお茶しない?」
こういうのがあるから渋谷は嫌いなのだ。殴ってやろうかと考えていると、杏がやってきた。
「お待たせ…誰?」
「お姉さんも可愛い!3人で…」
何かを言おうとしたところで私は杏の手を取り、
「私は女の子しか好きになれないの!じゃあね、杏ちょっと走るよ」
「え、ちょっと…うわっ」
その場から全力疾走である。30m程走ったところで止まると、杏が息を切らしながら言葉を発した。
「い、いきなり走るのは…良くない…」
「ごめんね。あのまま拉致されそうだったから。あ、喫茶店あるね。私奢るから入ろっか。」
「うん…」
喫茶店。杏はアイスティーを頼み。私はアイスコーヒーとパンケーキを頼んだ。
「この後ご飯食べるよ?」
「パンケーキくらいなら大丈夫だよ」
「結依って食べてるのに細いよね…」
「陸上部で鍛えてるからね。」
「羨ましい…」
「陸上部入る?」
「入らない!」
杏が笑う。やっぱり杏は笑ってる方がいい。
「いただきます。」
やがてパンケーキが運ばれてきた。メープルシロップをかけ、口に運ぶ。美味しい。
「杏1口食べる?」
「いいの?」
「いいよ。あーんして。」
「…」
「いらないの?美味しいよ?」
「…あーん」
杏の口にパンケーキを運ぶ。杏は顔を綻ばせて、
「美味しい…!」
そう呟いた。笑顔の杏は可愛い。
「そろそろ行こうか。」
「そうだね。」
喫茶店を出る。まだ青空が広がっていた。
その後も何軒か店を周り、1時間後自宅の最寄り駅に着いた。
「いっぱい買ったね。」
「付き合ってくれてありがとうね」
「気にしないで。杏とのデートだから」
「…もう…」
今日の夕飯はピザでも頼もうかな。
この生活も明日で終わりだ。寂しい。
3日目
今日でこの生活も終わりだ。朝、布団から出て歯磨きをしている時に改めて思い知った。杏はすぅすぅと寝息を立てて眠っている。歯磨きを終えて、朝ごはんを作っていると、杏が起きてきた。
「おはよ…」
「おはよう。お腹空いた?ご飯オムレツでいい?」
「結依に任せる…」
「ほら、ちゃんとパジャマの下履いて…朝に弱いんだから」
「んー。」
「よくこれでwonderの杏が作れるね?」
「やれば出来るタイプなのよ。さ、ご飯食べよ。」
「もう覚醒してる…。今日はレッスン無いのに…」
「結依との共同生活最後でしょ。早い段階で覚醒しとかないと。結依との時間は一瞬たりとも無駄にしたくない。」
そう言って杏は私を強く抱きしめた。杏の香り、杏の体温。全てが愛おしい。
「オムレツ出来たよ。さ、食べよ。」
「うん。」
「今日は何する?」
「んー…これといってやりたい事無いのよね…。買い物も済ませたし、曇り空だし。」
「じゃあ家でゆっくりする?」
「そうね。そうしよっか。」
食器を洗い終わり、ベッドに座る。すると後ろから杏に抱きしめられた。
「どうしたの?甘えん坊さん。」
「こうしてたいの。少しくらいいいでしょ。」
杏に抱きしめられている間、私は朝の情報番組を見ていた。杏が話しかけてくる。
「明日からレッスンだね。」
「そうだね。」
「また結依と一緒にいられる日が減っちゃう。」
「そんなことないよ。これからも杏の家に行くし、うちにも誘うよ。それにどっちかが脱退するわけじゃないし。大丈夫。」
そう言って私は杏の頭を撫でた。私の肩に杏の涙が落ちる。私は杏の顔に手をやり、涙を手で拭った。
「泣かないの。私の中の杏はカリスマ。カリスマは泣いちゃいけないの。」
私は杏の唇に自分の唇を当てた。
「結依…?」
「私だって寂しいの。でもまた会える。次のレッスンの休みはまたこういう生活をしよう?それを楽しみにしよう。」
杏が無言で頷いた。私は笑顔で杏の頭を撫でる。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。もう帰る時間だ。
「片付けよし、忘れ物なしっ…と。あれ、杏、駅まで送ってくれるの?」
「送るよ。すこしでも一緒にいたいし。」
「ありがとう。じゃあ手ぇ繋ごっか。」
「…」
顔を真っ赤にしながらコクンと頷いた。
駅前。学生たちでごった返していた。
「ちょっとチャージしてくるね。」
「うん」
チャージをして杏の元に戻ると、杏は泣いていた。
「ど、どうしたの?なんかされた?」
「結依との暮らしが…最後だって思ったら…悲しくて…寂しくて…」
「明日またレッスンで逢えるじゃない?」
「レッスンとプライベートは別なのぉ…」
「じゃ、じゃあ来週の休みにお泊まり会しよう?私また杏の家に行くから!」
「本当ぉ?」
「ほんとほんと!だから泣き止んで!」
「うん…」
目をぐしぐしと擦る杏。目は真っ赤だ。
「じゃあ私、電車乗るからね。また明日ね。」
「また明日…」
大きく手を振る杏に応えて私も手を振る。
思えばクールな杏が私の前ではあんなにデレデレするんだから、何がなんだか分からないものである。
「同棲…かぁ。」
同棲とは、杏の口から出た言葉である。
杏の家から学校は近いし、私にメリットしかないんだけれども。
お母さんも杏のこと知ってるし、杏となら同棲することは許されるだろう。
ただ、「アーティスト」という面ではどうだろうか。週刊誌にすっぱ抜かれたりしたら。まぁ同棲相手は杏だし被害は少ないだろうけど。
悩んでるうちに自宅の最寄り駅を…過ぎた。
電車をおりて反対側の電車に乗り込む。
「何やってんだか…私。」
翌日。レッスン休憩中。自販機コーナーで、杏が紅茶を飲みながら座っていた。隣に座る。
「お疲れ様。」
「お疲れ様。」
しばらくの沈黙の後、私が告げた。
「同棲、OKだって。」
「え!?」
「詳しくはまた後でね。じゃ。」
ポカンとした顔の杏を尻目に私はレッスン場へ戻っていった。最初はストレッチからだ。
「大森さん一瞬にやる?」
「うん!やる!」
こちらを恨めしい目で杏が見てくるが、気にせずストレッチを始めた。
「大森さん体柔らかいね。驚いちゃった。」
「家でもストレッチを欠かしてないからね〜」
「市川さん痛い!痛い!」
「これくらいしないといい声出ないのよ!」
あちらはあちらで大変そうである。
レッスン終了後、帰ろうとしたら杏に首根っこを掴まれた。
「話があるの。いつものデニーズで。」
デニーズ。私もルイもパンケーキを頼んだ。
「で!どういうこと!?」
「どういうことも何も、昨日お母さんに聞いたらあっさり同棲の許可貰ったよって話。」
「そんな…私の心も決まってないのに…」
「決まってないの?じゃあ無しにする?」
「するわけないでしょう!?明日からしたい位なのに!でも、まだ心の整理がついてない!」
「パンケーキです。こちらメープルシロップになります」
「ありがとうございます。」
「どうも…」
「明日からしたいの?」
「少しでも長く結依といたい!」
「そうだよね。私も杏といたいよ。でも明日からは無理かな。荷造りもあるし。」
「じゃあ私引っ越す!」
「え!?そんないいよ。今の家でも充分広いでしょ。」
「でも…」
私はパンケーキを切り分けながら言った。
「私は杏の匂いが染みついたあの家がいいの。引越しはもう少し待って?私も荷物は少なめにするから。」
「…じゃあ明後日、家具とか収納ボックス見に行こ?」
「いいね。行こうよ。」
「…」
「どうしたの?ニトリは嫌?」
「…嬉しくて」
「え?」
「結依と同棲出来るなんて夢にも思わなかった。すごく嬉しいの。」
「杏、私もだよ。お母さんがすんなり同棲を許してくれるとは思わなかったけど、まぁ何よりだよね。」
コーヒーを飲んでいると、結依が恥ずかしそうに言った。
「ねぇ、隣に座ってもいい?」
「え?いいよ。」
「ありがとう」
そして私の隣に座り、私の肩に頭を乗せる。
「大好きだよ、結依」
「私もだよ、杏」
パンケーキに上に乗っかっていたバターが溶け始めた。私はそれを切り取り、杏の口に運んだ。
「美味しい?」
「美味しい。結依の匂いがするからかな。」
「汗だくだよ?」
「それは私も一緒。」
「そろそろ行こうか。暗くなっちゃう。」
「私の家?」
「今日は自宅。荷造りしなきゃ。」
最寄りの駅で泣きそうになっている杏を宥めた後、自宅まで行く電車に乗る。少し寂しいが、たかが2、3日の事だ。これからを楽しみにしよう。
3日後。学校を出たところで、杏に出会った。
「杏?どうしたの?」
「今日からでしょ?同棲するの。荷物持っていこうと思って」
「お前ら俺をなんだと…まぁいい。平塚、後部座席。」
「分かった。ありがとう、高山さん」
後部座席に座ると、杏が隣に座った。普段クールな杏がにこにこしながら私の手を掴む。
「今日からよろしくね。」
「うん。よろしくね、杏。」
頬を撫でる。くすぐったそうに杏は笑った。
「おーい、俺を忘れるなよ。出発だ、シートベルトしろよ。」
「はい」
私宅。荷物はもう玄関に積んであったので、あとは車に積むだけだ。
「たまには帰ってくるから」
「市川さんとなら安心ね。うちの結依をよろしくお願いしますね。」
「よ、よろしくお願いします!」
「杏、緊張し過ぎ。」
「おーい、積み終わったぞー。」
「高山さんもわざわざありがとうございます。」
「いえいえ。所属アイドルのためなら何でもしますよ。ははは。」
「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
車は私の荷物を乗せて杏宅へ向かう。私の新しい門出だ。
杏宅。運び込んだ荷物を整理していると、杏が抱きついてきた。
「何?整理出来ないよ。」
「これからずっと大好きな結依と一緒にいられると思うと嬉しくて。」
「それは私も同じだよ。杏とずっと一緒なんて嬉しい。」
「結依大好き。」
「私もだよ、杏」
荷物もある程度整理出来たところで、時計に目をやる。
「もうこんな時間。夕飯どうする?食べに行く?」
「そうだね。買い物もしたいし、食べに行こう。」
杏宅の近くは食べるところがたくさんある。今日はサイゼリヤだ。
「他にも食べる場所あるよ?」
「節約しなくちゃ。それにサイゼリヤ好きだし。好きな人と好きなところでごはん食べられるって嬉しいことだよ。」
「そうね、そうだよね!」
サイゼリヤは安くて美味しいの代名詞だ。私はパスタを、杏はハンバーグを頼んだ。
「結依お腹空いちゃうよ?」
「んー。じゃあ辛味チキン頼もうかな。」
「陸上部なんだし、食べないと。」
「そうだね、ありがとう。」
杏が顔を真っ赤にして俯く。何かあったのだろうか。
(おい、あれwonderの結依と杏じゃね?)
(ほんとだ。サイゼリヤ来るんだ)
「あーあ。バレちゃったね。ま、悪いことしてる訳じゃないし、堂々としてよ。」
「そうね。それに今は杏のことしか目に入らないし。 「そういうこと公共の場で言わないで!」
また顔を真っ赤にする。ころころと変わる顔色に私は笑みを浮かべた。
「ごちそうさまでしたー!美味しかった!」
「お腹いっぱい。」
「まだ買い物あるの?」
「うーん。今日はいいかな。もう帰ろ。」
「そうだね。手、繋ぐ?」
「……うん」
顔を真っ赤にしながら手を掴む。可愛い。そして私は振り向き、ついてこようとするファンに向けてウインクしたあと。
「杏抱えるよ!」
「え!?わー!?」
杏と荷物を抱えて駅まで走った。駅に着いて振り向くと、ファンたちはいなかった。
「何!?びっくりしたんだけど!?」
「いや、ファンの方たちが着いてきそうだったから」
「流石陸上部…走るの速いね…」
「体力はある方だからね、さ、電車に乗ろ。」
杏と手を繋いで駅へと向かう。まぁ、これもアイドルの宿命かな。
電車は空いていた。荷物が大量にあったので、そこは助かった。
「空いてて良かったね」
「そうだね」
「いい物いっぱい買えたね」
「杏のセンスの良さには脱帽するよ。」
「へへ!もっと褒めて!」
「はいはい」
そう言いながら頭を撫でる。杏の顔は瞬く間に真っ赤になっていった。
「は、恥ずかしいから…」
「そう?私は杏の頭撫でるの気持ちいいし、恥ずかしくないよ?」
「私が恥ずかしいの!」
「はいはい」
頭を撫でるのをやめる。家ではあんなに頭撫でてって言うのに。
最寄り駅。もう真っ暗だ。
「タクシーで帰る?」
「そうだねぇ。荷物も多いしタクシーで帰ろうか」
タクシーに乗って約20分。杏宅に着いた。バスはあるにはあるのだが、本数が少ないのだ。
「ただいま」
「おかえり」
「杏もおかえり」
「…!ただいま!」
買ってきた荷物を置き、一旦一休みだ。
「疲れたー!」
「疲れたね。あ、お風呂沸かすね」
「ありがとう」
「ね、ねぇ」
杏が私の服の裾を掴む。私は杏に跨り、キスをした。
「んっ…」
「これで満足?」
満足そうな顔をしていない。
「諸々が終わってからね。」
パァッと杏の顔が変わった。あとでたっぷり可愛がってあげよう。
「とりあえず今日買ってきたもの片付けようか」
「そうだね。」
「これは杏ので、これが私、これが杏、これも杏…」
「意外と結依の私物少ないね。」
「私、実家でも物少なく生きてきたから」
「へー!すごいね。私なんか物で溢れてたよ。」
「杏、プライベートはだらしなさそうだもんね」
「何をー!」
「あはは。冗談だって。とりあえず片付いたし、夕ご飯作ろっか」
「えー、出前館でいいじゃん」
「だめ。毎日お金使っちゃうでしょ。」
「んー…」
「ご飯関係は私が担当するから、安心して。」
「結依の手料理!」
ぱぁっと杏の顔が明るくなった。杏には洗濯を担当してもらおう。
「うふふ」
「ん?杏どうしたの?」
「結依と同棲することになったのを実感し始めたらにやにやが止まらなくて…」
「いつもの杏らしくないなぁ。かっこいい市川杏はどうしたの?」
頭を撫でる。杏は目を細めた。
「大好きだよ、結依」
「私もだよ、杏」
2回目のキスをした。少し苦味があった。
レッスン中。高山さんが私たちを集めた。
「えー、次のシングル曲とアルバム制作が決定した」
「うそ!やば!」
「シングルかぁ…」
「それでセンターなんだが、今回はWセンターだ。」
「私が選ばれるのは間違いないね」
「Wセンターは市川と大森だ。」
「え!?」
「私がですかぁ?」
「それから、今回のシングルとアルバムには三矢は参加しない。市川大森浅倉の3人だ。」
思わず結依の方を見た。結依は目を逸らした。
「あと、今回のアルバムはそれぞれソロ曲がある。市川5曲、浅倉大森はそれぞれ2曲ずつだ。ここからしばらく歌唱練習が主になるから肝に銘じるように。」
「「「はーい」」」
私だけ苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
レッスン終了後。自宅にて。
「何で結依が参加しないの!?」
「うーん…わかんない。会社の都合らしいよ。」
「やだ!シングルに結依がいないのやだよ…」
「ご飯食べ終わったら話し合おう。今お味噌溶かしてるから」
夕食後。
「はい。」
「はいじゃない!なんで結依参加しないの?」
「…まだ言っちゃいけない話だから、内緒にしてくれる?」
「…うん」
「私、アイドル活動を少しお休みするつもりなんだ。」
「え」
「大学の方は推薦もらえたから受験勉強は無いんだけど、ちょっと疲れちゃって。高山さんには言ってあるんだけど。」
「私は聞いてない!」
「ごめんね。高山さんに言ったの一昨日だから。」
「じゃあもう結依斗は歌ったり踊ったり出来ないの!?」
「しばらくはね。しばらくの間だよ杏。」
「やだぁ!!」
「ほら、カリスマの姿じゃないよ。泣きたいならいっぱい泣けばいいよ」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた杏を抱きしめた。杏が泣き続ける。
「大丈夫。また戻ってくるから」
杏の背中を叩いてあげる。子どものように泣きじゃくる杏の頭を撫で続けた。
しばらくして落ち着いた杏が私に寄りかかりながらスマホを見ていると、いきなり杏が叫んだ。
「ちょっと!結依!この記事何!?」
スマホを覗くと「wonder平塚結依電撃脱退か!?」
などという記事が表示されていた。
「あら。脱退じゃないのにね。」
「酷い!高山さんに抗議する!」
「高山さんに抗議しても無駄じゃない?」
「うぅ…」
「とりあえずさ、今日はもう寝ようよ。明日もレッスンだからさ。」
「うん…」
翌朝。事務所。
「高山さん!何この記事!?」
「その対応に今追われてるんだよ…はい、はい、いえ脱退は致しません。はい、はい、失礼します」
「…な?」
「…」
「これは私は脱退した方がいい流れ?」
「なっ」
「何を言ってるの!!」
「まぁ、こうなるよね。私、しばらく事務所に来ない方がいいかな?」
「なんで!?」
「だって事務所来たら出版社の方たちにフォーカスされちゃう訳でしょ?これじゃ事務所に迷惑掛けちゃう。」
「そんな!!こんな弱小事務所に迷惑掛けていいんだよ!?」
「市川、言い方…」
「私はしばらく家にいるよ。杏、レッスンとレコーディング頑張ってね。」
「結依!!」
私の声は届くことなく、結依はドアの向こうに吸われていった。
「高山さん!マネージャーでしょ!!結依引き止めてよ!!」
「市川落ち着けって…」
「この弱小事務所が!!」
私は結依を追いかけた。この際交際がバレてもいい。
結依はタクシーに乗り込もうとしていた。私は声の限りに叫んだ。
「結依!!」
しかしタクシーは閉まって結依を運んでいった。
「バカ…」
私は涙を拭いながら事務所へ向かった。
自宅。杏の匂いのするベッドに座り込み、スマホを見る。高山さんからだ。
「レッスンが修羅場なんだが…。市川のヒステリーが爆発してる…。助けてくれ…」
「私が行っても止められないよ。頑張って。」
キレた杏を止める方法は、ギリギリまでキレさせて排出させるしかない。私はそれを知っているからあえて放置しているのだ。今日のお夕飯の支度でもしようかな。
「それにしても大森さんと浅倉さんには迷惑掛けちゃうなぁ。辞めなきゃいいけど」
今日の夕飯はカレーだ。私の大好きな甘口カレー。お母さんから教わった味だ。
「杏、早く帰ってこないかなぁ」
すると、インターホンが鳴る。よく画像を確認せずにドアを開けたその瞬間。
私は玄関に倒れ込んでいた。ふと見ると私のお腹にはナイフが刺さっていた。
「いった…うぅ…杏…」
私を刺した人物はもういなくなっていた。出血のせいで体が冷え始めてきた。
「杏…ごめん…」
気がつくと、病院のベッドの上だった。横には泣き腫らした目をした杏と山本さんがいた。
「結依!!」
「平塚!」
「うん…痛いな。」
「1週間も意識不明だったんだよ!?玄関で血まみれで倒れてる結依を見た時、私…一緒に死のうって思った…。良かった…生きてて…」
「犯人は捕まったぞ。市川ファンだったらしい。何処からか同棲しているのが漏れたんだな。すまない。」
「高山さんが謝ることじゃないよ。画像をよく確認しなかった私もいけないから。杏が無事で良かった。」
「杏、私、もう離れないから」
涙声で言う杏の頭を優しく撫でる。
「レッスンとレコーディングは行かないとダメだよ。」
「結依の為ならwonder脱退したっていい!」
「おい、市川?」
「ダメだよ。私の代わりに夢叶えて。杏にはそれが出来るはずだよ。」
「でも…」
「大丈夫。私は杏から離れないよ。」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。大丈夫。」
それから3日後、私は退院した。傷の方はまだ少し痛むけど、鎮痛剤を飲めば大丈夫だし。さて、タクシーを…あれ?
「結依!」
「杏?高山さんも。」
「退院の日把握してたの!1人でタクシーで帰るつもりでしょ?もったいないよ。せっかくアシがあるのに。」
「アシ扱いするなよ…まぁいい。平塚、乗れ。」
「ありがとう。」
「私結依の隣!」
「市川、お前平沢の前では人格180度変わるよな」
「好きなものにはそうなるでしょ?」
「杏、抱きしめていいよ」
「結依!」
杏が私をぎゅっと抱きしめた。久しぶりの体温に私はちょっと喜びを感じていた。
「よし、行くぞ。」
「はーい!」
「お願いします。」
10日振りの自宅。いつもと代わってにこにこしている杏と、女子の家に若干緊張気味の高山さん。私は2人を尻目にコーヒーを入れている。
「結依、キズ開くよ。私がやるから」
「大丈夫だよ。動かないとダメだって言われたし。」
「でも…」
「いいから。ね?」
「…分かった。」
「はい、どうぞ。」
「ありがとう」
「結依ありがとう!」
「どういたしまして。あー、久しぶりのコーヒー美味しいなぁ。」
「このコーヒー美味いな。豆から挽いてるのか?」
「そうだよ。豆から挽いたコーヒーの香りが好きなんだ。」
「手間暇掛けてるなぁ」
「まぁね。あ、薬飲まなきゃ。」
抗生物質と痛み止め。1週間後には経過観察だ。
「私も行くからね!また狙われたらあれだから!」
「ありがとう。嬉しいよ。」
「じゃあ俺は行くぞ。仕事が溜まっててな…」
「そうなんだ。わざわざありがとう。」
「おう。平塚。今後も気をつけろよ。」
「分かってる。ありがとう。」
杏と2人になった。しばらくの沈黙。それを破ったのは杏だった。
「私やっぱりアイドル辞めようかな」
「それはダメ。杏には私のアイドル人生を託したんだよ。」
「でも…!今の私はアイドルよりも結依なんだよ。私以上にポテンシャル高くて全てが正確な結依が私の全てなの。その結依がいないなんて耐えられない…」
私は杏をそっと抱きしめた。
「私がいなくてもwonderは回ってく。それに杏がやめたら浅倉さんや大森さんがかわいそうだし、私の居場所も無くなっちゃう。杏には重荷になるかもだけど…」
今にも泣きそうな杏をぎゅっと抱きしめて、
「私がいないwonderを頼むね。」
そう言った。杏が泣き出した。
「大丈夫。大丈夫だから。」
そして、泣き疲れて眠りについた杏をベッドに寝かせてその寝顔を見ていた。
「可愛い。好きになってくれてありがとうね。」
頭を撫で、台所に立つ。私の決意はもう固まっていた。
翌朝。結依の姿が無かった。朝ごはんは作られていたが、姿が見えない。時計の時刻は11時を指していた。
ぼんやりとした頭で朝ごはんを食べながらテレビを見ていた。芸能コーナーになった瞬間、私の頭はシャキッとした。
[はい、次のコーナーは芸能コーナーですが、衝撃的なニュースが入ってきました。まずは会見をご覧ください]
テレビには結依と高山がいた。右上のテロップには「速報!wonder・平塚結依脱退会見」と表記されていた。
「今回は私のために集まって頂きありがとうございます。この度私平塚結依はwonderを脱退することにいたしました。不貞?そんなものはございません。あくまで私の意思です。私が脱退することでメンバーやマネージャーに迷惑を掛けますが、私がいなくなってもwonderは進化していきます。私はそれを見守っていくだけです。」
結依の言葉が鋭く刺さった。私の居場所ってそういうこと…?そういうことなの?私は泣きながら高山に電話を掛けた。
控室。
「げ、市川から鬼電来てる…」
「私、杏に伝えてないからね」
「伝えといてくれって言っただろ…うわ、掛かってきた…もしも」
「高山さん私何にも聴いてないんだけどどういうことなのテレビで知るとかありえないんだけど」
「お、落ち着け市川」
「落ち着けるかぁ!!!!」
「ひえっ」
「高山さん、貸して。あ、もしもし杏?」
「結依!!」
「今から帰るから、ゆっくり落ち着いて話そ。ね?」
「ん…むぅ…」
控室を片付けて高山さんの車に乗る。杏の反応が早く見たい。
「ただいま」
「お邪魔し…」
杏が仁王立ちしていた。無言でテーブルに座る。杏と高山さんが対面で。私は横に座る。
「お茶淹れるね」
台所に立った瞬間怒号が聞こえた。これはビンタ1発で済むかな。
「で?何で私が知らない内に結依が脱退する流れになってる訳?」
「平塚がメンバーには黙っててって言うから…」
「杏、落ち着いて聞いて?私は私の道を決めたの。私は杏とずっといようって。杏の帰るべき居場所になろうって。だからお願い。それだけは分かって?」
「むぅ…」
「と、とりあえずラストコンサートをやるから、それに伴って平塚も復帰する流れだ。すまないがよろしく頼む。」
「分かりました。」
一介の地下アイドルがテレビに出た関係で有名になった。それは多分杏のおかげだろう。浅倉さんは頑張りすぎるけどいい子だし、大森さんは貪欲だ。私がいなくてもwonderは回っていくだろう。
「結依…」
「杏、不安にさせちゃったね。ごめんね。」
抱きついてきた杏の頭を撫でる。今にも蕩けそうな顔をしている。
「ラストコンサートまで涙は我慢だよ。ね?いつものルイの笑顔を見せて?」
「…うん!」
ラストコンサートまで、あと少し――――
wonderは今までにシングル5枚とアルバム3枚を出している。今度のラストコンサートでは、私が中心となってシングルとアルバムの流れからセットリストを決めるのだ。
「この曲とこの曲は気に入ってるからやりたいな。この曲はWボーカルだから私と市川さんでやらせて欲しい。」
セットリストも決まって、早速レッスンと発声練習に入る。久しぶりだけど案外覚えているものだ。
レッスンを終えて自宅でシャワーを浴びていると、杏が帰ってきた音がした。シャワーから上がると杏が私を抱きしめてきた。
「杏、おかえり」
「ただいま!結依分補給〜」
「シャワー浴びたばっかだからいい匂いすると思うけど」
「うん!結依のいい香りがする。好き。」
杏を優しく引き剥がし、今日のレッスンの映像を2人で見る。
「ここの部分さ、こういう風にした方が良くない?」
「そうだね。そうしよっか。」
「あと、最後の曲はworld wonder!がいい。もう歌えないなら、私が好きな曲を結依と歌いたい。」
「じゃあさ、最後の曲終わったらサプライズでworld wonder!をアカペラで歌うってのはどう?」
「面白そう!やりたい!」
「高山さんには内緒でね。」
「うん!」
厳しいレッスンと歌唱指導を経て、とうとうラストコンサートの日になった。私たちがドームでやるなんて…。まぁ感慨深いのは高山さんと杏だろうけど。
私はステージ脇から、満杯になった客席を見ていた。杏が私にこう言った。
「平塚さん、今日の主人公は平塚さんだから。」
みんなの前だからか平塚さんと言っているが、結依でいいのにと思う。
「ほら出番だぞ!行ってこい!」
ステージに浅倉さん大森さん杏の順番で出ていく。最後の番は私だ。私が出て行った瞬間、大歓声がドームを揺らした。私は客席に向かってコールした。
「Close to you!」」
25曲、歌って踊って1時間30分弱、最後の曲が終わり、浅倉さんと大森さんがステージ脇に下がったところで、私と杏がステージの真ん中に立つ。そして、world wonder!を歌う。サプライズは成功したようで、客席から歓声が広がった。
アンコール。先に3人は出て行って、私は高山さんの合図でステージにゆっくりと歩いて行き、深々とお辞儀をした。
「えっと、今日は私、平塚結依のラストコンサートに来て頂き本当にありがとうございます。ちょっとだけ、私からお話をさせてください。wonder、最初は小さい箱で細々とやっていた地下アイドルでした。2枚目のシングル、world wonder!ここから売れ始めて、テレビやラジオのお仕事が増えてドーム公演までできるようになりました。皆さんのおかげです、本当にありがとうございます」
会場から割れんばかりの拍手と歓声が上がった。杏の方を見ると、もう泣きそうになっていた。顔が真っ赤だ。
「今日で平塚結依のいるwonderは終わって明日からは3人のwonderが始まります。私がいなくても、回っていきます。だから、3人のwonderにも声援をお願いします。始まりがあり終わりがあります。もちろん平塚結依にも声援は欲しいですけどね。なんて。」
そう言うと涙声の混じった笑い声が聞こえた。そしてメンバーからの花束贈呈が始まったが、明日は号泣し過ぎて立てなくなっていた。顔をハンカチで拭いながら立ち上がって私の顔を見てまた泣き出した。そしてわたしを抱きしめる、歓声が上がった。
「結依…やだよ…辞めないでよ…」
「杏、大丈夫だよ。ね?」
改めて杏が私に花束を渡す。また泣き出す。私は杏を思い切り抱きしめた。
次は浅倉さんだ。浅倉さんも涙をこらえながら私に花束をくれた。
「厳しいレッスンでも、平塚さんがいつも気遣ってくれて嬉しかった。これから、どうすればいいか分からないけど、今まで平塚さんがくれた言葉を忘れないで頑張っていくね。ありがとう。」
浅倉さんを抱きしめる。杏が涙でぐしゃぐしゃの顔をしながらこちらを睨んでいた。
最後に大森さん。飄々としていた。
「私も平塚さんに救われてました。本当に。平塚さんと2人で飲んだ紅茶がすごく美味しかった。紅茶飲みながら色々語り合ったね。楽しかった。寂しくなるけど、平塚さんにもらった言葉を大事に頑張っていくね。ありがとう。」
会場からすすり泣きが聞こえる。3人分の花束をスタッフさんに渡して、私はマイクを取った。
「じゃあ最後に私1人で歌わせてもらいます。wonderの曲じゃなくてカバーさせて頂くんですが。バラードなのでみんな余計に泣いちゃうかも。でも好きなバンドさんの好きな曲なので、泣いてもいいので聞いてください。」
「ひとりごと」
「おい!昨日のドーム動員すごかったぞ!新聞の芸能欄一面wonderだぞ!こんな事あるとはなぁ!」
興奮冷めやらぬ高山さんと対照的な私たち。
「結依のいないwonderなんてwonderじゃない…」
私はそう言ってカバンを持ち、部屋を出た。
「おい市川どこに」
「体調悪いから帰る。」
「おい!」
杏宅
「うーん、お出汁が足りないかな?ほんだし一振りっ…と」
「結依!」
「わっ!杏?」
「結依分補給〜」
「レッスンはどうしたの?」
「休んだ!」
「だめだよ、そんなんじゃ。私のいないwonderを支えていくのは杏なんだよ?」
「今日だけ…今日だけ休みたいの。」
「もう…今日だけね。」
そう言うと、杏が嬉しそうに新聞を開いた。
「昨日のドーム公演動員最高だったんだって!」
「あら、ほんとだ。「平塚結依脱退コンサート、号泣する市川杏」だって。面白い見出しだね。」
「まぁ、そこは認めるけどさ、私の夢が結依のおかげで叶ったんだよ!」
「東京ドーム公演?」
「そう!私、結依に褒めてもらえる位頑張ってもっと高みを目指すね!」
「でも新生wonder、味の素スタジアム完売でしょ?それだけですごいじゃん、はい紅茶」
「ありがとう、私の夢はドーム公演3Daysだから」
「あはは。じゃあ新しいメンバー入れなくちゃね」
「wonderに新メンバーなんかいらない!結依を入れて4人のwonderなんだから!」
「嬉しいけど、私は脱退して引退してるからねぇ…」
そう言ってコーヒーを口に含む。杏の飲む紅茶、茶葉の配合比率間違えたかもしれない。」
「あの2人と何とかやっていくわ。でも結依も来てね?」
「もちろん。どこまでも行くよ。」
杏の頭を撫でる。嬉しそうに笑った。
「ね、今日どっか行こ?スイーツ美味しい店知ってるんだ!」
「浅倉と大森さんはレッスンなのに?」
「明日から頑張るから!」
「まぁいいけど。行こっか。」
「うん!!」
着替え終わり、歯磨きと軽いメイクを済ませてリビングに行くと、フリフリのドレスを見に纏う杏がいた。
「どうかな?」
「いいと思う。杏だってバレなさそうだね。」
「普段は男の子テイストだからね。行こう!」
「はいはい。タクシーで行く?それとも電車?」
「渋谷なんだよね。電車がいいかな?」
「電車だね。じゃあ着替えるから待ってて。」
ジーパンとワイシャツに着替える。いつもより女の子女の子している杏を守るためだ。
「いい感じ!結依かっこいい!」
「杏を守らなくちゃね。」
「じゃあ行こっ!」
私と腕を組む杏。まだ靴履いてないよ、と引き剥がし、施錠した後で改めて腕を組む。駅までは10分弱だ。見せつけてやろう、私の可愛い彼女を。
渋谷。相変わらず人でごった返している。杏が少しよろけた。咄嗟に体を支えた。
「大丈夫、杏?」
「大丈夫、よろけただけ。やっぱり普段から履いてない靴は履き慣れないね。ありがとう。」
「気をつけてね。美味しいスイーツ屋さんってどっち?」
「ここ右だよ!あ、ここだ!」
「いらっしゃいませ、2名さまですか?」
「2名です。」
「こちらにどうぞ。最初のお飲み物無料でご提供していますが、紅茶とコーヒーどちらに致しますか?」
「私…僕はコーヒーで」
「私は紅茶で!」
「かしこまりました。」
黒服の店員が去っていく。咄嗟に僕って単語が出てよかった。
「ここ芸能人も御用達なんだって!だから楽しみにしてたの!」
ここに来なくても芸能人には会えるだろうに。ふと、そんな事を思ってしまった自分を戒めた。私の悪いところだ。
「結依、どうしたの?」
「ううん、何でも無い。さ、早く決めちゃお。何にする?」
「うーん…ハーフショートケーキにしようかな!」
「え、ホールの半分だよ?食べ切れる?」
「大丈夫!」
「そっか…分かった。(私は控えめにしておこう…)」
こうして、杏がハーフショートケーキ、私がチーズケーキという注文になった。コーヒーを飲みながら、杏と他愛ない話をしながらケーキが運ばれてくるのを待つ。
「お待たせいたしました。ハーフショートケーキになります。」
「はーい、私わた…」
杏の言葉が止まった。トンっと軽快な音を立てて置かれたケーキは予想以上に大きかった。私も言葉を失った。
「こちらチーズケーキです。」
「あ、はい」
「ごゆっくりどうぞ。コーヒー、紅茶のおかわりは自由ですがいかがなさいますか?」
「あ、紅茶を2人分お願いします。」
「かしこまりました。」
黒服が去っていく。ずっとケーキを見つめていた杏がゆっくりと顔を上げた。
「ゆ、結依」
「だから僕言ったでしょ?大丈夫?って。」
「…」
「…食べられなかったら食べてあげるから。食べな?」
ぱああっという音が似合いそうなくらいの笑顔を見せて、ケーキを食べ始める杏。チーズケーキにしといて良かった。
結局半分の半分しか食べなかった杏の残りを食べ、お会計をする。コーヒー、紅茶が飲み放題で2人で2600円は安いのではないか。
「次はどこ行く?」
「そうだね、あ!新しい洋服欲しいの!」
「じゃあ行こうか。」
杏お気に入りのブランドがあるらしい。連れて行かれる途中で誰かに写真を撮られた。
「え」
「市川杏さんですよね!?そちらの方は彼氏さんですか!?」
「ちょっと、止めてください。勝手に写真を撮るなんて非常識ですよ。」
杏に覆い被さる形でカメラから杏を守る。それでも写真を撮り続ける男。蹴り上げてやろうかと思いつつ、
「杏!ちょっとごめんね!」
お姫様だっこでその場から逃げ出す。
「きゃっ!?」
「駅まで走るよ!」
10分後、渋谷駅。私は杏を下ろして近くの自販機で水を買った。
「ふぅ。なんとか撒けたかな」
「結依、体力あるね…」
「陸上部だよ?体力と肺活量には自信あるよ。今日は帰ろう。今度また来よう。」
「うん…」
落ち込む杏の頭を撫でながら、手を繋いで駅に向かう。さぁ、明日は修羅場だ。
騒動から2日後。事務所に呼ばれた。
「おまえらなぁ…」
ため息を吐く高山さんの前には週刊誌。
[市川杏、熱愛発覚か!?イケメン彼氏と渋谷でデート!]
「何か文才無いね。」
「そうね。パパパって書いた感じ。」
「それどころじゃないだろ…」
「大丈夫大丈夫。最悪私脱ぐから。」
「そういう問題じゃない!そもそも脱ぐな!」
「脱ぐからって意味じゃ無いよ?写真撮った日の服装をして、会見で脱げば問題ないでしょ?ほら、平塚結依でした!みたいな」
「うーん…。胃が痛くなってきた…。とりあえず平塚、お前は帰っていい。市川は今後の対策を…」
「分かった。杏先帰るね。」
「うん。今日はシチューにしてね!」
「分かった。買い物して帰るね。じゃあ高山さんごめんね。」
そう残して私はスーパーへと向かった。杏はにんじんが好きだからちょっと多めに買っておこう。
「ただいま。重かったー。とりあえず下ごしらえだけでもしとこうかな。」
煮込み料理は私の得意料理だ。豚の角煮もよく作るし、カレーなんかは2日前から煮込んでおく位には得意だ。
「よし、野菜も切り終わったし、今から煮込むか。今日杏遅くなりそうだし。」
お鍋の前でさっき届いた大学の入学手続の書類を見ていると、玄関が開く音がした。杏かな?鍵は掛けてたから多分杏だろう。
「ただいまー!!ぎゅー!!」
「危ないよ。今煮込んでるんだから。」
「えへへ!結衣に早く会いたくて!」
「ありがとう。着替えてきて、シチュー一緒に作ろ。」
「うん!!」
シチューが完成した。杏がパンを嬉しそうな顔をしながら焼いている。それをながめながら私も微笑んだ。
「何ニコニコしてるの?」
「杏と一緒にご飯が食べられるから嬉しいんだよ」
「んふ。私も嬉しい。」
そう言ってまたにっこり笑う。珍しい。私は杏の頭を撫でた。
「もうなーに?パン冷めちゃうから早く食べよ!」
「そうだね。パン貰うね」
「うん。じゃあ食べよ!」
「いただきます。」
「いただきます!」
誰かと食べる食事、特に好きな人と食べる食事が美味しいということは知ってはいたがここまで美味しくなるとは。びっくりである。
「ごちそうさまー!美味しかった!」
「そうだね。自分で言うのも変だけど美味しかった。」
「お風呂先入る?」
「んー2人で入る?」
「ンッ………まだいかな…」
「そっか残念」
「ごめんね。まだ勇気が出なくて。」
「大丈夫だよ」
キスをした。しかもディープな。
「んっ!むー!」
「ぷはっ」
「いきなり何を」
「キスだよ」
「分かる!分かるよそれくらい!」
「恋人同士ならこういうこともしなくちゃね。お風呂行ってらっしゃい。」
杏は真っ赤な顔でお風呂場へと向かった。洗い物でもするか。
数十分後
「あー、さっぱりしたー。結依お風呂いいよ!」
「はーい。洗い物も終わったし、入っちゃおうかな」
「うん、行ってらっしゃい」
ボフン、とベッドに横たわる。髪の毛も乾かしていない。でももう結依がお風呂に入ってるから。濡れた髪で天井を見つめる。まだこの生活を始めて半年くらいだろうか。慣れてきたし、結依のことは相変わらず好きだ。
「結婚かぁ…」
「結婚がどうしたの?」
「うわぁ!」
結依が立っていた。何でも私の髪を乾かしたいそうだ。
「髪乾かさないで寝るのは良くないよ。私に任せて。」
そう言ってドライヤーで髪を乾かしてくれる。こういう風に気が付いてくれるところも好きだ。
「ありがとう」
「いいえ〜。はい終わりふわふわなカールになったね。じゃあ私はお風呂入ってくるね。」
「う、うん。」
「あと、結婚。してもいいよ。」
「な!何を!」
部屋の扉が閉まる。誤解されてしまっただろうか。
もちろん、結依とは一生のパートナー同士でいたい。でも世間はそれを許さない。
「あー!どうしてこんなに迷うのー!」
誰にも届かない叫び声を枕に向かって叫ぶ。答えは出ないままだろうなきっと。
「お風呂上がったよー。入浴剤変えたよね?」
「え?あぁ、うん。」
「いい香りだったよ。ありがとね。」
「…うん!」
まだまだ迷う日々は続きそうだ。
春薫る4月、私は大学に入学した。国立だけあって男の子の人数が多い。
「やっと、大学生だね!結依!」
「そうだね。なんか感慨深いなぁ。それにしても杏、目立ちすぎ。」
「え?いつもと同じ衣装だよ?」
「喋り方も変えないと。」
「あれ?知らない?今日の入学式、wonderがゲストなんだよ?」
「え!?」
「だから、このままでいいの!」
「市川行くぞ」
「チッじゃあまた後でね、結依!」
高山さんに手を引かれて、杏は控室に連れて行かれた。
(おい、あの子wonderの杏と仲良く話してたぞ?)
(ばっかお前!あの子元wonderの平塚結依だぞ!俺ファンだったんだよなぁ…!)
私は頭を抱えた。元wonderって言うのを隠して勉学に勤しみたかったのに。
「はぁ…とりあえず入学式の会場に行くかな…」
「あっ、入学式の会場そっちじゃないよ!」
「え?」
「私、杉元梨奈!よろしくね!どこの学科?」
「あ、私は…平塚結依。よろしく。文学部の日本文学文化学科だよ。」
「一緒だー!なかなか同じ学科の子と会えなくて…よろしく!あ、LINE交換しよ!」
「あ、うん。はい。」
梨奈と名乗る目の前にいる子は私が平塚結依だと名乗っても何も言わなかった。いい子だ。
「こっちだよ!」
さっきまで噂をしていた男の子2人がこっちを見ていた。私は軽く手を振った。
(お、おい!手ぇ振ったぞ!やった!)
「それにしても結依ちゃん目当ての男の子ばっかでしょ。大変だね。」
「まぁ慣れてるよ。wonder時代からそういう人たちっていたしね。」
「大人だねぇ。あ、ここだ。終わったらLINEするから一緒にご飯食べよ。じゃね!」
そう言って梨奈は自分の席に座った。私も自席に座り今日のタイムスケジュールを見る。wonderは11:30からか。
学長挨拶、来賓挨拶と来てwonderのステージが始まった。ざわつく武道館。そりゃそうか。今や売れっ子なwonderが来たわけだしね。1曲目はClose to Youだ。何でこんなマイナーな曲選んだんだろう。それでも武道館内のボルテージが上がって行く。
3曲歌ったところでMCが入る。メインMCは杏だった。
「皆さん入学おめでとうございます!wonderです!」
会場から歓声が上がる。その様子に満足気な杏。
良かったねぇ杏…とか思っていたらいきなり立たされた。
「えっ?」
「今日は私たちがゲストですが、ここで私たちの大切な仲間を。文学部日本文学文化学科の平塚結依ちゃんです!」
私にスポットライトが当たり、全員の視線が私に集中する。そこで私は理解した。
「杏め…」
会場から結依コールが流れる。私はスタスタとステージに向かい、促されるままに衣装に着替えさせられた。
「うおー!!!」
恐らくこれは杏と学長とマネージャーが仕組んだものだ。そう思いながら杏の隣に立つ。杏は笑っていたが、私は恐らく引き攣った笑いを浮かべていただろう。
「ほら、結依、自己紹介。」
「皆さんこんにちは。」
「うおー!!!!」
「ありがとうございます。元wonderの結依、今は文学部日本文学文化学科の平塚結依です。」
「うおー!!!!」
杏が曲のコールをする。
「それじゃあ4人のwonderで聞いてください!world wonder!」
ステージが終わった。私はさささっとスーツに着替えて座席に戻った。視線が痛い。
入学式後、私は梨奈を待った。サインを迫られて連絡が出来なかったのである。
「いや、私はもう芸能界引退してるので…え、サイン?一般人の私でよければしますけど…」
「あ!結依見つけた。」
助け船、梨奈の登場だ。
「ほらほら!結依はもう一般人なんだから!行くよ、結依」
「あ。うん。皆さんではまた…」
梨奈が私の手を引いて走る。人気が減ったところで、梨奈と私は走りを止めた。
「はぁはぁ…結依すごいね…これだけ走っても息上がってない…」
「中高は陸上部だったから…それよりありがとう。助けてくれて。何か奢るよ。」
「水…水で…」
水を買って梨奈に渡す。一気に飲み干した後、梨奈は続けた。
「結依が困ってる時は助けるから、私が困ってる時は結依助けてね。」
「分かった。ありがとう。」
この後は校内見学である。少し憂鬱だが、まぁ梨奈もいるしいいか…。
「うぐぐ…」
「市川行くぞ。」
「あの女私の結依に手ぇ出しやがって…」
「ほら…」
なんか負のオーラを感じるが気のせいだろう。気のせいにしたい。




