お盆なので魂について考えてみた
お盆といえば、ご先祖様が帰ってくる。
子どもの頃からそう聞かされてきたし、仏壇にお供えをしたり、お墓参りをしたりするのも、亡くなった人たちを迎えるためなのだろう。
でも、ふと思う。
人は死んだら、どこへ行くのだろう。
肉体は分かる。
息をしなくなり、心臓が止まり、最後には火葬されて、骨になる。
では、その人がその人であるための何かは?
魂、と呼ばれるものがあるのだとしたら、それは一体どこへ行くのだろう。
私は、人間は死ぬと肉体と魂に分かれるのではないかと思っている。
肉体は、この世界に残る。
そして魂は、輪廻の輪へ戻っていく。
ただ、その「戻るまで」の間、魂はどこにいるのだろう。
死んだ瞬間に、次の人生へ行くわけではないのなら。
その間、どこかにいるのだろうか。
何をしているのだろうか。
そして、こちら側にいる私たちを、見ているのだろうか。
そんなことを考えるようになったのは、去年、祖母が亡くなったからだ。
……いや。
正確には、祖母の一周忌のときに、姉から聞いた話がきっかけだった。
姉には、見えたらしい。
祖母の一周忌の席で、喪主を務めていた祖父の近くに、ぼんやりと光る塊があったという。
祖父が焼香のために移動すると、その光も移動した。
そして、お経をあげていたお坊さんの近くまで行った。
そこでチカチカと瞬いて、ふっと消えた。
もちろん、それが祖母だったのかなんて分からない。
ただの光だったのかもしれない。
姉の見間違いだったのかもしれない。
でも。もし、あれが祖母の魂だったとしたら。
私は一つ、ものすごく気になることがある。
魂。
瞬間移動できるんじゃね?
よく考えてみてほしい。
私たちは、物質界に生きている。
どこかへ行くには、自分の足で歩くか、車や電車や飛行機に乗る。
北海道へ行くにも、それなりの時間と手間がかかる。
壁があれば回り道をするし、扉が閉まっていれば開けなければならない。
なんともまあ、面倒くさい。
ところが、魂には肉体がない。
魂が物質ではないのだとしたら。
壁も、距離も、きっと関係ない。
祖父のそばにいたと思ったら、次の瞬間にはお坊さんのそばにいる。
それが本当に祖母だったのなら、祖母は一周忌の日に私たちにはできない移動をしていたことになる。
瞬間移動。
めちゃくちゃ便利じゃないか。
満員電車もない。信号待ちもない。渋滞のニュースも関係ない。
「思う」ことと「着く」ことが、同じ瞬間に起きる。
これはもう、無敵と言っていいのではないか。
人間として生きている間は、肉体という乗り物に縛られている。
魂になった瞬間、それがなくなる。
本当にそうだとしたら。
死とは、すべてを失うことではなく、肉体という制約から解放されることなのかもしれない。
そう考えると、死後の世界というものが、少しだけ違って見えてくる。
怖い場所というより、肉体を持たない者だけが行ける、自由な世界。
ただ、自由すぎるのだ。
私たちが生きているこの世界では、誰かの肩に触れれば、その人は触れられたことを感じる。
「おはよう」と言えば、声が届く。
同じ景色を見て、「綺麗だね」と言えば、その瞬間を共有できる。
けれど、魂だけになったら。
どれだけ近くにいても、こちら側の人間には届かない。
自分は確かにそこにいる。
相手のことも見えている。
なのに、相手からは見えない。
それは、ちょっと寂しい。
どこへでも行ける。
でも、誰かと同じ場所にいることはできない。
そんな世界なのかもしれない。
そう考えると、魂にとって、この世界はものすごく孤独なのかもしれない。
だから、こちら側に自分を見つけてくれる人がいたら。
そりゃあ、近づいていくんじゃないだろうか。
「やっと見つけた!」
と。
そういえば、幽霊は霊感のある人に寄ってくる、なんて話がある。
……あ。
だからか。
霊感のある人に霊が寄っていくのは。
なんてことを考えていたら、今度は別のことが気になった。
前世の記憶を持っている人が、たまにいる。
「自分は昔、こういう人間だった」
そんな話は聞く。
でも。
「死んでから次に生まれるまで、こんな場所にいました」
という話は、あまり聞かない。
前世の人生は覚えているのに、その人生と次の人生の間に何があったのかは、なぜか語られない。
不思議だ。
もちろん、私には答えなんて分からない。
そもそも、本当に死後の世界があるのかすら分からない。
ただ、輪廻という考え方について、私はこういう世界だったらいいなと思っている。
記憶は持ち越せない。
でも、智慧は残る。
ここでいう智慧というのは、単なる知識や経験のことではない。
物事をありのままに見る力。
自分の欲や思い込みに振り回されず、本当に大切なものを見抜く力。
仏教でいう「智慧」とは、そういうものらしい。
それなら、前世で得た智慧は、記憶を失っても魂のどこかに残っているのではないか。
前世で何があったのかは忘れてしまう。
誰と出会ったのか。
何を愛したのか。
何に泣いたのか。
そういう記憶は消えてしまう。
それでも、そこで得たものだけは、どこかに残っているのではないか。
人に優しくすること。
誰かを許すこと。
失敗から学ぶこと。
誰かを愛すること。
そういうものが、記憶ではなく、もっと深いところに積み重なっていく。
そして次の人生へ持っていく。
人生で起きることは、楽しいことばかりじゃない。
なんでこんな目に遭うんだと思うこともある。
それでも、それらが全部ただ消えていくのではなく、自分という存在のどこかに智慧として残っていくのだとしたら。
人生は、ただ苦労するための場所ではないのかもしれない。
魂が何かを学ぶための、長い修練の時間なのかもしれない。
そう思うと、今この瞬間も、何かを学んでいる途中なのかもしれない。
……まあ。
本人としては、できればもう少し簡単な問題を出してほしいところだけれど。
それでも。
もし魂があるのなら。
もし輪廻があるのなら。
次の人生へ向かうまでくらいは、案外、自由に過ごしているのかもしれない。
そんな世界だったら。
私は、けっこう好きだ。
将来、私が死んで魂だけになったら。
生きている間にはできなかったことを、思いっきりやってみたい。
たとえば、お化け屋敷。
お化けになったのだから、本物のお化けとしてこっそりお化け役の列に混ざってみたい。
お客さんが、
「うわあああ!」
と叫んだところで、
「いや、今の私、本物なんだけどね」
と心の中で笑っていたい。
それから、証明写真にも写り込んでみたい。
証明写真を撮っている人の後ろを高速でぐるぐる回って、一人チューチュートレインとして写り込みたい。
あるいは、一人千手観音。
「なんか後ろに腕がいっぱいあるんだけど」
と言わせたい。
最高じゃないか。
推しのアイドルのライブにも行きたい。
最前列を陣取りたい。
肉体がないのだから、座席なんて関係ない。
誰にも邪魔されず、ステージの目の前で推しを眺める。
なんならステージ上まで飛んでいける。
……いや、それはさすがに邪魔か。
そして、子孫の夢枕にも立ってみたい。
「おばあちゃん……?」
『そうよ』
「何か伝えたいことがあるの?」
『かまぼこを食べなさい』
「……は?」
『かまぼこを食べなさい』
「なぜ?」
『なんとなく』
「おばあちゃん、それだけ?」
『それだけ』
そういう、どうでもいいことを無駄に伝えたい。
せっかく死後の世界からこちら側へ干渉できるのなら、もっと大事なことを伝えろと言われそうだけれど。
私は、そういうくだらないことをしてみたい。
生きている間にできなかったこと。
生きている間には行けなかった場所。
生きている人には見えないからこそできること。
そういうものを、片っ端からやってみたい。
そして、たまには大切な人のところへ戻る。
何も言わずに、ただそばにいる。
もしかしたら、それだけで十分なのかもしれない。
死んだ人たちは、どこへ行くのだろう。
魂はどこにあるのだろう。
答えは、死んでみなければ分からない。
だから今は、想像するしかない。
そして。
もし本当に死んだあと、魂になれるのだとしたら。
死後の世界、案外やることいっぱいあるじゃん。
めっちゃ楽しそうじゃね?
そういう愉快な幽霊に、私はなりたい。




