第47話 遅すぎた英雄と、最後の微笑み
廃教会へと続く路地を歩きながら、俺は懐の硝子細工にそっと触れた。
夕日が長く影を伸ばす時間帯だ。あいつはまだ、一人で祭壇の前で祈っているのだろうか。
「俺ほどの神々しさを前にすれば、この髪飾りもただの石ころに霞むだろうが……まあ、日頃の信心に対するご褒美だ。ありがたく受け取るがいい」
そんな独り言を呟きながら、俺は廃教会の朽ちた扉を押し開けた。
「おい、ルナリア。俺が直々に来てやったぞ――」
言葉は、途中で凍りついた。
鼻を突く、むせ返るような鉄錆の匂い。
ステンドグラスの抜け落ちた窓から差し込む赤い夕光が、床に広がる『それ』を、残酷なほど鮮明に照らし出していた。
血だ。
祭壇の前。夥しい量の血溜まりの中心で、白い貫頭衣を真っ赤に染めた少女が倒れていた。
「……ルナ、リア……?」
俺の足は、まるで鉛になったかのように重かった。
夢だ。これは夢に違いない。俺が治める予定の国で、俺の信者が、こんな凄惨な目に遭うはずがない。
だが、歩み寄るごとに鮮明になる現実は、俺の逃避を許さなかった。
ありえない方向に折れ曲がった手足。砕けた肋骨。
そして、胸の中心を深く抉った、致命的な傷。
「ルナリアッ!!」
俺は血だまりの中に膝をつき、彼女の小さな体を抱き起こした。
軽い。羽のように軽い。そして、恐ろしいほどに冷たかった。
「おい、目を覚ませ! 俺の聖水でどんな呪いだって解いてやるから……!」
俺は震える手で鞄を漁った。だが、そんなもので治るような状態ではないことくらい、俺の目にも痛いほど分かっていた。
「……あ……、神……さま……?」
微かな、本当に風のような声がした。
ルナリアの瑠璃色の瞳が、薄く開かれる。その瞳の焦点は既に合っていなかったが、俺の顔を捉えると、彼女は花が綻ぶような、優しい微笑みを浮かべた。
「きて、くださったの……ですね……」
「喋るな! 今、レツやアリュールを呼んでくる! お前は俺の特別な信者だろうが! こんなところで死ぬことなど許可せん!」
俺は必死に声を張り上げた。いつもの余裕に満ちたハッタリは、完全にひび割れていた。
「だめ、です……。ユウ様……ちか、地下に……黒い、きかいが……」
ルナリアは口から血の泡を吹きながら、必死に言葉を紡いだ。
「悪い人たちが……お祭りの日に、街を……血の海に……。ユウ様を、殺すって……」
「……っ」
俺は息を呑んだ。
こいつは、自分の命が消えかかっているというのに。自分の痛みや、殺された恐怖よりも先に、俺の身の危険を伝えようとしているのか。
俺が「明日でいい」と慢心して後回しにした地下へ、この小さな体で、たった一人で向かったというのか。
「分かった……! よくやった、お前は本当に優秀な俺の巫女だ! あとは俺に任せろ、俺が全部ぶっ潰してやる! だから……!」
俺の声は、嗚咽に震えていた。
「よかった……」
ルナリアは、心の底から安堵したように息を吐いた。
彼女の右腕には、泥と血にまみれながらも、決して手放さなかった銀色のリボンが固く結ばれていた。
「神様……。私、やくに……たてました、か……?」
「ああ……立派だ。世界で一番、立派だ」
「ユウ、さまの……せかいが……どうか、平和で……」
彼女は、そっと目を閉じた。
俺の腕の中で、その小さな体がふっと脱力する。
そして、彼女の胸の鼓動は、二度と動くことはなかった。
「……ルナ、リア?」
俺の呼びかけに、答える声はない。
ただ、夕暮れの冷たい風が、廃教会を吹き抜けていくだけだった。
その瞬間。
ドクンッ!! と、俺の頭が割れるような痛みに襲われた。
――赤い閃光。
――燃え盛る炎。崩れゆく街。
――『お前は、何も悪くない』と微笑む、温かい手。
――そして、俺の目の前で消えていく、大切な人たち。
『俺のせいで』
フラッシュバックが、俺の脳を激しく掻き乱す。
「あ……あああ……」
俺の喉から、声にならない乾いた音が漏れる。
懐から滑り落ちた硝子細工の髪飾りが、血の海に落ちて、パチンと虚しい音を立てた。
俺は、冷たくなった少女の亡骸を抱きしめたまま、その場に凍りついた。




