第44話 狂獣の凶刃、絶望の鬼ごっこ
「がっ、あ……っ……!」
太い丸太のようなジンの腕が、ルナリアの細い首を締め上げる。
足が完全に宙に浮き、気道が塞がれる。酸素が遮断され、視界の端がチカチカと白く明滅し始めた。
「スラムのガキか? それともあの優のネズミか? まあいい、どっちみちここで死体になってもらうんだからなぁ!」
ジンが残虐な笑みを浮かべ、ルナリアの顔を自分に近づける。その口からは、血と獣のような生臭い息が吐き出された。
(だめ……ここで、死ぬわけには……っ!)
ルナリアの脳裏に、あの夕日の下で自分にタルトをくれた、尊く優しい神様の顔が浮かぶ。
彼らが、ユウ様を殺そうとしている。建国祭を血の海にしようとしている。
私しか知らない。私が伝えなければ、あの優しい神様が死んでしまう!
その絶対的な使命感が、死に瀕した少女の体に、火事場の馬鹿力を引き起こした。
ルナリアは宙でもがく両脚を振り上げ、ジンの顔面めがけて、泥だらけの古い靴を思い切り蹴りつけた。
「おぶっ!?」
泥と小石がジンの目と鼻に入り、男が咄嗟に顔を背ける。
首の拘束がほんのわずかに緩んだその一瞬を、スラムで生き抜いてきた少女は見逃さなかった。
ルナリアはジンの太い親指の付け根に、獣のように思い切り噛み付いた。血の味が口に広がる。
「痛ってぇ!? このクソガキッ!!」
ジンが怒声と共に手を振り払う。
ルナリアはその遠心力を利用して地面に転がり落ちると、息を吹き返す暇も惜しんで、暗い通路の奥へと弾かれたように駆け出した。
「遊んでいる暇はないぞ、ジン。早く始末しろ」
カイの冷ややかな声が背後から響く。
「チッ、分かってルよ! だが、活きがいいネズミじゃねえか。……5分だ。5分で四肢をもいで、ミンチにしてやるよォ!」
ドスゥゥンッ!
背後で、巨大な岩が砕けるような足音が響いた。
ジンが、超人的な脚力で追ってきたのだ。
(逃げる……! 逃げなきゃ……!)
ルナリアは肺が破けそうになるのを堪え、漆黒の地下水道をひたすらに走った。
大人の男、それも化け物のような力を持つジンに、真っ直ぐ走って逃げ切れるはずがない。
ルナリアはわざと足音を大きく立てて一つの通路を曲がると、すぐさまその横にあった、鉄格子の外れた『小さな排水管』の中へと滑り込んだ。
大人では絶対に肩がつっかえる、子供だけの秘密の抜け道だ。
「どこだぁ!? 出てこいよ子猫ちゃん!」
直後、ジンが角を曲がってくる。
ドンッ!! という轟音と共に、ルナリアの隠れている排水管のすぐ横のレンガ壁が、ジンの拳によって紙屑のように粉砕された。
パラパラと崩れ落ちる瓦礫。ルナリアは口を両手で塞ぎ、息を止める。
「……チッ、ちょこまかと」
ジンが舌打ちをし、別の通路へと走り去っていく音が聞こえた。
(今だ……!)
ルナリアは排水管を這いずり抜け、別の区画へと出た。
だが、安堵する暇はない。ジンの超覚覚を誤魔化すには、これだけでは不十分だ。
彼女は躊躇うことなく、足元のドブ水の中に身を沈めた。そして、底に溜まっていた強烈な悪臭を放つヘドロをすくい上げ、自分の美しい銀髪や、顔、そして白い服に、べっとりと塗りたくった。
吐き気で涙が滲む。
だが、これで生きのびて、神様に危険を知らせることができるなら、泥にまみれることなど少しも怖くなかった。
彼女は腕に巻いた銀色のリボンだけは汚れないように庇いながら、音を立てないすり足で、迷路のような地下水道を上層へと向かって進んでいく。
追っ手の気配はない。
スラムの子供しか知らない隠し通路を幾つも通り抜け、彼女は確実に地上へと近づいていた。
(……見えた!)
長い、長い暗闇の果て。
緩やかな石の階段の上に、微かな夕光が漏れ出す『鉄の扉』が見えた。
あそこを出れば、廃教会の裏庭だ。そこから大通りへ出れば、さすがのジンも手は出せない。城へ向かい、ユウ様に知らせることができる!
「はぁっ……! はぁっ……!」
ルナリアの顔に、希望の光が差した。
足の震えも忘れ、彼女は最後の力を振り絞って石の階段を駆け上がる。
あと十段。
あと五段。
あと一段――!
彼女が、光の漏れる鉄の扉に手をかけようとした、その瞬間だった。
「――どこ行くんだよ、ネズミちゃん」
頭上から。
楽しそうな、ひどく冷酷な男の声が降ってきた。
「え……?」
光の差し込む扉の前に、ありえないはずの巨体が、悠然と立ち塞がっていた。
地上へと通じる別の抜け穴から先回りしていたジンが、牙を剥き出しにして嗤っていたのだ。
「お前、いい匂い(ヘドロ)させてんなぁ? スラムのガキの浅知恵にしちゃ上出来だぜ。……だがな、狩り(ゲーム)はこれで終わりだ」
絶望の影が、ルナリアの小さな体を完全に覆い尽くした。




