第9話 消えゆく影②
翌日、アルベルトはエヴァンス伯爵家の近辺で張り込みのような行動をとった。もちろん、あからさまに監視すれば伯爵家の体面を損ねる可能性があるため、あくまで人目につかぬ形で情報を集める。時折、かつてリリアーナの侍女であった者が足早に屋敷から出てくるが、声をかける暇もなく目的地へ駆け込んでしまう。
「もっと、有力な手がかりがほしい……」
そう思い、アルベルトはかねてよりリリアーナに仕えていた使用人の男性を見つけ出した。屋敷の裏手でこっそり話しかけると、はじめは警戒していたものの、アルベルトの真摯な態度にほだされ、小さな声で教えてくれる。
「実は、お嬢様は昔、こっそりと貧民街に足を運んでいたことがあるんです。誰にも内緒で、そこにいる子どもたちにこっそり支援を……。それを見た侍女が、お嬢様の優しさを噂していたら、お嬢様は激しく叱ったそうです。『余計なことを言わないで』と」
アルベルトは思わず息をのむ。リリアーナが公には傲慢な言動ばかりを繰り返す陰で、人知れず困窮する子どもたちを助けていた――なんとも彼女らしい優しさの行動だと思えた。貴族らしくないと周囲から非難される可能性があっても、彼女はこっそりと寄付や世話を続けていたのだ。
「最近は体調がよくないようですから、そんな外出は無理だろうと、僕らも思っていたんです。でも……もしかするとまた、そこへ行かれたのかもしれません」
「ありがとう。とても参考になった。もし何か新しい情報が入ったら、教えていただけませんか」
アルベルトは礼を述べ、そっと金貨を握らせる。雑用係は恐縮しながらも受け取り、力強くうなずいて立ち去っていった。
リリアーナが自ら婚約破棄を申し出たこともあって、伯爵家の名誉を守るため、いまや屋敷の内外にはあまり人通りがない。しかし、リリアーナの優しさに気づいている者も少なからずいる。彼女の行動をひそかに知っている人々は皆、それをあえて口にしない。その理由も分かる。もし事実が知れ渡れば、彼女が隠そうとしている本性――優しい心――が表に出てしまうからだ。
「リリアーナは、本当に……隠し通したいんだな」
痛いほどに胸が締めつけられる。アルベルトが彼女の言動を理解し始めるほど、彼女の孤独と悲壮が鮮明になっていく。余命の少ない身で、誰からも惜しまれないようにと振る舞っている彼女が、弱った体で貧民街を訪れるというのは、まさに自殺行為に近い。
結局その日、リリアーナは屋敷から姿を見せなかった。張り込みを続けても埒があかず、日が暮れるころ、アルベルトはひとまず引き返すことにした。帰路の馬車の中でも、彼の頭からはリリアーナのことが離れない。
「今度こそ、ちゃんと話をしよう。どこへ逃げても探し出して、彼女の思いを聞くんだ」
体力的にも時間的にも限界が迫るなか、リリアーナは一体なにを思い、どこへ向かおうとしているのか。それを知るために、アルベルトはあらゆる協力を取り付ける決意を固める。クレイグ医師や、侍女の一部はすでに味方になりつつある。彼女が再びひっそりと屋敷を抜け出せば、きっと報せが届くはず――そう考えるしかない。
その次の日も、アルベルトは早朝から伯爵家の侍女の一人と落ち合った。クレイグ医師が手回しをしてくれたらしく、リリアーナの動向を知らせようという意図である。侍女はおどおどしながらも、「お嬢様の体調が悪化しており、ほとんど部屋から出てこない」と教えてくれた。
「でも、いまお嬢様はご自分の部屋を離れてしまっています。夜明け前に、どこかへ出られたようで……」
「それはどこへ? ご両親はご存じないのですか」
「はい。伯爵様も夫人も動揺されていますが、いつものように『大事にするな』とのお嬢様のお達しがあるとかで……。私も詳しくは分かりません」
リリアーナの姿が屋敷にないという事実に、アルベルトは一気に血の気が引いた。夜明け前から外出するほどの体力が、果たして彼女に残されているのか。もしかすると、どこかで倒れているかもしれない。そんな考えが頭をよぎると、いてもたってもいられなくなった。
「わかりました。ありがとうございます。とにかく僕が探してみます。もし何か情報があれば、すぐに知らせてください」
そう言い残し、アルベルトは馬に鞭を入れるかのように足早に立ち去る。方針は決まっているわけではないが、まずは貧民街や彼女がかつて訪れたという場所を丹念に当たるしかない。そして、同じ思いでリリアーナを探す者たちもいるはずだ。クレイグ医師や侍女たち、さらには伯爵家の人間も、誰もが不安な表情で彼女の行方を気にしている。
「見つけなければ……どんな形でもいい。せめて今の彼女が何を思い、どこへ行こうとしているのか、確かめたい」
心臓が高鳴る。彼女が二度と戻ってこないなどという最悪の事態が頭をかすめるが、それを必死に振り払うように、アルベルトは意気込んで人通りの多い道を駆け出した。悲痛な覚悟を胸に秘めたリリアーナが、果たしてどんな決断をしているのか。彼女が生きる道を一緒に模索するためには、どうしても再会しなくてはならないのだ。
だが、広い王都を一から探すことは容易でない。特に貧民街は入り組んでおり、初めて足を踏み入れる者を拒むかのような雑踏がある。アルベルトは途中でクレイグ医師や侍女の一人と合流し、手分けして情報を集める。人々は「見知らぬ上品そうな女性を見かけていないか」と問われれば怪訝そうな顔をするが、中には「ああ、そういえば先日、痩せこけた女がひどく咳き込みながら子どもを助けていた」という噂を話す者もいた。
「それはいつの話だ!」
アルベルトが身を乗り出すと、相手は数日前のことだと答える。すでにリリアーナが訪れていた形跡はあるが、今日のことではないらしい。さらに奥へ進むも、彼女の姿はない。クレイグ医師が息を切らしながら追いついてきて、肩を落とす。
「お嬢様は……やはり、ここに来てはいないのかもしれません。もしくは、もっと奥まった地域へ入り込んだ可能性もありますが、これ以上は危険すぎる。今は一旦引き返して別の場所を捜すべきかもしれません」
アルベルトは苦悔に唇を噛むが、医師の言う通りかもしれない。無闇に探し回るより、別の手段で手がかりをつかめる可能性もある。あるいは屋敷に戻っているかもしれない。希望は捨てきれない。
夕刻にさしかかり、あてもなく探し続けたアルベルトは、一度伯爵家へ帰ってみることにした。もしリリアーナが戻っているなら、今度こそ面会を拒まれようとも強引にでも会いに行く。そう覚悟を決めて屋敷の門を叩くが、侍女たちは落ち着かない様子で戸を開ける。
「お嬢様は……まだお戻りになっておりません。伯爵様と夫人も探していらっしゃいますが、何の手がかりも見つからないのです」
アルベルトの胸中は焦りと恐れで満ちる。もし彼女が倒れていたら。誰も知らないうちに、もう二度と目を開かぬまま……。想像するだけで頭が真っ白になる。だが、ここで怯んではならない。かき乱される心を必死に鎮め、もう一度気を奮い立たせる。
「分かりました。僕も引き続き捜します。もし……もしも戻られたら、すぐに知らせてください。何があっても、僕が駆けつけます」
侍女は不安げにうなずき、すぐに扉を閉めた。エヴァンス伯爵家の中は大きな混乱に包まれているのだろう。屋敷の窓から灯る光はどこか落ち着かず、遠目にも騒然としているのが分かった。アルベルトは胸を締めつけられる思いで通りに戻り、夜の街を見渡す。
「リリアーナ……どこにいるんだ。もう、こんな体に鞭打って動ける限界を超えているはずだろう」
暗い街路灯が並ぶ道を、馬車が通り過ぎていく。まばらに行き交う人々の会話も、聞き耳を立ててみても、リリアーナらしき女性を見たという声はない。こんなにも捜して見つからないということは、どこか人目につかない場所で倒れているか、あるいはよほど都合のいい隠れ家を知っているのか。どちらにせよ、手掛かりがなさすぎる。
「くそ……」
アルベルトは拳を握りしめ、必死に冷静さを保とうとする。今、焦っても何の解決にもならない。大切なのは、少しでも多くの協力を得て情報を集めることだ。もしリリアーナが望んでいるのが孤独な最期だとしても、絶対に一人では行かせない――その誓いだけが、彼を奮い立たせている。
そうして夜が深まるにつれ、捜索はいったん打ち切らざるを得なくなった。周囲の視線や治安も考慮し、アルベルトは心ならずも公爵家へ戻る。失意と疲労で身体が重く、ベッドに倒れこみそうになるが、翌朝にはまた捜索を続けるつもりでいる。
「一人で闇に紛れて消えようなんて、許さない。僕は、君を見つけ出してみせる」
暗闇の中でそう呟きながら、アルベルトは歯を食いしばる。リリアーナがどこかで小さく身を縮めている姿を想像すると、痛みが胸を貫いてやまない。外の世界を拒絶しながら、それでも優しさを捨てきれない彼女が、今いったい何を思っているのか。もし会えたなら、今度こそ逃がしはしない。
だが、この夜、リリアーナがどこにいるのかを知る者は誰もいなかった。翌朝以降も、アルベルトは王都のあらゆる場所を探し歩くことになるだろう。まだ具体的な糸口が見えぬまま、ただ「どこかにいるはずの彼女を見つけたい」という一念で行動を起こす。痛ましいほどの葛藤を抱えながら、それでも彼が足を止める理由はない。
こうしてリリアーナは、伯爵家からも、公の場からも姿を隠し、アルベルトを含む周囲の人々に深い焦燥を与えたまま、孤独な道を歩んでいる。しかし、アルベルトは諦めることなく、彼女を探し出そうと決意を新たにするのだった。彼女の本当の願いを知ってしまった以上、もう見過ごすことなどできない。月明かりだけが照らす静かな夜を、彼の熱い思いだけが切り裂いていた。




