第7話 偶然知る病の真相①
決定的な衝突を経て、リリアーナと事実上の決別状態に陥ったアルベルトは、王都に戻ったあとも心の整理がつかずにいた。婚約を破棄してほしいとまで言われ、あれほど冷酷な態度を見せつけられた以上、自分には何もできないと思う半面、どうしても割り切れない思いが胸を占める。彼女が見せた冷たさが、すべて本心だと信じきれないのだ。
アルベルトは日増しに沈んだ様子になり、周囲の者たちを心配させていた。公爵家の従者や侍女は何とか励まそうと声をかけるが、彼は「考えごとがあるから」とそっけなく断る。父である公爵も息子の変貌ぶりに胸を痛めながら、婚約解消を見据えた話を伯爵家と進めるべきか、逡巡を続けている。しかし、アルベルトが「もう少し様子を見たい」と主張するため、当面は静観する形になっていた。
そんなある日のこと、アルベルトは公の用事で王宮の医務室を訪ねる機会を得る。公爵家の土地管理にまつわる事務的な協議に同席した帰り道、王宮内の医務室をかすめて通らなくてはならなかったのだ。医務室は大きな治療施設こそ備えていないものの、内勤の医師や看護にあたる者たちが控えており、貴族や騎士などが急に体調を崩した際に駆け込む場所でもあった。
廊下を歩いていると、ふと見覚えのある人影が目に飛び込んできた。枯れ草色の髪を丁寧になでつけ、小さなカバンを提げている。その人物は、リリアーナの主治医だと聞いたことのあるクレイグ・ハーヴェイではないか。アルベルトは今まで直接言葉を交わしたことはないが、彼が伯爵家に出入りしているらしいという話は耳にしていた。
「何をしているんだろう……」
そう思い、そっと視線を送ると、クレイグは医務室の扉を開け、慌ただしげに中へ入っていった。少し遅れてもう一人、アルベルトにも見覚えのある女性が同じ扉をくぐる。リリアーナの母、エヴァンス伯爵夫人だ。どうやら医務室で二人が密かに会う約束をしていたらしい。
まさかここで伯爵夫人を見かけるとは思わず、アルベルトはその場に足を止めた。考える間もなく、気づけば彼の身体は扉に近づいている。無論、立ち聞きをするつもりなどないが、自分も医務室を通り抜けるルートを通らなければならない。角を曲がれば別の渡り廊下に出られるが、どうにも彼の好奇心と焦燥感が足を止めさせなかった。
やがて、医務室の扉の奥からこもった声が聞こえてくる。鍵はかかっていないようだが、さすがに勝手に開けるわけにもいかない。アルベルトは戸惑いながらも、つい扉の隙間に耳を寄せてしまった。ごく小さな声だが、確かにクレイグと伯爵夫人が何か重要な話をしているらしい。
「……お嬢様の症状ですが……以前から申し上げていたように、かなり進行が早い可能性があります」
「そんな……少しでも良くなる手立てはないのですか?」
伯爵夫人のか細い声に、クレイグは申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
「正直なところ、劇的な改善は望めません。余命も……一年、もしくはそれより短いかもしれません。疲労やストレスが重なれば、さらに悪化するでしょう」
アルベルトの胸が、一瞬にして凍りつく。今、クレイグは「余命」と口にしたか。リリアーナの病は、そこまで深刻な段階にあるというのか。まったく知らなかった。彼女が病弱だという噂は耳にしたことがあるが、それが今まさに命を脅かすほどのものだとは、想像すらしていなかった。
「どうして……どうして娘は何も言ってくれないの……」
伯爵夫人がすすり泣くような声を漏らす。クレイグは言いづらそうに言葉を繋いだ。
「お嬢様は昔から、人に弱みを見せたがりませんでした。ご自身が早世する可能性が高いと悟ってからは、周囲に悲しみを与えたくないというお気持ちが強くなっているのでしょう。私も度々、適度に休むように申し上げてはいるのですが、あえて無茶をして社交の場に出るなど……」
「リリアーナ……あの子は、誰にも悲しまれずに消えたいと……あんなにも無茶をして……」
聞いてはいけない話だ。そう分かっていながらも、アルベルトは扉の向こうの声に意識を奪われる。体が硬直して、動くことができない。リリアーナがわざと冷酷に振る舞っていた理由は、これなのか。自分の命が長くないと知りながら、他者に愛されることを拒もうとしていたのか。
「もし彼女が本当の病状を隠すためにあんな態度を取っているのなら……」
アルベルトの頭の中で、激しい衝撃が走る。自分を遠ざけた言葉の一つ一つが、死を覚悟したうえでの行動だったのかもしれない。契約だとか、政略だとか。そんな次元の問題ではなく、リリアーナ自身が誰も近づけないようにしている。それも、みんなが彼女の死に心を乱さないために。
伯爵夫人は涙声でクレイグに詰め寄る。
「それでも、あの子の態度はあまりにも……。周囲の評判がどうなってしまうか、あの子だって分かっているはず。それでも、あんなに……」
「おそらく、お嬢様ご自身も限界を感じているのでしょう。最後まで誰にも情を持たれず去れば、誰も悲しまない――そう思い込んでいる節があります。私も、せめて静養を勧めるのですが……」
その言葉を聞いた瞬間、アルベルトの心の奥がぐわりと揺さぶられ、倒れ込みそうになる。思い返せば、彼女は確かにいつも冷静に見えたが、どこか痛ましげな部分を隠していた。婚約を破棄してほしいとまで言ったのも、自分が死ぬ未来を見据えての、彼女なりの優しさだったのか。
彼の胸には怒りや悲しみ、そして激しい後悔が渦巻く。あのとき、なぜ気づいてやれなかったのだろう。なぜ自分が単に嫌われただけだと決めつけてしまったのか。彼女のあの絶望的な態度を、ただの高慢だと片付けようとしていた自分が、今さらながら憎らしい。
「……病……余命……。そんな、そんなことがあるはず……」
声にならぬ声を漏らしながら、アルベルトは震える手を口元に当てる。リリアーナの冷たい瞳が頭に浮かんでは消え、侍女を叱りつける彼女の姿や、自分に向けた辛辣な言葉が、すべて偽りの壁だったのではないかと思い至る。心を遠ざけるため、そして自分を含む周囲が悲しまないようにするため。
「リリアーナ、なんで……」
目頭が熱くなるのをこらえながら、アルベルトは必死に足を踏みとどめる。息が苦しい。扉の向こうではまだクレイグと伯爵夫人の会話が続いているようだが、もうこれ以上聞き続けるのは耐えがたい。アルベルトは肩で息をしながら、その場を離れようと一歩後ずさった。




