③哲学を考える
私の叔父は哲学者であった。
既に他界しており、もう彼の口から話を聞くことはできないが、哲学者であったのだ。
宗教家の父を持ち、古い日本の風習を守る母に育てられた、田舎の男。
それが叔父である。
即ち、私の祖父は宗教家である。
生憎母は古い日本の風習などは、自分の都合の良いところだけを拝借するような人間なので、祖母のような献身さも、母性の欠片もないのが残念ではあるが。
私は折に触れ、人生の意味を考えてきた。
まあ、幼少期から考えることしかできなかったから、最高の趣味であったと言えよう。
だが考えるというのは「答え」が伴わない場合、かなり複雑な状況を迎える。
叔父もそうであったように、私も人生について考えた時、出口のない迷路に入り込むことになる。
叔父と私の違いは、考え続けたか考え続けるのを諦めたかでしかない。
諦めたかったわけではなかろうと思う。
だが、諦めざるを得なかったのだろう。
田舎の町に暮らし、働きもせず、仮に働いても長続きもしない。
そんな状況におかれ、考え続けるというのは至難の業である。
私はいい加減な人間なので、働くことをおろそかにして考え続けている。
どちらが良いのか。未だに答えは出ないが。
まず人間は合理的であるべきだと思う。
その理由を説明する。
非合理は時に無駄な消費や争いを生む。
競争や戦争はその最たるものである。
別に競うことが悪いわけではない。
己に挑戦し、他者よりも優れたことを誇るというのは立派なことであろうと思う。
私だって、なけなしの小遣いを使い、わずかな課金をしながらスマホゲームをして、全世界を相手に上位に食い込めば、誇らしい気持ちになる。
そして、次のカードの請求の時に、青ざめることになるが、それはまた別の話だ。
一方、戦争というのはどうだろうか。
これは非常に難しい。
戦争に至るには様々な事由があるのだろう。
古くは食料や資源の奪い合い。
また時代が進めば宗教の違いによる争い。
昨今では自分たちが攻め込まれる前に攻め込むという何とも摩訶不思議な理由で戦争をしている国もある。
だが、多くは人命を犠牲にし、多くの人々に悲しみを植え付け、終戦という区切りを迎える。
そこに何の意味があるのだろうか。
人命は失われ続け、失った命は二度と戻らない。
命を奪うか、奪われるか。
それが戦争なのではないだろうか。
争いというのは究極のところ、好きか嫌いかであり、奪うか奪われるかという結果しか得られない。
戦争をした結果、相手を好きになることは少ないだろう。
失ったものは二度と戻らないことが多いだろう。
スポーツの世界では「ノーサイドの精神」というのもあるようだが、本当にそうなのだろうか?
キックオフ?の笛と共に相手を粉砕せんとまた闘志を燃やすのではないのか?
そこに憎しみもラフプレーも存在しないのか?
ローマ時代のコロッセオ。
そこは命の駆け引きの場であり、社交場でもあり、賭けの対象の場でもあったのではないのか。
そう、新たな存在がそこには出現する。
観客という存在だ。
戦争においては調停者にもなり得る。
また、一方では朝鮮戦争の時のような「特需」も生み出すことがある。
先に述べた「賭け」という直接的な行為をしなくとも、勝者側へ肩入れすることで戦後の立ち位置を優位に置くこともできるだろう。
または、我関せずと傍観を決め込むこともできるだろう。
戦争を止めようとして、戦争に参加するというケースもあるかも知れないが、それでは本末転倒であり、本当に戦争を止めるための参加なの?と、問いたくなることもあろう。
何故人は争い、奪い合うのか。
弱肉強食?
戦争は生きるために必要な行為なのか?
よく聞くのは、戦争の結果、科学や文明が進んだというものがある。
だからどうした?
文明が進んだことで、人々は平和を享受し、飢えはなくなったのだろうか?
さて、仮定の話をしよう。
もし、今日本が戦争に巻き込まれ、私の家族が戦争の犠牲になるとした場合、私は戦争に加担するだろう。
今の電脳戦の場において、こんな年寄りが活躍することはないが、爆弾の一つでも抱いて、相手の兵を一人でも減らすために突っ込むかも知れない。
私は別に特段愛国心が強いわけでもなければ、誰かのために犠牲になりたいなどという気持ちはない。
だが、もし私の家族が犠牲になるのなら、私の命はいくらでも奉げよう。
無駄であることはわかっているし、非合理的な考えだとは理解していてもだ。
先の話も、この戦争の話もすべて私が体験したことでも、実際に起こっていることではない。
あくまでも可能性の話であるし、私の頭の中の出来事であるから、あなたから見ればくだらない話なのだと思う。
そうなのだ。
戦争も相手の考えがわからないがために、くだらない話なのだ。
人間は実にくだらないことのために生きているのだ。
相手の本当の気持ちなど理解できない。
理解している風を装っている。
まずはそこを改めるべきだと思う。
相手を知らないからこそ、それを理解して、相容れないものなら無理やり融合させるのではなく、距離を置けばいい。
「俺はお前の気持ちがよくわかる」
そんなはずはない。
私の気持ちなどわからないから、平気でそんなことを口にできるのだ。
相互理解?
ジェンダー平等?
マイノリティーへの社会参加?
ここは大変荒れるところであると思う。
だが、私の意見に他者がどうこう言おうが、私に何の影響もない。
私の心を他者は知り得ないからである。
私は別にそれらを否定するつもりは一切ない。
だからと言って、それを容認しているとも限らない。
それらの意見を述べるのも、声を大にして叫ぶのも良いだろう。
それはその人の意見なのだから。
だが、それを他人に押し付ける時点で終了なのである。
もうそれは意見ではなく、強制であり、矯正なのだ。
自分の意見に従え、もし、自分がその対象ならば、自分を優先しろとしか聞こえない。
自分の優先を勝ち取るための、戦争になってしまう。
そうではないはずだ。
様々な意見があっていいはずなのに、それらの意見をいうことは「多様性に反している」という。
実におかしな論法である。
私は私である以上、私が考える通りに判断し、行動する。
それを止める権利は、私以外にはないはずだ。
叔父は考えることをやめた。
だが、私は今も考え続けている。
私が自分を見失うことなく、自分でいられるために。
今日も怒るのである。




