「静寂の隣人」
世界で一番静かな部屋で、私は他人の命が消える瞬間を待っている。
鼻腔をかすかにくすぐる、消毒液の匂い。窓の外の喧騒とは無縁の、この閉ざされた空間だけが、彼女にとっての最後の世界だ。
「グォー・ガー、グォー・ガー……」
ベッドから聞こえてくるのは、命の残響だ。不規則だが、確かに響くその呼吸音は、彼女がこの世に留まっているという何よりの証拠だ。
虚空を見つめたままの瞳と、ぽかんと開いた口。その傍らで、私は椅子に深く腰を下ろし、彼女の少しだけ冷たくなりかけた手を握り締める。ただひたすらに、胸の微かな上下を見つめていた。
私たち二人の関係は……赤の他人だ。
私は「看取り屋」。仕事や家族の事情で、愛する人の最期に間に合わない人たちに代わり、その時までを共にするのが私の仕事だ。
道徳的に賛否があるのは知っている。だが、誰にも看取られず一人で旅立つことを恐れる人がいる以上、このニーズは消えない。私はただ、その寂しさを少しでも埋めるためにこの道を選んだ。
「辛くないのか?」
そう聞かれることは多い。でも、私はこう答えることにしている。
私がその場にいることで、誰かが安心して旅立てるなら、それはとても尊い仕事ではないか、と。
ふと、彼女の瞳がゆっくりと上を向き、焦点がずれていく。
それと同時に、呼吸の音が細くなっていく。最後の一呼吸を大きく吸い込み、やがて胸の上下がぴたりと止まった。
――ああ、旅立たれた。
私は静かに立ち上がり、彼女の枕元へ歩み寄る。
そして、冷たくなり始めた額に手を添え、小さく一礼する。
「今日まで、この世界に生まれてくれてありがとうございました」
これが、私のルーティンだ。彼女が確かにこの世界を駆け抜けたことへの、私なりの敬意。
すぐに施設のスタッフへ声をかけ、依頼主であるご家族に連絡を入れる。そこまでが私の仕事だ。
家族が到着するまでの間、再び部屋に戻り、彼女と二人きりで静かな時間を過ごす。やがて家族が駆けつけ、部屋が彼らの声で満たされた時、私はそっとその場を去るのだ。
誰からも感謝されることはない。けれど、誰かにとっての「最期の安心」を守り抜けたという確信だけを抱えて。
それが、私の仕事だ。




