カーティス5
騙された、裏切られた。
お門違いの憎しみを大事な兄上に抱き、どうしようもない怒りを手紙に込め、何度も母にぶつけた。
怒りに任せたその手紙は、文字も乱雑で、母を気遣うような言葉を一言も入れることもなく、汚い言葉を書き綴っただけのもの。
今思うと、母はそれをどんな思いで毎回読んでいたのだろう。
あれほど大事に愛情持って育てたわたしが、兄を軽蔑し呪う言葉を書きなぐり送り付けてくる。
毎晩兄の名を呼び『愛している』と呟いていた母は、いったいどんな思いで・・・。
それを思うと、何も見えていなかった未熟な自分に後悔の念しか浮かんで来ない・・・。
一目で心奪われ『特別だ』と思った人は、クロス公爵令息ではなく怠け者の兄だった。
その事実はわたしの心をあっという間に憎しみに染めた。
今までのような漠然としたものじゃない。もっと苛烈で、心が軋むほどの憎しみ。
そんなドロドロとした感情を抱えつつも、わたしはそれまでと同じように『兄』の元へと足を運んだ。
けれど今までと同じようにその存在に惹かれたからじゃない。
むしろ逆だ。
あの『兄』がいかに愚かで、怠け者で、弱虫なのか。
それを一番近くで観察し、母に教えてやろうと思ったのだ。そうすれば母も兄の存在を忘れ、苦しむことはなくなるだろうと。
愚かで浅はかなわたしは、粗を探すために兄上の側にいることに決めた。
そうしてあの事件が起こった。
『兄』の側に身を隠し、粗を探しつづける。
その日も、今までと同じように『兄』は茂みの中に隠れていて。すべてを放棄してただ無意味に時間を浪費していた。
わたしだったらそんなふうに時間を無駄にしたりしない。
学ぶことは山ほどある。
国に帰ったなら、もっともっと勉学に励むのだ。こんな怠け者のようには絶対にならない。
そう決意を決めたとき。
ふと周りがいつもより騒がしいことに気がついた。
普段この辺りには人はこない。なのに、誰かが茂みを分け入ってくる気配がする。
複数人の足音。そして話し声。随分と切羽詰まったようなぴりっとした雰囲気に、子供ながらに何かあったのかと気になった。
「いたか・・・?」
「いや、まだ奥を見ていない」
「ではそっちは俺が見てくる。お前は向こうを探してきてくれ」
「わかった」
「森には近づくなとあれほど念を押しておいたのに・・・」
「・・・まだそこに行ったと決まったわけじゃない。とにかく探そう。まだ敷地内にいるかもしれない」
がざっと茂みが掻き分けられる音がすぐ近くでする。
『兄』がゆらりと幽鬼のように立ち上がり、ふらふらと危うい足取りで移動するのが視界の端に見えた。
人が近くまで来たので、移動するのだろう。
わたしは急いで『兄』の後を追いつつも、何が起こっているのかと聞き耳をたてた。
周りの動きと、漏れ聞こえてきた会話から察するに、どうやら使用人の子供らがいなくなったらしい。
いつも問題を起こす好奇心が強すぎる三人組で、もしかしたら最近出没すると言われてる狼を見に森にいったのではないか、と騒ぎになっていた。
森・・・・?
この裏庭のさらに奥に見えているあの森だろうか・・・?
見るからに深そうな森だ。なんの準備もなく、まして子供だけであそこに入るなんて正気の沙汰とは思えない。もし本当に、狼見たさにあそこに入ったのだとしたら、ただの馬鹿だ。
そう思ったとき。
さらに奥の茂みに身を隠そうとしていた『兄』が、唐突に顔を上げた。そうしてゆっくりと後ろを、後ろに広がる深い森を振り返る。
・・・・・・・・・?
『兄』の視線を追いかけて、そちらに視線を向けてみたが特になにも変わりはない。
同じように深い森が広がっているだけ。
なのに『兄』は何かを見つけたかのように、(目は隠れて見えないが、おそらく)じっと一点を見つめている。
・・・・・なんだ・・・?
ふらふらと、『兄』が森に向かって歩き出した。
一歩、二歩、とよろよろと力なく進んで。
そして。
三歩目で一気に地面を蹴り、走り出した。
今までの生気のない姿が嘘のように、風のように走っていく。
慌てて追いかけた。なのに、追いつけない。
剣術の指南を受けてきた。筋がいいと何度も褒められた。運動神経はいい方だと自負しているし、子供ながらに毎日鍛練に励んできた。
そのわたしが全力で追いかけているのに、まるで追いつけず、差は広がるばかり。
何なんだ、いったい!
急に走り出したこともそうだが。
誰よりも優れているはずの自分が、置いていかれる。
相手はあの『兄』で。『兄』といえば、鍛練もろくにしておらず、ぼーっと過ごすだけの怠け者のはずなのに。なのに追いつけない。
差が広がり、徐々に小さくなっていく『兄』の背中を必死で追いかける。
そうして気がついたときには、わたしは森の中に立ち入ってしまっていた。
日の差し込まない薄暗い森。
ヒンヤリとした空気の中、やっと『兄』が足を止めた。はあはあと肩で息をしながら、『兄』の背中に追いついて。少しも息を乱した様子のない『兄』の姿にむっとしながら、その視線の先を追って。
そしてわたしは息を飲んだ。
太い木の幹に隠れるように、三人の子供が身を寄せ合っていた。
そしてその子供らの周り。ぐるっと取り囲むように、数匹の狼が牙を向いている。
威嚇のために低いうなり声をあげ、いつ飛び掛かってもおかしくないほど低く身構え、目は血走っている。
「ひっ!」
余りの恐ろしさに、思わず声が漏れる。恐怖に耐え切れず、足を一歩後ろに引けば、木の根に引っ掛かり情けなく尻餅をついた。
逃げなければ。
己の命大事さに、その事しか考えられなかった。
自分よりもずっと狼の近くにいる子供らの存在など、完全に忘れて。
その存在を助けようなどと、露ほども思わなかった。
自分は誰よりも勇敢で、誰よりも優秀であると思い込んでいたのに。
あの瞬間、自分の保身しか考えていなかった。
けれどそれも仕方のないことだ。
武器なんてなにも持ってない。
自分はまだ子供で、しかも王族なのだ。誰よりも守られるべき存在であり、こんなところで危険に晒されていい人間じゃない。自分は平民とは違う。
さっさと逃げるべきだ。
自尊心が高く、そして言い訳だけは達者なわたしは、王族ゆえにこの時逃げるべきだと判断した。
けれど兄上はそうではなかった。
王族だから、とかそんなことは関係なく。ただ目の前に危険に晒されている命を守ろうと動いた。
武器など持っていなかったのは兄上も同じ。
王族であり誰よりも守られるべき立場なのも同じ。
なのに兄上は、虚栄まみれのわたしとは違った。
そこに落ちていたなんの変哲もない木の枝を拾い上げ、そして迷うことなく狼達の群れに飛び込んで行ったのだ。
その背中を。
誰よりも勇敢で美しいあの背中を、わたしは一生忘れることはない。




