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愛しているよ

はは、うえ・・と。

かすれた声で呼びかければ、ずっとずっと押し殺してきた思慕が強烈に混み上がった。


「母上」と。

先程よりもしっかりとした声で呼びかければ、表現しがたい感情で頭がぐちゃぐちゃになった。


そして。

「母上」と三度呼びかければ、切なさと苦しさで目頭が熱くなり、急速に視界がぼやけた。

ぼやけた視界の中で、イザベラを囲んでいた魔法陣がゆっくりと彼女の中に溶けるように消えて行くのが見えた。

術が効果を失っているわけじゃない。逆だ。あの消え方は術の完了を意味している。

つまり・・・。


────・・・ルーナルドの死の病が完全にイザベラに移行したことを意味する。


「母、上・・・し・・ぬな・・・」


いつも綺麗にしていた。いつも美しい王宮にいた。そんな綺麗で、美しいところがとても似合う人だった。

なのに髪も服も血と泥でこんなにドロドロに汚れていて。


ハンカチを取りだし血で汚れた口元を拭ってみたが少しも綺麗にならない。

こんなところで、こんな最後を迎えていいような人間ではないのに。


王宮に出入りすれば嫌でも噂は聞こえてきた。

横暴な王を諌める聡明な王妃。

子は国の宝だと孤児が学校へ通えるように配慮し、戦果を上げた人間には身分を問わず褒美を与える。

とても慈悲深い王妃。


その冷たい風貌とは裏腹に、彼女は皆に慕われていた。

だからこそ。

聡明で慈悲深いとされる彼女にさえ、無視され忌み嫌われている事実が心に突き刺さった。


けれどそうじゃなかった。


ルーナルドはちゃんと愛されていた。ルーナルドが気付かなかっただけで、大事なものはいつだってそこにあった。


であればこれ以上もう望むことはない。


「俺に病を戻してくれ」


誰からも慕われた王妃。

豪遊するばかりだった王のかわりに、崩壊しかけた国政を支え続けた王妃。

国を、そして国民を愛しつづけた王妃。


こんなところでドロドロになって死んでいい人間じゃない。

フカフカなベットの上で、皆に囲まれて。

最後を惜しまれながら、天寿を全うし皆に見送られて穏やかに旅立つ。

そうであるべきだったのに・・・。


「俺に病を戻せ」


その病は本来はルーナルドが患ったもの。

今ここに倒れているべきなのも、病で命を落とすのも、ルーナルドだったはずなのに。


「頼むから・・・俺に病を戻してくれ・・・・」


生涯で一度しか使えない術だと聞いた。であるならば、戻すことも難しいのだろう。

けれどそれでも。


「貴方が・・・俺のかわりに・・死ぬことはない・・・」


瞬きをした瞬間、堪え切れなくなった涙があふれだし幾筋も頬を伝って流れ落ちていく。


「・・・は・・は・・うえ・・・」


いつだって自分を守ることに精一杯だった。

傷つけられたくなくて、誰かを自分の内側に入れたくなくて。

自分の殻に閉じこもって何年も口を噤みつづけたルーナルド。

ユフィにあって。クロス公爵家の人たちに愛されて。

少しはましな人間になったような気がしていたけれど。


・・・結局根本的なところは何も変わってはいなかった。


傷つけられるのが怖かった。

・・・だから一度として自分から接触したりしなかった。

拒絶されるのが怖かった。

・・・だから自分から拒絶した。

冷たい目で見られるのが怖くて。話を聞いてもらえないのが怖くて。

何度も顔を会わせる機会はあったのにまもとに顔もみず、話もしなかった。


もっと早い段階でルーナルドが踏み込んでいたら。

ちゃんと正面からイザベラと向き合っていたら。

あるいは『お母様からよ』と手渡された外套の意味をきちんと理解していたら。


こんな風に、イザベラを泥だらけにして死の淵に追いやることはなかったはずなのに。


「・・・悪かった・・俺が、浅はか、だった・・・だから、もう一度目を、開けてくれ、母上・・」


母上、母上、母上。

死ぬな。

もう一度、目を開けてくれ。


何度も呼びかけた。カラカラに乾いた喉が悲鳴を上げて、声がかすれ喉が潰れそうでも構わず呼び続けた。


そして。


ルーナルドの声に答えるように、イザベラの長い睫毛がブルルと震えた。









母上、とイザベラを呼ぶ声が聞こえた。


かすれて少し震えているその声は、何度何度もイザベラを呼ぶ。

・・・・カーティスだろうか?

この声・・・泣いているのだろうか。

王族の、しかも男子がそうそう泣くものではありませんよ、と。

そう注意しなければ、とぼんやりと思って。

カーティスにしては声が少し低いことに気がついた。


母上、とまた声が聞こえる。


切羽詰まった悲鳴のような声だ。何がそんなに悲しいのか。何がそんなに辛いのか。

聞いているだけでこちらの胸まで押し潰されそうな、そんな声だった。


カーティス・・・どうしたのですか・・・。なにがあったのですか・・・。


この様子は尋常じゃない。あの子がこれほど取り乱すなんてなにか余程のことが起きたのだろう。

早く起きて一緒に対処してやらなければ。

けれど瞼が重く、なかなか持ち上がらない。落ち着きなさい、と頭を撫でてやりたいのに腕があがらない。


「母上・・・。もう一度目を・・・目を開けてくれ、母上・・・」


カーティス・・・・?


カーティスの口調ではない。それにやはり声も少し違う。

けれどカーティスの他にイザベラを『母』と呼んでくれる人間など・・・。


ま・・・さか・・・。


────・・・ルーナルド・・・?


いや、そんなはずはない。ルーナルド(あの子)がイザベラを母上などと呼んでくれるわけがない。

何を自分の都合のいい夢を見ているのか。

何もできなかったのだ、イザベラは。母親らしいことは何も。

ただ傷つけ、突き放し、目をそらしただけ。

そんなイザベラが今更母などと呼んでもらえるはずがない。


「母上・・・目を、開けてくれ・・・母上・・」


けれどこの声は・・・・。


重い瞼を必死で押し上げる。ブルルと両の瞼が一瞬震えて、そうしてゆっくりと視界が開けていく。


まず最初に雲の切れ間から地上に降り注ぐ幾筋もの光芒が見えた。

ああ、綺麗だな、とそう思ったと同時に。

自分の顔を覗き込む美しい金の瞳が見えた。雨で濡れ水滴を滴らす綺麗な黒髪。その黒髪に縁取られた自分とよく似た顔立ちの青年。


・・・・・・ああ・・・・・・。


「・・・ル・・・ナ・・・ド・・・」


まだ夢を見ているのだと思った。でなければありえない。

ルーナルドが。何もしてやれなかった息子が、イザベラの体を抱き母上などと呼びかけてくれるなど。


けれど。


形のいいその唇がゆっくりと動き、イザベラを呼ぶ。『母上』と。


その瞬間涙と共に、いいしれぬ感情が胸に込み上げる。


ああ・・・・・。

何もできなかったのに。何もしてあげられなかったのに。

こんなイザベラのことをルーナルドは母と、そう呼んでくれる・・・。


「・・・・ル・・・・・ド・・・」


言いたいこと、伝えたいことが沢山あった。

生まれてきてくれてありがとう。

沢山傷つけてごめんなさい。

こんなダメな母でごめんなさい。

どうかこれから幸せに過ごしてほしい。

健康には気をつけて。

できればカーティスとも仲良くしてあげてほしい。あの子は一心にあんたを慕っているから。


なのに喉が潰れたように声が出ない。


体から急速に生気が抜けていく。瞼が異常に重い。

もう時間はない。


伝えたいことが山ほどある。

けれどその中で一番伝えたいことは・・・。


「・・愛・・して、います、ルーナ・・ルド・・・」


一度として伝えられなかった言葉。

接触することを禁じられ、愛情を見せることを禁じられ。

けれど一日だってその存在を忘れたことなどなかった。愛していなかった日など一日だってなかった。


ルーナルドの目が驚いたように大きく見開かれて、やがてその顔がぐしゃりと崩れた。

美しい金色の目からこぼれ落ちる大粒の涙がイザベラの頬にパタパタと落ちて来る。


「・・・・お・・れも、だ、母上・・・愛している」


搾り出したようなかすれたその声は、不思議なほどはっきりとイザベラの耳に届いた。


・・・・・ああ・・・。

愛する息子に抱かれ、母と呼ばれ、あまつさえ愛しているとまで言ってもらえた。

なんと幸せなことか。


神様、感謝致します・・・。


瞼が重い。意識が遠いどこかに引っ張られ、ゆっくりと視界が狭まっていく。


黒く塗り潰されていく視界の中で。雲の切れ間から綺麗に差し込まれた光芒が見えた。


愛する息子がこの世に無事に生まれてきてくれた、あの日と同じ美しく暖かい光・・・。


・・・・・わたしのかわいい赤ちゃん・・・どうか、早く、この腕、に・・・。


抱かせて・・・。

そう思ったと同時に、ぎゅっと体を抱き込まれた感覚がした。

 

その温もりを最後に。

イザベラの両目は閉じられ、意識はぷつりと途切れた。











アッシュの時とは違い、ルーナは母親という大事な人の犠牲を払っての回復ですので、少し悲しいですね。


次話はラスボスが登場します。

影の薄かったユーフェミアさんには主人公らしく頑張って頂くつもりです。

書き溜めたものがきれたので、また更新が遅くなりますが、見捨てずにまたよろしくお願いします。

ありがとうございました。


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