元将軍と軍人と
こちらに向かってゆっくりと歩いて来るその男を、ルーナルドは刃物のように鋭い視線で睨みつけた。
『なぜお前がここにいるの? 汚らわしい』
頭を過ぎるのは、忌まわしいあの日の記憶。
ルーナルドを心底嫌そうに睨みつけるあの女の姿。
紺色の髪に、アスブルーの瞳。
よく似た色合いに、よく似た顔立ち。
どうみてもあの女と血縁関係があるその男のその姿は、ルーナルドに嫌でも母に罵られた日を思い出させた。
生物学上の母親。そして今目の前にいる血の繋がった弟。
ずっと無視し続けてきたのに。
あの二人をルーナルドは今までずっといない者として扱ったし、ルーナルドもいない者として扱われてきた。
なのになぜこのタイミングで目の前に現れるのか。
ギルバートを加勢しにきたのか?
・・・・・いや違う、逆だ。
混乱に乗じて消しに来たのだ。
王位継承権をもつ異母兄とそして・・・邪魔な実兄を。
暗殺者を送るだけではあきたらず、直接手を下しに来た。
・・・・・そこまでして玉座が欲しいか。
浅ましいものだと、ふんと鼻を鳴らした、その先で。ツキリと胸にわずかに痛んだ。
────・・・そんな面倒なことをせずとも後数刻もすれば望み通り目の前から消えてやるのに。
こんなところまで追いかけて、自ら始末したいほど。
あんな大軍を持ってねじ伏せたいほど。
今でも強く、ルーナルドという存在を憎むのか。
そこまで、ルーナルドの存在が許せないのか。
ツキリとまた、先ほどよりも強く心が痛む。
その痛みに気付かない振りをして、ルーナルドはぎりりと歯を噛み締め絶対的な体調不良を押し隠す。
背筋を伸ばせ、弱みを見せるな。痛みなど一つもなく、体調も万全だという顔をしていろ。
そうでなければ付け込まれる。
見ない振り、気付かない振りには慣れている。
呼吸のしづらさも、胸の痛みも、そして虚しさも、もうとっくの昔にねじ伏せた。
邪魔をするな。
玉座が欲しいのならくれてやる。
だから、俺の邪魔をするな。
そういおうとした。
その時。
「兄上を・・・・」
もうすぐ側まで迫ったカーティスがはっきりと口にした聞き慣れない言葉に、頭がわずかに混乱する。
こいつはギルバートのことを兄上などと呼んでいただろうか、と。どこか頭の片隅でそう思って。
けれどルーナルドの記憶のどこを探しても、二人に関する情報などなにもない。
いない者として扱ったカーティスとは、弟とはいえ一言も話したことはなく目も合わせたことはない。
ギルバートなど不快過ぎて存在すら認めなかった。
だからルーナルドには二人の関係性などわからない。
けれどまあ・・・・・どうでもいい。
どうでもいいが、ギルバートを兄上などと呼んで敬わなければいけないとはこいつも不憫なものだ、と。
そう、思った・・・・・のに・・・。
「ルーナルド兄上を誠心誠意全力でお助けしろ!!」
カーティスの命令に、後ろに控えていた大軍が一斉に御意を示し走り出した。
そしてその大軍は、とっさに身構えたルーナルドに向かって丁寧に一礼しながら通りすぎていき。
そのさらに後ろにいる、再び立ち上がってきたギルバートの軍に向かって剣を抜いた。
「・・・・・・・・・・は・・・・?」
あまりに予想していなかった言葉と事態に、おもわずマヌケな声が漏れる。
それが聞こえたかのように、カーティスが顔をルーナルドの方に向けた。
「兄上!!」
・・・・・・・なにを言っているんだ、こいつは・・・?
更に頭が混乱する。
なぜこの男はルーナルドのことを兄と、しかも兄上、などと恭しく呼ぶのか。
この男の兄になんてなった覚えはないし、弟などと意識したこともない。
いったいなにを企んでいる?
眉をわずかに寄せいぶかしむルーナルドの前に、カーティスは迷うことなく駆け寄ってきて。
衣服が泥にまみれるのも気にせず膝を折った。
そしてあろう事か、右手を胸に当て、ゆっくりと頭を下げたのだ。
────・・・それは臣下が主に忠誠を示す姿勢。
あなたのためなら迷うことなく心臓を捧げます、という誓いを意味する行為。
「・・・・な・・・」
「馳せ参じるのが遅くなり申し訳ありません、兄上」
「・・・・・・・」
「ギルバートの同行を掴むのが遅くなり、兄上をこんな目にあわせてしまうなど、わたしの不徳の致すところ。誠に申し訳ありません、兄上」
「・・・・・お前はなにをしている・・・なにを言っている・・・」
警戒心を全開に押し出して。
その動向一つ見落とさないと睨みつけながら、低い声で問い掛ける。
震え上がるほどの圧がこもったそれに、しかしカーティスは顔を上げ嬉しそうに笑った。
「ああ、兄上が。わたしに言葉をかけてくださった」
「・・・・・・は?」
「は!? 兄上、その血液は? 返り血ではなくまさか兄上の? どこかお怪我を?」
どこもかしこも傷だらけだった。
衣服に付いたそれらは返り血と、そしてルーナルド自身の血だ。
けれどそれを説明する必要性を感じず、またカーティスの意図も読み切れず、ルーナルドはわずかに目を細めただけに留めた。
そのルーナルドの反応をどう受け止めたのか。
目に見えて、カーティスの顔色が変わる。
青から白へ、そしてギリッと歯を噛み締めた音とともに憤怒の赤に。
「ギルバートの仕業でしょうか!? そうなのですね? よくもルーナルド兄上のお美しいお身体に傷を! 万死に値する!」
ギルバートを即刻切って捨てろ!!!
響き渡る死刑宣告。
その言葉に周りが答え、士気が跳ね上がる。
「医療班、何をしている!? 一秒でも早く駆けつけ、兄上の傷を癒して差し上げるのだ!!」
「はいはい、カーティス殿下、わかってますよ。あなたが邪魔で立ち入れなかったんですよ、っと」
「とりあえずそこ、どいてくださいねぇ」と。
軽い口調でカーティスを押しのけるように現れた数名の男女。
大きな鞄を背負った彼らは、軍人にしては随分と細い体つきをしている。
顔と頭に白い布をつけ、防御力が薄そうな衣服の左胸には皆同じ白い杖と赤と青の蛇が巻き付いたエンブレムが縫い付けてある。
戦場で何度も連れ歩いたから間違いない。
あれは確かに【医療】を扱うものの出で立ち。
見た目や雰囲気だけで判断するなら、カーティスが言ったように彼らは【医療班】なのだろう。
けれど、見た目やエンブレムなどいくらでも偽装できる。
そうやって近づいて、ルーナルドを害するつもりなのかも知れない。
兄と呼ばれたから。
ありえないほどの親愛を込めた目を向けられたから。
・・・・・・・・だからなんだ。
そんなことで簡単に信じられるわけがない。
「触るな」
伸ばされた手を弾き落とせば、パシリと乾いた音がなった。
騙されるな、油断するな、ほだされるな。
ルーナルドの判断ミスは、ルーナルド一人の命ではすまない。
アッシュや、ユーフェミアの身にも危険を及ぼすのだ。
それに・・・。
ルーナルドは血狂いの第二王子だ。
そうやって憎まれ続けてきた。
ずっとずっと、生まれたときからルーナルドは畏怖と蔑みの対象だった。
どれほど努力してもその認識は決して覆らなかった。
────・・・今更何かが変わるわけがない。
「ルーナルド殿下」
自らが吐き出した血でドロドロに汚れたルーナルドの手を、誰かが掴んだ。
拘束された。
一瞬そう思った。けれどそうじゃない、それにしては力が優しすぎる。関節も自由に動く。
これでは拘束力など微塵もありはしない。
なのに、なぜ振りほどけないのか。振りほどこうと思えないのか。
体温を分け与えるかのように、ルーナルドの右手を包み込む手。
その手は第三王子の命により、嫌々ルーナルドに触れているようには思えない。
それでも・・・・。
ルーナルドは血狂いの王子だ。
こんな風に誰かに身を案じられることなどありはしない。
「触るな」
握られた手を力任せに振りほどくと、顔を覆おう白い布の端から見えている目が、悲しそうに揺れた。
「誠に僭越ではありますが、殿下。わたしのことを覚えてはいらっしゃいませんか?」
ルーナルドが手を振りほどいたすぐ後で、別の人物が一歩前に進み出てきて。
くいっと顔を覆っていた白い布を下ろしてルーナルドの顔を覗き込んでくる。
30代前半くらいの男だ。他の人間に比べて一人だけ随分と体格がいい。
左頬にある大きな傷が目を引いて・・・そこまで思って、ふと記憶が蘇った。
確かにそのいかつい顔にも、切創にも見覚えがある。頭巾から少しだけ見えるあの珍しい赤髪にも。
数回、もしくは数十回と顔を付き合わせ、時には口論まで交わしたのだから間違いない。
この男は・・・・。
「・・・シグルド」
ハイエィシア第二部隊の、事実上の部隊長。
本来の部隊長は、伯爵家の次男なのだが。その男は、名ばかりで一度も戦場どころか王都からもでたことはなく、事実上第二部隊を率い統率していたのは騎士伯家のこの男だ。
砦を落とす時におった右腕の傷が原因で剣を持てなくなり、その役職を退いたと聞いていた。
その男がなぜこんなところに。
「このようなむさ苦しい顔を覚えていてくださいましたか。誠に光栄ですぞ、殿下」
カカカと。
ルーナルドの記憶そのままの笑い方でシグルドは笑う。
・・・なぜ・・・?
なぜ笑う?
なにがそんなに嬉しい?
ルーナルドとシグルドは友人のように世間話をして笑いあうような間柄では決してなかった。
なのに、シグルドはルーナルドの顔を見てそれはそれは嬉しそうに笑う。
「右腕の怪我のせいで剣を持てなくなりまして、医療班にくら替えを・・・・・・」
「ちょっとシグルドさん、どいてください」
カカカとなおも嬉しそうに笑うシグルドを押しのけ、後ろから別の男が進み出てくる。
顔を覆っていた白い布がずらされ見えた顔には、やはり見覚えがあった。
「殿下・・・。ルーナルド殿下。元第五部隊所属のフィルと申します」
フィルと名乗った痩せ型のその男は、ルーナルドの前に恭しく跪いた。
「あなたに命を救っていただいたおかげで俺はここにこうしていられるんです、殿下」
「・・・・・・は?」
「自分もです、殿下。もうダメかと思ったときに颯爽と殿下が現れて、助けていただきました」
わたしもです、自分もです、と。至るところから声が上がる。
ギルバートの兵を押さえ込んでいる剣士までも時々振り返り、自分もです、と手を上げて主張する。
「・・・・・・・・」
何が起こっているのか状況がまるで理解できず、無表情で黙り込むルーナルドに。
「殿下」と、静かに声をかけてきたのはシグルドだ。
ルーナルドがゆっくりと顔をそちらに向けると、周りに立っていた医療班全員が一斉に跪いた。
そして右手を胸に当てて、丁寧に頭をさげる。
───・・・・それは忠誠を示す姿勢。
「ルーナルド殿下。我々は決して忘れてはいません」
まるで恭順の誓いを述べているかのように、シグルドの低い声が朗々と響き渡る。
王族であり、誰よりも守られる立場でありながら、たった一人。我々と同じ場所で戦ってくださったこと。
誰よりも尊いその身を盾にしてまで、何度も我々を助けてくださったこと。
自分の命を大事にしろ、と叱り付けてくださったこと。
比類なき強さと的確な指示で我々の命を繋げてくださったこと。
・・・・我々はちゃんと知っています。
「・・・・あなたは血狂いの王子なんかじゃない」
「!?」
「とことんまで不器用でなだけであなたは・・・とても優しいお方です」
実はこの隊に入るのは相当な競争率だったんですよ、と。
まだ王都や王城には殿下が帰ってきてくれるのを待っている軍人がたくさんいます、と。
そういってシグルドはまたカカカと笑う。
「・・・・・・・・」
なにも変わらないと思っていた。
闇夜のような黒い髪。不気味に光る金の瞳。
生まれたときから憎まれ、蔑まれ、生きていることさえ疎まれた。
なにをやっても間違えてばかりで、大事な兄と幼なじみの邪魔ばかりした。
なのに・・・。
「俺・・の・・・生きてきた、道、は・・・」
ルーナルドが今まで歯を食いしばって進んできた道は。
迷いながらそれでも一生懸命生きてきたその道は。
「・・・・間違いばかりでは・・・ない、のか・・・?」
ルーナルドはいつも間違えてばかりだった。アッシュのように、そしてユーフェミアのように。
誰かの支えになることも、誰かを助けることもできない。
親にも兄弟にも見捨てられた呪われた人間、それがルーナルドだ。
変わらない。どれだけ努力しても、どれだけ足掻いてもなにも変えられない。
そう思っていた。けれど・・・・。
ざざっと音がして。
顔を上げればギルバートの近衛兵がすべて取り押さえられていた。
ルーナルドから一番離れたところには、気を失っているのか。随分と静かになったギルバートが、縄でぐるぐる巻きにされているのも見えた。
役目を終えた剣士達がルーナルドを取り囲み、そして医療班と同じように一斉に膝をおった。
右手を胸に添えて一身にルーナルドを見上げてくる。
「ルーナルド殿下に変わらぬ忠誠を」
一番ルーナルドの近くにいた剣士がそういって頭を下げた。
一泊遅れて。
「ルーナルド殿下に変わらぬ忠誠を」
跪いた全ての人間が誓いの言葉を述べ、一糸乱れぬ動きで頭を下げた。
その様はまるでとても神聖な儀式のようにさえ見えた。
イザベラ、ルーナ、カーティス、三人ともギルバートの事をばか呼ばわりしていますが。
知能が低いという意味ではなく、王族としての振る舞いや責任、考えが足りてない、という意味でばかと呼んでいます。
ちなみに、お互いギルバートの事をばかと呼んでいたことは知りません。
やはり、血は争えませんね。
読んでくださりありがとうございました。




