壊された箱庭
陶器が割れたような高い音が立て続けに鳴り響く。
危険を知らせる警報のような音に、アッシュは反射的に腕の中のユーフェミアを抱き込んだ。
これは結界が壊された音だ。
あれほど強固な結界が壊された?
まさか、ありえない。
そんなこと、ルーナルドと同等の力と熟練度がなければ不可能だ。
あんな才能の固まりのような人間が何人もいるとは思えない。
であれば・・・・・。
そこまで考えて、ひやっと背筋が冷たくなった。
なにかがくる。
思った瞬間、ユーフェミアを抱き込んだまま後ろに飛びのいた。
ビチャリと水が跳ねる音がして、今までアッシュがいたその場所に黒い何かが襲いかかるのが見えた。
ゆっくりと顔をこちらに振る、黒く固そうな体毛に覆われた四足歩行の巨体。
威嚇のための唸り声は人の声帯では出せないほど低く、爪は鋭く長い。
そして不気味に光る赤い目。
それは自然界に生まれた生物などでは決してなく。
「魔物・・・・? なぜここに?」
人や動物の不浄な気が生み出したとされる魔物は、深い森の中に好んで棲息する。
が、ユーフェミアを匿うためのこの森にそれらが棲息していないことはルーナルドが確認済みだ。
もしいたとしたらルーナルドが気がつかないわけがないし、もし気がついたなら一匹残らず根絶やしにしているはず。
つまりこの付近に魔物はいない。
なのに、魔物は現れた。
それもただ現れただけではなく・・・・。
アッシュは、ユーフェミアを抱き抱えたままゆっくりと後退する。
まさか、そんなことがありえるのか・・・?
アッシュの視線の先にはローブを頭から深く被った一人の男。
顔も体格もローブに隠されているので、性別すら正確には判断できないが。
女性にしては背が高く、肩幅もあるのでおそらく男なのだろう。
しかし問題はその男ではない。
最大の問題は、悠然と立つローブ男のその周り。
遥か後方に至るまで多種多様な魔物で埋め尽くされていることだ。
視界の端で黒い巨体が素早く動いたのが見え、アッシュはまた後方に飛んで避けた。
右からも左からも、次々と魔物が襲いかかってくる。
それをなんとか避け続け、間合いを取る。
魔物に知能はないと言われている。
ただ食料を求めて人や動物に無差別に襲いかかるだけ。
なのにすぐそこに食料となるべき人間がいるにもかかわらず、そちらには一切目もくれず一心不乱にアッシュ達に襲いかかってくる。
いや、この動きはアッシュ達を狙っているんじゃない。
ユーフェミアを。
アッシュの腕の中で気を失ったままのユーフェミアだけを狙ってきている。
いないはずの場所に魔物が現れた。
そしてただ現れただけではなく、知能がなく無差別が当たり前の魔物が特定の誰かを狙ってきている。
それも群れになって。
これは明らかに異常事態だった。
魔物は次から次へと襲いかかってくる。
どうやって人物を特定しているのかはわからないが、奴らの赤い目は常にユーフェミアだけを捕らえている。
顔の識別ができているとは考えにくい。
であれば、魔力・・・・?
それとも臭いを追っているのか・・・・?
どちらにしても、こうやって避けているだけではいずれ捕まってしまう。
この数では逃げることも難しい。
とにかく囲まれるのはまずい。
背後だけでも取られないように場所を確保し、反撃を・・・・・。
そう思ったとき。
体が四方に引きちぎられた。
余りの痛みに全身が痙攣を起こし、数秒呼吸が止まる。
痛みを逃がすために悲鳴をあげることすらできず、アッシュはユーフェミアを腕に抱き込んだままその場にうずくまった。
はあ、はあと自分の荒く浅い呼吸音が耳にうるさい。
血が逆流したかと思うほど全身が熱い。
額に浮き出た大量の脂汗が雨と一緒になって流れ落ちていく。
やつらに喰いちぎられた・・・・?
いや違う、攻撃はすべて避けた。射程内にも入っていなかったはず。
なら、どうして・・・・。
痛みのために働かない頭で必死に考えを巡らせながら、自らの体を確認する。
腕も足もちゃんとある。もちろん首もちゃんと胴体に引っ付いている。
どこからも出血はない。
なのに尋常じゃない痛みと苦しみが体を襲う。
まるでこの世のありとあらゆる拷問を一度に味わっているかのように。
足の先から髪の毛一本に至るまで、体の細胞一つ一つが痛みに晒され声にならない悲鳴をあげる。
これは・・・。
───・・・呪いだ。
呪具が押さえ込んでいた呪いが、呪具を手放したことによって再び暴れ出した。
それも、今まで押さえ付けられた反動か、怒り狂ったかのように苛烈な痛みとなってアッシュに襲いかかってくる。
頭が割れるように痛い。
腕も足も、内蔵すら。
突きたてられた剣で肉を、内蔵を、体全てをぐちゃぐちゃに掻き回されているかのように。
痛くて痛くてどうしようもない。
息を吸い込む。そんな小さな動作でさえ激痛が走る。
指一本動かせない、とても立ってなどいられない。
────・・・けれどそれでも・・・。
アッシュはゆっくり後退し、屋敷の軒下。雨が入り込まない場所に、ユーフェミアを壁にもたれかけるように丁寧に座らせた。
そうして、ユーフェミアが抱き込んだままのルーナルドの外套を彼女に手早く被せる。
雨で濡れてズッシリと重くなってはいるが、ルーナルドの外套にはいくつもの保護魔法がかかっている。
物理も魔法も、ある程度のものなら防いでくれるはずだ。
それと同時に彼女を守るための結界術式を頭の中で組み立て、発動させる。
ルーナルドのそれに比べれば、あまりにもみすぼらしい出来だったが。
それでもないよりはマシなはずだ。
こんな簡単な動作だけで、痛みで叫びだしそうになった。
耐えきれなくて、いつ脳がおかしくなってもおかしくない。
全身を襲う熱で神経がいつ焼き切れてもおかしくない。
足も満足に動かず、腕を持ち上げるのも酷く困難で。
目ももうほとんど見えない。
こんな状態で動けるはずがない。
────・・・けれどそれでも・・・。
アッシュはゆっくりと立ち上がり、腰に刺さっている二本の剣を左右それぞれの手で抜きはなった。
そうして上着の内ポケットから四隅を綺麗に刺繍されたハンカチを取りだし、魔法を使ってそれについた臭いを周囲に拡散する。
魔物の赤い目が、ゆっくりと動く。
アッシュの後ろにいるユーフェミアからアッシュへ。
魔物は、やはり臭いで対象者を追尾している
これで攻撃対象はアッシュへとかわったはず。
痛い、苦しい、もう動けない。
それでもユーフェミアだけは守ってみせる。
極限の痛みと苦しみに晒され、アッシュにはもう一片の余裕もない。
だからこそ、ただ本能が命じるままに。
愛する女性を守るそのためだけに。
アッシュは、飛び出してきた魔物めがけて剣を振り落とした。
アッシュが取り出したのは、ユーフェミアが刺繍したハンカチです。
わかりにくくてすいません。
作者新生活のため、少し更新遅くなります。
見捨てずにまた除きに来ていただけると嬉しいです。
ありがとうございました。




