第八話
ラウナルの水は濁って深く、決して澄んだものではない。すなわち住みよい水である。
そこには人々の情念が込められて、土地々々に染みた願いが溶け出しているのであり。肥沃にして薄汚れた、生在る全ての味方になりうるものだ。
水に混ざる砂粒の一つ一つは生の証であり、星の鼓動の回数をも示していれば。
万物に等しく混じる無慈悲さの相似でも、またある。
河口での停泊もそこそこに。
『アストナの葉』号は予定の航路をたどって北へ進路を取り、ラウナルの中央付近を陣取り遡上を始めていた。
甲板上の視界は良好、船底下の視界は不良。攻めづらく守りづらく。半舷休息のサイクルはしばし崩れずにいてくれることが予想される。
時折見える大中洲の村々で休憩を挟みたくも袋小路であり。当面はイドラ大橋を目指して不休の航行が続けられるも、補給ならば河口で万全に整えたから憂いは無し。そして『アストナの葉』号は大船。その気になるまでもなく、ゲストは心を緩めることが許されるというものだ。
「だからよ、俺も安心して教鞭をとれるっつう訳でございますだ。ちょうど振るいたかったですから渡りに船。へっへっ、ビシバシ行かせてもらうです」
補佐役にツェーベル。生徒に優馬と女学生たちを揃えて。ゼナストは相変わらずの日本語で情勢を語り、持ち込んだ荷物から必要とするものを教卓に揃え上げた。並べた机、掲げた黒板、折れた白墨。優馬も見知った教室の風景が、要人用サロンの一角に姿を現し。咎めるものもなければ、ただ七人のざわめきだけがある。
こんなのも久しぶりだ。
貸し与えられた筆記用具を弄びながら、優馬はふとそう思った。
一週間も経たぬ最近のはずなのに、馴染んでいたはずの風景はもはやかすれ。丘裾にひっそりと建つ学び舎での日々も、そこで思い巡らした他愛のないことも。今思い返すまで、脳裏をよぎることもなかった。
ツェーベルにも吐露したように、あの世界を抜け出すことがひとつの夢であったことも大きな要因だろう。
願い叶った喜び。新たに芽生えたしがらみと、体を苛む苦痛。
夢は呪いと、何で聞いたのだったか。叶ってもなお、思ったものと違うのならば。叶ったことを受け入れようとする自分と、否定し夢を抱き続けようとする自分がせめぎあい。息が詰まる苦しみを味わうのもきっと、その言葉に込められた意味の一つにある。言葉の出自は思い出せずとも思い至り、本当か? と、うつむき笑った。
そういえば。
今ここにあるものを思い出し、笑うのもそこそこに優馬は顔を上げる。
あれも苦しめてくれた一因だった。
恨みがましげな視線を向けた先に、大きな長方形の箱。
見紛うはずもない。厳重な封印が施された布巻きの木箱は、味気ない食事時にアリュブーが携えていたものだ。
プラハッタ。
誰もかれも敢えて触れようとはしないが、箱の持つ巨大な存在感を無視しきれても居ない。一番マシなのはゼナストで。必要書類を分類する手に淀みはなく、視線も手元から流れることはなかった。
事情は、優馬も聞いている。
緊急時の断末魔剣使用許可がアリュブーから下りたのだ。
優馬とプラハッタに、優先度の順位は付けられない。初期型断末魔剣という、量産母体としての危険性。純粋な人間という、生物学的重要性。どちらも保護してしかるべきもの。
ならば分散させるより、一所に置いたほうが防衛面でも安定する。更に断末魔剣の力が加われば安心感は高い。
使う踏ん切りさえつけば、の話だが。
「量産、か……」
頬杖をついて箱を見つめながら、優馬は小さくつぶやいた。
彼女については聞いている。ジンセイについても聞いている。
恐ろしいことに、断末魔剣ジンセイは量産を前提として作られた兵器であるという。狂える作者は製法を確立して後、その製法をばらまいて知らしめ、世に溢れかえることを望んだのだ。
その望みは叶い。
召喚都市が現れたことも、狂える作者が町中で製法を高らかに叫んで殺されたことも、全て儀式であったかのように。当時既に古いこととなっていた乱世を呼び覚ます如く、野火のように断末魔剣は広まって、今際の叫びが嵐となってデラストムに吹き荒れた。
今となっては当時作られたほとんどが破壊され、作った者は皆殺しにされたが。なおも、目の届かぬ場所で人が消えることはあるという。理由は断末魔剣のみではないにせよ、望まれていることに変わりはない。
作者が模索した軌跡をたどれば、そこに一石を投じる可能性は大いにあるだろう。
思わず溜息が漏れて。
「怖いかい?」
流暢な日本語。
一瞬のうちに、静寂が打ち寄せた。
息を呑む音だけがそれに抵抗し、必死に逸らされていた諸々の視線が箱へと引き寄せられ。表情は窺い知れるはずもないのに、声色や、気配が、笑っていることを教えてくれる。
少しの間があって。
「ふむ……静かになっちゃったか。耳には自信があるから、気を使わなくたっていいんだよ? なーんて。静かにもなるってもんだよねえそりゃ」
硬直した時間の中、言葉はない。
恐怖か。あるいはもっと単純に、驚愕か。皆一様に声を失い、どこか言葉を出すことも憚られ。沈黙が腰を下ろした。
優馬はそれを押して何か言おうとも思ったが、心理的なものだろうか? 上顎と舌に薄膜が張り付いたような感覚を覚え、ビニール袋を吸い込んでしまった時のようだと思いながら断念し。
次いで、誰か口火を切らないものか?
と、思いながら。皆が同じ事を望んでいたために動きはなく。
呼吸音と、秒針がたゆまず働く音にしばしその場は支配されて。
「おぅ、ほん」
結局、プラハッタの咳払いが仕切りなおした。
プラハッタの申し訳なさと気まずさを込めた軽いものだった。
「ぅん。悪かったね。久しぶりに、アリュブーや竜連中以外とも話をしたかったんだけど。お呼びでなかったようだ。あとはもう、静かにしてるよ」
「あ、いや」
プラハッタの声によって空気が張り詰めていたのなら、それを解いたのもプラハッタの声だったか。今はもう喉の圧力が失せて、けれどかすれた優馬の声は、不器用な言葉を紡いだ。
いかにも、恐ろしい相手である。
魂に刻まれた断末魔や、あの『島』を一撃のもとに伏せたという船員達の噂。語られた見るに恐ろしい刀身の特徴を思い返すだけでも、優馬の総身は震え上がりそうになる。
だが会話はできる。なら、話をして見る価値はあるだろう。
それは謝罪という行為や、伴うしおらしさにほだされた、浅はかな結論でしかない。
けれども謝罪に嘘偽りなく、本心の現れである可能性もあれば、優馬に勇気を振り絞らせる十分な理由となった。
「待って、大丈夫。少し驚いただけで……今はもう落ち着いたし」
「……じゃあ、遠慮無く」
ふふふ。高い笑い声が、くぐもること無く上がった。
「一番気にしたほうがいいのから、お墨付きもらったんだ。まさかそれを差し置いてなんてことは、ないだろうね?」
ニヤけた顔が思い浮かぶような、嫌味のある声色で。プラハッタは優馬を除くその場の全てに語りかける。
まずいことをしてしまっただろうか。頭をよぎる思いから、優馬は追われるようにゼナストへ顔を向けた。
自分の選択が間違っていたとしたら、それを受け入れる準備をしなくてはならない。準備しながらも受け止めきれず、打ちのめされた末に今があるとはい。準備ができるのなら、それをしておくに越したことはない。なにもなく直面してしまえば、取り乱して落ち着きは体から滑り落ちてしまうだろう。
しかしそれは杞憂に終わった。
一瞬ゼナストは視線を巡らせて、苦笑いこそ浮かべたが。
「ないですねです。んまあ、イドラ出るまでぁ一緒するござるして。親睦深まるんなら深まるべきだろうよ。それになんのかんの、お前さんぁ年の功もある。授業役立つ思いました」
ゼナストの奇妙な日本語も相まって、直前にプラハッタの見事な日本語を聞いていた優馬は、安堵とともに納得して頷いた。
プラハッタに授業してもらったほうがいいんじゃないか?
親睦をよく深めている一人という贔屓目を差し引いても、ゼナストの日本語はプラハッタの日本語には及びもつかず。となれば自分にこちらの言葉を教える上でも、多少の影響が出ることを懸念せずには居られない。
ただ、彼女はこうして箱詰めにされて厳重保管されている身分であり。教師というゼナストの身分をみると、そうしたところできっと逆転するのだろうなとも、容易に想像がつくことではあった。
「ツェーベル、どうであるか?」
「ヴァっ!? あ、ん。んんっ。俺も、思う。同じ」
あからさまに狼狽した様子は、自分に来るとは思わなかったことを如実に物語る。
同様の視線を向けられる女学生たちも返事は同じく、どうやら全会一致の意見を得ることが出来。
箱の中から満足気な声が漏れでてくる。
「よろしい。そんじゃま、間に間に手助けするよ。アリュブーからあまり深くないことなら話していいって言われてるから、そこらへんは安心しといておくれ」
プラハッタが口上を述べる隙に、優馬は授業に参加するすべての顔を盗み見た。
推奨したゼナストは言わずもがな。ツェーベルも女学生達も、悪い感情を顔に見ることはできない。ひとまず安堵する。
顔に出ていないのなら、悪くても我慢できるということだ。例え表に出さないことに長けていたとしても、それを出来るというのならやはり我慢しうるはず。
気になっていた事の一つが理論的に解決でき。根本的でなくとも、ひとまず気分は晴れやかで。
これは授業も捗りそうだと優馬はペンを取った。
「あいですよ。俺もそれに則って気をつけるます。さて、資料に目を通してみる」
紅が藍に追われて久しく、空の星々が冷えゆく空気の煌めきのように輝きだす頃。
言語の授業を終えて催された夕食の席は、以前のように強張ったものではなかった。
供されたのは魚介類で変わらずとも、これは川の幸であり。焼いた白身魚から上る香りは両岸で採れる陸の幸に由来して、火の色つけは野趣溢れながら上品な味わいがある。女学生の一人、人間の娘がいうにはラウナル沿岸の伝統的な料理で、彼女の舌には慣れたものらしく。郷土の話をする彼女の笑顔に、誰もが癒されたものだった。
合間合間に授業で学んだことのおさらいや、逆に優馬が日本語を教えたりする場面も混じって、授業の延長に似た雰囲気が合ったのも間違いないとはいえ。先の女学生が披露した近辺の地理や風土、歴史に関することは学術的ながらも人を知る楽しみもあり、和気藹々とした空気のままに終始したといえるだろう。
プラハッタまでもが椅子に箱を載せられ、背もたれに寄りかからせて囲む一時は瞬く間に過ぎ。
食後の茶を楽しむ時間は。心地良い静けさが、来るべき苦難の時に備えて緊張する心を良い意味でほぐしてくれた。
「優馬ぁ、中々良い生徒でござんでしたね。俺が教師として、少しありがたく思ったです」
楽しくも忙しい食事であったからには、今の時間が真の意味で休息の時間であると言うべきか。ゼナストも椅子に深く背を預けながら腰を前に、足を伸ばし、リラックスした姿勢で贅沢に時間を使っている。
授業で一番力を尽くしたのが彼である以上、それは免じてしかるべきことのはずだ。少々崩した振るまいだが、この面子であれば然程気にすることもなし。女学生たちもゼナストの気質はよく知っているので気安くて支障はない。
「必要だから、頑張った。あっちでは、お世辞にも良くなかった」
「だが今ぁ、満足いけるます。あとそれ続けられるよう頑張れ下さい」
労いと激励は緩い格好のままかけられて、けれども優馬は悪い気がしなかった。今の緩みは自分が満足させたことも一因と自負しており。そこから出たものとなれば、なんら印象を悪くするものはない。素直な笑みを返す。
むしろ気になるのはツェーベルとプラハッタの方で。どちらも食卓の賑わいに乗り、盛り上がりながらも。些か暗い雰囲気を隠しきれず、声色に力が薄い。目を向けてみれば今も、カップに注がれた茶の水面を眺めながら八つの目を細め。そこを遥かに通り抜けた、遠くを見ているようにも見える。
心当たりならば、優馬も生徒なりに思い当たる節がいくつかあった。
プラハッタは日本語を流暢に操りながらも、教える予定の言語と母語が異なり。それもそれで広く用いられているとはいえ、ジャパンでは馴染みが薄いと出番が少なく終わってしまったことだろうし。
ツェーベルは補佐の役目を果たしているように優馬は思えたが、遥かに上手く喋る者ばかり揃って情けなく思ったとか、その辺りだろうかと。授業の間に見せた些細な仕草や、感じた実力の差を加味してみるに、信憑性の高いものとして考えずには居られない。
励ましてやりたい。
「ツェーベル、プラハッタ」
優馬はまず口を動かすことにした。
そうしなくては、ごちゃごちゃ考えて前に進めなくなることを知っているからだ。
自分を出し抜かなければ励ますことすら出来ない、厄介なこの性分。相手の内心を思い込みから作り上げ、明るい顔や声が手の届かない場所と錯覚してしまうようでは、見切り発車に頼らざるをえず。よくよく頼っていたために、慣れても居る。
呼びかけにツェーベルがこちら向き。プラハッタもなんとなくだが、意識を向けているような気がして。優馬は必死に頭を回転させはじめた。精神の渦を回して記憶に穴を掘り、なにか切り出すものはないかと探し求める数瞬の沈黙。硬直する身振りで時間を稼ぎ、これぞ! と思うものを探しだすのが、こんな時に優馬が使う常套手段である。
本当は先を読んで話題を用意しておく性質なのだが、悪い方向へ考えを掘り進めることも多いので今回は避けた。考えるだけで、口から出てこないことも多い。
「二人は、この先について何か知ってる?」
質問は、食事中に出てきた話題を引き継ぐようなものだ。
ラウナル沿岸を地元とする女学生が多く物を語り、食卓を一時支配していたため、他に出てきた声といえば相槌に似たものであったし。生活に密着した話題がほとんどで、更に若い女性が半数を占めるとなると、発言は自然と彼女たちが主導していく形となる。
そんなわけで、ツェーベルとプラハッタはあまり喋っていない。優馬は聞き役に徹し、ゼナストは授業で十分舌と喉を動かしたから満足いっている。
ツェーベルは優馬に気を使い、教える側同士でも日本語会話を尊重したのが災いした。最も日本語能力の低いツェーベルは、蚊帳の外に追われた心持ちだったろう。
プラハッタは優馬にも把握しかねたが。どうやら普段は幽閉されているというし、二百年も前の人物である。女学生が最近の流行であるとかの話に来た時、ついてこれなくなったのだろうとあたりをつけた。
なので、こちらから話題を振って話してもらおうという考えに優馬はいたり。内容は今まさに進んでいる大河や周辺地域についての話を選んだ。せせこましいことは先程で出尽くしているが、今回の意図はそれとは異なる。
「段々地形とかも変わってきた気がするし、生えてる植物も、違ってきた気がするんだけど」
大いに知識欲を刺激される変化を、話題を探し求めた優馬の目は見逃さなかった。
舷窓から見える沿岸の風景は、ゆるやかな航行の中で少しずつ変化を見せてくれる。女学生が盛り上がっていた時に見えた、村か町の明かりは既に無く。鬱蒼と茂る木々が遥かに遠く、星空と川面の間に窺えるだけしかない。
これまでにいくつかの支流を見送り、霞むほどだった沿岸との距離は縮まって。すっかり夜となった今は、黄昏時に発ったことを思うと大分内陸へ入り込んだろう。
『アストナの葉』号の正確な速度は知らないまでも、海と違い比較対象のある川では実感できる。授業をしていた時、食事を始めた時とは、もうまるで違う環境にいるのではないか? そう思え、商人であるツェーベルなら知っているのではないかと尋ねたのだ。
だがプラハッタは……。
プラハッタについて、優馬はもっと知る必要性を感じていた。
どうせ途中で別れる相手のはずで。それもあと数日のうちに幽閉されて、会うことも叶わなくなるような。その後に会うことすら期待できない相手のはずだが。
けれども、感情が突き動かす。
今だけでも寂しい思いはさせたくない。ただそれだけだ。
優馬自身が言ったように、こちらに来てあちらでのしがらみは全て失われた。それはつまり。しがらみから心身を守るために鎧っていたものが、役目を失したということでもある。今の優馬は裸に近い。これからまた鎧うべきものを見つけていくだろうが、まだ赤子のようなもの。論理を置いて、感情が先に立つ。
「あと、ジャパンの辺りとか。今のうちに色々聞いておきたい」
これも同じく、知っておきたいことだ。
自分がこれから暮らすことになる土地について、予習しておいて損はないだろう。それに。
もしかすると作形が来た頃のことも聞き出せるかもしれない。
「ふむ……」
ツェーベルは天井を仰ぎ、茶を飲む手を止めた。てんでんばらばらな方向を向いた八つの目がプラハッタの箱を見て、すぐに離れた。顔を見合わせようとして、意味が無いことを思い出した動きだ。
「アタシの話すことといったら、ずいぶん古い情報になっちまうね。今でも変わってなさそうなことくらいしか役立つことは話せないよ」
確かに見えていないはずなのだが。
ツェーベルが目を離した次の瞬間、プラハッタはそう言った。
八つの目はとんぼ返りして、そこから跳ね返るように優馬を見る。
「あ、ああ。じゃあ、軽く」
ちらりと、目の一つがプラハッタを伺った。
「いいよ、先に言いな」
「……お前、見えてる、か?」
「見えてないね。でも気配には敏感なのさ」
「そうか……」
疲れたように軽く首を振って、深く息を吸い、吐く。小さく肩をすくめて顔を上げると、優馬とツェーベルの目が合った。
「それじゃあ、そうだな。地理の話、してみよう」
両岸はさり気なく高さを増し、ラウナルに身を捧げていた幾つかの川に別れを告げると、やがて大河は谷底へ沈んでいく。
そこはまだ遠くも、『アストナの葉』号はすでに高原の麓へ差し掛かり。言い換えれば、霊峰ディガ・カンドラの麓に足を踏み入れたところだった。
ラウナルを遡上する上で楽しみとなるものの一つに、ダイナミックな風景の変化があげられる。
川縁の土地は一見して広い平原に見えるが、その実緩やかな登り斜面となっており。川幅も狭くなって両側から圧される気分を味わう頃、イドラ大橋をその目に映すのだ。
到着は恐らく、明日の昼頃になるだろう。船長は懐中時計をしまって、燻製魚肉の薄切りを一枚口にいれた。
甲板上に淡い照明をいくつかと、テーブルと椅子のワンセット。海を離れれば心は大分楽になる。
船長は海の生まれだが、海の生まれ故に、深く隠される恐ろしいものはよく知っている。大内海は故郷だが、水中でなく水上にいつづけなくてはならないのが、なんとも心を苛んでいた。
船員達のように、水中を泳げたのならどれだけ楽な気持ちでいられただろうか。
水上では上下の移動も楽ではない。いざという時、遅れをとるかもしれないと。
しかし船長であるという立場上、船を離れるわけにも行かず。かといって海へ出るのに、陸に住む者を責任者に据えるというのも、またおかしな話だ。
それを言うのなら川に入った以上、川に住まう者に変わるべきではあったのかもしれない。
だが『アストナの葉』号は自分の船。それくらいの愛着と責任感は持ち合わせていた。
我儘で些か矛盾めいた主張。
大任を成すという意識が彼を押して押さえて、船長という箱に詰め込み。流れ固まらぬ物に形を与え、彼を形作っていた。
そこをいけば、川は気安いものだ。船長は川について海ほどには知らない。知らないということは恐怖を呼ぶが、海について知っているよりも、まだ楽で居られると船長は思っている。辛いところは、海草酒が買えないことくらいのものだ。
ただ、この航海中は困らないだけの備蓄もあり。あとは、一人の雰囲気か、二人の雰囲気か。どちらを選べばいいか悩むくらいが当面の苦しみである。船長は果断即決な男であるが、そうしたことについては優柔不断になり、答えを得ることが出来ずにいた。さて、どうするか、と。その時。
「川風は潮もなく、心地良いですね、船長。いえ、貴方には逆でしたか?」
船内への入り口に立たせていた船員が、テーブルに椅子を差し込み。アリュブーが追いかけて腰を下ろした。船長の視界を大きくは遮らず、九十度の方向に席を置き、薄切りを口に運ぶ。単眼がボトルのラベルを見れば目は細まり、違う酒を求められた船員が足早に遠ざかった。
「どちらも、私には良いものです博士。海草酒はお好きでありませんか?」
「ええ。独特の風味は中々慣れることができません」
「博士も陸の民。致し方ないことでしょう。私も陸の血は少なくありませんが、どうやら口にあうくらいは海の血も濃く。運が良かった」
笑いながら船長は、静かにグラスを傾けた。酒精の鮮烈な香気と、海草の持つ潮の匂いが混然一体となって、脳を揺さぶる強烈な風味があたりに漂う。グラスのうちに溜まっていた匂いは濃い。
「時に。博士は甲板へ何用ですかな?」
微かに顔を動かし、アリュブーは川面を眺めた。
「川を見に来ました。微かに、感じるものがありましたので」
「ほう。感じる、とは?」
「流れ来る情念の中に、刺々しいものを」
「その様なもの、いくらでもありましょう。ラウナルの側はいずれも人多く、身を捧げる川もまた同じなのです」
「そうですね。そのとおりです。だけども違う。私、いえ、私達だからこそ感じられるような、仄かなもので」
「刺客であると?」
「はい」
唸り声を上げて、船長はもう一度グラスを傾けた。深く大きく。残っていた全てを飲み下して、長くため息をつく。
「断言なされますか」
「二百年あれば、これくらいはわかるものです」
「私はあまり霊質干渉が得意ではありませんからな、感服するばかりですよ」
扉が開いて、船員がアリュブーの隣に控えた。追加のグラス、陸の酒。船長がボトルを開いて、アリュブーのグラスに注いだ。琥珀色の、酒精濃い酒だった
「留まらず、学を深めてみてはいかがです? 川が情念の流れと化すのは中々壮観ですし、海もまたそれがとろけていくさまを垣間見れて面白い」
「ははは。考えておきましょう。少しは海に対する恐怖も克服できるでしょうからね」
船長は川面を見て、すぐ手元に視線を移した。もう少し酒がほしい。さっきのは効いたが、もう一杯くらいなら同じ事をしても大丈夫そうに思える。脳に響かせ、眠りを心地よくしよう。
次の瞬間、目が丸くなる。確かにここへ、ボトルをおいていたはずだ。それがない。
目的のものはすぐに見つかった。アリュブーが小さな両手で持ち、海草酒を船長のグラスへと注いでいる。
驚きは潮のように引いて、口元に笑みが浮かんだ。
「恐れ入ります、博士」
「いえ、此度の航海ではお世話になりました。今はこれくらいしか出来ないと、悔やむばかりです」
「私には十分ですよ、博士。それとも、今宵の相手を探す手間を省いて下さいますか?」
アリュブーは小さく笑った。
「私はもう、子供は十分に産みました。今は少しでも多くの時間、研究のために使いたいので」
「わかっていますとも。それでは、今しばらく酒の相手でも」
「ええ、もちろん」
共に薄切りへ手を伸ばし、各々口に挟んだ。
海魚の風味は強く。海草酒には合っても、陸の酒には相性が悪い。穀類から作った酒や、アリュブーが飲む酒ならば押し流せるが。そうでなければ生臭さが鼻から吹き出すだろう。
いずれにせよ、気分を変えるには具合がいい。
緩んだ空気は引き締まり、されど張り詰めることもなく。
再び顔を見合わせ。
「それで、確かなのですね。刺客が先んじているのは」
「まず、間違いないでしょう。長く川を下り解けかかっていましたが、強い意志でした」
「なら私に出来るのは、ご武運をお祈りするばかり……プラハッタについては、英断されましたな」
「やはり一所にまとめておいたほうが、なにかと対応もしやすいものです。場合によっては優馬さんの武器も必要ですし。私を狙って得られる得は三組織に無用のものですから、私自身は安全で。万が一別口だとしても、却って身軽になってやりやすいですし」
「彼に、プラハッタを振るえるでしょうか?」
「振るってもらわなくては困りますが、ゼナストがついています。イドラの学院にも応援を要請すれば、そもそもそこまで行くかどうか……むしろ。プラハッタがどこまで話すかのほうが気がかりで」
「承知の上ではないのですか?」
「優馬さんは落ち着きました。プラハッタが大丈夫だと思うのなら、それを信じるつもりですよ。ですけど、人の心はわからないものですから」
船長がしたのと鏡写しに、アリュブーはグラスの酒を一気に喉へ流した。
酒精に焼ける喉。少女の様子に変わりはない。
「だけどいずれは知ること。いずれ出会うこと。歴史も、手に死を乗せることも。だから、選択を後悔はしません」
グラスを手に持ったまま、アリュブーは船長を一瞥する。
大きな手に掴まれたボトルから陸の酒は流れてグラスを満たし。一口すすれば目を閉じて、開き。軽くグラスを掲げると。
船長も同じく掲げ、遅い乾杯とした。
「へぇー……谷底に。二段階。いや、三段階の山、って感じなのかな」
ツェーベルの話すことはぶつ切りで、長いものではなかったが、優馬の好奇心を満たすには十分だった。地理に明るくなく、これまでそうした地理について聞いたこともなかったので、新鮮に思えたのだ。
「関連、まだ不明。ラウナル、源流見ると、そうも思えるが」
「そういや、この川の源流って……今まさに高原に行こうってんだから、そこらにありそうだけど」
「ああ。源流、ディガ・カンドラの麓。詳しくは、お楽しみだ」
「お楽しみ? 何、お楽しみって。って、いや。お楽しみにするようなところなんだろうな。じゃあ、楽しみにしてよう」
ふふふと優馬が笑えば、ツェーベルもふふふと返した。
顔を見合わせ、同調する声が、女学生たちの帰った部屋に反響する。
ゼナストは書類仕事に精を出し、巨体に似合わぬ丸く可愛らしい字を書いて。プラハッタは時折相槌を返し、今の笑いにも微かな笑いを交えた。
ラウナルの流れのように、とても穏やかな時間だった。
「それじゃあ、次はプラハッタかな?」
「大分、待たせた」
「いいよ、気にしなさんな。それにこの楽しい雰囲気に水を差したくなかったんだ。そうならないような話を探すのには、いい時間だったよ」
アリュブーの手の中にいただけでは味わえない、多くの人との朗らかな時間。ずっとプラハッタが失ったままでいた、かけがえないものがこうして転がり込んできた時。プラハッタの心は、暗い話題を記憶の底に放りこんでいた。優馬の精神がどうなっていようと知ったことではない。前向きな話でなければどんなことだろうと話すつもりはなく。その体は強く束縛されながらも、二百年前の当事者というくびきは緩み。ただ彼に楽しさあれとばかり、願うのみとなっていた。
「これはまあ、アリュブーから聞いた話なんだけどね。アタシはずっと箱詰めだし、自分じゃ動けないから、あとは竜から聞くくらいのものなんだけど。とりあえず、ジャパンに着けば一安心。昔の町並みを意識してるらしいから、優馬としてもきっと懐かしい気分になれる」
「懐かしいっても、一週間ほどしか経ってないけどさ。いや、そういう雰囲気なのかな。それでそれで?」
「それでって……もうないね」
「ええ!?」
残念ながら、プラハッタの立場では今のが限界だった。ろくに動くことも出来ない体では、知れることなど限られる。
特にジャパン関連のこととなってはお手上げだ。明確にジャパンが成立したのは彼女がこうなった後であるし、作形もほんの少し見たことがあるだけ。優馬の足しになるような話といえば、これくらいしか無い。
「あ、あ。じゃあ、こうなる前の話でもしよっか?」
これではあまりにも気まずすぎる。折角、団欒しようと優馬が計らってくれたことなのだから、少しでも貢献しなくてはまるで立つ瀬もない。
なので、プラハッタは昔話に頼ることにした。歴史に残ったゴタゴタに関することのない範囲。
自分の周りの些細なことについて。
「いいな。俺も、聞きたい。二百年前、習俗、気になる」
「ああ。じゃあ、聞かせて欲しい。プラハッタ」
「いいとも。少なくとも寝るまでは、楽しませてあげるともさ」
ラウナルの、『アストナの葉』号の夜は更ける。
今回は良い意味で、退屈しない夜になりそうだった。