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第七話

「それで、優馬ぁ?」

「優馬ならまだベッドだ。俺も許されるなら、呆けたいくらいでさ」

「別にいいんだぜ? 俺らに任せとけよ」

「そうはいかない。なにせ、俺自身が許せないからな」

『島』を退け丸一日。

 海は凪、空は快晴。日差しは水を貫き深く、空も海も見通し良し。

『アストナの葉』号はいくらか平穏を取り戻して、一路北のラウナル河口へ急いでいた。

 人の心は時化て落ち着かずとも、船員たちは役目に心奮わし。未だ揺れる人々のため、揺るがぬ大地へ船を飛ばす。

 予定の航路に戻り行けば船旅は順調で。目的地まではあといくらもない。

 終りが見えてくれば自然と、独特の緊張感に合わせて安堵が湧いてくるものだ。

 しかし優馬の場合はそうも行かなかった。

『島』との遭遇。それも、飛びかかられるという状況に加えてプラハッタの断末魔まで耳にし、精神的なストレスが頂点に達したのである。

 こうなると中々降りてこれなくなるもので、大きな捌け口を求めずには居られなくなり。

 優馬はおぼえて間もない欲望の充足感にそれを見出して、今回は人間の女学生が相手を務めることになった。長きに渡ることが予想され、体力的な面を鑑みた結果の選択である。

 案の定、昨日の黄昏時から部屋は絶えて開かず。ドライフルーツやその他、置いておいても問題のない食物までが持ち込まれていれば当然の事。

 警備上の理由からゼナストやツェーベルも同室だったのだが、既に新たな部屋が割り当てられている。

 正直に言えば、優馬がただ一人の相手に集中していてくれると楽なことは間違いない。時と場合によらず母語での意思疎通ができるし、全てのことがスムーズに進むのだ。

 しかしそれを続けていると、ツェーベルは息苦しさを感じずには居られない。

 優馬はツェーベルが拾ったのであり、そこに伴う責任を全うせず。それどころか邪険に思ってすらいるのではないかと自分自身さえ疑わしく思えれば、却って心の平安は失われるのだ。

 商人として長く身を立て、学徒として数多の知識を集めているが、こんな心境に陥った経験は決して多くなく。

 人を負う苦しさはこれほどのものかと。重さに圧されて、息も肺や口から追いやられた。

「俺があいつにやってやれてることは多くない。だからあいつが調子を取り戻さないと、俺は休んじゃいられないってもんで」

「……そうかい。だったら、俺からいうことぁ何もねえ」

 ラウナル河口までは後少し。要人用サロンの上等なソファはその時間を更に早めてくれるだろうと、ツェーベルとゼナストは腰掛けて気だるい時を過ごしていた。

 今、未知のものは女色にふけって心を癒し。彼らに関わるものは何一つとしてなく。

 女学生は女学生で積もる話もあるようで、船員たちは使命のため止まらず、船長とアリュブーはまた先のことを話し合っている。

 完全な手空き。

 ツェーベルは生憎船仕事の心得がないし、ゼナストは甲板に出ると追い返される。

 なにぶん、ゼナストは海に不向きすぎた。あまりに堅く、重い体は泳ぐどころか浮かぶことも満足にいかず。船員たちが力をあわせても救助は一筋縄ではいかない。

 それでもこの船旅に同行を許されるくらい腕が立つのは確かだが……今は宝の持ち腐れ。

 大した書籍も持ち込んでなければ、暇を埋める手段もなし。

「……暇だな」

「あぁ、暇だ」

 すると、口の端からこうしたこともこぼれるものだ。

 だがこぼして空いた隙間に、流れこむものもある。ふと、思い出したのは。

「そういや、プラハッタの輸送が本来の目的だった、ってことなのか? 聖骸殿に会えた感激で、うっかりしてたが」

 あの、断末魔剣のことだ。

 直接見たわけではないが、あの恐るべき断末魔を聞き逃すほどツェーベルの耳は悪くない。存在は知っているし、間違い無いと確信もある。アリュブーが行った霊質干渉も忘れられるぬものではあるものの、耳栓越しですら自我の壁も剥離しそうなあの響きは総身に染み付いて落ちることはない。

「ん? おお、そうだ。ゼガ・セナクからディガ・カンドラまで。噂くらいにぁ聞いたことねえかい?」

「聖骸殿のそういう行脚があるってのは耳に挟んだことがある。何してるかまでは知らなかった」

「だろうな。んまあ、時々あるのさ。竜の所をあっちらこっちら、場所を変えて保管してる」

「それで今回は、ディガ・カンドラと。快く拾われたのも理由があったわけだ。ああ……感謝してもしきれない」

 少し前、落ち着いた時に一度気づいたことではあった。

 これこそはもしかすると、聖骸殿が時折行なっているという行脚なのではないか? と。

 その時は巡り会えた幸運を再確認して悦に浸り、行脚を行う理由については見落としていた。学生の姿も見受けられたので、修学のために旅行しているのだろうとも思ったのだが……実態を知った今では昔の自分へ嘲笑も漏れる。

 なるほど、随分危険な旅だったのだ。

 歴史に名を残す禁制品。それも意識を保っているなど、他に類を見ない物となれば引く手あまたであるのは間違いない。

 そこへ更に自分たちを拾ってくれるなど。

 ツェーベルのアリュブーに対する尊崇の念は更に高みへ昇り。厳しく口を閉じて、目をつぶった。

「進路ぁ同じだったからな。つっても優馬の場合、博士の個人的感情も否定ぁ出来ねえ。っと、博士といえば」

 首飾りが、ポケットに差し込み抜いたゼナストの手に絡みついていた。薄く小さな金属板だけがついた、そっけないものである。

 薄く目を開いたツェーベルもゆるく頷いて。

「こいつを優馬に渡さにゃならねえ」

「ああ……もう陸が近いからな」

「おう。馴化してもらったからにぁ、こいつの助けが必要になる。だが、ギリギリになりそうか」

 ゼナストはソファを立ち、サロンから身を乗り出して廊下の先を見遣る。

 未だ、男も女も部屋から出てくる様子はない。




 船が動いている時と停まっている時とでは、微妙に感覚も違ってくる。

 自室のベッドの上。うつ伏せた女学生に被さり、掛布をかぶって互いの匂いがこもる中、ふと優馬が思ったのはそんなことだった。

 行為を終えた部屋は、独特の匂いが満ちている。

 体も疲れて頭も疲れて、この上匂いに侵されると、もう何も考えられない。唯一刺激と快楽に由来するものだけが頭を過ぎって、それに反射的な否定と肯定の判断を下すだけにまで落ち。顔を埋めた女学生の首元の鱗を唇でくすぐる感触と、股の周りだけが、呆けた意識の中で明瞭だ。

 優馬は、それで良かった。

 空に突如開いた巨大な穴。『島』の開いた口が迫ってきた時のことを思い出すと、今でも身震いが止まらず。体は温もりを求めてやまなくなる。死が形をもって迫ってくる恐怖。はじめての経験だった。

 更なる恐怖は、それに凍りついた心はあの時のままほぐれず、本能的なものを除いて反応を示してはくれないことで。自覚はしている分、凍りついた自分への恐怖は大きく。優馬は本能に逃げることしか出来ない。

 逃げた先は、とても心地よい時間だった。

 まだこの時間を続けたい。。

 だけどこれでは駄目だという思いもあって、それは優馬の心の端が僅かに解け始めた証拠である。『島』で凍りついたのより前から引きつったままだった、もっともっと深い場所。本人は気づかない、心の変化。

 そんな今少しの間気づくことはないだろうものに、気付くものが優馬にはいてくれた。

「ん……」

 再び求めて肌を撫でる優馬の手に、女学生が目を覚ます。

 手の運びに、優馬の呼吸に。理性を投げ捨てた心のうねりとは異なるものを見出し、環境の変化に意識が呼び起こされたのだ。

「あ……起きた? おはよう」

 女学生の整った顔を覗き込んでいた優馬も気づいて、声をかけた。落ち着いた声だった。寄る辺を求めた唇を唇によせ、虚ろながらも答えられれば、満足気にまた肌を重ねる。

 いずれも女学生の記憶にない素振りである。

 体細くも、心止まって獣のように振舞っていた眠る前の記憶とは何一つ重ならない。

「おはよう、ございます」

「うん」

 こちらの声に返る平穏な言葉。

 会話でのやり取りが出来るのを確認して、女学生は長く息を吐いた。

「今、どこに?」

「えっと、港。白い町が見える」

「ラウナル河口域……」

「それって、どれくらい来たんだっけ」

「旅程の、半分ほどです」

 もう一度自分の番が回ってくるかどうかは、微妙なところだろう。内心で思いかけて、女学生はやめた。

 どうも、優馬の様子が変わっている。そして今の一瞬でも、少し息を呑んで、静かになって。ほんの少しだけ雰囲気が変わった。期待を抱かせてくれる、悪くない気配。『島』に襲われる前から切羽詰まっていたのが、感じられない。

「その。落ち着き、ました?」

「あ、うん」

 目と口は意識の出力器官であり、見聞きすれば多くを知ることが出来る。

 よく知られていることだ。

 よく知られているだけに、あてにもなるし、誤魔化すことだって出来る。口八丁手八丁、信じきるのは難しい。けれど女学生は、それをあてにして見ることに決めた。今の状況なら優馬の頭は鈍っているはずだし、虚勢を張るような雰囲気もない。ある程度なら、見通すことが出来るはずだと。

 まだまだ付き合わねばならぬ相手である。内面を把握することは必須だ。

「少し、変わりました」

「え……そ、そう?」

「余裕ある、思えます」

 二の腕を這う手が止まって、首筋にかかる息が浅くなった。

 優馬の内面で、探求が始まったせいだった。

「そっか」

 身をすくませるように、優馬の体が絡み付いてくるのを女学生は感じた。

 甘えるような、縋るような力遣い。

 じっと、互いに体を動かすこと無く。呼吸と部屋に備えられた時計だけが、規則正しい音を繰り返す。

 静謐な時間。落ち着いた空気が。心臓の音もそのひとつであることを、思い出させてくれた。

「本当はさ」

 優馬は言った。

「こっちに来て、すごくせいせいしてたんだ。俺に纏わりつくしがらみがなくなったって。嬉しくて、悔しくて、申し訳なかった。こっちをそんな風に思ってるなんて、こっちの人に失礼すぎる。板挟みになってて、だから馴化も渋って。この思いも謝らないとと思ってた。そうじゃないと、俺の気が済まないって……ははっ、言える。ずっと言えずにいたのが、言える。本当に、変わったんだ」

 女学生の上から転げて、優馬はベッドの上で仰向けになった。手を大きく広げて、解き放たれたように。こもっていた空気も払いのけて、裸の上半身を照明の下で露にする。

「なんでかなあ」

 小さな溜息。

「きっと、色々思い知って。旅程も半分まで来て。覚悟が決まった……って思いたい。実際は、追い込まれて取り掛かったとか、そんなとこだと思うんだけど」

 優馬の万事に対する姿勢を象徴するものといえば、夏休みの最後にやる宿題であった。

 追い込まれないと取り掛からない。いや、取り掛かれないといったほうがいいかもしれない。それを自分で知っている。小学生の時に染み付いて以来、様々なことで顔をのぞかせてきた悪癖だ。

 今この時、都合良く見過ごせる相手ではないのだ。しかし。

「けど、そのつもりで行く。ごめん、それと、ありがとう」

 覚悟である。

 その意気で取り掛かることが重要であると、優馬は心の芯に今を据え。ベッドから体を起こした。

 瞬く間に着替えを終え、女学生に礼をすると、部屋もまた辞し。

 あとには、裸の女学生が横たわるのみとなって。

「……いいですよ。それと、頑張ってください」

 赦しと激励が、虚空に響く。




 ラウナルとレシオン。どちらが父で母であるのか、ライドーム人は川を例える時に必ず悩むという。

 かたや南西部を横切り、かたや北東部を縦断して。大内海へと注ぎ国を潤し、帝都を守る大きな要ともなれば、二つの大河は国民にとっても深く慣れ親しんだもの。いかに親子としての関係が最低限の文化であろうと、自らが今在る根源として認知しないはずもない。

 その恵みの中に、デラストムの民は祖先への崇敬を知るのである。

 ラウナルの河口部。

 沿岸樹上都市トマグトも実際の所そうであったが。ライドーム帝国と大内海諸島群連邦の国境でもあるここは、賑やかで物々しい。足が多いほど股下は見づらくなるように、道の角や人の影に漂う危険な匂いは濃く。『アストナの葉』号も、波止場でしばしの沈黙を決め込んでいた。

 途中停泊したあの小島の比ではない。

 可能性など無用の長物。警戒して当然。人生も川の流れも、下れば淀んでいくもの。あるかないかを問うのは、まさに愚問というものだ。

「では予定通り、各方面への挨拶は夕時を待つということで」

「了解しました、博士」

 業務連絡を終えて、アリュブーもゼナストも体から力を抜いた。

 今は天中刻。天頂に登った太陽は眩しく、影は濃く短い時間。風は穏やかで雲もなし。寄せる波音もくすぐるように小さい。平穏とは遠い白壁の町並に、平穏としかいいようのない時間が流れていた。

 甲板上は港との遣り取りをする船員たちが忙しく。昼食時というのにまだ落ち着く様子もなくて、少し落ち着かない空気はあるが、木のテーブルを挟み向かい合う両者の間にそれが介する様子もない。螺旋烏賊の根菜詰めは舌に歯に触りよく、庶民の味であることが町の風合いにもあって、情緒の面でも申し分ない。

 ただいくらか緩んだとはいえ、二人の間に流れる空気は些か張ったものであり。

 顎が忙しく食事を続けている間にも、変わることはなかった。

「ところで、優馬さんは受け取ってくれましたか?」

 円筒形のグラスから口を離して、アリュブーが尋ねた。濃い緑の匂いが香る。

 ゼナストは口に詰めたものを慌てるでもなく、ゆっくりと飲み下して。

「はい。具合もすっかり良くなったみたいですが、効きすぎて頭働いてねえようにも見えましたがね」

「それは、それで。ごちゃごちゃ考えずにいてくれるのなら、今はむしろ助かります」

 アリュブーは町並みに目を向けて、溜息をついた。リッチ、生ける屍である彼女に呼吸は必要ないものだが、心が重くなると肺に篭った空気は押し出される。体内で空気が停滞するのは気分が良くない。そう思い時折意識的に呼吸している甲斐あって、吐息は極めて清涼なものだ。

 しかし、やはりため息は付きたくない。常思うそのことを押し殺して箸を置くと、重い手つきで望遠鏡を取り出し、大きな単眼の前に据えて覗きこむ。見えてくる、彼女には見知った印。町のあちこちへ向けて、一つ、二つ、三つ。形の異なる全三種を認めると、また溜息が漏れた。

「ヤグマット、コズラングラン、プスターニク……流石に目立った動きはありませんね。私達が入港していることを、知らないはずはないでしょうに」

 彼らこそ、これまでの旅でアリュブー達が警戒していた相手であった。

 星霊学団に連なる組織ながら、親しまれつつも恐れられる者達。

 ヤグマット彫金組合。

 コズラングラン紋章研究団。

 プスターニク鍛冶師会。

 いずれもドワーフとされた者が構成員の多くを占める、過激派である。

 とはいえ、表立った活動は人々の暮らしに根ざしており。彼らの持つ技術が人々の生活へ豊かさをもたらしているのも確かなこと。多くの国の多くの町に施設を構え、歴史上でも発展の一翼を担ってきたのは間違いない。

 ただ、彼らは目的も手段も選ばぬ性格が強く。

 星霊学団があらゆる知識の獲得を目標にしているとはいえ、頭脳の減少を避けることも念頭に置いているとなれば。考える頭を減らすことすら厭わない彼らと反りが合わないのは当然と言える。

 プラハッタに異界人。どちらも、彼らにとっては興味深いサンプルのはずだ。

 禁制品の初期作。馴化したとはいえ純粋な人間、異界人。

 頭の中で並べてみると、アリュブーには断末魔剣となった優馬が見えて。すぐ、かき消した。今までで見知った彼のか弱さを考えると、ありえない未来ではないかもしれない。そう思えて、頭を振る。

「俺たちも入港したばかりで、なのに動きがない。地下に通路でも作ってやがんのか、ここの連中が無能なのか。後者ぁ、考えづらいですね。こんな要所にそんなのを置くはずもなく、そもそも原型留めておくのを許すとぁ思えねえ。すると前者ですが……これだと厄介だ」

「可能性が決して低くないのも、恐ろしいものです。ですけど、もっと考えづらいことではありますが、既に手を打ったというのも考えられなくはないと思いませんか?」

「既に手を? なるほど。ここの長が変わったって話ァ聞いたことねえし、となればどこも怖えのが揃ってる。もしかすると知らないうちに、もっと怖えのに変わってるとも知れねえ」

「いえ、それもありますが……私は、トマグトの時点で手を打った可能性を考えているんです」

「トマグトで?」

 これにはゼナストも、目上に対する礼儀や敬意の諸々を置いて、怪訝な顔を見せた。口に運びかけた根菜詰めを置いて、軽く身を乗り出す。

「博士ぁ刺客なり何なりが、俺達より先にあの海を越えてきたってお考えなんですかい?」

「あり得ないとは思っていません。行く方角がある程度わかれば、その先にある候補を絞るのは難しくないですし。それに、我々が他の組織に用意できない金額を、竜に積めるのは周知の事実。それが知られている以上、がめつい彼らが最も信頼出来る金庫番だと行き着くのは容易いことです」

 悶えながら声を漏らして、ゼナストは絶句した。

 彼らなら、ドワーフの三組織ならば十分に取り得る手段だと、彼も知っていたからだ。

 先進的で狂信的。星霊へ寄与せんとする念は篤く、時に星へ霊を返すことも恐れはしない。

 説明されてみると。三組織が取り得る手段は十分な効果を見込めるし的確で、彼らからしてみれば特に目立ったリスクもなく。仮にトマグトで機先を制して海へ乗り出していたとすれば、沿岸部を進んだとしても先にここへ到着できる目は大いにある。更に進路上の問題を予め察知して放置すれば、立場上放っておくことのできないこちらの足止めは極めて容易。その時にはまだ問題がなかったとしても、バラバラに出航させれば人員の欠如は最低限に抑えられる。

「あ、いや……海中警備隊ぁどうするんです? 泳いでるってんならまだしも。一人船で漁をしてるわけでもねえときたら、あいつらにまず目をつけられるはずだ」

 光明を見出したように、ゼナストは大げさな素振りでそれを主張してみせた。これは自分たちの道先を照らすものであるし、ゼナストの驚きを沈めるための光明でもある。

 思わず、力も入るというものだろう。

 だがアリュブーは淡々として。

「なんのことはありません。普通に行けば良いんです。彼等も船を使うんですから、ただ普通に」

 警戒心が強すぎたか、と。ゼナストは口を噤む。

 どうにも頭が煮詰まって柔軟性を欠いてしまっていたようで、その程度のことにも気が付かなかったとは汗顔の至りである。

 ヤグマットもコズラングランもプスターニクも、全ては日常に根ざした組織でもあるのだ。ならやましいものを運ぶでなく、ただ人員を動かすだけというなら。通常の仕事で用いる経路を使えば何ら不審なところはない。こそこそした方法を使ことが前提となっていたのは、明らかに視野の狭窄。

 巌のような手が、巌のような頭にかぶさった

 ゼナストは星霊戦士団という、戦いに新たな知を見出す集団に属している。これは三組織と同じく星霊学団に連なりつつも、学団に極めて忠実で。ゼナストが教師の身分でありながらトマグトの施設で守衛を努めたり、アリュブーの護衛に抜擢されていることなどから窺えるように、学団としても信を置いている組織である。

 然るに。三組織を学団が睨んでいるのに倣い、足して。ゼナストが彼らを考える時は色眼鏡が掛かってしまう傾向にある。

 星霊戦士団自体もある程度その傾向を持っているとはいえ、同時に自認していることでもあり。自認しているということは外して考えることも出来るはずのこと。もし出来ぬというのなら、他の団員から未熟の謗りは免れまい。

 ゼナストは学団で教師の地位にあり、戦士団でもそれに等しい地位を持つ。だというのにこの体たらくは、導く者として不適当であるといえよう。

 他に理由を求めるのは簡単だが、ゼナストはそれをあえて捨てて。旅の終わりには再び自分を鍛え直す決意をした。

「確かに、そのとおりです。つまり、連中ぁこの先か、ここらで待ちぶせてると。確実なのぁ、イドラですか」

 反省の念は心の中に広まりきっていたが、今は他に考えることが未だある。かまけてばかり居ることは出来ない。

 それらはひとまず纏め、いつでも取り出せる引き出しへ放り込むと。スッキリした頭の中のテーブルにラウナルの航路図を広げる。このまま『アストナの葉』号は川へ入り、イドラ大橋までの付き合いになる予定だ。

 川幅は河口域で対岸が霞む規模を持ち、上流へ向かって尖るといえども広く。そこを見れば、船が水源まで行くことに差支えは何もない。立ちはだかるのは、滝である。イドラを越えてまた暫く遡った先に、見上げるほどの高さから始まる分岐した段瀑が聳え、行く手を遮るのだ。

 流石にこれを船で乗り越えるのは無理があり。イドラ大橋から鉄道に乗り換え、ディガ・カンドラに寄った後にジャパンへ到達する手はずとなっている。ジャパンにさえ到達すれば、いかに三組織でも手出しは難しい。星霊学団、ライドーム帝国が協力して区画警護にあたっており、剣山へ手を伸ばすようなものだろう。

 竜の膝下で暴挙を犯すとは考えづらく、陸に上がるイドラこそが最後にして最大のチャンスであるのは確実だ。

「そうです。ですからイドラに着き次第、私が派手に動けるよう先触れを出しておきます。人垣が出来ればいくらかは凌ぐことが出来るでしょう。あとは、お願いします。ゼナスト」

 椅子を立ち、片膝をついて、ゼナストは不敵に笑った。

 敬う者から信頼の言葉を得、回復した自信の現れであった。

「お任せくだせえ、博士。必ず守りきってみせますとも」




「ツェーベル。言葉、教え、欲しい」

 体格に見合わないサロンの大椅子の上。優馬がかけた声はハッキリしていたが、一瞬ツェーベルは認識できなかった。

 先ほどまでは部屋にこもり、出てくる様子はまるでなかったのだが。今は胡座をかき、二つの目を大きく開いてしっかと八つの目を見つめている。

 表情はぽかんと硬直し、手元の簿記も滞って、二メートルの体で動くのは生理現象のみ。

 ハッと、我に返ると。しきりに頷きを繰り返した。

「お、おう。そうか」

 少し慌てたようにペンと紙を鞄へしまって、椅子の角度を変える。程無く、優馬と体の正面が向かい合った。

 言葉の勉強についてツェーベルも検討はしていたのだが、こちらから持ちかけるつもりであったし。優馬の突然な変化にも驚かされている。

 こうして正面から顔を合わせると、鋭い眼光は見つめ合う間にますます力強さを増し。優馬の意識が石のように硬い塊となって、ツェーベルの鼻先につきつけられている。とでも言うべきだろうか。頭から胸まで不可視の力がかかり、押し付けられているもので皮膚がざわつく感触すら感じられる。

 霊質干渉か。

 一瞬で、ツェーベルは正体を見極めた。

 なんら手ほどきをした覚えはないし、したという話も聞いては居ないが、これはそれに間違いない。生物が本来持っている基礎的な霊質干渉。自分の意思を発し、時には指向性を持たせて、対象へとぶつけ意識を揺るがす方法。感情の波紋だ。

 これほどのことが出来たのか。

 内心で唸る。

 正直に言って、ツェーベルは優馬にあまり力強さを感じては居なかった。もちろん異界という環境に蝕まれていたというのも忘れてはいない。その上でも、優馬という純粋な人間は肉体的にも精神的にも薄弱で。ジャパンでの保護を受けずには生きていくことは出来まい。そう、思っていたのだ。

 だが、これはどうだろう。

 今こうして向けられている力強さは、ツェーベルが生きてきた中でも数えるほどしか受けたことがない。

 これが異界人。あるいは、純粋な人間の持つ力なのか?

 学術的な興味は湧いてきたが、培ってきたものはそれを否定する。違う。これは優馬自身が持つ、個体としての特徴である。告げてきた魂の一部に、ツェーベルは同意を示した。

「なんだか、唐突だな。俺も、そろそろ言おうか、思ってたが」

「急に、湧いてきたんだ。これじゃ、駄目だって」

 小さく笑って恥じ入るように。それでいてどこか満足げに優馬は俯いて、自身の股を見て肩をすくめると、またツェーベルの目を見た。

「すごく絶望して、すごく満足して。それをもう一度繰り返して。やっと、落ち着いたのかもしれない。半分来たってあの娘も言ってて、割りきれていなかった部分が溶けて、生きる努力をしようって思ったんだ」

 言葉滑らかに、ネイティブの話し方で、優馬は語り出した。

 聞き手を気遣うことも出来ないというふうに、口の動くまま。舌の回るまま。頭の中から落ちてくる色々な思いに回される水車のごとく、唇は瞬く。

 聞き取れるだろうか。

 不安はあったが、ツェーベルは耳を傾けた。そしてまた、驚く。不思議なことに、優馬の言っていることが一字一句、余すこと無く聞き分けられることに気付いたからだ。

 疑問はあったが、すぐに納得する。一人の生物として、確実に読み取れるものだからと理解できた。

「本当はさ、俺はこの世界に来た時。嬉しかったんだよ。あちらの世界であったしがらみが全部なくなって、すごく身軽になったって思えた。でも同時に、悔しくなったんだ。運に頼らなきゃ、俺は自由になれなかったのか、って。それからずっと板挟みで、きつかったんだ。嬉しいんだか、悔しいんだか。だけど、考えを変えることにしてさ。きっとこちらの世界が影響をくれたんだと思うけど、これも勉強だったって、すんなり受け入れることが出来て。あっちに居たままだったら、こうすんなりとは行かなかったんだろうな、って思ったりして。それで、前向きに行こうって思ったんだ。まずは、言葉を覚えよう、とか、さ」

 八つの目を見ていた目は段々と外れて、次第に照れくささを交えながらうつむき加減になっていったものの、言葉は最後まで途切れ無く続けることが出来ていた。

 ちら、と優馬がまた顔を上げた時。ツェーベルの顔にあったのは、満足だった。

「そうか。よし、よし」

 獣脚の膝を叩いて、蜥蜴の口から笑いを漏らす。近くのテーブルにおいていた鞄を引き寄せ、ペンと紙を取り出し。優馬へと差し出した。

「俺も本当は、お前、弱い思ってた。でも、そうでも無いな。やる気、見た。俺も、やる気出た。出来る限り、教えてやる」

 二度三度、瞬きをして。優馬はかすれた笑いを漏らす。顔に満面の笑み。

「ああ、頼むよ。先生」

 無言の時。

 またしばし、顔を見合わせて。

 それから、揃って笑い声を上げた。

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