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第六話

 その日生まれて初めて、園木 優馬は心の底から神に感謝を捧げた。




 女学生に誘われて明けた早朝。『アストナの葉』号、要人用船室。

 未だ日も昇りきらぬ薄闇の中で優馬が目を覚ますと、振り子のように定まらなかった世界はすっかり落ち着いていた。眠りの手が抑えてくれたのだろう。夜に冷えた空気も、裸の体ごと頭を冷やしてくれたのかもしれない。

 毛布を引き上げて体を丸める。傍らの、眠るエルフの女学生も引き寄せれば暖かさは十分なもの。

 この一晩で彼女の肌も体温も、人間とは離れたいろいろな部分も知ることができて不安はない。むしろ昂奮が蘇って、にわかに体温を上げてくれるようだ。

 何もかもが初めてのことだった。生物としての本能が満たされて、男になったという実感。

 数日間だったが苦しい時期を越えて唐突に訪れた昨夜は、あらゆる意味で優馬の世界をひっくり返してくれた。

 本当に素晴らしい夜だった。年頃の男として、最も知りたいものを知ることができたのだ。それも、相手は女として極上と言える体を持ち。献身的に自分へ尽くしてくれたのである。

 終始リードされ通しだったのは、仕方ないといえど悔しさがあるのは否定出来ない。

 だがしかし。下腹に鈍痛すら感じる程までも濃密な快楽は、それを補って余りある。

 今となっては精も根も尽き果てて。

 少し、冷静な頭を取り戻すことができた。

 傍らに眠る、女学生の顔を覗き見る。昨夜の交合は深い疲労をその身に刻んだのだろう、なおも美しい頬へ口づけても目覚める様子はない。つい口づけてしまったが、なんとなく優馬は照れくさくなった。若い心が、一度寝ただけでその気になるとかどうなんだ、と。かつて取り込んだ情報から導き出される妄想に、臆病さを出して体を縮こまらせる。

 けれども、気になるのは事実なのだ。

 誘われるままにして、避妊なんてものへ思い至る余地はなかったし。優馬自身熱に浮かされて自制を欠き、なんら遠慮すること無く生物としての本懐を幾度も遂げている。

 寝る前に、甲板でアリュブーの言っていたことが思い出された。

「男女は互いを気に入れば交わり、そして大抵それっきり。そういうものなんですよ」

 自分たちは気に入ったというか──優馬はとても気に入ったが──また違うものとはいえ、これが適用されるのだろうか。いや、適用されるだろう。ただ優馬が飲み込み切れないだけで、そうなるだろうことは予測が付いている。

 結婚という文化はないという言葉……彼女たちはそのために連れてきたという言葉。

 あちらの世界に別れを告げたはいいものの、まだ優馬はその縛りから抜けだせない。

 彼女は自分の子を孕んだのだろうか? 視線は毛布越しの下腹部へと向かう。

 そこに宿るものを想像した瞬間、襲い来た途方も無い感覚に恐れ慄き。彼女の柔らかな部分へと手を伸ばして、再びの昂奮に逃げ場を求めた。




 経緯はどうあれ、自嘲混じりに優馬は神へ感謝を捧げた。

 朝も早くから極上の女を楽しむことが出来、妊娠を恐れておきながらも結局歯止めが効かなかったことに対して。

 思えば彼女と、彼女たちは学生なのであり、まだ他にもやることはあるだろうに躊躇いがなかったということは。ひょっとすると、自分が知りえない避妊でもしていたのではないだろうか。

 そう考えて、また自嘲する。

 アリュブーから聞いた文化形態を思うと、そんなことはお構いなしの可能性だって同じく高い。

 それに、こちらで言う学生は優馬の知る形態に置き換えると、ちょうど修道士や修道女のようなものと思えるし。アリュブーが堂々と唱えていた以上は、星霊学団が広めた文化である可能性も高く。ますますためらう理由はなく思えた。

 つまり彼女は、妊娠上等で行為に及んだということだろうか?

 どうにもこうにも否定できず、優馬は頭を抱える。

 体が自由になったのはいいものの、今度は文化の違いが大きくて悩ましい。同一の観念に対する軽重の違いは、シンプルでありながらもそれだけに乗り越え難い。身の回りで『妊娠させたら責任を取る』ことに疑いを持つ者は、様々なメディアを含めてもまるでなかったし。当然優馬自身、思い至らなかったことだ。

 と、それがありえそうな者を一人だけ思い出した。

「栄治はだから、歴史に残るくらいになったのかね……」

 ベッドの上で独りごちる。今はもう優馬しか居ない。

 この寝具も替えてもらう必要があるとベッドを下りながら、激しい刺激にすっかり鈍った頭で友人に思いを馳せた。

 彼ならあるいは、スイッチを切り替えるように今の心境を越えてしまうのではないか? 長く続けた友人関係で垣間見た多々のことを思い出すと、その光景が容易く想像できる。

 麻井 栄治は、良くも悪くも躊躇わない男だった。

 普段は何事にも興味なさそうで、一緒にいながらも相槌を打つだけで居ることも多い、聞き役に徹している印象が何にも勝る静かなヤツ。愚痴から何から適当に聞き流してくれるので、聞き上手という感じもなくはない。

 だけどそれは、麻井 栄治という氷山のほんの一角に過ぎず。

 本質は、自分への正直さにある。

 なにか必要を感じた時、栄治はすぐさま行動に移して躊躇が無いのだ。それは子供が川に落としたボールを拾うという優しさで現れることもあったし、ひったくりをスコップで滅多打ちにするという凶暴さで現れることもあったが。どこまでも自分の感覚で動き、そして後悔したりすることもない。

 そんなあいつだったら、さっさとこちらに順応してもおかしくなさそうだなと。優馬は思わず吹き出した。

「優馬、入る、いいか?」

 ノックの音とツェーベルの声に、意識を戻す。

「もうちょっと待って」

 今はまだ一糸まとわず、とても人を迎えられる姿ではない。

 あの気だるさからは解放されたものの、今は心地良い気だるさに囚われているし。その上考え事までしていたから、つい裸のまま仁王立ちを決めてしまっていた。

 急ぎ部屋を探して着替えると、痺れない着替えに感動してほんの少し沈黙してから許しの声をかける。

「いいよ」

 最低限の体裁を整え、ベッドから離れた場所に立ち、ツェーベルを迎え入れた。いかにも着替え終わったところというふうを装って、自然な流れの中で椅子をすすめる。

 つい先程まで乱れていた場所に同性が近づくのはなんだか抵抗があり、そのために考えた涙ぐましい努力である。

 重ねて言えば痕跡もまだ乾ききっておらず。自分の鼻は分泌物の匂いに慣れたのか感じないが、香り立ってツェーベルの鼻に届くのも出来れば避けたいことだった。

 だが。

「邪魔する。ふむ。随分、激しかったか」

 すんと、小さく鼻を鳴らしたかと思いきや。そんなことを言ってツェーベルは楽しげに笑い、体を揺らした。

「んはっ……いや、それを言うのか……」

 今なにか香ったとすれば限られる。心当たりがありすぎるし、同性からそれを感づかれると言葉にならない羞恥がこみ上げてやはり堪らない。

 からかい混じりの声色でなく、淡々とした物言いであることも隔意を優馬にもたらした。

 女学生たちに対するコメントに関して、優馬はツェーベルのそれをずっと軽口であると思い続けていたのだ。しかしどうにも、そればかりではないらしい。そこにはもちろん、異性の醸しだすフェロモン、とでもいうべきだろうか。それに誘われて本能をくすぐられたような、浮ついた感情だって見え隠れもしていた。

 だが今の言葉はどうだろうか。

 普通に社会生活を営む者であるなら、そういう匂いを嗅ぎ取った時。大小はあれど厭な顔をしたり、気まずそうな顔をするものだろう。親しい間なら、笑ってやるというのもあるかも知れない。

 けれどもツェーベルにそんな素振りは微塵もなかった。

「どうした?」

「……ちょっと、慣れなくて」

 優馬の冷静な部分が、ベッドの上とは別の意味で熱くなり始めた頭をさます。

 性的な満足を得た人は賢者になる、という冗談交じりな文言を思い出し。頭を軽く振って否定した。本能を満たすことに全力を尽くした頭と体は、到底十全な機能を発揮しているとはいえない。今ツェーベルとしているやり取りだって優馬は現実味を感じていないし、ノックされた時も危うく全裸のまま招き入れるところだった。

 馬鹿の考え休むに似たり。

 小人閑居して不善を為す。

 エネルギーを使い果たした今の自分は、どちらにも当てはまる。

 今ひととき、優馬は面倒なことに対する思考放棄を決めた。

「慣れない? 女にか」

「それもある。大きくは、文化」

「文化?」

「男女の関係。違う、全然」

「ふむ」

 ツェーベルはピンと来ない様子で椅子に腰掛けると、テーブルを引き寄せ組んだ腕を置いた。

 心当たりはあるのか顔をしかめ、眉間に皺を寄せ、視線は右往左往。時折優馬の分からない言葉で何かつぶやきながら頷きを繰り返して、それが何分ほどか続き。再び、八つの目が優馬を捉えた。

「思い出した。男と女、ずっと一緒いる……いう、やつだ」

「結婚」

「そうだ、結婚だ。その上、子供、親が育てる」

「うん。こっち、養育院?」

「よく知ってるな。昨夜、相手、言ってたか?」

「アリュブー、聞いた」

「おお……なら、凡そ、知ってるな」

「ただ、そういうのある、聞いただけ」

「ふむ。生まれてから、成人まで養育院暮らす。基礎教育受ける」

「なるほど」

 孤児院と何が違うのだろうか?

 養育院という響きからなんとなく想像は出来ていたが、優馬にはその違いが理解できなかった。

 まだこちらの世界に馴染んで短く、あくまで同質のものになっただけである以上、無理からぬ事ではあるだろう。知識は頭に入っていても、下地になっておらずパッと出てくるわけでもない。

 生まれてより親しんだ向こうの世界基準でものを考えてしまうからには、そんな答えになるのも仕方ないことである。

「女、臨月で養育院行く。産んで少し暮らして戻る。国家資格の保育士や学団の教師、子供育てる」

「おー」

「わかったか?」

 実の所あまり理解できていなかったが、優馬は頷くことにした。

 思考放棄は徹底していて、考えるべきかどうかの是非すら捨て去っている。右から左へ聞き流すとはこういうことかと、新たな経験に感動する余裕くらいは在るようだったが。

「……また、説明する」

 ツェーベルの返事に苦笑いを浮かべて適当に相槌を返し、どうやら顔に出ていたようだと、目覚ましも兼ねて顔を強くこすった。思考放棄を決め込んでいるとはいえ、申し訳なさはこみ上げてくる。そのことは謝らなければ気が済まない。

「ごめん、頭、動かない」

「仕方ないな。とりあえず、こちらの文化、意識しててみろ」

 その部分だけはしっかり頭に入れて頷くと、風呂の栓を抜いたように大きなあくびが頭の奥から溢れてきた。

 盛りすぎて、あまり寝ていなかったか。優馬が苦笑交じりに断って顔を背けた時、ふと目に入った舷窓の景色に眉をひそめ、窓辺に足を進めて目を丸くした。

「あ……出航してる」

 すでにあの港は遙か遠く、『アストナの葉』号は洋上の只中にあった。

 いつの間に出航したのだろうか?

 ある程度予測はつく。恐らくは、自分が女学生とことに及んでいる時であろう。激しい運動で動き出したことに気が付かなかったと推測もできるし、目覚めた時にみた舷窓の景色は港だったと、優馬には確信がある。一応初めての体験が明けた時だったのだ、強く印象残ってもいた。

「ああ、予想通りに」

「予想通り?」

 今ひとつ要領を得ず、優馬は聞き返した。

 予定ではなく、予想。

 一体何を意味しているのかピンとは来ず。首を傾げていると、ツェーベルは苦笑いを見せて。

「あの島、あちこち、動きあった。この船、狙ってたはず」

「それってあの……時々、話出た、狙ってる?」

「そうだ。『島』気になる。けど、こっちも気になる」

「『島』、どうなった?」

「それらしい、まだ。会ったら、博士、なんとかする」

『島』よりも、優馬を狙っている連中の方が厄介だ。ツェーベルは言外にそう言っている。鈍った頭にも、それは理解できた。

 否応にも、狙っている勢力が何者であるのか、恐れと疑問は募る。

 無論、差し迫る脅威の『島』とて恐ろしい。大きければ強いを体現した存在なのだ。海洋は彼らが本領を発揮できる場所であるのに反し、こちらは船という制限された移動手段に頼らざるをえず。乗組員の中には海向きの者たちも居るが、大きさの違いは如何ともしがたい。どう考えても、出会えば状況は絶望的である。

 それを踏まえても出航という選択肢を選ぶというのは、逃げる相手がそれだけ脅威的ということなのだろうか?

 いや。

 ツェーベルは博士が何とかするとも言っている。なにか、確信があってのことだろう。

 もっとも。アリュブーと邂逅した時を思えば、その言葉が盲信から出たという疑いはある。しかし彼女が居て出航するという事実は大きい。短い間であるものの、彼女が多くの人に信頼されているのは優馬も見てきた。なら、地位の高さも伊達ではないはず。船長とも親しげであるし、出航という案件に発言権を持たないとは思えない。

 安心してもいいな。

 結局思い悩んだ自分は、案外余裕があるのかとも思いつつ。優馬はその結論で満足した。

「わかった。なら、良かった」

「おう。じゃあ、飯、するか。腹減ったろ」

「ああ……とっても」

 三大欲求のうち二つが満たされて、未だ満たされぬ一つが駄々をこねる。

 二つを満たすために要したエネルギーを思えば、寝起きながらに食事は時間がかかりそうだった。




 海原を『アストナの葉』号が行く。

 そこに『島』の存在が仄めかされても、洋上こそが彼の彼たりえる場所だからだ。

 押し寄せるならば陸の者達より高波のほうが与し易く、主人が優れていれば恐れるものは何もない。

 まして『島』を相手取ることが出来るものを背に乗せていれば、わざわざ港でくだを巻いている必要などなかった。

「船内に変わりはなく?」

 長方形の木箱を小脇に抱えて、アリュブーは踵を返し尋ねた。陸地はすでに遥か遠く、背を向けた水平線に霞んでいる。

「ええ、何も。手の者の侵入は許さなかったと、そう見ていいでしょうな」

 船長は懐中時計を懐にしまい答えた。

 かねてからの予定通り、『アストナの葉』号は全船員に十分な休憩が行き届いたのを見計らって出航。予定時刻も外れること無く、大内海の波に揺られて警戒航行を続けている。

 取り巻く見張りの密な泳ぎや飛行に合わせる足取りは、哨戒の濃さに合わせて随分のんびりしたものだ。

 よもや、船を操って追いかけてくることはあるまい。優馬を、そしてアリュブーが抱えた木箱を狙っている連中がそこまで馬鹿ではないことは、アリュブーも船長もよく知っている。この速度での航行はその安心感に裏打ちされたものであり。『島』に対する恐れの強さを表すものでも、また在るだろう。

 出来るだけ水深の浅い所を割り出し。水中に光の届く範囲を多くして、警戒網を狭めながらであることもまた一因である。

「良い知らせですね。それでは……出会う確率は、如何ほどかと?」

 船長の鯱顔が曇る。

「あの死骸は新しいモノでした。腐敗無く、啄まれたあとも少なく。流れに乗ったとしても、死んだ場所から遠く離れていないように思えます。この近辺を警戒したまま歩いている可能性は、決して低いといえませんね」

「そうですか……」

 小脇に抱えていた木箱を両手で持ち直すと、軽く抱擁しアリュブーは目を閉じた。

 船長が眉間に皺を寄せて程無く。箱に、巻きつけられた布に変化が起こる。

 描かれていた紋様が綻び、布が綻び。しゅるしゅると滑らかで心地よい音を立てながら、その総体を緩ませていく。やがて木箱に巻き付く布は草臥れた包帯のように成り果て、アリュブーの目は再び開かれた。

 あまりに急速な変化だった。だらしなくたれさがるその様は疲れ果てた蛇のようで、しかし未だ色鮮やかでもある。海風や日に焼けた風でもなく。純粋な白を保ちながらに、纏い付く力だけが損なわれているようだった。

「ま、アタシを使うのが一番だよねえ」

 箱の中から声が響く。以前、トマグトの執務室でアリュブーと会話を交わしたあの声だ。

 船長は露骨に顔をしかめた。

「不本意ではあるが。今回の案件を速やかに、確実に遂行する上では不可欠であると言わざるをえない、な……出来るだけ、加減はして欲しいと思っている」

「悪いけどねー、船長。アタシだって『島』となっちゃあそうも行かない。しっかり準備しておくことをおすすめするよ」

「……皆には、耳栓を配っておこう」

 船長は一層渋い顔を見せ、それを解きながら長くため息を吐いた。

 わかっていたことではある。

 木箱の中身が如何に恐ろしくとも、所詮高々三メートル前後の人類種が持つモノ。百メートルにもなる巨人を相手取り、どうして手加減することができようか。

 本領を十全に発揮しなければ、未来を拾うことは出来まい。

 それでも、憂鬱は抑えられないものがある。

「ありがとうございます。船長。プラハッタも、世話をかけて」

「あはははっ! いいさ、アタシは。久々に外の空気も吸えそうだし満更じゃない。必要な出費だって思うことにする」

「そうならないに越したことは無いのだけれど……」

 少しの逡巡を間に置いて、アリュブーはほんの少し木箱に隙間を開けた。

 大きな潮風がアリュブーの髪に絡みつき、木箱の中までも滑りこむ。

 時間にすれば五秒にもならない数瞬。再び、箱は閉じる。

「今は、これで」

「……ありがと、アリュブー。んー……いい香りだ。潮と、アンタの香りだよ。あと……」

 数瞬、口を噤んで。

「血の臭いがする」




「ごちそうさま」

 今日の料理はいつになく味気なかった。

 塩味を利かせた穀類は疲れた体にこの上なく効いたし、朝だというのに供された肉もあっさりした味付けが食をすすめてくれる。船旅というのに新鮮さを保った野菜は歯ごたえ良く、スープも甘い口当たりが胃に心地良い。

 具合で言えば、満腹だ。腹八分目。優馬は船酔いしない性質であるし、船室も揺れに強い仕掛けが施されている。アレルギーだってないし、食で困ることのない立場だ。

 ただ、味気なかった。味は感じていたのだが心ここにあらず、緊張すらあって幻のように霞んでいる。

 昨日の夜まで、優馬の食事は三人でテーブルを囲むのが普通だった。ツェーベルと、ゼナストと、それから自分。男だけの華がない食卓ではあったものの、それはそれで気安いものがあった。同室でゆるやかな時間を過ごしたことが距離を縮めてくれ、大きさに威圧感を覚えるのはまだ抜けなくても、楽しい時間を過ごすことが出来る。

 だが今日の朝食は、違う。

 別室で行われた長テーブルでの食事はその二人に加えて、四人の少女たちが席を並べていたのだ。アリュブーが選抜し、一人は優馬と褥を共にした、あの女学生たちである。

 これには一晩と早朝のうちにやりきった頭も、一瞬にして目を覚ました。

 快楽に塗れた記憶がバネ仕掛けの如く蘇り、血流が本能に従って体内を駆け巡る。胸の鼓動はピークを迎えて、体の上下から来る要求への応答に遅れはない。

 下腹に鈍痛を覚えたが、それ以上の緊迫が脳に居座って殆ど感じられなかった。

 どうしてこうなったのか。

 心当たりなら在る。

 彼女らがああしたことも期待されて連れてこられた以上、そうした行為に及べるようになった今、より親睦を深めるためにとかそういう理由が立つようになった。優馬がストレスを溜めることによる危険も失われ、大きな発散方法まで提示すれば気兼ねはなく。もしかしたら文化授業の名目までも含んでいるのかもしれない。

 流石に深い意図までは優馬も読みかねる。

 それでも、心を落ち着ける助けにすることはできた。

 急ぎ席を立つ。

「ちょっと、涼んでくる」

 なんとも此処は居た堪れない。自室に戻るか甲板に出て、心のざわめきを沈めたい。

 今回の食卓は、ぎこちない会話の続く食卓でもあった。

 本来優馬は静かな食卓を好む性質だ。最近の食事風景はどれも賑やかで忘れかけていたが、それを再確認させられる出来事といえる。ツェーベルやゼナストに対しては同性の気安さもあったし、大きな体にも慣れようと努力もしていた。こちらのことをより知ろうと積極的に切り出していけるくらいだった。

 しかし、時に性別の壁は種族の壁よりも高く厚い。

 いや、厳密に言えば皆別種ではある。優馬を除けば、また同種でもあるか。

 ただ確実に、女学生四人はツェーベルやゼナストよりも優馬に馴染み深い姿をしているのだ。これが大きな壁になる。

 思いっきり姿形が違ってしまえば相手の性別が何であろうと意外に話しかけられるもので、臆すること無く会話を切り出すのも不可能ではない。逆に同じ姿をしていれば、そんな旅行めいた気分は無くなるものだ。

 使う勇気の質が違うのだろう。

 優馬は異質に対する勇気を多く持ち合わせているが、同質に対する勇気は乏しい。

 かといって、アリュブーの誤算だったというわけではない。

 同質に対する勇気が乏しい割に、より大きな情動を持つのもまた同質で。有り体に言えば彼はノーマルだった。優馬はアリュブーに対して性的興奮よりも恐れが先に立つし、ツェーベルのような蜥蜴の成分が濃い女を見ても欲情はしない。

 まだこちらに慣れていまいというのは、アリュブーの経験がものをいったといえる。事実彼は、性欲を大いに満足させることができたのだから。

 さて、つまりどういうことかといえば。

 ドライな言い方をすると、体は欲しいが会話は然程でもなし。

 それが優馬のスタンスであったため、今回のような状態が生まれてしまった。ということだ。

 こちらに馴染む手助けになりそうなスタンスではあるが、事は女との同意があって成り立つものであり。まだ修行が必要であることの現れともいえよう。

 そんな優馬がそそくさと部屋を辞そうとした時、不意に扉が開かれた。

「お邪魔します」

 アリュブーだった。

 食事をしていた一同は立ち上がって、真っ直ぐ体の正面を彼女に向ける。

「楽にしてください」

 彼女が告げて、少し姿勢を崩した。

 食事途中であったが続きに取り掛かる者は無く。小脇に封の解かれた木箱を見たゼナストから息をのむ音が響いた。

 危惧していたことが現実になろうとしている。木箱のありようはそれを示している、と。

「みなさん」

 返事はない。

「『島』との接触が濃厚になって来ました。まだ新しい、大海蛇の残骸が見つかっています」

 やはり。

 誰からとも無く長い溜息がこぼれる。

「それで、その封が解かれてるんですかい?」

 ゼナストが尋ねた。

 皆も気づき視線を注げば、女学生達は表情を固くし。ツェーベルと優馬は怪訝な表情を浮かべた。

「そうです。ですから、心配ありません。彼女の力を借りれば、大過なく今回の事を越えられるでしょう。皆さんは耳栓をお忘れなく。ここに来たのは、それを伝えるためです」

 プラハッタ。という単語が、女学生たちの間で囁かれはじめている。彼女達の言葉で話しているから内容まではわからないとはいえ、この言語はいくらか聞き慣れてきているもの。これまで耳にすることもなく、話題になっているらしいことは優馬にも選別できる。

 ツェーベルやゼナストも知っていることだろうか? ちらりと視線を向けてみると、どうやら知っているらしい。ゼナストは渋い顔をしているし、八つの目はどれも大きく見開かれていた。

「プラハッタ……」

 ツェーベルもその言葉を呟く。恐れの中に、期待が混じっているように優馬は思えた。

 ふと廊下を走り来る音が聞こえて、間もなく船員の一人が姿を見せた。アリュブーに耳を寄せて何かつぶやき、手短な返事をもらうと、元来た道を走り戻っていく。

「どうやら姿を確認出来たようです。戦闘は手短に終わらせますが、くれぐれも危険なことはしないように」

 そう言い残して、アリュブーもその場を去っていった。

 思ったよりも早く、運命の時が来る。朝の早いうちに出会えたのは憂いが失せて良いと取るべきか、幸先が悪いと取るべきか。その場の誰にも、判断はしかねるものだったが。




「状況は」

「良好です。目標は南東方向から、こちらの航行速度を上回る速さで接近中。感じますか博士? 海が微かに震えている。走って来ているんですよ」

「ええ、わかります。船に寄せる波が小刻みになって、鬱陶しいくらいですから」

 船内からアリュブーが戻ってきた時。状況は緊迫を極めていたが、アリュブーと船長に焦りはなかった。船員たちが醸しだす張り詰めた空気に惑わされることなく、震える海に心まで震わされることもなく。穏やかな陸に立つごとく、しっかりと足をつけている。

 悠然と佇む二人の姿に、船員たちの心で安心と不安がせめぎあっていたものの。それが形を持って現実になるということはなく。一人が距離を叫び上げる以外には、むしろ静寂であるほどだった。

「ええ全く。足音には特徴があると言いますが、どうやら沸騰しやすい性質のようだ。ふむ……もう一分とかからんでしょう」

 おもむろに、アリュブーは木箱を開いた。先ほどのように申し訳程度、隙間を開けるものではない。蓋をその場に落とし、収められていたものを手に取ると、両手で持って空に掲げる。

 異形の剣だった。

 長い柄は緑の鱗と茶の毛皮が入り混じり、鍔は犬の耳。幅広い片刃の刀身には、鱗持つ顔の皮を引き伸ばして貼り付けたように、人類種のもつ顔のパーツが斑に配置されている。

 眩い陽光を浴びて、その目が細められた。

「おお、眩しい眩しい……たまらないねえ、こりゃ」

 牙をむき出しにした口が、言葉を紡いだ。

 生きているのだ。

 表情も豊かに刀身の上で目が、鼻が、口が蠢いて。耳がパタパタと、忙しげにあちこちへ向けられる。

 見るものに吐き気を齎す、あまりにかけ離れた生の形。

 それが剣の形をとって、紛れもなく存在していた。

「プラハッタ。準備はいい?」

「いいとも。久々に箱から出れて、随分と元気も出た。ちょいと嫌なことをしたって忘れられるね」

 アリュブーの手の中でカラカラと笑う剣に、船員たちの緊張がピークに到達する。

 彼らも知っているのだ。この剣が、プラハッタがどういうものなのか。

「博士、来ます」

 接近を知らせる船員の声は金切り、連れて振動は早く短く、そして大きくなって。ひときわ大きなドスンという衝撃の次の瞬間。海が割れた。

 海に慣れ、海に住まう者でも、それを見ることは決して多くない。

 彼らを『島』と呼び表すなら、陸に住む巨人を一掴に出来るだろう手は塔。『島』に聳える二つの塔が、次いで飛び出してきた物見物食う岸壁とともに、水飛沫ともども海原から突如として突き出すその様。火山の爆発をも彷彿とさせる、力強き生命の躍動であった。

 身の丈百メートルに及ぶとは決して誇張ではない。

『アストナの葉』号に乗る全ての者が、それを思い知らされ。

 恐慌が生まれた。

 あまりにも奇妙な恐慌。

 悲鳴の一つとて生まれない、沈黙。死が喉にめり込んで声を殺す一瞬。

 アリュブーと船長だけが死神の鎌を歯で噛み、不敵に笑う。

「そこです」

 アリュブーが呟いて。

 ぴたりと、『島』の体が止まった。洒落て言うのなら、『浮島』になったとでも言ったところだろうか。

 海底を蹴り、水中に空中に飛び上がった姿勢のまま、標本のように動くことはない。指先が『アストナの葉』号甲板に触れるか触れないかの絶妙のタイミング。

 水飛沫が船の全てを打って、けたたましい音を建てる。

「お願い」

「はいよ。任せときなって」

 プラハッタは笑い──瞳孔が散大する。歯は食いしばられ、緩やかに開き、喉の奥が顕になって。

 耳を犯す絶叫が、海と空を揺るがした。

 船の全てが悲鳴をあげてもまだ足りない、生命を千切られる生の音。死に際して溢れ出す、声によらぬ魂の軋み。

 断末魔。

 プラハッタ。彼女は昔人類種であり、今の姿は断末魔剣ジンセイといった。その名は狂える作者が日本語からつけたもので。

 人製の、人生を贄とせし、人声にて喚く、尽生の剣であることを意味する。

「せいっ!」

 気合と呼ぶには軽い掛け声で、アリュブーはプラハッタを『島』の指に突き出した。刀身は水を貫くように容易くめり込み、骨にまで到達する。断末魔剣ジンセイは断末魔の叫びからの超振動剣でもある。容易いことだ。

 けれどもそれは、効果の一つでしか無い。

 断末魔剣ジンセイは怪物を倒すための剣である。怪物を倒すのは人類であるがゆえに。

 刀身が指に深々と突き込まれた瞬間。『島』の血と肉と骨を伝い、断末魔の叫びが脳髄の深くにまで染み渡った。

 結果は、失神。

 空中で巨体がびくりと、一瞬震える。

「発進してください」

「了解しました。発進!」

 船長の号令に、船員たちが我に返った。

 何が起こったのかわからない。いや、アリュブーが。聖骸殿が。プラハッタが! この窮地を覆した!

 理解できた範疇のことに押されて、船員たちの行動は迅速だった。

 『アストナの葉』号はたちまち海域を離脱し、十分離れたところでアリュブーは振り返る。途端、空中にあった『島』は海面に叩きつけられ、浮かぶ。

 再び大きな波しぶきが空にそびえて。

 あとには、静寂が蘇った。

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