英雄は私ではない
オフィーリア女王が崩御して、二十年。
王都は、穏やかな春を迎えていた。
白い石畳には花びらが舞い、広場では子どもたちが笑っている。商人たちは声を張り上げ、焼き菓子の甘い匂いが通りに流れていた。
かつて飢えと怒号に満ちていた街とは、まるで別の国のようだった。
王宮から少し離れた屋敷の書斎で、一人の老人が椅子に腰掛けている。
名を、カイルという。
かつて平民の出でありながら女王の右腕となり、帝国改革を成し遂げた男。今では“英雄宰相”と呼ばれ、若い官吏たちの手本とされる人物だった。
そのカイルが、静かに一冊の本を閉じた。
革張りの表紙には、金の箔押しでこう記されている。
――『冷酷なる女王 オフィーリア治世録』
近頃、王都でよく売れている評伝だった。
若い歴史家が書いたというその本は、読み物としてはよくできていた。文章は華やかで、事件の並べ方も巧みだ。民衆が好みそうな逸話も多い。
ただし、真実はほとんど書かれていなかった。
そこに描かれたオフィーリアは、冷酷な暴君だった。
貴族を脅し、逆らう者を切り捨て、民を恐怖で従わせた女王。
王配を持たず、数多の愛人を侍らせ、己の美貌と権力で男たちを弄んだ孤独な支配者。
そして、その傍らには必ずこう書かれている。
――英雄宰相カイル。
カイルは、深く息を吐いた。
「……違う」
誰もいない書斎に、小さな声が落ちた。
英雄などではない。
少なくとも、カイル自身は一度もそう思ったことがなかった。
あの時代を変えたのは、自分ではない。
金の髪。
菫色の瞳。
軍服をまとい、玉座に座る姿は女王というより、王そのものだった。
誰より美しく、誰より苛烈で、誰より孤独だった人。
オフィーリア。
その名を、カイルは声に出さなかった。
もう長いこと、彼はその名を口にしていない。
否。
生涯で、たった三度しか呼ばなかった。
書斎の窓から、春の光が差し込む。
机の上には、小さな紙箱が置かれていた。王都の菓子店で買った、季節限定のクリーム菓子である。
もう、喜ぶ人はいない。
それでもカイルは、毎年この季節になると買ってしまう。
彼女なら、きっと目を輝かせただろう。
顔は少しも変えずに。
ただ、菫色の瞳だけをほんのわずかに輝かせて。
――甘味はあるか。
あの低く澄んだ声が、今も耳に残っている。
カイルは目を閉じた。
彼の人生は、あの人に見出された日から始まった。
それは、王都が飢えかけていた年のことだ。
◇
「パンが、また値上がりした?」
十七歳のカイルは、王都南区の露店前で足を止めた。
焼きたてのパンの香りはする。だが、並ぶ人々の顔は暗い。店先に置かれた値札を見て、誰もがため息をついていた。
露店の店主は、気まずそうに頭をかいた。
「悪いな、カイル。こっちだって好きで上げてるんじゃねえ。小麦が入ってこないんだ」
「昨日よりさらに高い」
「北の倉庫の小麦が押さえられたって噂だ。貴族様が冬に備えて買い占めてるんだろうよ」
カイルは黙って広場を見渡した。
痩せた女が、幼い子どもの手を引いている。子どもはパンを見つめたまま、腹を押さえていた。兵士は苛立った声で人々を列から追い払っている。
空腹と怒り。
その二つが混ざる時、街は簡単に燃える。
カイルは、それを知っていた。
かつて辺境で、老人に教え込まれたからだ。
『腹を空かせた民を侮るな、カイル』
老人は、いつもそう言っていた。
『王も貴族も、最後に倒すのは剣ではない。空腹だ』
カイルは店主に向き直った。
「三日以内に暴動になる」
店主の顔色が変わった。
「物騒なことを言うな」
「物騒なのは俺じゃない。小麦を止めた連中だ」
「……お前、どこへ行く気だ」
「王宮」
店主は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
それから、乾いた笑いを漏らす。
「平民のお前が王宮に行ってどうする」
「止める」
「誰を」
「この国を動かしている連中を」
我ながら無茶だと、カイルも思った。
剣は使えない。走るのも遅い。家名もなければ、財産もない。
あるのは、老人に叩き込まれた知識だけ。
それでも、行かなければならなかった。
このままでは、死人が出る。
◇
王宮の門前は、平民が近づいていい場所ではなかった。
白い城壁。金の紋章。槍を持つ衛兵。磨かれた馬車。整えられた庭園。
すべてが、カイルの生きてきた世界とは違っていた。
「止まれ」
衛兵の槍先が、カイルの胸元に向けられた。
「何者だ」
「カイルと申します。王都南区の穀物価格について、陛下にお伝えしたいことがあります」
一瞬の沈黙。次いで、衛兵たちは笑った。
「平民が陛下に?」
「寝言は寝て言え」
「帰れ。ここは物乞いの来る場所ではない」
当然の反応だった。
だが、カイルは引かなかった。
「今、南区ではパンの価格が三倍に上がっています。小麦の流通が止まり、買い占めも起きている。放置すれば三日以内に暴動になります」
「失せろ」
槍の柄で肩を押され、カイルは石畳に膝をついた。
痛みより先に、苛立ちが来た。
「このままでは、死人が出る」
「貴様――」
「死人だけで済めばまだいい。火が出れば南区全体が燃える。鎮圧に兵を出せば、民は王家を恨む。そこに貴族が食糧を高値で売れば、次に燃えるのは貴族街だ」
衛兵たちの笑みが消えた。
まずい、と思ったのだろう。
ただし、彼らが恐れたのは民の命ではない。
この言葉が、誰かの耳に届くことだった。
「黙れ!」
胸を蹴られ、カイルは石畳に倒れ込んだ。
息が詰まる。
頬に冷たい土埃がつく。
その時だった。
「何の騒ぎだ」
低く、よく通る声がした。
広場の空気が、一瞬で変わった。
衛兵たちが慌てて姿勢を正す。馬車の扉が開き、黒と金の軍服をまとった若い女が降り立った。
金の髪が、朝の光を受けて淡く輝く。
菫色の瞳は冷たく、背筋の伸びた立ち姿には一片の隙もない。
美しい女だった。
けれど、カイルが最初に感じたのは美しさではなかった。
怖い。
それが、彼の第一印象だった。
「女王陛下っ……!」
女王──そう呼ばれるのは一人しかいない。
オフィーリア・レイ・アルヴァンス。
若くして帝国の玉座に就きながら、実権は宰相に握られていると噂される、飾りの女王。
だが、目の前に立つ女は、飾りなどではなかった。
誰よりも、王の顔をしていた。
オフィーリアは、石畳に倒れたカイルを見下ろした。
「お前が騒いでいたのか」
「……はい」
「何を言った」
衛兵が慌てて口を挟む。
「陛下、ただの平民の戯言でございます。すぐに追い払います」
「私はお前に聞いていない」
冷たい一言で、衛兵は黙った。
オフィーリアの視線が、再びカイルに戻る。
「言え」
カイルは息を整えた。
ここで間違えれば終わりだ。
けれど、あの菫色の瞳は、少なくとも彼の言葉を聞く気があった。
「南区は三日以内に暴動になります」
周囲がざわついた。
「理由は」
「小麦の流通停止と買い占めです。特に北倉庫の在庫が不自然に消えています。市場価格が三倍になったのは、飢饉ではありません。人為的な操作です」
オフィーリアの表情は変わらない。
「続けろ」
その一言で、カイルは確信した。
この人は、飾りではない。
見ている。
聞いている。
考えている。
「今すぐ王家名義で備蓄小麦を放出してください。ただし無償ではなく、通常価格の半値で。無料配布にすれば貴族が横流しします。半値なら民が買え、商人も動きます」
「兵は?」
「出すべきではありません。兵を出せば暴動を確定させます。必要なのは剣ではなく、明日のパンです」
沈黙が落ちた。
風が、王宮前の広場を抜ける。
オフィーリアの唇が、ほんのわずかに上がった。
「名は」
「カイルです」
「家名は」
「ありません」
衛兵たちが息を呑んだ。
女王はカイルをまっすぐ見据えたまま言った。
「カイル」
「はい」
「王宮に来い」
カイルは一瞬、意味が分からなかった。
オフィーリアは踵を返す。
「お前を使う」
それが、カイルと女王陛下の始まりだった。




