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嫌。
コレーは消え失せるような声で呟くと、途端反対方向へと走り去ってしまった。
ハデスはわかったことがある。
農墾の女神デメテルは、非常に感情の浮き沈みが激しくあること。それが人間界に多大な影響を及ぼしていること。寵愛の愛娘に関しては特にその傾向にあること。
近頃のデメテルはコレーを縛り付けるのに躍起になるあまり、本来果たすべき役目が徐々に疎かになり、人間界に飢饉が蔓延しつつあること。さすがにそれは注意すべきだ、と大神として重い腰を上げ始めたゼウス。珍しく女漁りや下らない世間話以外が彼を突き動かしているという。
そして今、何故かコレーが冥界におり、よりにもよっていきなりハードな仕事風景を見られてしまったこと。ショックを受けどこぞへ逃げてしまったこと。コレーは冥界の内部を把握していない。迷い込み、デメテルの娘とも知らずに魑魅魍魎どもに襲われるやもしれぬ。それがデメテルの白日の下に晒された暁にはーーーー
「任せる」
「えっ」
ハデスはコレーが消えた方向に足早に向かっていく。
今まで石のように動かなかったハデスの急な行動に、失態への叱責の予期に身震いしていた小鬼、上司の指示を待っていた部下たち、裁判が途中なままの亡者達、とにかくその場にいたものどもは揃って同じ台詞を吐いて目を丸くした。
勤勉なハデスは、最後まで見限らずに仕事を全うする。そんな彼が何もかも差し置いてひとりの少女を追いかけていったなどと。
ーーー彼氏行ったああああああ
ーーー追いかけてラブの流れですか!?
そりゃもう残された面々は下世話な盛り上がりを見せたのであった。
ーーー早く、デメテルに見つからないうちに戻す。
ーーーもしまずそうだったら、記憶でも弄ろう
残った仕事など誰もやっていないことを知らないハデスは、なんだか物騒な思考でコレーを探していた。
ーーーこわい。いや。
なんだかわからないままがむしゃらに走ったコレーは、上がった息を整えるために停止すると、その場で力なく蹲る。ここは何処だろうか。まっすぐ走ったつもりが、小鬼に連れられて見た景色とはまるで違っていた。
冥界は暗い。ある程度見渡すことができ、夜目が特別効いている冥界の住人ならば問題はない。しかしコレーのような明るい日の光の下で生きていた者にとっては、常に夜を迎えた状態のここではかなり間隔がおかしくなる。加えて生き物のように、冥界は自ら成長を続ける。亡者達が増えるにつれ手狭にならぬよう、まるで意志を持っているかのように広がっていく。冥界の住人ですら時折迷子になってしまうほどのそれは、コレーの帰り道も所々形を変えていったため、コレーは完全にひとり迷ってしまったのだ。
ーーーここ、どこ。おかあさま、
ひう、と鼻をすすり始めるコレー。過剰すぎる保護といえど、結果的には彼女は危険から守られていたのだ。己の今の心もとさをひしひしと感じると、デメテルへの反抗心も徐々に薄れていくのだった。
ーーーこわいわ、おかあさま。こわいわーーーハデスーーー
ようやく会えた想いびと。全く違う生き物みたいだった。何かを無情に切り裂いた様は、ひどく冷徹で、おそろしく、血にまみれた姿はこれ以上見ていられなかった。心の中で彼の名を呟いた瞬間、コレーは啜り泣きから咽ぶように嗚咽を漏らし始めたのだった。
「ごめんなさ、ごめんなさい、勝手なことして、うえ、うああああん、」
その姿はまるで幼子だった。デメテルを非難しておきながら彼女の庇護なしではこうして帰り道もわからないのならば、幼子よりもさらに頼りない。自分の無知無力さにも嫌気が指す。コレーはわんわん泣き喚くのを止められなかった。
「擦るなと言っただろう」
はあ。と彼にしては珍しく長い息を吐きながら、ハデスはコレーの目の前に現れた。ぐしぐしと瞼周りを拭う手を掴むハデス。しかしそれが亡者の血濡れであることに気づくと、すぐさま引っ込める裾で入念に拭き取った。だが遅くばっちり赤色を見てしまったコレーはじわりと瞳を潤ませたので、もうハデスは強硬手段に出ることにした。
「帰るぞ」
それだけ呟くと、コレーの腕を強引に掴み立たせ有無を言わさず引き歩く。掴まれた腕に痛みを訴えようがお構い無しに、あっという間に地上へとたどり着いた。駆け寄るケロベロスも無視してずんずん突き進むと、彼女がハデスに会うまでの時間の一握りも費さぬ早さで母の庇護下に返して見せた。終始乱暴にコレーを扱ったハデスだが、ようやくここで優しく手を包み込み、声のトーンも心なしか柔らかく努めながら、
「痛くして悪かったな」
それだけ呟くと、片方の手で彼女の腕をひと撫ですると、何か言おうとしたコレーも見ずにすぐさま立ち去っていった。
追いかけようと思わず足を踏み出すと、激しい締め付けがコレーを襲った。デメテルの拘束が効力を回復させたのだ。たまらず囲いへ戻るコレーは、ハデスが去っていった方向をしばらく眺め続けていた。
腕の痛みは消えていた。
意気消沈するケロベロスを軽くあやしいなし、速やかに裁きの場へと戻るハデスは、裾をまくった自らの腕に赤みが浮かび上がってくるのを見つめた。ハデスは傷をその身に移す能力を持つ。相手の傷に触れるだけで、自らが代わりに傷を負うのだ。治癒能力とは違い、神の不死による自然治癒という、傷の度合いによればかなり無茶のある力である。幸い軽い痣であるそれも、徐々に消え失せていくが、ちょっと強く握りすぎたとハデスは反省した。
ーーー精神的な配慮が足りなかった気がする。
自らの責任とはいえ、コレーは多すぎる恐怖を数時の間に体験していた。それがデメテルに知れたならどうだろうか。ふと思い足を止めるが、既に彼女の防壁が己を排除しにくるだろうと思い諦めた。
ーーーそういえば、通れたな。
迅速にお返ししたとはいえ、デメテルの守りの最中に自分が何も攻撃されなかったことに気づいたハデス。やがてそんな疑問も、席を外してから一切手をつけられていなかった仕事に追われていくうちに霧散していったのだった。
ハデスが追いかけて行った後、亡者も含め噂噂でやんややんやな冥界は、それは然るべき場所とは思えぬ俗世っぷりだったという。




