【31】小説です
琴葉が校門を出ると、二か月前にいなくなった父が、車のまどから顔を出して「元気そうだな、乗りな」と助手席を這うようにしてドアを開けた。
迷ったものの琴葉は車に乗った。
小学一年生の三月の春休みの初日に、母は「引っ越すことにした」とボストンバッグに荷物を詰めていた。
「あんたも洋服を出して、あと文房具をランドセルに入れなさい、教科書は要らないからね」と言いながら、どんどん荷物をまとめていった。
四月に二年生になるから教科書は要らないのだと、なんとなく分かった。
それから引っ越し屋のおじさんが来て、小さなトラックにどんどん荷物を載せてくれた。
琴葉が星の図鑑を持っていたら、「そういうのは後で買えるから置いていって」と言われてしまい、仕方なく棚に戻した。
新しい家というのは、さっきまで住んでいた団地の半分くらいに狭く、トイレも汲み取り式で恐ろしかった。幼稚園児の琴葉の弟は、トイレが怖くて一人では行かれず、そのたびに琴葉をドアの外で待たせた。
夜になっても引っ越し屋のおじさんは帰らず、一緒にソバを食べていた。
そしてソバを食べ終えた母が「おまえたちの新しいお父さんよ」と言った。
団地に置いていけと言われた星の図鑑は、結局それから買ってもらえることもなかった。
父は車を運転しながら「新しいお父さんはどうだい?」と聞いてきた。
どうもこうもない。
この父も好きではないが、琴葉の中で「新しい父」というのは引っ越し屋から昇格していなかった。
ただ、いつだって母が法律なのでお父さんと呼ぶしかないだけだった。
何も言わないでいると、「まあ、おまえも大変だよなぁ」と他人事のように言われた。
車は2時間くらい走り、見知った道になった。
そこは「おじいちゃんとおばあさん」の家の近くだ。
琴葉は沈んだ気持ちになる。
おじいちゃんは優しい人だが、おばあさんは琴葉に冷たかった。
親戚が集まっても琴葉と弟にはご飯をよそってもらえず、お嫁さんが気づいてご飯をくれるのがいつもだった。
「カツオ!あんたいきなりなんだ!こんなの一人だけ連れてきて!」
父が玄関を開けると、おばあさんが怒鳴ってきた。
「すぐ帰るから」
父はそう言うと、おばあさんを無視して電話の前に座った。
琴葉はどこに居たらいいのかわからず、とりあえず父の近くに正座をした。
辺りは暗くなり始めていた。
弟はどうしているだろう、そろそろ母が仕事に行く時間だった。
いつも二人で留守番をしているのに、琴葉がいなくて弟はどうなるのか…。
すると、父がメモを見ながら電話をしたのは琴葉の家だった。
「もしもし、俺はカツオって言えば誰か分かるよな。牛子はいるかい?いない?ならちょうどいいや。今ね、琴葉を預かってる。300万払えばそっちまで送っていく。あんた副社長だっていうじゃないか、現金300万くらい金庫にあるだろ」
副社長とは誰だろうか。
引っ越し屋のおじさんなら、地下足袋を履いて雨の日以外は仕事に行って夕方帰ってくるが、とても「副社長」という雰囲気はどこにもない。
「は?300万もあるわけない?なんだよ、自分の娘じゃないとどうなってもいいって言うのか。じゃあまあ負けて100万にしてやるから、それならすぐに用意できるだろう」
琴葉は、もしかして父が引っ越し屋の新しい父から、自分と引き換えに金をもらおうとしているのかと気づいた。
前の団地で週に4回、夜に預けられていたホラサワさんの家のテレビでよく流れていたドラマで聞いたことがあった。「ゆうかい」「みのしろきん」
ホラサワさんは琴葉と弟にはテレビを見せてくれないが、ドラマが始まると琴葉たちの存在を忘れるのか、部屋の後ろで背中を向けてじっとしていればテレビを聴くことができた。
子供を「ゆうかい」して「はんにん」が「みのしろきん」を寄こせという、あの電話にそっくりなことを父が言っている。
ただ、ひとつ違うのはサングラスをした怖い犯人ではなく、その電話を掛けているのは琴葉の父親だということだ。
「だからよ、100万くらいあるだろうって言ってるんだよ。あ? 払えない?じゃ、しょうがないから50万にしてやるから、それくらいあるだろうよ。琴葉が帰ってこなくてもいいのか?え?帰ってこないならそれでいい?なんだよ、あんた酷いヤツだな。じゃあ30万にしてやるよ、俺だって鬼じゃねえんだ。ふざけんなこれ以上まけてやることはできねえよ。……分かった3万ならすぐに払えるってんだな?じゃあ3万でいい。え?今日は払えない?じゃあ明日だ。明日の昼頃に琴葉をそっちの家の近くの公園に連れて行くから、3万と引き換えだ」
ふすまの向こうにいたおばあさんがゲラゲラと笑っていた。
琴葉のことを、指をクイっとして呼ぶと、
「あんたの値段、3万ぽっちだって」
そう言って笑った。
ずっと後になって知ったが、琴葉の父はおばあさんの子ではなかった。
おじいちゃんが外の女に産ませた双子のうちの一人が、琴葉の父のカツオだったのだ。
よその女が産んだカツオの娘である琴葉など、おばあさんから見たら少しも可愛くなかっただろう。
琴葉はおばあさんの言葉より、父の電話のほうが気になっていた。
最初300万円だった「琴葉の値段」がどんどん安くなっていき、最後は3万になった。
ホラサワさんちのテレビドラマでは「みのしろきん」は「1億円」とかだった。
最初から300万円と格安な上、最後は3万円になったのだ。
しかもそれを払うくらいなら要らないと電話の向こうの引っ越し屋のお父さんが言ったようだ。
その後、琴葉はお嫁さんからおにぎりを2つ貰って食べ、座布団を3枚並べて敷いてくれたところで寝た。お嫁さんだけが琴葉に優しかった。
起きると、父はいなかった。
そこまでは覚えているが、その後、どうやって母のいるところに戻ったのか、琴葉は何も覚えていない。
母から「あんたがボサッとしてるから、3万も取られた」と叱られた。
それから父が学校に現れることはなかった。
なんとなく、父が居るのではないかと琴葉はいつもソワソワした。
琴葉は何故か、おばあさんの家でのことを母にも弟にも話さなかった。
おばあさんに笑われて「あんたの値段は3万ぽっち」と言われたことが耳に残っていたが、それを言えばいつもおばあさんの悪口三昧だった母の言葉に、材料がひとつ増えるだけだと思ったからだ。
ちなみに父が引っ越し屋の新しい父を「副社長」と言ったのは、母がそう言われて騙されたということらしい。
夜の蝶だった母は、店の客だった引っ越し屋のおじさんの口車に乗せられて、父と離婚して再婚した。
その後、3万円の何かを見るたびに、琴葉は自分と同じ値段だと思うようになった。
小さな冷蔵庫、ハンディ掃除機、ゲーム機のハード、いろいろなものが琴葉と同じ値段だ。
就職して、最初の給料で3万円の金のペンダントを買った。
ペンダントトップまで、すべて金だけで作られているものを。
その時の給料でいうと、とても高価なものだ。
琴葉は、アルバイトではなく、就職して働いた金であの日の8歳の自分を買ってやった気になった。
高校生の時にアルバイトを掛け持ちして貯めて、すぐに家を出ようと思っていた。
でもなかなか思うように貯まらず、少し時間がかかった。
引っ越し屋のおじさんから離れられれば、どんなボロアパートでもいいのだが、初期費用にある程度の金が必要だった。
3万円の金のペンダントを買うと、また少し家を出る日が遅くなる。
それでも欲しかった。
これまでアクセサリーを持ったことがなかった。
これからは誰にも頼らず、あの日の自分を首にぶら下げて生きてやるんだと思った。
今は金の値段が上がって、8歳のあの日の琴葉の値段はかなり上がっている。
小説です(*´ω`*)




