第五話 〜んよ
儀庭の朝は、薄朱色の光が黒檀の柱をそっと照らし、
水盤の水面がまだ揺れることのない静かな時間であった。
そんな中、芳華が東屋の縁で困った顔をしていた。
芳華:「昨日、詩灯路で、人とすれ違ったんじゃけど……」
※ 詩灯路:王城の北側にあり、夜には灯火が揺れる中、詩歌の朗読が行われる風情ある小路。
黒耀が巻物を抱えたまま振り返る。
黒耀:「それがどうしたん?」
芳華:「向こうが『おはようございます』言うたんかと思うて返事したら、
よう聞いたら『おはし落ちましたよ』じゃったんよ~……」
黒耀は眉をひそめて巻物を抱え直す。
黒耀:「詩巻の聞き間違いでもそんなことは起こりません!」
夜凛が舞の袖をひらりと揺らしながら歩み寄って来た。
夜凛:「舞で声を拾っちゃげるけぇ! ほら、風で——」
芳華:「拾いなさんな~! 声がどっか飛んでいくんよ~!」
琴雪はすでに深読みを始めていた。
琴雪:「これは“聞の乱れ”じゃ。
音の迷いは心の迷いであり——」
紅牙が静かに言う。
紅牙:「……違う。無視せぇ。」
芳華:「無視したら失礼なんよ~!」
儀庭の静けさは、また一瞬で消え去った。
聞き間違いから始まる騒ぎは、朝の風よりも速い。
声が飛び交い、舞が風を起こし、深読みが暴走し、
紅牙が極端な一言で締める——
昭華王朝の朝は、今日もゆるりと騒がしい。
【昭華の豆知識】
●『聞の乱れ』
昭華王朝において、挨拶や他者からの呼びかけを聞き違えてしまう現象を指す言葉。当時の文化では「音の整合性」が極めて重んじられていたため、聞き手の耳に届いた言葉のわずかなブレであっても、それは「心の揺らぎがもたらす美」として風流に語られていた。
●"音は心の形"
昭華の美意識では、音が整っていることは、そのまま心が整っていることと結びつけられていた。芳華が起こした今回の聞き間違いも、当時の価値観に照らし合わせれば、「彼女の心が何らかの事象に揺れ動いていた証拠」として解釈される。
儀庭の朝は、今日もゆるりと始まり、ゆるりと騒がしくなる。
それこそが昭華王朝の、いつもの日常であった。




