第五話 聞の乱れ《きのみだれ》
儀庭の朝は、薄朱色の光が黒檀の柱をそっと照らし、水盤の水面がまだ揺れることのない静かな時間であった。
白い石畳のあちこちには夜の冷気がかすかに残り、これから始まる一日の営みを前に、庭園は深い静寂に包まれている。
そんな中、修行の合間の穏やかな空気を破るように、芳華が東屋の縁で巻物を抱えたまま、何とも言えない困った顔をして佇んでいた。昨日、彼女の身に起こったという世にも奇妙な意思疎通のすれ違いについて、どうしても仲間に聞いてほしい様子なのである。
芳華は水盤のふちへ力なく腰掛けながら、小さく溜息をついた。
芳華:「昨日ね、詩灯路で、人とすれ違ったんじゃけど……」
※ 詩灯路:王城の北側にあり、夜には灯火が揺れる中、詩歌の朗読が行われる風情ある小路。
その呟きを聞き咎め、隣で並べ替えの作業をしていた黒耀が、抱えていた巻物の束を抱え直しながら怪訝そうに振り返る。
黒耀:「それがどうしたん?」
芳華は昨夜の小路の暗がりと、耳の奥に残る奇妙な残響を思い出すように首をかしげた。
芳華:「向こうが『おはようございます』言うたんかと思うて返事したら、よう聞いたら『おはし落ちましたよ』じゃったんよ~……」
黒耀はあきれたように眉をひそめ、手元の巻物をしっかりと腕の中に収めた。
黒耀:「詩巻の聞き間違いでもそんなことは起こりません! 音の並びが違いすぎます!」
そこへ、廊下の向こうから舞衣の袖をひらりと揺らしながら、夜凛が独特の軽い足取りで歩み寄って来た。
夜凛:「舞で声を拾っちゃげるけぇ! ほら、風を起こして鼓膜まで——」
芳華は慌てて両手を振り、夜凛の謎の親切を全力で拒絶する。
芳華:「拾いなさんな~! そんなことしたら声がどっか飛んでいくんよ~!」
二人のやり取りを横目に、琴雪はすでに手元の深読み書を広げ、独自の考察を始めていた。
琴雪:「これは“聞の乱れ”じゃ。音の迷いは心の迷いであり、心の惑いはまさに——」
背後で静かに佇んでいた紅牙が、自分の影を見つめたまま、低く冷徹な一言を放つ。
紅牙:「……違う。無視せぇ。」
芳華はさらに困惑した表情になり、情けない声をあげて身をよじった。
芳華:「無視したら失礼なんよ~! せっかく教えてくれたんじゃけぇ!」
儀庭の静けさは、また一瞬で消え去った。
聞き間違いから始まる騒ぎは、朝の庭を吹き抜ける風よりも速く広がっていく。
声が飛び交い、舞が風を起こし、深読みが暴走し、紅牙が極端な一言で締め、芳華が最後まで天然で惑う。
白石の上には、お箸の落とした音の余韻だけが、可笑しそうに柔らかく残っていた。
【昭華の豆知識】
●『聞の乱れ』
昭華王朝の風俗文化において、夜陰の小路や街の雑踏の中で、挨拶や他者からの親切な呼びかけを全く異なる言葉へと聞き違えてしまう現象を指す言葉。当時の文化では、耳に届く「音の整合性」が人間の理性を表すものとして極めて重んじられていたため、わずかなブレであっても、それは「聞き手の精神の揺らぎがもたらす無垢な美」として風流に語られていた。洗練された庭っ娘たちが、手元のお箸の紛失と厳かな挨拶を混同して大騒ぎする様子は、市井の活気と人間味溢れる愛おしい日常の象徴として尊ばれていた。
●“音は心の形”
昭華の美意識では、周囲の音が正しく耳へと整って届くことは、そのまま「内なる心が美しく整っていること」と結びつけられていた。
今日の、奇妙な聞き間違いに五感を心地よく翻弄されて「拾いなさんな」「無視したら失礼」と微笑み交わす大騒ぎも、音が持つ不意の悪戯を身体全体で受け止め、自らの笑いの糧にしてしまう、庭っ娘たちの雅で生き生きとした日常の名残なのである。
儀庭の朝は、今日もゆるりと始まり、そしてゆるりと騒がしくなる。
それこそが昭華王朝の、いつもの日常であった。




