第199話 終わりを決めるのは、なくなることではなく、ここまでを認めることだった
正式設置から十一日目の朝。
梅桜高校の空には薄い雲が広がっていた。雨の気配はないものの、昨日までの強い陽射しは少し和らぎ、中央棟の白い壁や中庭の木々も柔らかな光に包まれている。朝練を終えた生徒たちが昇降口へ戻ってくる時間で、校舎のあちこちから笑い声や靴音が響き、誰かが忘れ物を取りに戻る足音が階段を駆け上がっていった。
なつきは上履きへ履き替えると、いつもの癖で一度だけ中央棟二階の方角へ目を向けた。
そこには第二実習室へ続く青い案内がある。
けれど今日は、見に行かなかった。
学校側だけの朝確認が始まってから数日が経ち、その状態にも少しずつ慣れてきたからだ。以前なら「本当に大丈夫かな」と考えながら廊下へ足を向けていたが、今は学校側が確認し、記録し、必要なら十一組ラボへ共有してくれることを知っている。
自分たちが見ない。
それでも続く。
そのことが、ようやく頭だけではなく感覚として分かり始めていた。
昨日、十一組ラボは記録の最初へ一枚の文章を加えた。
『これは正解集ではありません。迷った時、理由へ戻るための記録です。』
未来の誰かへ向けて書いた言葉だった。
けれどなつきには、それが今の自分たちにも向けられているように感じられていた。
迷った時。
答えを急がず、理由へ戻る。
何を見たのか。
なぜそう思ったのか。
どこから変わったのか。
その場所へ戻り、もう一度考える。
案内を作る中で身につけたことが、いつの間にか自分自身の考え方へも入り込んでいる。
「おはよう」
横から春樹の声がして、なつきは振り返った。
「おはよう」
「今日は見に行かなかったんだ」
「うん。もう普通に学校側の日だから」
「かなり慣れたね」
「まだ気にはなるよ。でも前ほどじゃない」
春樹も少し笑う。
「僕も」
二人は並んで階段を上がった。
周囲では、友人同士で課題を見せ合っている生徒や、朝食代わりのパンを片手に教室へ急ぐ生徒がいる。教師が「廊下は走るな」と注意する声も聞こえ、校舎はいつもの朝を迎えていた。
その中へ、第二実習室への案内も、もう自然に混ざっている。
「昨日の紙」
春樹が言った。
「次の人へ?」
「うん。家帰ってからも思い出した」
「どこを?」
「正解集じゃないってところ」
なつきも小さく笑った。
「私も」
「やっぱり」
「春樹は何考えた?」
春樹はすぐには答えなかった。
以前のなつきなら、そこで「変な質問したかな」と不安になっていたかもしれない。けれど今は、その沈黙が春樹の考える時間だと分かる。
だから待つ。
急かさず、春樹の横顔を見ながら歩く。
「案内にはさ」
少しして春樹が話し始めた。
「迷っても戻れるようにしたでしょう」
「うん」
「分からなかったら人に聞いてもいいし、見落としても危ない場所には行かないようにした」
「うん」
「でも僕たち、自分のことになると、あんまり『迷ってもいい』って考えてなかったなって」
なつきは少しだけ歩幅を落とした。
「どういうこと?」
「失敗したくなかった」
春樹は少し照れたように笑った。
「言葉も、距離も。間違えたら戻れないような気がしてた」
なつきにも、その感覚は分かった。
春樹が何を考えているのか分からなくて、早く答えが欲しかった時期。
自分がどう思われているのか不安で、正しい言葉を探した時間。
好きだと自覚してからも、間違えたくない気持ちはずっとあった。
「私も」
なつきが言う。
「正しい答え欲しかった」
「うん」
「付き合ったら安心すると思ってた」
「した?」
「少しは」
「少し?」
「でも、分かんないこと増えた」
春樹が思わず笑う。
「増えた?」
「だって恋人になったら、今まで考えなかったこと考えるでしょう。卒業したらどうなるとか、会う時間減ったらとか」
「確かに」
「だから正解集ほしい」
「あるなら僕もほしい」
二人で笑った。
少し前まで、こういう話は冗談へ逃げないと続かなかった。
未来。
卒業。
会う回数。
関係が変わる可能性。
そういう言葉へ触れるだけで、どちらかが照れたり、不安になったり、話題を変えたりしていた。
今も不安がなくなったわけではない。
ただ、不安を話しても、すぐに壊れるわけではないと知った。
「でも」
春樹が続ける。
「多分、正解集があっても使えない」
「どうして?」
「他の人と条件違うから」
なつきは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
「昨日の資料と同じじゃん」
「本当に全部つながる」
「便利だね」
「島中に言われる」
そのまま二人は教室の前まで歩いた。
別れる直前、春樹が少しだけ真面目な顔になる。
「今日、紅秋が何か話すって言ってたよね」
「うん。記録整理の続きかな」
「違う気がする」
「何で?」
「もうほとんど終わったから」
春樹は少しだけ間を置いた。
「終わり方の話じゃないかな」
その言葉に、なつきの胸が少しだけ詰まった。
避けていたわけではない。
でも、まだはっきり言葉にしていなかった。
いつまでを、この活動と呼ぶのか。
どこで「一区切り」とするのか。
「そっか」
なつきは小さく息を吐いた。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「寂しい?」
「うん」
「僕も」
春樹は少し笑った。
「でも、何となく終わる方が嫌」
なつきも頷いた。
「それは嫌」
「じゃあ昼」
「うん」
二人はそこで別れた。
教室へ入る前。
なつきは一度だけ振り返った。
春樹も、ちょうど自分の教室へ入るところだった。
昨日なら。
それだけの光景。
でも今日は。
少し。
未来の話をした後だからか。
いつもの別れ方まで、少し大切に見えた。
終わり。
その言葉を意識すると。
今まで当たり前だった時間にも。
少しだけ輪郭が出る。
午前の授業。
一時間目。
二時間目。
三時間目。
なつきは、いつもより少しだけ集中して授業を受けた。
終わり方を考える。
それは、終わりばかりを見ることではない。
今ある時間を。
ちゃんと今として過ごすこと。
そんな気がしていた。
昼休み。
十一組ラボの教室へ入ると、昨日まで机を占領していた三つの段ボール箱は、教室の端へ移されていた。机の上には学校共有用の正式ファイルと、十一組ラボ保存用の記録だけが残されている。
何度も資料が積み上がっていた場所が空いている。
その景色だけで、なつきは少し胸がざわついた。
「減ったな」
島中も入ってくるなり同じところを見ていた。
「昨日整理したから」
美優が言う。
「分かってるけど、実際なくなると違う」
「寂しい?」
田辺が聞く。
「少し」
「便利」
「最近みんな使うな、それ」
笑いが起きる。
でも、全員どこか同じ空気を感じていた。
紅秋が黒板の前へ立つ。
「今日は、正式設置の活動をどこで一区切りにするか決めたい」
教室が静かになった。
朝、春樹が予想した通りだった。
「一区切り」
島中が繰り返す。
「終わり?」
「正式設置については」
「十一組ラボは?」
「終わらない」
紅秋は迷わず答えた。
「今後も意見が届けば見る。学校側から相談が来れば考える。別の課題が出たら、また活動する」
「じゃあ何を終わらせる?」
茜が尋ねた。
「私たちが中心になって案内を作り、試し、正式設置して、管理を学校へ渡すところ」
蓮がゆっくり頷く。
「管理移行終了まで、あと五日」
「じゃあ五日後が終わり?」
島中が聞く。
紅秋は少し考えてから答えた。
「学校側の管理移行としては、そう。でも十一組ラボとしても、それだけで終わりにしていいのかなと思ってる」
「どういうこと?」
「管理が終わったから、自動的に活動も終わりました、でいいのかってこと」
誰もすぐには答えなかった。
学校側には日付がある。
移行確認期間。
終了日。
正式管理。
それは明確だ。
けれど、十一組ラボの気持ちまで、その日付と同じ速度で切り替わるわけではない。
「最後に」
なつきが言った。
全員がこちらを見る。
「この案内についての、おかえり会をしたい」
「最終?」
島中。
「うん」
「何する?」
「今までみたいに」
なつきはゆっくり考えながら言葉を選んだ。
「良かったこと。困ったこと。残ったこと。あと」
一度息を吸う。
「ここで終わっていいか」
その一言が、教室へ静かに落ちた。
「終わっていいか」
島中が小さく繰り返す。
「誰が決める?」
「みんな」
紅秋が答える。
「学校じゃなく?」
「学校は管理移行を決める。ラボの一区切りは、ラボが決めていいと思う」
茜が少し微笑んだ。
「それ、いい」
「何となく終わるのは嫌だよね」
美優も頷く。
「僕も」
蓮が続けた。
「機能上の完了と、活動の完了は別だから」
田辺も腕を組みながら言う。
「ちゃんと、自分たちが何を終わらせるのか見た方がいい」
島中はしばらく机の上を見ていた。
「俺」
「何?」
田辺が見る。
「前は、終わるの嫌だった」
「今もだろ」
「今も寂しい。でも、ちょっと違う」
島中はゆっくり言葉を探した。
「前は終わるって、止めることだと思ってた」
「うん」
「もうやらない。なくなる。そういう感じ」
「今は?」
なつきが聞く。
「終わっても続くものがあるって分かった」
島中は少し笑った。
「案内は残る。学校が管理する。記録も残る。俺らだって十一組ラボじゃなくなるわけじゃない」
田辺が静かに頷く。
「だから?」
「終わりって、なくなることじゃない」
その言葉に、教室が少しだけ静かになった。
昨日まで、誰かの声が形から消えても、なくなったわけではないと話していた。
今日。
同じことを。
活動そのものへ。
使っている。
「でもさ」
島中は、まだ何か引っ掛かっているようだった。
「何?」
美優が尋ねる。
「最終おかえり会したら」
「うん」
「次の日から、この話しちゃ駄目みたいにならない?」
田辺が眉を上げた。
「誰が決めた」
「いや、終わったって言うから」
「終わった話をしたら駄目なんてないでしょう」
茜が笑う。
「むしろ、後で話すこともあると思う」
「何か問題出たら」
蓮も続けた。
「また戻る」
「記録みたいに?」
なつき。
「うん」
「じゃあ」
島中は少しだけ安心したように笑った。
「終わらせても、戻っていい」
「もちろん」
紅秋が言う。
「一区切りって、封印じゃないから」
「それ、残したい」
「どこに?」
「俺の中」
田辺が笑った。
「勝手に残せ」
教室にも笑いが広がる。
その笑いがあることで。
終わり。
その言葉の角が。
少し。
取れる。
「じゃあ」
紅秋が言う。
「管理移行最終日の放課後、正式設置活動の最終おかえり会をする」
美優が最初に頷いた。
「賛成」
「僕も」
蓮。
「私も」
茜。
「俺も」
田辺。
島中は少しだけ息を吐いたあと、手を上げた。
「賛成」
春樹も静かに頷く。
「僕も」
最後に。
なつき。
「私も」
決まった。
五日後。
一つの区切り。
その日を、自分たちで選んだ。
不思議だった。
終わりの日を決めたのに。
なつきが感じたのは。
怖さよりも。
少しの安心だった。
どこまでなのか分からないまま進む方が。
今は。
怖かったのかもしれない。
「でも」
島中が少しだけ明るい声で言った。
「最終おかえり会まで、何する?」
「普通に管理移行」
蓮。
「意見が来たら見る」
美優。
「学校共有資料の最終確認」
紅秋。
「それ以外」
島中。
「無理に作らない」
田辺。
「え」
「また何か起こそうとするな」
「しないよ」
「顔がする」
「だから顔で決めるな」
笑いが起きる。
その時。
茜が少し考えながら口を開いた。
「一つ、やりたいことある」
「何?」
「今の案内を、一回だけ普通に使ってみたい」
なつきが少し首を傾げた。
「確認じゃなく?」
「うん」
「記録?」
「しない」
「観察?」
「しない」
「ただ歩く?」
「そう」
茜は少し照れたように笑った。
「今までずっと、作る側と見る側だったでしょう」
「うん」
「最後に、一人の生徒として使ってみたい」
教室が静かになった。
その発想を。
なつきはすごく好きだった。
「それ、やりたい」
「全員一緒?」
島中。
「別々」
茜。
「一緒だと話すし、案内見なくなる」
「それはそう」
田辺が笑う。
蓮は少し考えてから言った。
「確認としては意味ない」
「うん」
「でも、活動の最後としては意味あると思う」
春樹も頷いた。
「作った側から降りる感じ」
「利用者になる?」
美優。
「うん」
紅秋が少し笑った。
「じゃあ最終日までに、一人一回」
「記録なし」
茜。
「感想は?」
「最終おかえり会で」
「良い」
決まった。
最後に、一人の利用者として歩く。
それは今までのどの確認とも違う。
正解を探さない。
問題を探さない。
ただ使う。
なつきは、そのことを考えるだけで少し胸が高鳴った。
作った人。
ではなく。
使う人。
そこへ戻る。
この活動。
最初から。
利用者。
いた。
自分たち。
その人の声。
聞く。
ずっと。
それ。
中心。
最後。
自分たち。
そこへ。
立つ。
少し。
意味。
ある.
「それぞれ別の日?」
美優が尋ねた。
「タイミングは自由でいいと思う」
紅秋。
「何か記録する?」
島中。
「しないって言ったでしょう」
茜が笑う。
「でも忘れたら?」
「最終おかえり会で思い出せる範囲」
「それも利用者っぽい」
春樹。
「案内使って、全部覚えてる人いないし」
「なるほど」
島中。
「何か面白くなってきた」
「遊びじゃない」
田辺。
「分かってる。でも、確認じゃないから」
「だから普通」
「その普通が難しい」
教室へまた笑いが広がる。
昼食を食べながら、話は自然と「その後」の十一組ラボへ移った。
「正式設置終わったら、次何する?」
島中が尋ねる。
「すぐ次の課題探す?」
田辺が逆に聞いた。
「前の俺ならそう」
「今は?」
「少し休みたい」
全員が笑った。
「島中が?」
美優。
「本当に?」
茜。
「俺だって疲れる」
「最初からそう言えばいいのに」
田辺。
島中は少しだけ苦笑する。
「でも今は、何もない日も前より平気」
なつきはその言葉を聞いて、以前の十一組ラボを思い出した。
何か改善しなければ。
何か進めなければ。
成果を出さなければ。
どこか。
そう思っていた。
今は。
何もない。
それも。
日常。
「次は無理に決めない」
紅秋が言った。
「困りがあれば見る。誰かがやりたいことを見つけたら話す」
「何もなければ?」
島中。
「普通に過ごす」
田辺。
「ラボなのに?」
「ラボだから」
茜が笑う。
「おかえり会だけの日でもいい」
美優。
「それ好き」
なつきが言う。
正式設置という大きな活動が終わっても。
十一組ラボは。
居場所として。
残る。
それが。
なつきには嬉しかった。
「春樹は?」
島中が尋ねる。
「何?」
「次やりたいこと」
「今はない」
「早い」
「今のが終わってないから」
「真面目」
「島中は?」
「休む」
「それはやりたいこと?」
「大事」
また笑いが起きる。
「なつきは?」
茜が尋ねた。
なつきは少しだけ考える。
「私も、次は今決めたくない」
「どうして?」
「今の終わりをちゃんと見たい」
紅秋が少し微笑んだ。
「それでいいと思う」
その言葉を聞いて。
なつきは安心した。
次。
まだ。
決めなくていい。
ここまで来たから。
次を急がなくていい。
以前の自分なら。
次の課題。
次の目標。
次の何か。
それを決めないと。
落ち着かなかったかもしれない。
今は。
終わりを。
ちゃんと。
終わりとして。
見る。
それ。
大事.
午後の授業中。
なつきは五日後のことを考えた。
最終おかえり会。
そこで何を話すのか。
今はまだ分からない。
でも、今日決めなくていい。
残り五日。
普通に過ごす。
意見が来るかもしれない。
何も来ないかもしれない。
学校が管理する。
十一組ラボは必要な日に参加する。
そして一度だけ。
一人の利用者として歩く。
放課後。
十一組ラボの教室へ向かう途中。
なつきは中央棟二階の廊下で足を止めた。
少し先。
最初の青い案内が見える。
今日は誰も確認していない。
普通の放課後。
生徒が何人も行き来している。
なつきはしばらく考えた。
今日。
歩いてみよう。
鞄を肩へ掛け直し、開始位置へ少し戻る。
記録用紙はない。
クリップボードもない。
観察者もいない。
何秒止まったか。
どこを最初に見たか。
誰も記録しない。
ただ歩く。
最初の案内へ近づく。
青い丸。
大きな矢印。
第二実習室。
『青い丸が目印です』
『次は大きな窓』
何度も見た文字。
でも今日は。
ただ読む。
右へ曲がる。
渡り廊下。
窓の外には薄い雲。
中継案内。
青い矢印。
左。
そのまま進む。
第二実習室前。
黄色い三角。
教室名。
到着後確認。
そして。
着く。
何も起こらない。
迷わない。
困らない。
驚かない。
ただ到着する。
なつきは第二実習室の前で、しばらくその事実を味わっていた。
自分は全部知っている。
だから利用者確認としては意味がない。
でも。
今は。
それでいい。
最初。
この場所。
誰か。
迷った。
その困り。
始まり。
今。
ここまで。
来た。
「着いた」
誰も聞いていない。
それでも。
なつきは小さく言った。
自分でも。
少し。
笑った。
そして。
その場から離れる前。
もう一度。
黄色い三角。
見る.
以前。
注意.
見えた.
人.
いた.
今.
自分.
確認.
見える.
それ.
同じ.
表示.
違う.
見え方.
でも.
今日は.
直す.
考え.
出ない.
ただ.
そういう人.
いた.
そう.
思う.
それ.
自分.
変わった.
十一組ラボの教室へ入ると、春樹が先に来ていた。
「遅かった?」
「少し。何してた?」
「歩いた」
「どこ?」
「案内」
春樹が少しだけ驚いた。
「今日やったの?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
「どうだった?」
なつきは少し考えてから答える。
「普通だった」
「普通?」
「うん」
「それだけ?」
「今は、それが一番近い」
春樹はしばらくなつきを見たあと、少し笑った。
「良いね」
「何が?」
「普通って」
「うん」
「一番良いのかも」
なつきも笑った。
「春樹も今日歩く?」
「今日はやめる」
「何で?」
「なつきの感想聞いたから」
「影響する?」
「多分」
「じゃあ別の日」
「うん」
以前なら。
同じ条件。
同じ日。
揃える。
そうした。
でも。
今。
違う。
一人ずつ。
自分のタイミング。
それ。
良い.
「何か」
なつき。
「何?」
春樹。
「不思議だった」
「何が?」
「今まで何回も歩いたのに」
「うん」
「今日は初めてみたいだった」
「確認しなかったから?」
「多分」
「どこ見たとか」
「うん」
「考えなかった?」
「最初は少し考えた」
「やっぱり」
「でも途中から」
なつきは少しだけ笑った。
「もういいやって」
「何が?」
「何を見たか」
「うん」
「着けばいい」
「うん」
「それ」
春樹。
「利用者っぽい」
「だよね」
なつきは少し嬉しくなる。
「私」
「うん」
「やっと利用者になれたかも」
「作った人だけど」
「そこは消えない」
「うん」
「でも」
少し.
「作った人でも」
「うん」
「使える」
「うん」
春樹。
少し.
笑う.
「意味増えた」
「また?」
「同じもの」
「うん」
「違う立場」
「うん」
「今日のなつき」
なつき。
少し.
胸.
温かい.
「それ好き」
「何が?」
「作った人だけじゃない」
「うん」
「利用者にも」
「うん」
「なれる」
「うん」
その言葉.
残る.
十一組ラボ.
作る側.
見る側.
受け取る側.
でも.
最後.
使う側.
戻る.
それ.
良い.
しばらくして全員が集まった。
学校側から新しい連絡はない。
意見箱にも新規意見なし。
状態異常なし。
「今日は何もなし」
紅秋がまとめる。
島中が少し笑った。
「良いね」
田辺が横を見る。
「前なら何か欲しがってた」
「今は、何もないのも続いてる証拠」
蓮が頷く。
「そうだね」
その言葉に、なつきは少し嬉しくなる。
普通。
今日。
何度も。
そこへ戻る。
「横田」
茜が言った。
「歩いた?」
なつきは驚いた。
「何で分かる?」
「顔」
「また?」
「何か満足そう」
「春樹」
「僕言ってない」
春樹は笑う。
「でも着いたって言ってた」
「それ言ってる」
島中が興味深そうに身を乗り出す。
「今日歩いたの?」
「うん」
「どうだった?」
なつきは少しだけ考える。
「普通だった」
一瞬。
教室が静かになる。
そのあと。
島中が笑った。
「最高じゃん」
「うん」
なつきも笑う。
「私もそう思った」
普通。
迷わない。
感動しない。
案内のことを、いつまでも覚えない。
それでいい。
案内が主役ではない。
第二実習室へ行きたい人。
その人が着く。
ただそれだけ。
その普通を作るために。
こんなに時間がかかった。
だからこそ。
普通。
それが嬉しい。
「俺も歩こうかな」
島中。
「今日?」
田辺。
「いや」
「何で?」
「今、横田の感想聞いたから」
「影響される?」
「少し」
「お前も」
「利用者確認じゃないから」
茜が笑う。
「好きな日に歩けばいい」
「じゃあ明日」
「決めると普通じゃなくなる」
田辺。
「難しいな!」
教室に笑いが起きる。
「でも」
島中。
「何も探さないって」
「うん」
「難しそう」
「島中は特に」
美優。
「何か見つけそう」
「それ悪い?」
「今日は違う」
「分かってる」
島中は少し考えたあと、笑った。
「何も探さない練習」
「それも成長?」
なつき。
「もう好きに言え」
また笑い。
この笑い。
あと.
五日.
最終.
近い.
でも.
今.
ちゃんと.
ある.
活動を終え、校門を出る頃には、朝の雲が少し薄くなっていた。西の空だけが淡い橙色へ染まり、運動部帰りの生徒たちの影が道路へ長く伸びている。
なつきと春樹は、いつものように並んで歩いた。
人の流れが少なくなったところで、自然に手をつなぐ。
「今日」
春樹が言う。
「うん」
「普通だったって」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
「感動しなかった?」
なつきは少し考えてから笑った。
「した」
「どっち?」
「普通なことに」
春樹も少し笑う。
「なるほど」
「前は」
なつきが言う。
「案内を見てもらうこと、気づいてもらうこと、全部すごく大事だと思ってた」
「うん」
「今は、使う人が案内のことなんて覚えてなくてもいい」
「うん」
「第二実習室へ着けば」
「それでいい」
春樹が続けた。
なつきは頷く。
「案内が目立たなくなるのって、成功なのかも」
「必要な時だけ見える」
「うん」
「それが一番良い」
しばらく歩いたあと。
春樹が少しだけ笑う。
「僕たちも似てるかも」
「何が?」
「隣にいること」
「うん」
「毎秒、恋人だって意識しなくてもいい」
なつきは思わず笑った。
「それはそう」
「でも」
春樹はつないだ手を少しだけ強くした。
「いる」
「うん」
「必要な時に」
「うん」
「いるって分かる」
春樹の顔が少し赤くなる。
「それ、好き」
なつきの胸が少し跳ねた。
「今、普通に言った」
「言った」
「慣れた?」
「少し」
「便利」
「またそれ」
二人で笑った。
そのまま少し歩く。
前を歩いていた高校生たちが交差点で別れ、周囲の声が少し減る。
「春樹」
「何?」
「終わり」
春樹がこちらを見る。
「正式設置?」
「うん」
「怖い?」
なつきは少し考えた。
「前より怖くない」
「何で?」
「今日、普通に歩けたから」
「うん」
「案内は私たちがいなくてもある。学校が見る。記録も残る。次の人も読む」
「うん」
「だから」
なつきは少しだけ息を吐く。
「終わっても、なくならない」
春樹が静かに頷いた。
「僕もそう思う」
「十一組ラボも?」
「うん」
「私たちも?」
春樹は少しだけ笑った。
「それは、終わらせる予定ない」
なつきの顔が熱くなる。
「今の好き」
「何が?」
「言い方」
「そう?」
「うん」
つないだ手を少しだけ強く握る。
「私も」
「うん」
「終わらせる予定ない」
春樹も笑った。
その言葉。
冗談。
みたい.
軽い.
でも.
未来.
少し.
入ってる.
「予定って」
なつき。
「何?」
「変更ある?」
春樹。
少し.
困る.
「そこ聞く?」
「案内なら見直す」
「恋人も?」
「聞いてる」
春樹は少し考えてから、真面目な顔で答える。
「変わることはあると思う」
なつき。
少し.
胸.
緊張.
「でも」
春樹。
「変わるから終わる、じゃない」
「うん」
「今日まで」
「うん」
「話して」
「うん」
「変わってきた」
「うん」
「だから」
少し.
なつき.
見る.
「今後も」
「うん」
「変わるなら」
「うん」
「話したい」
なつき。
胸.
少し.
熱い.
「それ」
「何?」
「もっと好き」
「何が?」
「終わらせる予定ない、より」
「じゃあ最初いらなかった?」
「いる」
「どっち」
「両方」
春樹。
少し.
笑う.
「欲張り」
「知ってる」
二人。
笑う.
でも.
なつき。
その言葉.
ちゃんと.
受け取る.
続ける.
それ.
ずっと.
同じ.
ではない.
変わる.
話す.
また.
決める.
それ.
案内.
同じ.
最終.
正解.
ない.
今.
良い.
だから.
続ける.
終わり。
その言葉。
前は。
全部。
一緒だった。
終わる。
なくなる。
離れる。
失う。
でも今は。
分けられる。
案内を作る活動は一区切り。
学校管理は続く。
十一組ラボも続く。
友人関係も続く。
恋人としての二人も、続けたい。
全部が同じ日に。
同じように。
終わるわけではない。
正式設置から十一日目。
十一組ラボは、五日後に正式設置活動へ一区切りをつけることを決めた。
管理が終わるからではない。
案内が完成したからでもない。
自分たちが、ここまでやったと認めるため。
ここから先は、別の形で続いていくと受け入れるため。
そして。
一区切りをつける前に。
作った人でも。
観察する人でもなく。
一度。
ただ使う人へ。
戻るため。
終わりを決める。
それは、なくなる日を決めることではなかった。
ここまで歩いた道を、ちゃんと「ここまでだった」と認めること。
その先へ進んだ時に。
必要なら。
また戻れるように。
今いる場所へ。
小さな印を残すこと。
そして。
次へ進むための。
静かな準備を始めることだった。




