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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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199/201

第199話 終わりを決めるのは、なくなることではなく、ここまでを認めることだった



 正式設置から十一日目の朝。


 梅桜高校の空には薄い雲が広がっていた。雨の気配はないものの、昨日までの強い陽射しは少し和らぎ、中央棟の白い壁や中庭の木々も柔らかな光に包まれている。朝練を終えた生徒たちが昇降口へ戻ってくる時間で、校舎のあちこちから笑い声や靴音が響き、誰かが忘れ物を取りに戻る足音が階段を駆け上がっていった。


 なつきは上履きへ履き替えると、いつもの癖で一度だけ中央棟二階の方角へ目を向けた。


 そこには第二実習室へ続く青い案内がある。


 けれど今日は、見に行かなかった。


 学校側だけの朝確認が始まってから数日が経ち、その状態にも少しずつ慣れてきたからだ。以前なら「本当に大丈夫かな」と考えながら廊下へ足を向けていたが、今は学校側が確認し、記録し、必要なら十一組ラボへ共有してくれることを知っている。


 自分たちが見ない。


 それでも続く。


 そのことが、ようやく頭だけではなく感覚として分かり始めていた。


 昨日、十一組ラボは記録の最初へ一枚の文章を加えた。


『これは正解集ではありません。迷った時、理由へ戻るための記録です。』


 未来の誰かへ向けて書いた言葉だった。


 けれどなつきには、それが今の自分たちにも向けられているように感じられていた。


 迷った時。


 答えを急がず、理由へ戻る。


 何を見たのか。


 なぜそう思ったのか。


 どこから変わったのか。


 その場所へ戻り、もう一度考える。


 案内を作る中で身につけたことが、いつの間にか自分自身の考え方へも入り込んでいる。


「おはよう」


 横から春樹の声がして、なつきは振り返った。


「おはよう」


「今日は見に行かなかったんだ」


「うん。もう普通に学校側の日だから」


「かなり慣れたね」


「まだ気にはなるよ。でも前ほどじゃない」


 春樹も少し笑う。


「僕も」


 二人は並んで階段を上がった。


 周囲では、友人同士で課題を見せ合っている生徒や、朝食代わりのパンを片手に教室へ急ぐ生徒がいる。教師が「廊下は走るな」と注意する声も聞こえ、校舎はいつもの朝を迎えていた。


 その中へ、第二実習室への案内も、もう自然に混ざっている。


「昨日の紙」


 春樹が言った。


「次の人へ?」


「うん。家帰ってからも思い出した」


「どこを?」


「正解集じゃないってところ」


 なつきも小さく笑った。


「私も」


「やっぱり」


「春樹は何考えた?」


 春樹はすぐには答えなかった。


 以前のなつきなら、そこで「変な質問したかな」と不安になっていたかもしれない。けれど今は、その沈黙が春樹の考える時間だと分かる。


 だから待つ。


 急かさず、春樹の横顔を見ながら歩く。


「案内にはさ」


 少しして春樹が話し始めた。


「迷っても戻れるようにしたでしょう」


「うん」


「分からなかったら人に聞いてもいいし、見落としても危ない場所には行かないようにした」


「うん」


「でも僕たち、自分のことになると、あんまり『迷ってもいい』って考えてなかったなって」


 なつきは少しだけ歩幅を落とした。


「どういうこと?」


「失敗したくなかった」


 春樹は少し照れたように笑った。


「言葉も、距離も。間違えたら戻れないような気がしてた」


 なつきにも、その感覚は分かった。


 春樹が何を考えているのか分からなくて、早く答えが欲しかった時期。


 自分がどう思われているのか不安で、正しい言葉を探した時間。


 好きだと自覚してからも、間違えたくない気持ちはずっとあった。


「私も」


 なつきが言う。


「正しい答え欲しかった」


「うん」


「付き合ったら安心すると思ってた」


「した?」


「少しは」


「少し?」


「でも、分かんないこと増えた」


 春樹が思わず笑う。


「増えた?」


「だって恋人になったら、今まで考えなかったこと考えるでしょう。卒業したらどうなるとか、会う時間減ったらとか」


「確かに」


「だから正解集ほしい」


「あるなら僕もほしい」


 二人で笑った。


 少し前まで、こういう話は冗談へ逃げないと続かなかった。


 未来。


 卒業。


 会う回数。


 関係が変わる可能性。


 そういう言葉へ触れるだけで、どちらかが照れたり、不安になったり、話題を変えたりしていた。


 今も不安がなくなったわけではない。


 ただ、不安を話しても、すぐに壊れるわけではないと知った。


「でも」


 春樹が続ける。


「多分、正解集があっても使えない」


「どうして?」


「他の人と条件違うから」


 なつきは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。


「昨日の資料と同じじゃん」


「本当に全部つながる」


「便利だね」


「島中に言われる」


 そのまま二人は教室の前まで歩いた。


 別れる直前、春樹が少しだけ真面目な顔になる。


「今日、紅秋が何か話すって言ってたよね」


「うん。記録整理の続きかな」


「違う気がする」


「何で?」


「もうほとんど終わったから」


 春樹は少しだけ間を置いた。


「終わり方の話じゃないかな」


 その言葉に、なつきの胸が少しだけ詰まった。


 避けていたわけではない。


 でも、まだはっきり言葉にしていなかった。


 いつまでを、この活動と呼ぶのか。


 どこで「一区切り」とするのか。


「そっか」


 なつきは小さく息を吐いた。


「嫌?」


「嫌じゃない」


「寂しい?」


「うん」


「僕も」


 春樹は少し笑った。


「でも、何となく終わる方が嫌」


 なつきも頷いた。


「それは嫌」


「じゃあ昼」


「うん」


 二人はそこで別れた。


 教室へ入る前。


 なつきは一度だけ振り返った。


 春樹も、ちょうど自分の教室へ入るところだった。


 昨日なら。


 それだけの光景。


 でも今日は。


 少し。


 未来の話をした後だからか。


 いつもの別れ方まで、少し大切に見えた。


 終わり。


 その言葉を意識すると。


 今まで当たり前だった時間にも。


 少しだけ輪郭が出る。


 午前の授業。


 一時間目。


 二時間目。


 三時間目。


 なつきは、いつもより少しだけ集中して授業を受けた。


 終わり方を考える。


 それは、終わりばかりを見ることではない。


 今ある時間を。


 ちゃんと今として過ごすこと。


 そんな気がしていた。


 昼休み。


 十一組ラボの教室へ入ると、昨日まで机を占領していた三つの段ボール箱は、教室の端へ移されていた。机の上には学校共有用の正式ファイルと、十一組ラボ保存用の記録だけが残されている。


 何度も資料が積み上がっていた場所が空いている。


 その景色だけで、なつきは少し胸がざわついた。


「減ったな」


 島中も入ってくるなり同じところを見ていた。


「昨日整理したから」


 美優が言う。


「分かってるけど、実際なくなると違う」


「寂しい?」


 田辺が聞く。


「少し」


「便利」


「最近みんな使うな、それ」


 笑いが起きる。


 でも、全員どこか同じ空気を感じていた。


 紅秋が黒板の前へ立つ。


「今日は、正式設置の活動をどこで一区切りにするか決めたい」


 教室が静かになった。


 朝、春樹が予想した通りだった。


「一区切り」


 島中が繰り返す。


「終わり?」


「正式設置については」


「十一組ラボは?」


「終わらない」


 紅秋は迷わず答えた。


「今後も意見が届けば見る。学校側から相談が来れば考える。別の課題が出たら、また活動する」


「じゃあ何を終わらせる?」


 茜が尋ねた。


「私たちが中心になって案内を作り、試し、正式設置して、管理を学校へ渡すところ」


 蓮がゆっくり頷く。


「管理移行終了まで、あと五日」


「じゃあ五日後が終わり?」


 島中が聞く。


 紅秋は少し考えてから答えた。


「学校側の管理移行としては、そう。でも十一組ラボとしても、それだけで終わりにしていいのかなと思ってる」


「どういうこと?」


「管理が終わったから、自動的に活動も終わりました、でいいのかってこと」


 誰もすぐには答えなかった。


 学校側には日付がある。


 移行確認期間。


 終了日。


 正式管理。


 それは明確だ。


 けれど、十一組ラボの気持ちまで、その日付と同じ速度で切り替わるわけではない。


「最後に」


 なつきが言った。


 全員がこちらを見る。


「この案内についての、おかえり会をしたい」


「最終?」


 島中。


「うん」


「何する?」


「今までみたいに」


 なつきはゆっくり考えながら言葉を選んだ。


「良かったこと。困ったこと。残ったこと。あと」


 一度息を吸う。


「ここで終わっていいか」


 その一言が、教室へ静かに落ちた。


「終わっていいか」


 島中が小さく繰り返す。


「誰が決める?」


「みんな」


 紅秋が答える。


「学校じゃなく?」


「学校は管理移行を決める。ラボの一区切りは、ラボが決めていいと思う」


 茜が少し微笑んだ。


「それ、いい」


「何となく終わるのは嫌だよね」


 美優も頷く。


「僕も」


 蓮が続けた。


「機能上の完了と、活動の完了は別だから」


 田辺も腕を組みながら言う。


「ちゃんと、自分たちが何を終わらせるのか見た方がいい」


 島中はしばらく机の上を見ていた。


「俺」


「何?」


 田辺が見る。


「前は、終わるの嫌だった」


「今もだろ」


「今も寂しい。でも、ちょっと違う」


 島中はゆっくり言葉を探した。


「前は終わるって、止めることだと思ってた」


「うん」


「もうやらない。なくなる。そういう感じ」


「今は?」


 なつきが聞く。


「終わっても続くものがあるって分かった」


 島中は少し笑った。


「案内は残る。学校が管理する。記録も残る。俺らだって十一組ラボじゃなくなるわけじゃない」


 田辺が静かに頷く。


「だから?」


「終わりって、なくなることじゃない」


 その言葉に、教室が少しだけ静かになった。


 昨日まで、誰かの声が形から消えても、なくなったわけではないと話していた。


 今日。


 同じことを。


 活動そのものへ。


 使っている。


「でもさ」


 島中は、まだ何か引っ掛かっているようだった。


「何?」


 美優が尋ねる。


「最終おかえり会したら」


「うん」


「次の日から、この話しちゃ駄目みたいにならない?」


 田辺が眉を上げた。


「誰が決めた」


「いや、終わったって言うから」


「終わった話をしたら駄目なんてないでしょう」


 茜が笑う。


「むしろ、後で話すこともあると思う」


「何か問題出たら」


 蓮も続けた。


「また戻る」


「記録みたいに?」


 なつき。


「うん」


「じゃあ」


 島中は少しだけ安心したように笑った。


「終わらせても、戻っていい」


「もちろん」


 紅秋が言う。


「一区切りって、封印じゃないから」


「それ、残したい」


「どこに?」


「俺の中」


 田辺が笑った。


「勝手に残せ」


 教室にも笑いが広がる。


 その笑いがあることで。


 終わり。


 その言葉の角が。


 少し。


 取れる。


「じゃあ」


 紅秋が言う。


「管理移行最終日の放課後、正式設置活動の最終おかえり会をする」


 美優が最初に頷いた。


「賛成」


「僕も」


 蓮。


「私も」


 茜。


「俺も」


 田辺。


 島中は少しだけ息を吐いたあと、手を上げた。


「賛成」


 春樹も静かに頷く。


「僕も」


 最後に。


 なつき。


「私も」


 決まった。


 五日後。


 一つの区切り。


 その日を、自分たちで選んだ。


 不思議だった。


 終わりの日を決めたのに。


 なつきが感じたのは。


 怖さよりも。


 少しの安心だった。


 どこまでなのか分からないまま進む方が。


 今は。


 怖かったのかもしれない。


「でも」


 島中が少しだけ明るい声で言った。


「最終おかえり会まで、何する?」


「普通に管理移行」


 蓮。


「意見が来たら見る」


 美優。


「学校共有資料の最終確認」


 紅秋。


「それ以外」


 島中。


「無理に作らない」


 田辺。


「え」


「また何か起こそうとするな」


「しないよ」


「顔がする」


「だから顔で決めるな」


 笑いが起きる。


 その時。


 茜が少し考えながら口を開いた。


「一つ、やりたいことある」


「何?」


「今の案内を、一回だけ普通に使ってみたい」


 なつきが少し首を傾げた。


「確認じゃなく?」


「うん」


「記録?」


「しない」


「観察?」


「しない」


「ただ歩く?」


「そう」


 茜は少し照れたように笑った。


「今までずっと、作る側と見る側だったでしょう」


「うん」


「最後に、一人の生徒として使ってみたい」


 教室が静かになった。


 その発想を。


 なつきはすごく好きだった。


「それ、やりたい」


「全員一緒?」


 島中。


「別々」


 茜。


「一緒だと話すし、案内見なくなる」


「それはそう」


 田辺が笑う。


 蓮は少し考えてから言った。


「確認としては意味ない」


「うん」


「でも、活動の最後としては意味あると思う」


 春樹も頷いた。


「作った側から降りる感じ」


「利用者になる?」


 美優。


「うん」


 紅秋が少し笑った。


「じゃあ最終日までに、一人一回」


「記録なし」


 茜。


「感想は?」


「最終おかえり会で」


「良い」


 決まった。


 最後に、一人の利用者として歩く。


 それは今までのどの確認とも違う。


 正解を探さない。


 問題を探さない。


 ただ使う。


 なつきは、そのことを考えるだけで少し胸が高鳴った。


 作った人。


 ではなく。


 使う人。


 そこへ戻る。


 この活動。


 最初から。


 利用者。


 いた。


 自分たち。


 その人の声。


 聞く。


 ずっと。


 それ。


 中心。


 最後。


 自分たち。


 そこへ。


 立つ。


 少し。


 意味。


 ある.


「それぞれ別の日?」


 美優が尋ねた。


「タイミングは自由でいいと思う」


 紅秋。


「何か記録する?」


 島中。


「しないって言ったでしょう」


 茜が笑う。


「でも忘れたら?」


「最終おかえり会で思い出せる範囲」


「それも利用者っぽい」


 春樹。


「案内使って、全部覚えてる人いないし」


「なるほど」


 島中。


「何か面白くなってきた」


「遊びじゃない」


 田辺。


「分かってる。でも、確認じゃないから」


「だから普通」


「その普通が難しい」


 教室へまた笑いが広がる。


 昼食を食べながら、話は自然と「その後」の十一組ラボへ移った。


「正式設置終わったら、次何する?」


 島中が尋ねる。


「すぐ次の課題探す?」


 田辺が逆に聞いた。


「前の俺ならそう」


「今は?」


「少し休みたい」


 全員が笑った。


「島中が?」


 美優。


「本当に?」


 茜。


「俺だって疲れる」


「最初からそう言えばいいのに」


 田辺。


 島中は少しだけ苦笑する。


「でも今は、何もない日も前より平気」


 なつきはその言葉を聞いて、以前の十一組ラボを思い出した。


 何か改善しなければ。


 何か進めなければ。


 成果を出さなければ。


 どこか。


 そう思っていた。


 今は。


 何もない。


 それも。


 日常。


「次は無理に決めない」


 紅秋が言った。


「困りがあれば見る。誰かがやりたいことを見つけたら話す」


「何もなければ?」


 島中。


「普通に過ごす」


 田辺。


「ラボなのに?」


「ラボだから」


 茜が笑う。


「おかえり会だけの日でもいい」


 美優。


「それ好き」


 なつきが言う。


 正式設置という大きな活動が終わっても。


 十一組ラボは。


 居場所として。


 残る。


 それが。


 なつきには嬉しかった。


「春樹は?」


 島中が尋ねる。


「何?」


「次やりたいこと」


「今はない」


「早い」


「今のが終わってないから」


「真面目」


「島中は?」


「休む」


「それはやりたいこと?」


「大事」


 また笑いが起きる。


「なつきは?」


 茜が尋ねた。


 なつきは少しだけ考える。


「私も、次は今決めたくない」


「どうして?」


「今の終わりをちゃんと見たい」


 紅秋が少し微笑んだ。


「それでいいと思う」


 その言葉を聞いて。


 なつきは安心した。


 次。


 まだ。


 決めなくていい。


 ここまで来たから。


 次を急がなくていい。


 以前の自分なら。


 次の課題。


 次の目標。


 次の何か。


 それを決めないと。


 落ち着かなかったかもしれない。


 今は。


 終わりを。


 ちゃんと。


 終わりとして。


 見る。


 それ。


 大事.


 午後の授業中。


 なつきは五日後のことを考えた。


 最終おかえり会。


 そこで何を話すのか。


 今はまだ分からない。


 でも、今日決めなくていい。


 残り五日。


 普通に過ごす。


 意見が来るかもしれない。


 何も来ないかもしれない。


 学校が管理する。


 十一組ラボは必要な日に参加する。


 そして一度だけ。


 一人の利用者として歩く。


 放課後。


 十一組ラボの教室へ向かう途中。


 なつきは中央棟二階の廊下で足を止めた。


 少し先。


 最初の青い案内が見える。


 今日は誰も確認していない。


 普通の放課後。


 生徒が何人も行き来している。


 なつきはしばらく考えた。


 今日。


 歩いてみよう。


 鞄を肩へ掛け直し、開始位置へ少し戻る。


 記録用紙はない。


 クリップボードもない。


 観察者もいない。


 何秒止まったか。


 どこを最初に見たか。


 誰も記録しない。


 ただ歩く。


 最初の案内へ近づく。


 青い丸。


 大きな矢印。


 第二実習室。


『青い丸が目印です』


『次は大きな窓』


 何度も見た文字。


 でも今日は。


 ただ読む。


 右へ曲がる。


 渡り廊下。


 窓の外には薄い雲。


 中継案内。


 青い矢印。


 左。


 そのまま進む。


 第二実習室前。


 黄色い三角。


 教室名。


 到着後確認。


 そして。


 着く。


 何も起こらない。


 迷わない。


 困らない。


 驚かない。


 ただ到着する。


 なつきは第二実習室の前で、しばらくその事実を味わっていた。


 自分は全部知っている。


 だから利用者確認としては意味がない。


 でも。


 今は。


 それでいい。


 最初。


 この場所。


 誰か。


 迷った。


 その困り。


 始まり。


 今。


 ここまで。


 来た。


「着いた」


 誰も聞いていない。


 それでも。


 なつきは小さく言った。


 自分でも。


 少し。


 笑った。


 そして。


 その場から離れる前。


 もう一度。


 黄色い三角。


 見る.


 以前。


 注意.


 見えた.


 人.


 いた.


 今.


 自分.


 確認.


 見える.


 それ.


 同じ.


 表示.


 違う.


 見え方.


 でも.


 今日は.


 直す.


 考え.


 出ない.


 ただ.


 そういう人.


 いた.


 そう.


 思う.


 それ.


 自分.


 変わった.


 十一組ラボの教室へ入ると、春樹が先に来ていた。


「遅かった?」


「少し。何してた?」


「歩いた」


「どこ?」


「案内」


 春樹が少しだけ驚いた。


「今日やったの?」


「うん」


「一人で?」


「うん」


「どうだった?」


 なつきは少し考えてから答える。


「普通だった」


「普通?」


「うん」


「それだけ?」


「今は、それが一番近い」


 春樹はしばらくなつきを見たあと、少し笑った。


「良いね」


「何が?」


「普通って」


「うん」


「一番良いのかも」


 なつきも笑った。


「春樹も今日歩く?」


「今日はやめる」


「何で?」


「なつきの感想聞いたから」


「影響する?」


「多分」


「じゃあ別の日」


「うん」


 以前なら。


 同じ条件。


 同じ日。


 揃える。


 そうした。


 でも。


 今。


 違う。


 一人ずつ。


 自分のタイミング。


 それ。


 良い.


「何か」


 なつき。


「何?」


 春樹。


「不思議だった」


「何が?」


「今まで何回も歩いたのに」


「うん」


「今日は初めてみたいだった」


「確認しなかったから?」


「多分」


「どこ見たとか」


「うん」


「考えなかった?」


「最初は少し考えた」


「やっぱり」


「でも途中から」


 なつきは少しだけ笑った。


「もういいやって」


「何が?」


「何を見たか」


「うん」


「着けばいい」


「うん」


「それ」


 春樹。


「利用者っぽい」


「だよね」


 なつきは少し嬉しくなる。


「私」


「うん」


「やっと利用者になれたかも」


「作った人だけど」


「そこは消えない」


「うん」


「でも」


 少し.


「作った人でも」


「うん」


「使える」


「うん」


 春樹。


 少し.


 笑う.


「意味増えた」


「また?」


「同じもの」


「うん」


「違う立場」


「うん」


「今日のなつき」


 なつき。


 少し.


 胸.


 温かい.


「それ好き」


「何が?」


「作った人だけじゃない」


「うん」


「利用者にも」


「うん」


「なれる」


「うん」


 その言葉.


 残る.


 十一組ラボ.


 作る側.


 見る側.


 受け取る側.


 でも.


 最後.


 使う側.


 戻る.


 それ.


 良い.


 しばらくして全員が集まった。


 学校側から新しい連絡はない。


 意見箱にも新規意見なし。


 状態異常なし。


「今日は何もなし」


 紅秋がまとめる。


 島中が少し笑った。


「良いね」


 田辺が横を見る。


「前なら何か欲しがってた」


「今は、何もないのも続いてる証拠」


 蓮が頷く。


「そうだね」


 その言葉に、なつきは少し嬉しくなる。


 普通。


 今日。


 何度も。


 そこへ戻る。


「横田」


 茜が言った。


「歩いた?」


 なつきは驚いた。


「何で分かる?」


「顔」


「また?」


「何か満足そう」


「春樹」


「僕言ってない」


 春樹は笑う。


「でも着いたって言ってた」


「それ言ってる」


 島中が興味深そうに身を乗り出す。


「今日歩いたの?」


「うん」


「どうだった?」


 なつきは少しだけ考える。


「普通だった」


 一瞬。


 教室が静かになる。


 そのあと。


 島中が笑った。


「最高じゃん」


「うん」


 なつきも笑う。


「私もそう思った」


 普通。


 迷わない。


 感動しない。


 案内のことを、いつまでも覚えない。


 それでいい。


 案内が主役ではない。


 第二実習室へ行きたい人。


 その人が着く。


 ただそれだけ。


 その普通を作るために。


 こんなに時間がかかった。


 だからこそ。


 普通。


 それが嬉しい。


「俺も歩こうかな」


 島中。


「今日?」


 田辺。


「いや」


「何で?」


「今、横田の感想聞いたから」


「影響される?」


「少し」


「お前も」


「利用者確認じゃないから」


 茜が笑う。


「好きな日に歩けばいい」


「じゃあ明日」


「決めると普通じゃなくなる」


 田辺。


「難しいな!」


 教室に笑いが起きる。


「でも」


 島中。


「何も探さないって」


「うん」


「難しそう」


「島中は特に」


 美優。


「何か見つけそう」


「それ悪い?」


「今日は違う」


「分かってる」


 島中は少し考えたあと、笑った。


「何も探さない練習」


「それも成長?」


 なつき。


「もう好きに言え」


 また笑い。


 この笑い。


 あと.


 五日.


 最終.


 近い.


 でも.


 今.


 ちゃんと.


 ある.


 活動を終え、校門を出る頃には、朝の雲が少し薄くなっていた。西の空だけが淡い橙色へ染まり、運動部帰りの生徒たちの影が道路へ長く伸びている。


 なつきと春樹は、いつものように並んで歩いた。


 人の流れが少なくなったところで、自然に手をつなぐ。


「今日」


 春樹が言う。


「うん」


「普通だったって」


「うん」


「本当に?」


「本当に」


「感動しなかった?」


 なつきは少し考えてから笑った。


「した」


「どっち?」


「普通なことに」


 春樹も少し笑う。


「なるほど」


「前は」


 なつきが言う。


「案内を見てもらうこと、気づいてもらうこと、全部すごく大事だと思ってた」


「うん」


「今は、使う人が案内のことなんて覚えてなくてもいい」


「うん」


「第二実習室へ着けば」


「それでいい」


 春樹が続けた。


 なつきは頷く。


「案内が目立たなくなるのって、成功なのかも」


「必要な時だけ見える」


「うん」


「それが一番良い」


 しばらく歩いたあと。


 春樹が少しだけ笑う。


「僕たちも似てるかも」


「何が?」


「隣にいること」


「うん」


「毎秒、恋人だって意識しなくてもいい」


 なつきは思わず笑った。


「それはそう」


「でも」


 春樹はつないだ手を少しだけ強くした。


「いる」


「うん」


「必要な時に」


「うん」


「いるって分かる」


 春樹の顔が少し赤くなる。


「それ、好き」


 なつきの胸が少し跳ねた。


「今、普通に言った」


「言った」


「慣れた?」


「少し」


「便利」


「またそれ」


 二人で笑った。


 そのまま少し歩く。


 前を歩いていた高校生たちが交差点で別れ、周囲の声が少し減る。


「春樹」


「何?」


「終わり」


 春樹がこちらを見る。


「正式設置?」


「うん」


「怖い?」


 なつきは少し考えた。


「前より怖くない」


「何で?」


「今日、普通に歩けたから」


「うん」


「案内は私たちがいなくてもある。学校が見る。記録も残る。次の人も読む」


「うん」


「だから」


 なつきは少しだけ息を吐く。


「終わっても、なくならない」


 春樹が静かに頷いた。


「僕もそう思う」


「十一組ラボも?」


「うん」


「私たちも?」


 春樹は少しだけ笑った。


「それは、終わらせる予定ない」


 なつきの顔が熱くなる。


「今の好き」


「何が?」


「言い方」


「そう?」


「うん」


 つないだ手を少しだけ強く握る。


「私も」


「うん」


「終わらせる予定ない」


 春樹も笑った。


 その言葉。


 冗談。


 みたい.


 軽い.


 でも.


 未来.


 少し.


 入ってる.


「予定って」


 なつき。


「何?」


「変更ある?」


 春樹。


 少し.


 困る.


「そこ聞く?」


「案内なら見直す」


「恋人も?」


「聞いてる」


 春樹は少し考えてから、真面目な顔で答える。


「変わることはあると思う」


 なつき。


 少し.


 胸.


 緊張.


「でも」


 春樹。


「変わるから終わる、じゃない」


「うん」


「今日まで」


「うん」


「話して」


「うん」


「変わってきた」


「うん」


「だから」


 少し.


 なつき.


 見る.


「今後も」


「うん」


「変わるなら」


「うん」


「話したい」


 なつき。


 胸.


 少し.


 熱い.


「それ」


「何?」


「もっと好き」


「何が?」


「終わらせる予定ない、より」


「じゃあ最初いらなかった?」


「いる」


「どっち」


「両方」


 春樹。


 少し.


 笑う.


「欲張り」


「知ってる」


 二人。


 笑う.


 でも.


 なつき。


 その言葉.


 ちゃんと.


 受け取る.


 続ける.


 それ.


 ずっと.


 同じ.


 ではない.


 変わる.


 話す.


 また.


 決める.


 それ.


 案内.


 同じ.


 最終.


 正解.


 ない.


 今.


 良い.


 だから.


 続ける.


 終わり。


 その言葉。


 前は。


 全部。


 一緒だった。


 終わる。


 なくなる。


 離れる。


 失う。


 でも今は。


 分けられる。


 案内を作る活動は一区切り。


 学校管理は続く。


 十一組ラボも続く。


 友人関係も続く。


 恋人としての二人も、続けたい。


 全部が同じ日に。


 同じように。


 終わるわけではない。


 正式設置から十一日目。


 十一組ラボは、五日後に正式設置活動へ一区切りをつけることを決めた。


 管理が終わるからではない。


 案内が完成したからでもない。


 自分たちが、ここまでやったと認めるため。


 ここから先は、別の形で続いていくと受け入れるため。


 そして。


 一区切りをつける前に。


 作った人でも。


 観察する人でもなく。


 一度。


 ただ使う人へ。


 戻るため。


 終わりを決める。


 それは、なくなる日を決めることではなかった。


 ここまで歩いた道を、ちゃんと「ここまでだった」と認めること。


 その先へ進んだ時に。


 必要なら。


 また戻れるように。


 今いる場所へ。


 小さな印を残すこと。


 そして。


 次へ進むための。


 静かな準備を始めることだった。

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