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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第197話 残すものを選ぶ時、いちばん大事だったのは形ではなく理由だった



 正式設置から九日目の朝。


 梅桜高校の空は前日よりも高く澄み、中央棟の白い壁には早い時間から明るい光が当たっていた。校門をくぐる生徒たちの間では、次の定期試験や部活動の予定を話す声が飛び交い、昇降口の前にはいつもと変わらない朝のざわめきが広がっている。


 なつきは上履きへ履き替えると、一度だけ中央棟二階の方角へ視線を向けた。昨日までは、そこへ行かないと決めても胸の奥に落ち着かなさが残っていたが、今日は不思議と足が止まらなかった。


 昨日、学校側だけで行われた初めての朝確認は問題なく終わった。


 確認順序も、固定状態も、中継案内の反射も、黄色い三角も、正式承認表示も、すべて基準どおりに確認されていた。十一組ラボが誰一人立ち会わなくても、案内は学校の管理の中で一日を始めることができた。


 その結果を聞いた時、なつきは嬉しかった。同時に、自分たちの手から少し離れていくことが寂しかった。


 けれど今日、その二つの感情は昨日よりも静かだった。


 自分たちが見なくても、誰かが見る。


 自分たちが触らなくても、案内はそこにある。


 そのことが少しずつ「特別な出来事」ではなくなり始めている。


「おはよう」


 階段を上がったところで春樹の声がして、なつきは振り返った。


「おはよう。今日はこっちなんだ」


「普通に教室へ行くならこっちだから」


「案内、見に行かない?」


「行かない。昨日できたから」


 春樹は少しだけ笑った。


「昨日より早いね、答えるの」


「学校側だけでできたって分かったから。まだ気になるけど、昨日ほどじゃない」


「安心した?」


「した。でも少し寂しい」


「僕も」


 二人は並んで廊下を歩き始めた。


 朝の校舎は、十一組ラボの事情とは関係なく進んでいる。教室へ急ぐ一年生、眠そうな顔で友人へプリントを見せる二年生、階段の途中で立ち話をして教師に注意される生徒たち。その中で、第二実習室への案内も、少しずつ学校の日常へ溶け込んでいる。


「昨日さ」


 なつきが言うと、春樹がこちらを見る。


「何?」


「隣にいたいって言ったでしょう」


 春樹の歩幅がほんの少しだけ乱れた。


「朝からその話?」


「今思い出した」


「何で?」


「案内のこと考えてたら。離れても消えないって話して、その後で春樹が言ったから」


 春樹は目を逸らしながら、小さく息を吐いた。


「覚えてるよ」


「忘れてない?」


「忘れない」


 その返事が少し嬉しくて、なつきは自然に笑った。


 恋人になったからといって、何もかもが急に自然になるわけではない。好きと言う時も、未来へ少し踏み込む時も、二人ともまだ照れるし、言葉を選ぶ。


 でも以前のように、その沈黙を怖がらなくなった。


「ずっと隣って、どういう意味なんだろうね」


 なつきがそう言うと、春樹はすぐには答えなかった。窓から入った朝の風が二人の制服の袖を揺らし、廊下の向こうでは別のクラスの生徒が笑いながら走って教師に止められている。


「毎日同じ場所にいることだけじゃないと思う」


 しばらくして春樹が言った。


「じゃあ?」


「困った時に思い出せるとか、話したい時にちゃんと話せるとか。会えない日があっても、それで全部なくなるわけじゃない」


「それでも隣?」


「多分」


 春樹は少し考えたあと、照れたように笑った。


「隣って、距離だけじゃないのかもしれない」


 なつきはその言葉を胸の中でゆっくり受け取った。


「案内より難しいね」


「また比べる?」


「最近ずっと比べてる気がする」


「それはそう」


 二人で笑った。


 今はまだ、その答えを決めなくてもいい。


 ただ、こうして少し先のことを話せるようになったこと自体が、なつきには嬉しかった。


 昼休み。


 十一組ラボの教室へ入ると、紅秋がいつもより大きな荷物を机の横へ置いていた。


 三つの段ボール箱。


 一つには『原本保存』。


 一つには『学校共有』。


 もう一つには『整理後保管』。


 紅秋らしい整った字で書かれている。


「何これ?」


 島中が入ってくるなり箱へ近づいた。


「今日の作業」


 紅秋が答える。


「何するの?」


「今までの記録整理」


 その一言で、教室の空気が少し変わった。


 記録。


 十一組ラボにとって、その言葉は単なる紙の束ではない。


 最初の聞き取り。


 試作品。


 失敗した案。


 利用者の声。


 教師との打ち合わせ。


 施設管理との調整。


 正式設置申請。


 その全部が残っている。


「整理って、捨てるの?」


 島中が少し警戒するように尋ねた。


「全部じゃない」


「じゃあ?」


 紅秋は一冊のファイルを机へ置いた。


『第二実習室案内 改善記録』


 現在の学校管理用ファイルよりも薄い、最初期の記録だった。


「懐かしい」


 茜が覗き込み、美優も隣からページを見る。


「これ、最初のやつだよね」


「うん。まだ『文字を大きくする』『矢印を太くする』って話してた頃」


 紅秋が最初のページを開くと、そこには今なら驚くほど単純な案が並んでいた。


『文字を大きくする』


『矢印を太くする』


『色を変える』


 島中が思わず笑った。


「俺、本当に文字大きくすれば終わると思ってたな」


「何回目だよ、その話」


 田辺が弁当箱を開きながら言う。


「今日は記録が証拠だから言っていいだろ」


「誰も止めてない」


 教室に小さな笑いが広がった。


 でも、その笑いの後で、全員の視線は自然に古いファイルへ戻った。


 今見ると。


 そこにいる自分たちは、明らかに今とは違う。


 困りを一つ見つけては、一つ直す。


 別の問題が出たら、また別の修正案を作る。


 その繰り返し。


「今なら、この書き方しないね」


 蓮がページを見ながら言った。


「どう書く?」


 島中が尋ねる。


「誰が困ったのか。どんな状況だったのか。変えることで何が良くなって、何が失われるか」


 美優も頷いた。


「変えない理由も書く」


「管理する人のことも」


 田辺が続ける。


「見落とした後に戻れるかも」


 茜も言った。


 なつきは少し笑った。


「増えたね」


「最初よりは」


 紅秋が答える。


「だから整理したい」


 島中が三つの箱を見る。


「全部残すんじゃ駄目?」


「駄目じゃない。でも全部そのまま残すと、次の人が読むだけで終わる」


「次の人?」


「今後この案内を見直す人。学校側かもしれないし、十一組ラボの後輩かもしれない」


「後輩」


 島中が小さく繰り返した。


「誰かがまたこの案内を見る時、必要なところへ戻れる形にしたいの」


「全部あった方が戻れるんじゃない?」


「全部あると、どこへ戻ればいいか分からなくなる」


 紅秋の返事は静かだった。


「私たちも案内でやったでしょう。情報を増やせば増やすほど分かりやすくなるわけじゃなかった」


 その言葉に、島中は少し黙った。


 最初は案内へ全部書こうとした。


 教室名。


 矢印。


 色。


 補足。


 詳しい説明。


 でも情報が増えるほど、見る側の負担も増えた。


 だから役割を分けた。


「記録も同じ?」


 島中が言う。


「多分」


 蓮が答える。


「全部残すことと、必要なものが伝わることは違う」


 島中は三つの箱をしばらく見たあと、少し苦笑した。


「何か嫌だな」


「何が?」


 田辺が尋ねる。


「終わるみたいで」


 教室が少し静かになった。


 誰もすぐには「終わらない」と返さなかった。


 正式設置は終わった。


 管理移行も進んでいる。


 そして今、記録を整理している。


 確かに。


 一区切りが近づいている人たちの作業だった。


「終わりじゃない」


 少し間を置いて、紅秋が言った。


「でも一区切りではあると思う」


 島中も頷いた。


「うん。それは分かる」


「だから今やる。まだみんなが覚えてるうちに」


 その言葉が、なつきの胸に残った。


 覚えているうちに。


 今なら。


 全部思い出せる。


 どの紙がどの案だったか。


 誰がどんな意見を言ったか。


 どこで迷ったか。


 でも時間が経てば。


 少しずつ。


 曖昧になる。


 だから。


 今。


 残す。


 最初に出てきたのは、活動初期の利用者意見だった。


 一枚目。


 強い否定。


 二枚目。


 肯定。


 なつきはその紙を見た瞬間、当時の胸の痛みを少しだけ思い出した。


 最初。


 怖かった。


 自分たちがやろうとしていることを、全部否定されたような気がした。


「これ、原本保存だよな」


 島中が紙を持ち上げる。


「うん」


 紅秋はすぐに頷いた。


「両方?」


「両方」


 田辺がなつきを見る。


「良い方だけじゃなく?」


「もちろん」


 以前なら。


 良い意見を残したい。


 悪い意見は見たくない。


 そんな気持ちがあった。


 今は違う。


「悪い方がなかったら、今の案内ないかもしれない」


 なつきが言う。


「肯定だけなら、そこまで変えなかったかも」


 茜が続ける。


「でも否定だけでも違った」


 美優も言った。


「全部駄目って方向へ行ってたかもしれない」


 春樹が二枚を見ながら、静かに言う。


「二枚で一つだったのかも」


 なつきは少し笑った。


「それ、好き」


「何が?」


「どっちも必要だったって分かる」


 紅秋は二枚を一緒に『原本保存』の箱へ入れた。


 ただ紙を移すだけの動作だった。


 でも。


 なつきには少しだけ。


 何かを受け入れる儀式のように見えた。


 次に出てきたのは、透明板だった。


 小さな現物。


 当時の写真。


 記録。


 美優はそれを見た瞬間、声を上げて笑った。


「これ、本当に自信あった」


「言ってた」


 茜も笑う。


「窓を塞がないから絶対良いって」


「そう。見た目も綺麗だったし」


 美優は透明板を光へかざした。


 今見ても綺麗だった。


 軽い。


 透ける。


 窓を大きく隠さない。


「でも背景に沈んだ」


 なつきが言うと、美優は板を下ろした。


「私たちには見えてたんだよね」


「作ったから」


 春樹が答える。


「どこにあるか知ってた」


 蓮が当時の記録を読む。


「木の葉と重なる条件。窓外が明るい条件。遠距離。全部で見つけにくい人が出た」


 島中が透明板を見る。


「これ、失敗案?」


 美優は少し考えた。


「昔ならそう言ったかも」


「今は?」


「使わなかった案」


「同じじゃない?」


「違う」


 美優は指先で板の端を軽く叩いた。


「窓を塞がないって考えは最後まで残ったでしょう」


「つや消し枠?」


「うん。全部を白い板にしなかったのも、透明板を試したから」


 なつきも理解した。


 形は消えた。


 でも。


 役割は。


 別の形へ残った。


「じゃあ現物残す?」


 島中が尋ねる。


「全部は要らない」


 紅秋が答える。


「小さい見本と写真。採用しなかった理由と、残った役割」


「それで次の人戻れる?」


「うん」


 島中は少し考えてから頷いた。


「じゃあそうしよう」


 透明板の小さな見本は『原本保存』へ。


 写真と要約は『学校共有』へ。


 重複している途中記録は、要約へ統合したあと『整理後保管』へ。


 少しずつ。


 箱の中が埋まっていく。


 次は白い厚紙。


 薄い灰色。


 夕方の反射。


 素材比較。


 それぞれを見るたび、記憶が戻った。


「これ覚えてる」


 茜が夕方の写真を持ち上げる。


「白い厚紙が光った日」


「俺、白が一番見やすいと思ってた」


 島中。


「昼はね」


 美優が笑う。


「夕方は読みにくかった」


「一日の中でも違うんだって思った」


 なつきも、あの時の眩しさを覚えていた。


 一つの時間。


 一つの角度。


 それだけで「見える」と決めてはいけない。


 晴れ。


 曇り。


 昼。


 夕方。


 背景。


 その全部を条件として見るようになった頃だった。


「これは学校共有だね」


 蓮が言う。


「正式案でも光条件は管理するから」


「現物は?」


 紅秋が尋ねる。


 島中は少しだけ迷ったあと、自分から首を横に振った。


「要らないと思う。写真と理由があれば分かる」


 田辺が横目で見る。


「今、自分から減らす方言ったな」


「捨てるじゃない」


「何?」


「役割を移す」


「美優の言い方取ったな」


「良い言葉だった」


 教室に笑いが広がった。


 少し前まで。


 島中は全部残したいと言っていた。


 でも今。


 写真と理由があれば。


 現物はなくても戻れる。


 そう判断した。


 田辺は何も言わなかったが、少しだけ嬉しそうだった。


 昼休みの終わりが近づいても、整理はまだ半分ほど残っていた。


「続きは放課後」


 紅秋が資料をまとめる。


 島中は机の上を見回した。


「今日これだけ?」


「うん」


「何か、すごく終盤っぽい」


 全員の動きが一瞬だけ止まった。


 島中はすぐに言い直す。


「正式設置の活動が、って意味な。十一組ラボが終わるってことじゃなくて」


 紅秋は少し笑った。


「でも正式設置については、そうかもね」


 その言葉を、誰も否定しなかった。


 作る。


 試す。


 設置する。


 管理へ渡す。


 記録を整理する。


 そこまで来た。


 チャイムが鳴り、全員がそれぞれの教室へ戻っていく。


 午後の授業中。


 なつきは黒板の文字を書き写しながら、昼に分けた三つの箱を何度か思い出していた。


 原本保存。


 学校共有。


 整理後保管。


 どれへ入れるかを決めることは。


 何を重要だと思うかを決めることでもある。


 でも重要なのは。


 結果だけではない。


 正式案だけでもない。


 失敗した案も。


 変えなかった判断も。


 誰かの声も。


 そこまでの理由があるなら。


 残す価値がある。


 次の人が戻れるか。


 それが基準なら。


 少し分かる。


 放課後。


 十一組ラボへ戻ると、整理作業の続きを始めた。


 次に出てきたのは、黄色い三角の資料だった。


 正式設置後に届いた二枚の意見。


 一枚目。


『前より行きやすくなりました』


 二枚目。


『黄色い三角を見て、入ってはいけないのかと思った』


 この二枚が並ぶと、教室の空気が少しだけ静かになる。


「これ、両方残したい」


 なつきが言う。


「もちろん」


 紅秋。


「良い声と困った声、どっちかだけは違う」


 春樹も静かに言った。


「別の人だから」


 島中が少し笑った。


「それ、覚えてる」


 春樹が驚いたように見る。


「僕が言った?」


「うん。良かった人と困った人は別の人だから、片方で片方を消さないって」


「そんな言い方したっけ」


「だいたい」


 島中は二枚の意見用紙を見ながら続けた。


「俺、前なら悪い意見来たら全部駄目って思ってたかもしれない。でも今は、良かったって人が嘘になるわけじゃないって分かる」


「どうして?」


 なつきが尋ねる。


「人が違うから。見えてるものも違うし、使い方も違う」


 島中は少しだけ笑う。


「だから両方残す」


 その言葉を聞いた時。


 なつきの胸が少し熱くなった。


 誰かが言ったことが。


 別の誰かの中へ残る。


 春樹が言ったことを。


 島中が覚えている。


 八人目。


 案内を見た利用者が、別の人へ教えた。


 声は人の中へ残る。


 あの時。


 春樹が言ったこと。


 本当に。


 そうだった。


「これも残したい」


 春樹が別の記録を取り出した。


 最終通し確認の八人目。


 案内を見た生徒が、後から別の生徒へ場所を教えた事例。


「理由は?」


 紅秋が尋ねる。


「案内の機能が紙だけじゃないって分かったから」


「人へ残る?」


 なつき。


「うん。正式設置後も同じ」


 島中が笑う。


「しゃべる矢印」


 田辺がすぐに突っ込む。


「その言葉は学校記録に絶対書くなよ」


「分かりやすいのに」


「誰が書いたか一発で分かる」


「それはそれで良いじゃん」


「良くない」


 教室に笑いが広がった。


 その笑いは自然で、穏やかだった。


 一区切りが近い。


 その寂しさはある。


 でも。


 まだ。


 みんなここにいる。


 次に出てきたのは、初期のアンケートだった。


 質問項目が今よりずっと多い。


 見る順番。


 理解。


 色。


 文字。


 理由。


 全部。


 聞こうとしている。


「多いな」


 田辺が苦笑する。


「今なら絶対やらない」


 茜も笑う。


「書く人疲れる」


 美優。


 なつきはその紙をしばらく見た。


「でも当時は、全部知りたかった」


 春樹がこちらを見る。


「分からないの怖かった?」


「うん。質問で全部埋めたかった」


 なつきは少し笑う。


「今見ると、すごく自分っぽい」


「今は?」


「全部聞かない。分からないところは、不明のまま残す」


 島中がすぐに笑った。


「俺得意」


「不明が?」


「最近は」


「変なの」


 教室にまた笑いが起きる。


 でも。


 なつきは自分でも少し分かっていた。


 最初は。


 分からないことが怖かった。


 だから全部聞いた。


 全部知ろうとした。


 今は。


 分からない。


 それを。


 無理に埋めなくなった。


「これ残す?」


 紅秋がアンケートを持ち上げる。


「残したい」


 なつきが答える。


「理由は?」


「利用者に説明させすぎないって考え方につながったから」


「選ばせすぎないにも」


 茜。


「人を選ばせるんじゃなくて」


 美優。


「情報を選べる形に」


 春樹。


「うん」


 紅秋は要約へその理由を書き加えた。


 次は正式設置申請。


 施設管理との照会。


 学校側の質問。


 島中が申請書の控えを手に取る。


「これ、最初めちゃくちゃ嫌だった」


「書類?」


 田辺。


「待つの」


「ああ」


「出して終わりじゃなくて、質問来て、また直して」


「うん」


「でも今は、これ残したい」


 紅秋が尋ねる。


「何で?」


「学校へ渡すって、許可もらうだけじゃなかったから」


「何だった?」


 なつきが聞く。


 島中は少し考える。


「俺らが考えたことを、向こうが読める形にすること」


 少し照れたように笑う。


「最初、分かってなかった」


 紅秋も少し笑った。


「私も」


「紅秋も?」


「何でも分かってるわけじゃないよ」


「委員長なのに」


「関係ない」


 教室に笑いが起きる。


 そのあと。


 紅秋は少し真面目な顔になった。


「私も最初、記録は全部残すのが正しいと思ってた」


 全員が少し驚いたように見る。


「今日の整理、迷った?」


 茜が尋ねる。


「迷った。削るの怖いから」


 島中がすぐに反応する。


「同じ」


「誰かの声が消える気がするでしょう」


「うん」


「でも全部残したら、次の人が理由へ辿り着けない」


 紅秋は三つの箱を見る。


「だから残すものを選ぶ。でも、消したくない声は理由の中へ統合する」


 なつきは以前の変更記録を思い出した。


 届いた声。


 残した役割。


 意見をそのまま全部貼り付けるのではなく。


 何を変えたか。


 なぜ変えたか。


 そこへ残した。


「声そのまま全部載せなくても」


 なつきが言う。


「何を変えたかと、何で変えたかに残る」


 紅秋が頷く。


「それが今日やりたいこと」


 その一言で。


 今日の作業の意味が。


 ようやく。


 はっきりした。


 捨てるためじゃない。


 保存するためだけでもない。


 次の人が。


 理由へ戻れるように。


 残す。


 日が傾き始める頃には、三つの箱の中身もかなり増えていた。


『原本保存』には、最初の意見、主要な試作品、転換点となった記録。


『学校共有』には、管理に必要な比較、正式設置申請、照会記録、正式設置後の意見。


『整理後保管』には、重複資料や要約へ統合した途中記録。


 島中は最後の箱をしばらく見ていた。


「これ、本当に減らすんだな」


「要約確認後、一部は紙として残さない」


 紅秋が答える。


 島中は古い試作を一枚手に取った。


「これも?」


「うん」


 誰も急かさない。


 田辺も何も言わない。


 島中は少し考えてから、自分で三つ目の箱へ置いた。


「大丈夫?」


 なつきが尋ねる。


「大丈夫じゃない」


 島中は笑った。


「でも全部持ってたら、次の人が迷う」


 なつきは少しだけ胸が熱くなる。


「最初の案内と同じだね」


「何が?」


「情報。全部入れたら見つけにくい」


「ああ」


「記録も、全部そのままじゃ理由を見つけにくい」


 島中は少し笑った。


「本当に同じだな」


 田辺も笑う。


「案内作って、記録整理まで同じこと学ぶのか」


「無駄がない」


 茜が言う。


「しつこいだけかも」


 美優が返し、また笑いが広がった。


 その笑い。


 今日。


 必要だった。


 一区切りが近い。


 でも。


 まだ。


 みんな。


 ここにいる。


「今日のおかえり会」


 紅秋が机を片付けたあとに言った。


 三つの箱が教室の端へ並んでいる。


「今日は一つだけ聞きたい」


「何?」


 島中。


「今までの活動で、次の人へ一つだけ残せるなら何を残したい?」


 教室が少し静かになった。


「物でも、言葉でも、考え方でもいい。今浮かぶもので」


 最初に美優が口を開いた。


「私は透明板」


「やっぱり?」


 島中が笑う。


「現物じゃなくて。良い案と使える案は同じじゃないってこと」


 美優は少しだけ真面目な顔になる。


「作る側にとって綺麗でも、使う側には見えないことがある。それを残したい」


 次は蓮。


「僕は、見落としゼロを目標にしないこと」


 島中が少し笑う。


「最初の俺、絶対嫌がる」


「今は?」


「好き」


 蓮も少しだけ笑った。


「人は全部見ないし、全部読まない。だから、失敗しない仕組みより、失敗しても戻れる仕組みを残したい」


 茜は少し考えてから言う。


「私は、まとめることと一つにすることは違うってこと」


「青と黄色?」


 なつき。


「それも。意見も。違うまま残していい。全部同じ答えにしなくていい」


 次は田辺。


「俺は待つ」


 島中がすぐ反応する。


「俺じゃん」


「お前」


「何で俺」


「ずっと止めてたから」


「お世話になりました」


「本当に」


 教室が笑う。


 でも田辺は、そのまま続けた。


「ただ、すぐ動くのも必要だった」


 島中が少し驚く。


「俺?」


「お前が動かなかったら、ここまで来てない」


「本当?」


「本当」


「急に言うなよ」


「今日だから」


 島中は少しだけ目を逸らした。


 誰も。


 そこを。


 いじらなかった。


「だから、進む人と止める人。両方残したい」


 次は島中。


 少し長く考える。


「俺は、理由」


「今日のまま?」


 なつきが尋ねる。


「うん。変えた理由、変えなかった理由、待った理由、諦めた理由。結果よりそっち残ってほしい」


 紅秋が聞く。


「何で?」


「結果だけなら、今の案内見れば分かる。でも何でそうなったか分からなかったら、次の人がまた同じところからやる」


 蓮が頷く。


「それはそう」


「だから理由」


 紅秋は少し考えた。


「私は、途中でも渡せること」


「途中?」


 島中。


「正式設置って完成じゃないでしょう」


「うん」


「全部完成するまで抱えなくていい。試していいところまで来たら、渡せる」


 なつきの胸が少し熱くなる。


 あの日。


 自分が言った。


 完成したから置くんじゃない。


 試していいところまで来たから置きたい。


「ありがとう」


 なつきが言う。


「何が?」


「それ覚えてた」


 紅秋は少しだけ笑った。


「覚えてるよ」


 次は春樹。


「僕は、意味は一つじゃないってこと」


「黄色?」


 なつきが聞く。


「黄色も。意見も。人の言葉も」


 春樹は少しだけなつきを見る。


「同じものでも違って見える。だから一つに決める前に聞く」


 春樹らしい。


 なつきはそう思った。


「最後、なつき」


 茜が言う。


 全員がこちらを見る。


 なつきはすぐには答えなかった。


 最初の意見。


 怖かった声。


 青。


 黄色。


 島中。


 茜。


 紅秋。


 美優。


 蓮。


 田辺。


 春樹。


 たくさん浮かぶ。


「私は、なくならないこと」


 島中が少し首を傾げた。


「何が?」


「声」


 なつきはゆっくり言葉を続ける。


「採用しなくても、形が変わっても、全部そのまま残せなくても、なくなったわけじゃない。理由の中に残るし、次の形にも残るし、人の中にも残る」


 春樹が静かにこちらを見る。


 なつきも頷いた。


「それを残したい」


 教室はしばらく静かだった。


 気まずい沈黙ではない。


 みんなが。


 今。


 それぞれ。


 自分の中へ。


 同じ時間を。


 戻している。


 紅秋が少し笑った。


「じゃあ、今日かなり見えたね」


「何が?」


 島中。


「残すもの」


 紅秋は三つの箱を見る。


「形だけじゃなかった」


 島中も箱を見る。


「理由だった」


 なつきはその言葉を聞きながら、今日やってきたことがようやく一つにつながった気がした。


 活動が終わる頃。


 夕陽は校舎の西側へ傾き、中庭の影を長く伸ばしていた。


 十一組ラボの教室を出たなつきは、帰り道の途中で第二実習室への案内がある廊下を通った。


 今日は朝、見に行かなかった。


 でも帰りなら。


 普通に通る。


 最初の青い案内の前で、なつきは少しだけ歩みを緩めた。


 端の浮きを確認するわけではない。


 固定を見るわけでもない。


 管理表も持っていない。


 ただ。


 見る。


「今日、見に来たね」


 隣にいる春樹が笑った。


「帰り道だから」


「朝とは違う?」


「違う」


「どう違う?」


 なつきは少し考える。


「確認じゃなくて、挨拶みたい」


「案内に?」


「変?」


「少し」


「春樹もして」


「何を?」


「また明日って」


「声に出す?」


「それは嫌」


 二人で笑った。


 そのまま校門へ向かう。


 夕方。


 部活動帰りの生徒が多く、しばらくは普通に並んで歩いた。


 駅へ向かう人。


 自転車。


 友人同士の笑い声。


 道が少し空いてきたところで。


 なつきから手を近づけた。


 春樹も気づき、自然に握る。


「今日」


 なつきが言う。


「うん」


「春樹、意味って言ったでしょう」


「残したいもの?」


「うん。意味は一つじゃないって」


「うん」


「私たちもそうかな」


 春樹は少し考える。


「何が?」


「隣」


 なつきはゆっくり話す。


「友達だった時も隣だった。十一組ラボでも隣だった。今は恋人」


「うん」


「同じ隣でも、意味違う?」


 春樹は少し笑った。


「増えたんじゃない?」


「意味が?」


「うん」


 なつきの胸が少し熱くなる。


「減ることもある?」


「あるかもしれない」


「怖い?」


「少し」


「私も」


 二人はしばらく黙って歩いた。


 夕焼け。


 住宅街。


 少し冷たい風。


 つないだ手。


「でも」


 春樹が言う。


「今ある意味がなくなるって、今決めなくていいと思う」


「うん」


「今日のまま持っていけばいい」


 なつきは少し笑う。


「記録みたい」


「また案内」


「でも、全部残さなくても理由は残る」


「うん」


「私たちも?」


 春樹が少しだけこちらを見る。


「何が残ると思う?」


 聞いたのは自分なのに。


 なつきの胸が少し緊張する。


 春樹は考える。


 なつきは待つ。


 今は。


 それが。


 できる。


「好きになった理由」


 春樹がゆっくり言った。


 なつきの顔が熱くなる。


「それ今言う?」


「なつきが聞いた」


「じゃあ言って」


「難しい」


「逃げないで」


「逃げてない」


 春樹は少しだけ笑った。


 でも、本当に考えている。


「一緒にいると、自分一人で答えを決めなくていいって思える」


 なつきは少し驚いた。


「それ、嬉しい」


「本当?」


「うん」


 春樹は続ける。


「なつきはすぐ答え欲しがるけど」


「知ってる」


「でも最近、僕が考える時間を待ってくれる」


「前は?」


「急いでた」


「ごめん」


「今は違う」


 春樹は少しだけ笑った。


「僕も、言わなくても分かってほしいって思いすぎなくなった」


 なつきの胸が動く。


「だから」


「うん」


「一緒に変わった」


 その言葉で。


 目の奥が少し熱くなる。


「それ、好き」


「話?」


「春樹」


 春樹は少し顔を赤くした。


 でも。


 今日は。


 目を逸らすだけで。


 逃げない。


「僕も」


 なつきは笑った。


「早い」


「最近慣れた」


「でも照れてる」


「うん」


「良い」


「何が?」


「それが」


 二人で笑った。


 今日。


 十一組ラボは。


 何を残すかを選んだ。


 全部を紙のまま残すわけではない。


 全部の形を保存するわけでもない。


 次の人が。


 理由へ戻れるように。


 残す。


 人の中へ残るものは。


 選べない。


 でも。


 それでいい。


 誰かが言った言葉。


 失敗した案。


 待った時間。


 怖かった声。


 嬉しかった声。


 それぞれが。


 別の人の中へ。


 勝手に。


 残る。


 正式設置から九日目。


 学校管理は進んでいる。


 十一組ラボは毎朝の案内確認から少しずつ離れている。


 でも。


 ここまでの理由は。


 今日。


 少しずつ。


 形になった。


 一区切りは近い。


 それでも。


 何を残すのか。


 自分たちの中へ何が残ったのか。


 それが見え始めたことで。


 なつきは。


 昨日より。


 その先を。


 少しだけ。


 怖がらずに見られるようになっていた。

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