第181話 恋人になった翌朝も、学校はいつもどおり始まる
翌朝。
なつきは、目覚ましが鳴る三分前に目を覚ました。
昨日のように十七分早くもなければ、夜中に何度も目を覚ましたわけでもない。
それでも、目を開いた瞬間。
胸の奥へ昨日の記憶が戻ってきた。
川沿いの道。
夕日。
春樹の声。
『僕は、なつきが好き』
つないだ手。
駅前で触れた指先。
夜に届いた短いメッセージ。
『これからも隣にいてほしい』
なつきは布団の中で、しばらく動かなかった。
夢ではない。
スマートフォンを確認すれば、昨日のやり取りが残っている。
それでも、朝になると少しだけ現実感が薄くなる。
「……彼氏」
声に出してみる。
自分で言って、自分で恥ずかしくなった。
布団を顔まで引き上げる。
数秒。
もう一度。
「春樹が、彼氏」
今度はもっと恥ずかしい。
「何やってるんだろ、私」
誰も見ていないのに、顔が熱い。
けれど、笑いが止まらなかった。
昨日まで。
春樹の隣を歩けるだけで嬉しかった。
自分をどう思っているか聞きたかった。
特別かもしれないと言われただけで、一日中思い出した。
今は。
好きだと言われた。
自分も好きだと伝えた。
付き合うことになった。
恋人。
彼氏。
彼女。
言葉だけなら簡単なのに、自分のことになると一つずつが重い。
なつきはスマートフォンを手に取った。
昨夜の最後。
『おやすみ、春樹。また明日』
『おやすみ、なつき。また明日』
また明日。
その明日が、今日になった。
恋人として初めて学校で会う。
昨日までなら、見つければ普通に「おはよう」と言えた。
今日は?
同じでいい。
分かっている。
恋人になったからといって、特別な挨拶をしなければならないわけではない。
それなのに。
「おはよう、春樹」
部屋の中で練習する。
「普通」
もう一度。
「おはよう」
「短すぎ?」
何が短いのか、自分でも分からない。
「おはよう、彼氏」
口にした瞬間、なつきは枕へ顔を押しつけた。
「絶対言えない」
恋人になった翌朝。
最初の課題は、挨拶だった。
昨日の十一組ラボより簡単なはずなのに。
青い丸も。
矢印も。
判断条件もない。
ただ春樹へ、おはようと言うだけ。
それが、難しい。
身支度を整える。
朝食を食べる。
家を出る。
駅へ向かう。
いつもと同じ道。
見慣れた景色。
登校する学生。
通勤する人。
自転車。
車。
信号。
何も変わっていない。
変わったのは、自分と春樹の関係だけ。
電車へ乗る。
混雑した車内で、なつきは吊り革につかまりながら、何度もスマートフォンを見そうになった。
朝から連絡する?
『おはよう』
送ってもおかしくない。
でも学校で会う。
昨日、毎日連絡を義務にしないと話した。
送りたいときに送る。
今は送りたい。
けれど。
「会って言う」
小さく呟く。
隣に立っていた女子高生が一瞬こちらを見た。
なつきは窓の方へ顔を向けた。
恥ずかしい。
駅へ着く。
改札を出る。
学校へ向かう生徒の流れへ混ざる。
このあたりで会うこともある。
今日も、無意識に春樹を探す。
いない。
少し安心する。
少し残念。
どちらもある。
校門。
昇降口。
上履きへ履き替える。
階段を上がる。
二階。
春樹は、まだ見えない。
「横田」
後ろから声。
心臓が跳ねた。
振り返る。
島中だった。
「……島中」
「何、その顔」
「別に」
「誰かだと思った?」
「誰でもいいでしょう」
「大國?」
即答。
なつきの顔が熱くなる。
「朝から何なの」
「当たり?」
「知らない」
「昨日どうだった?」
島中が聞く。
なつきは足を止めた。
「何が?」
「いや、昨日」
「活動?」
「……活動は知ってる」
「じゃあ何」
島中は困ったように周囲を見る。
廊下には、登校してきた生徒たちがいる。
近くを通る女子生徒が、二人の会話へ少しだけ耳を向けている。
「ここで聞くことじゃないな」
島中が珍しく自分から引いた。
「分かってるなら聞かないで」
「気になるだけ」
「本人たちのこと」
「分かってる」
「じゃあ待って」
「何を?」
「言うかどうか」
「俺から聞かない?」
「今日は」
「分かった」
素直に引いた。
なつきは少し驚く。
「何?」
島中が尋ねる。
「前なら聞いてた」
「昨日田辺に三回くらい怒られた」
「学習した?」
「してる」
「偉い」
「朝から上から目線だな」
二人で笑う。
「でも」
島中が少しだけ声を落とした。
「良い顔してる」
「どういう意味?」
「昨日より」
「昨日も見た?」
「十一組ラボで」
「普通だったでしょう」
「帰る前、緊張してた」
「分かってたんだ」
「全員分かってた」
「最悪」
「誰も言わなかっただろ」
「島中以外は」
「俺も最後は言わなかった」
「最後は」
話しながら教室へ向かう。
廊下の向こう。
図書室側から春樹が歩いてきた。
なつきの足が自然に遅くなる。
春樹もこちらへ気づいた。
島中も気づいた。
一瞬。
島中が何か言いかける。
それから、口を閉じた。
「じゃ」
「何?」
「俺、先行く」
「同じ方向じゃん」
「ちょっと用事思い出した」
「何の?」
「……田辺探す」
「朝から?」
「そう」
明らかに嘘だった。
けれど、なつきは止めなかった。
島中は本当に階段の方へ曲がっていく。
春樹が近づく。
昨日。
好きだと言ってくれた人。
彼氏。
そう思った瞬間。
朝、家で練習した言葉が全部消えた。
「……おはよう」
先に春樹が言った。
「お、おはよう」
声が少し裏返った。
春樹が目を瞬かせる。
「緊張してる?」
「してない」
「声」
「朝だから」
「いつもこんな声じゃない」
「春樹も少し変」
「僕も緊張してる」
「認めるの早い」
「昨日の夜から」
「私も」
言ってから。
二人とも少し笑った。
それだけで、何かが戻った。
昨日までの二人。
でも、少し違う。
「眠れた?」
春樹が尋ねる。
「昨日より」
「僕も」
「目覚ましより早かった?」
「七分」
「私は三分」
「昨日より近い」
「何が?」
「普通の朝に」
「昨日が普通じゃなさすぎた」
「うん」
二人は並んで歩き出す。
肩と肩の距離。
昨日までとほとんど同じ。
手はつながない。
学校の廊下。
人が多い。
恋人になったからといって、何をしても平気になるわけではない。
「手、つながない?」
なつきが小さく尋ねる。
聞いた後で、自分でも驚いた。
春樹が周囲を見る。
「ここで?」
「聞いただけ」
「なつきは?」
「無理」
「僕も」
「じゃあ聞かなくてよかった」
「でも帰りは?」
「……つなぎたい」
「僕も」
短い会話。
それだけで胸が熱くなる。
「今日、一緒に帰る?」
「うん」
「図書委員は?」
「今日はない」
「じゃあ、十一組ラボ終わったら」
「うん」
「恋人として二日目」
「数える?」
「今日だけ」
「明日は三日目?」
「毎日数えたら怖い」
「なつきならやりそう」
「やらないよ」
二人が十一組ラボの教室前へ近づく。
扉は開いている。
中には、茜。
美優。
蓮。
紅秋。
田辺。
そして。
戻ってきた島中。
全員がいる。
「おはよう」
なつきが言う。
「おはよう」
返事。
春樹も続ける。
「おはよう」
普通。
誰もすぐには何も言わない。
なつきと春樹は、それぞれ昨日までの席へ向かう。
同じ机ではない。
少し離れている。
荷物を置く。
なつきは何となく茜を見る。
茜もこちらを見ている。
目が合う。
茜の視線が。
なつき。
春樹。
なつき。
春樹。
と往復する。
「何?」
なつきが耐えきれずに聞く。
「何も」
「絶対何かある」
「聞かないって昨日言ったから」
「顔が聞いてる」
「なつきが言いたくなるまで待つ」
「その待ち方、圧あるよ」
「じゃあ見ない」
茜がわざと黒板の方へ顔を向ける。
「もっと変」
「どうすればいいの」
美優が小さく笑う。
島中は、田辺の隣で口を閉じている。
何か言いたそう。
田辺が見張っている。
紅秋は資料を整理しながら、二人へ一度だけ視線を向けた。
何も聞かない。
蓮も同じ。
誰も聞かない。
それが逆に。
「……言った方が楽かも」
なつきが小さく呟く。
春樹へ視線を向ける。
春樹も聞こえたらしい。
「言う?」
「いい?」
「うん」
「私から?」
「一緒に?」
「どうやって」
周囲は。
明らかに聞いている。
聞いていないふりをしながら。
全員、静かすぎる。
なつきは少し息を吸った。
「えっと」
島中の背筋が伸びる。
田辺が肘で小さく押す。
「普通にしてろ」
「してる」
「してない」
「二人とも聞こえてる」
なつきが言うと、教室に少し笑いが起きた。
緊張が少しだけ抜ける。
「昨日」
なつきが続ける。
「帰りに、春樹と話して」
春樹が隣でうなずく。
「その」
言葉が詰まる。
昨日、春樹には好きと言えた。
付き合うとも言えた。
なのに、人へ説明するのは別の恥ずかしさがある。
「付き合うことになりました」
やっと言った。
一瞬。
教室が止まる。
島中の顔が一気に明るくなる。
「おお――」
田辺が口を塞ぐ。
「声」
「分かってる!」
「分かってない」
茜は両手で口元を押さえた。
「おめでとう」
声は小さい。
でも、すごく嬉しそうだった。
「ありがとう」
なつきの顔が熱い。
美優も笑う。
「良かったね」
「うん」
「長かった」
「美優まで」
「見てたから」
「そんなに?」
「なつきは分かりやすかった」
「またそれ」
蓮は少しだけ笑う。
「おめでとう」
「ありがとう」
「活動中の役割は今までどおりでいい?」
すぐに確認するところが蓮らしい。
「うん」
なつきが答える。
春樹も。
「そのつもり」
紅秋は二人を見る。
「おめでとう」
「ありがとう」
「ただし」
「来ると思った」
島中が言う。
「島中に言ってない」
「分かるだろ」
紅秋は少し笑った。
「活動中に、二人だから同じ役割へすることはしない」
「うん」
「二人だから離すこともしない」
「うん」
「今までどおり、必要な組み合わせで決める」
「それでいい」
春樹が答える。
なつきも。
「私も」
「あと」
紅秋は少しだけ声を柔らかくする。
「付き合ったからって、周りが何でも聞いていいわけじゃない」
島中を見る。
「俺?」
「主に」
「まだ何も聞いてない」
「今日は」
「もう学習したって」
「じゃあ続けて」
「分かった」
島中は真面目にうなずいた。
それから。
「でも一個だけ」
「何?」
なつきが警戒する。
「おめでとう」
真っ直ぐな声。
なつきは少しだけ目を見開いた。
「ありがとう」
春樹も。
「ありがとう」
田辺が小さく笑う。
「それだけなら最初から言え」
「タイミング」
「余計なの狙ってただろ」
「狙ってない」
教室に笑いが広がる。
昨日までと同じメンバー。
同じ十一組ラボ。
でも一つだけ変わった。
なつきと春樹が付き合ったことを、みんなが知った。
それで。
何かが大きく変わるかと思っていた。
けれど。
「じゃあ、昨日の続き」
紅秋が黒板へ向き直る。
本当に。
すぐ活動へ戻った。
「最初の青い案内の情報量から」
島中が手を挙げる。
「昨日の二案、先生に見せるんだろ?」
「昼休みに確認予定」
「中継見落としの再確認は?」
「協力方法について許可が出た」
蓮が資料を開く。
「二人組での確認は、本人たちへ目的を全部先に伝えると意識が変わる。だから、案内改善の協力だとは伝えるけど、どの場所を見るかは終了後に説明する」
「それでいいの?」
なつきが尋ねる。
「参加前に、歩行観察をすること。途中で会話してもいいこと。終了後に詳しい目的を説明すること。いつでも中止できることを伝える」
「知らないまま観察じゃない」
「うん」
「一人で正面だけ見る人は?」
「別に初見確認」
「案内を探すようには言わない?」
「第二実習室へ行ってもらう」
「同じだね」
「以前と同じ条件をできるだけ使う」
活動が進む。
恋人になったこと。
それは大きなこと。
なつきにとっては。
春樹にとっても。
けれど、十一組ラボの課題は待ってくれない。
九枚の意見。
見落とした二つの状況。
文字量。
黄色い案内。
正式性。
管理。
それらは昨日から続いている。
付き合ったからといって。
昨日考えたことが消えるわけではない。
むしろ。
なつきは、少し安心した。
恋人になった後も、活動は活動として続く。
春樹と同じ意見にならなくてもいい。
違う班へ分かれてもいい。
意見がぶつかっても。
それが、恋人として嫌われることにはならない。
そう思いたい。
「横田さん」
蓮が呼ぶ。
「何?」
「聞いてた?」
「聞いてた」
「今、正式性の表示」
「学校許可の印?」
「うん」
昨日の六枚目。
学校の正式な案内か分からなかったという声。
「先生から、既存の校内試験掲示用の小さな印を使える可能性がある」
「既存であるの?」
「普段は生徒会の試験掲示とかで使うらしい」
「知らなかった」
美優が資料を見る。
「小さいけど、梅桜高校の文字と承認印が入ってる」
「案内本体へ?」
「試験期間表示に」
「文字増えない?」
「既存の印だから、一つで正式性を示せる」
「利用者に分かる?」
「それを確認する」
「また初見?」
「うん」
なつきはうなずいた。
新しく説明文を足すのではなく、すでに学校にある仕組みを使う。
昨日の黄色い案内と同じ。
新しく増やす前に。
今あるものをつなぐ。
「学校にも十一組ラボみたいなことあるんだね」
なつきが言う。
「どういう意味?」
茜が聞く。
「全部新しく作らなくても、探せば使えるものある」
「今まで私たちが知らなかっただけ」
「利用者側だったら気づかないもの」
「作る側になって初めて見る」
「学校の裏側」
島中が少し楽しそうに言う。
「格好いい」
「また見た目」
田辺が返す。
「裏側は見た目じゃない」
「言葉の話」
笑い。
朝の短い活動時間が終わる。
授業前。
各自が教室へ戻る。
なつきと春樹も立ち上がる。
廊下へ出る。
二人きりではない。
前に茜と美優。
後ろに島中と田辺。
普通の移動。
それなのに。
「彼氏」
なつきが小さく言った。
春樹の足が一瞬止まりそうになる。
「今?」
「呼んでみた」
「学校で?」
「小さく」
「恥ずかしい」
「私も」
「何で言ったの」
「言ってみたかった」
春樹が少しだけ顔を赤くする。
「彼女」
今度は、春樹が小さく言った。
なつきの方が固まった。
「……それは駄目」
「なつきが先」
「心臓に悪い」
「僕も」
前を歩いていた茜の肩が震えている。
聞こえていた。
「茜」
「聞いてない」
「絶対聞いてた」
「前向いてる」
「肩」
「笑ってない」
「笑ってる」
美優まで少し笑っている。
春樹は完全に顔を逸らした。
「もう学校では言わない」
なつきが言う。
「賛成」
「帰りは?」
「二人なら」
「じゃあ帰り」
「予約?」
「うん」
恋人になった翌朝。
恥ずかしいことが増えた。
名前。
呼び方。
視線。
周囲の反応。
今までは気にしなかった小さな距離まで、全部意識してしまう。
それでも。
嫌ではない。
昼休み。
十一組ラボでは、担当教師を交えて二案の確認が行われた。
一案目。
最初の青い案内から『詳しい確認は、第二実習室前でできます』を外す。
青い丸。
第二実習室。
矢印。
『青い丸が目印です』
だけにする。
二案目。
第二実習室前にある既存表示へ、小さな黄色い三角と『到着後の確認』を加える。
さらに、室内の入口机へ、使うときに必要な情報だけを置く。
担当教師は二つを見比べ、すぐには答えなかった。
「最初の案内は、かなり軽くなったな」
「文字量の意見が一枚ありました」
美優が説明する。
「ただ、その一枚だけで減らしたわけではありません」
「詳しい案内との接続が切れていたから?」
「はい」
「今ある教室前表示を使うのは良いと思う」
教師が二案目を見る。
「ただ、黄色い三角の意味は?」
「到着後の確認です」
「青い丸は進む印」
「黄色い三角は確認する印」
「色だけじゃなく形も変える」
「はい」
「中継案内の青い丸から、ここへ急に黄色い三角が出ても分かる?」
全員が少し黙る。
「青から黄色への切り替わり」
なつきが言う。
「そこ、まだ見てない」
「最初の案内で黄色を伝えないなら、到着した人が自然に見つける必要がある」
教師が続ける。
「第二実習室という目的地へ着いた後、次に見る場所がどこか」
「扉」
「教室名」
「既存表示」
「その並びの中へ黄色を入れる」
「なら、目線の流れで見つかる可能性はある」
「確認必要」
島中が自分から言った。
教師が少し笑う。
「随分慎重になったな」
「九枚読んだので」
「そうか」
「でも早くやりたいです」
「そこは変わらないか」
「はい」
教室に笑いが起きる。
既存表示への黄色い三角追加は、仮置きなら許可。
ただし、教室名や授業予定を隠さないこと。
黄色い三角は、現在表示の左上。
『到着後の確認』は小さく。
文字を増やしすぎない。
正式性の印についても、試験表示へ既存の校内承認印を使える。
「これで二つ進んだ」
島中が言う。
「確認へ進める条件が」
蓮が付け加える。
「はいはい」
「大事」
午後。
なつきは昨日より授業へ集中できた。
恋人になった翌日。
もっと一日中春樹のことしか考えられないと思っていた。
もちろん、考える。
ふとした瞬間。
春樹が彼氏。
付き合ってる。
帰りに一緒に帰る。
手をつなぐかもしれない。
そのたびに嬉しくなる。
でも。
授業はある。
課題はある。
十一組ラボもある。
友達とも話す。
お腹も空く。
眠くもなる。
世界全部が恋愛になるわけではない。
それが、少し安心した。
好きな人ができた。
恋人になった。
それでも、自分は自分のまま。
春樹も春樹のまま。
六時間目終了後。
十一組ラボの教室へ集まる。
放課後は、黄色い案内の仮置き準備と、見落とし確認の協力者選定。
「今日、黄色まで試す?」
島中が尋ねる。
「仮置き位置だけ」
紅秋が答える。
「初見確認は明日」
「分かった」
「見落とし確認も明日以降」
「分かった」
「本当に?」
田辺が聞く。
「分かってるって」
島中は笑う。
なつきと春樹は、黄色い三角の大きさを三種類作る。
小。
中。
大。
教室前の既存表示へ仮置きし、何を隠すかを見る。
「大、目立つ」
なつきが言う。
「でも教室名の近くへかかる」
「中?」
「予定表は隠さない」
「小は?」
「意味のある印に見えにくい」
「中かな」
「僕も」
二人の意見が一致する。
「付き合ったから同じ意見?」
島中が遠くから言う。
田辺がすぐに見る。
「冗談」
「活動中」
「分かってる」
なつきは中サイズの三角を見る。
「春樹、本当に中?」
「うん」
「私に合わせてない?」
春樹が少しだけ驚いた顔をする。
「昨日の話?」
「うん」
「合わせてない」
「理由は?」
「小だと、既存表示の見出しに埋もれる。大だと予定表へ近すぎる。中なら余白に収まる」
「同じ」
「なつきは?」
「小だと見つけにくい。大だと邪魔。中」
「理由も似てる」
「でも別々に考えた」
「うん」
付き合った。
それでも、意見が同じなら理由を確認する。
違えば話す。
恋人だから合わせる必要はない。
なつきは、それを実際に確認できたことが少し嬉しかった。
「恋人になって活動しにくくなった?」
春樹が小さく尋ねる。
「今のところ大丈夫」
「僕も」
「同じ班だと嬉しいけど」
「それは?」
「恋人だから」
「正直」
「でも別班でもやる」
「うん」
「帰りは一緒」
「うん」
作業を終える。
今日の確認結果。
黄色い三角は中サイズを第一候補。
既存表示への追加位置も二案。
正式性の承認印は、試験表示に組み込む。
明日の初見確認へ。
「今日はここまで」
紅秋が言う。
片付け。
机を戻す。
記録を保管。
原本は施錠。
いつもの終わり。
「帰ろう」
春樹が言った。
「うん」
なつきは鞄を持つ。
教室を出る前。
島中が手を上げる。
「二人とも」
「何?」
「お疲れ」
「お疲れ」
「それだけ」
「学習したね」
「今日は何回言われるんだよ」
笑いが起きる。
茜がなつきへ小さく手を振る。
美優も。
紅秋も、何も言わず少しだけ笑っている。
二人で教室を出る。
廊下。
階段。
昇降口。
校門。
そこまでは。
手をつながない。
昨日より少しだけ意識している。
でも。
いつものように話す。
「黄色い三角、中だったね」
なつきが言う。
「うん」
「本当に合わせてない?」
「まだ言う?」
「少し心配」
「なつきも僕へ合わせないで」
「分かった」
「意見違ったら?」
「言う」
「僕も」
「喧嘩したら?」
「話す」
「すぐ?」
「少し時間必要かも」
「私、すぐ聞くかも」
「知ってる」
「待ってって言う?」
「言う」
「じゃあ待つ」
「進みそうになりながら?」
「たぶん」
二人で笑う。
校門を出る。
生徒の流れは多い。
少し歩く。
昨日の川沿いの道へ近づく。
人が少なくなる。
なつきの手が、自然に春樹の手へ近づいた。
触れない。
少しだけ。
春樹も気づく。
「つなぐ?」
春樹が尋ねる。
「うん」
昨日より少し自然に。
二人の手が重なる。
それでも、心臓は速い。
「昨日より緊張しない?」
春樹が聞く。
「する」
「僕も」
「でも昨日より嬉しいかも」
「どうして?」
「今日もつないだから」
「昨日だけじゃない?」
「うん」
「僕も」
歩く。
同じ道。
つないだ手。
昨日は、恋人になった直後。
今日は、恋人になった翌日。
少しだけ。
続いている実感がある。
「朝、彼氏って言った?」
なつきが聞く。
「何?」
「一人で」
「言ってない」
「私は言った」
「誰に?」
「自分」
春樹が足を止めそうになる。
「何て?」
「言わない」
「そこまで言ったのに?」
「恥ずかしい」
「気になる」
「春樹が彼氏って」
春樹の耳が赤くなる。
「言ったの?」
「二回」
「二回?」
「一回目は確認。二回目は恥ずかしくなった」
「何で二回言うの」
「現実感ほしくて」
春樹は少し笑った。
「僕も、なつきが彼女って考えた」
「言った?」
「声には」
「出してない?」
「うん」
「負けた」
「勝負?」
「次は言って」
「一人で?」
「うん」
「何のために」
「私と同じ恥ずかしさ」
「嫌」
「彼女なのに」
「関係ない」
笑いながら歩く。
恋人。
まだ、言葉に慣れない。
でも。
少しずつ。
二人の間へ置いていく。
「明日も一緒に帰る?」
なつきが尋ねる。
「図書委員ある」
「待つ」
「十一組ラボの作業は?」
「終わったら、自分の課題する」
「無理に待たなくていいよ」
「待ちたい」
「なら」
「うん」
「でも遅くなったら?」
「先に帰るか、その場で決める」
「約束しすぎない?」
「今日決めなくていい」
「学んだね」
「春樹に言われたくない」
昨日まで何度もしたやり取り。
恋人になっても変わらない。
それが嬉しかった。
なつきは、つないだ手を少しだけ握る。
春樹も返す。
「恋人になって、何か変わった?」
なつきが尋ねた。
「手」
「それだけ?」
「呼び方の意味」
「前から名前で呼んでた」
「今は、少し意識する」
「私も」
「あと」
「何?」
「なつきが隣にいるのを、前より大事に思う」
「付き合う前も?」
「大事だった。でも名前が付いたから、失いたくない気持ちも見えやすくなった」
「怖くなった?」
「少し」
「私も」
「付き合えたから安心だけじゃない?」
「うん」
恋人になれば。
全部安心すると思っていた部分もあった。
春樹が好きだと分かる。
自分のもの、という言い方は違う。
でも。
関係がはっきりする。
だから不安は減る。
確かに減ったものもある。
どう思われているか。
そこはもう聞いた。
けれど。
今度は。
失いたくない。
嫌われたくない。
喧嘩したくない。
別れたくない。
新しい怖さが生まれる。
「完成しないね」
なつきが言う。
「恋人?」
「うん」
「しないと思う」
「試験設置じゃないけど」
「変わっていく」
「良く?」
「良いことも、困ることも」
「声を読む?」
「二人で」
なつきは笑う。
「案内にしないって言ったのに」
「でも、話すのは似てる」
「困ったら意見用紙?」
「直接言って」
「無記名?」
「嫌」
「誰が書いたか推測しない?」
「二人しかいない」
二人で笑った。
夕方の道。
風。
つないだ手。
昨日よりも少し自然。
学校では。
みんなが知った。
おめでとうと言ってくれた。
活動は変わらず続いた。
恋人になったからといって、世界は止まらない。
授業もある。
十一組ラボもある。
課題もある。
友達もいる。
その中へ。
春樹との関係が一つ増えた。
それでいい。
なつきは、少しずつそう思えた。
「春樹」
「何?」
「付き合えて良かった」
春樹は少しだけ歩みを遅くした。
「僕も」
「今日も?」
「今日も」
「明日は?」
「明日、また言う?」
「うん」
「毎日?」
「しつこい?」
「少し」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「好きだから?」
「好きだから」
昨日と同じ答え。
でも。
昨日だけの答えではない。
今日も。
春樹は好きだと言ってくれた。
なつきも。
今日も春樹が好き。
恋人になった翌朝も。
学校はいつもどおり始まった。
授業があった。
笑った。
島中が騒いだ。
田辺が止めた。
茜に見抜かれた。
紅秋が活動と恋愛を分けた。
十一組ラボは、次の確認へ進んだ。
恋人になっても。
何もかもが特別な一日になるわけではない。
だからこそ。
いつもの日常の中へ。
好きな人が恋人として隣にいることが。
なつきには、とても大きなことだった。
明日も。
学校へ行く。
案内を直す。
声を読む。
迷う。
話す。
そして。
帰り道になれば。
春樹の手を取る。
そんな日を。
少しずつ増やしていく。
君の隣を目指すことは。
恋人になった昨日で終わらなかった。
むしろ。
ここからが。
二人で隣を作っていく最初の日だった。




