第180話 君の隣を目指していたら、もう隣にいてほしい人になっていた
翌朝。
なつきは、目覚ましが鳴るよりも十七分早く目を覚ました。
目を開いた瞬間から、胸の奥が落ち着かなかった。
昨夜、何度も眠ろうとした。
布団へ入って。
照明を消して。
スマートフォンを伏せて。
明日のことを考えないように、十一組ラボの記録整理の手順を頭の中で確認した。
九枚の意見。
機能した役割。
見つかった負担。
つながりが切れた場所。
まだ判断できないこと。
正式設置へ進む前に確認する五つの課題。
それらを一つずつ思い浮かべていれば、いつか眠れると思った。
けれど。
九枚目まで数え終えるたびに。
昨日の帰り道で交わした言葉へ戻った。
明日。
放課後。
十一組ラボの作業が終わった後。
いつもの帰り道。
人の少ない場所で立ち止まる。
自分が聞く。
春樹が答える。
逃げない。
春樹は、答えはもう決まっていると言った。
決まっているなら。
それは何なのか。
聞けば分かる。
今日になれば分かる。
そう思うほど、眠れなくなった。
嬉しい答えを期待している。
期待してはいけないとは思わない。
春樹は、自分の中にもなつきが特別かもしれない場所があると言った。
嫌じゃないから困る、とも言った。
隣にいて良かった、と答えてくれた。
逃げないと約束してくれた。
それらをつなげれば、なつきが望んでいる答えへ近づく。
けれど。
特別と好きは、同じではないかもしれない。
嫌ではないことと、恋愛感情があることも違う。
隣を歩きたいと思う気持ちが、友人としてなのかもしれない。
春樹が長く考えていたのは、なつきを傷つけない言葉を探していたからかもしれない。
そんな可能性を考えるたびに、胸が苦しくなった。
違う答えでも、今までの時間は消えない。
自分で言った。
春樹にも伝えた。
けれど、実際に違うと言われたとき、同じように歩けるかは分からない。
その正直な怖さも、もう春樹には伝えてある。
だから今日。
聞く。
怖くても。
期待していても。
違う答えを想像していても。
全部を抱えたまま。
なつきは布団の中で一度大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
目覚ましが鳴る前に身体を起こす。
窓のカーテンを開けると、朝の空は明るく晴れていた。
昨日まで分かれ道の窓へ貼られていた案内は、もうない。
青い丸も。
矢印も。
第二実習室は左です、という文字も。
けれど、案内がなくなったからといって、二日間に起きたことは消えていない。
九枚の声が残った。
観察記録が残った。
次に確認する場所が決まった。
自分たちも、きっと同じだ。
今日の答えが何であっても。
今までのことまでなかったことにはならない。
そう思いたかった。
学校へ向かう時間。
電車の中でも。
駅から校門までの道でも。
なつきは何度も春樹の姿を探した。
今日は待ち合わせをしていない。
いつものように、それぞれの時間で登校する。
それでも、校門の近くに春樹が立っていたら。
駅の改札を出たところで会えたら。
少し安心するかもしれないと思った。
会えなかった。
学校へ着き、昇降口で上履きへ履き替える。
階段を上がる。
二階の廊下へ出る。
そこまで来てようやく、向こうから歩いてくる春樹の姿が見えた。
春樹もなつきへ気づいた。
足が一瞬だけ止まり。
すぐに、こちらへ歩いてくる。
「おはよう」
春樹が言った。
「おはよう」
それだけ。
昨日、明日話すと約束した二人には見えないほど、普通の挨拶だった。
けれど春樹の声は少し硬かった。
なつきも、自分の声がいつもより高かったことに気づいている。
「眠れた?」
なつきが尋ねる。
「少し」
「少し?」
「何度か起きた」
「私も」
「目覚ましより早かった?」
「十七分」
「細かい」
「時計見たから」
「僕は二十三分」
「春樹の方が細かい」
二人は少し笑った。
笑えたことで、固まっていた胸が少しだけ緩む。
「答え、変わってない?」
なつきは小声で尋ねた。
聞かないつもりだった。
放課後まで待つ。
そう決めていた。
けれど、顔を見たら確認したくなった。
春樹はすぐに答えなかった。
なつきの胸が強く鳴る。
「変わってない」
やがて、春樹が言った。
「昨日と同じ?」
「うん」
「放課後?」
「うん」
「逃げない?」
「逃げない」
朝の廊下。
登校してきた生徒たちが、二人の横を通り過ぎる。
友人へ手を振る女子生徒。
教室へ走りかけ、教師の姿を見て急に歩き出す男子生徒。
眠そうにあくびをする運動部員。
誰も、二人の会話を気にしていない。
なつきと春樹の間だけに、昨日から続く約束がある。
「じゃあ、今日は普通にする?」
なつきが尋ねた。
「普通って?」
「授業受けて。十一組ラボやって。帰る」
「そのあと聞く」
「うん」
「できる?」
「分からない」
「僕も」
また少し笑う。
「じゃあ、普通にできなくてもいい?」
春樹が言った。
「どういうこと?」
「緊張してても。少し変でも」
「それが今日の普通?」
「たぶん」
「良い言い方」
「なつきが、全部消さなくていいって言ってたから」
「緊張も?」
「うん」
「怖いのも?」
「うん」
「期待してるのも?」
春樹の表情が少し止まる。
なつきは聞きすぎたと思った。
「私は期待してる」
先に自分のことを言う。
「嬉しい答えを」
「うん」
「でも、期待してることを隠して、どんな答えでも平気って顔するのはやめる」
「傷つくかもしれない?」
「うん」
「それでも聞く?」
「聞く」
春樹は、なつきの顔をまっすぐ見た。
「分かった」
その返事の意味は、まだ分からない。
けれど、春樹が受け取ったことは分かった。
「放課後」
「うん」
二人はそれぞれの教室へ向かった。
午前中の授業は、長かった。
なつきは昨日よりも時計を見た。
一時間目。
二時間目。
休み時間。
三時間目。
先生の説明を聞いているつもりでも、ふとした瞬間に春樹の答えを考える。
喜ぶ答えを作っていないか。
春樹は以前、そう言った。
なつきが期待していると思うと、それに合わせた言葉を返したくなる。
嫌われたくないから。
だから、時間が必要だった。
春樹が今日返すのは。
自分を喜ばせるためだけに作った答えではない。
そう信じたい。
だからこそ、怖い。
春樹自身の答えが、自分の望みと違う可能性もある。
「横田」
教師の声で、なつきは顔を上げた。
「はい」
「今の答えは?」
一瞬、何を聞かれたか分からなかった。
黒板。
問題。
授業。
なつきは慌ててノートを見る。
隣の生徒が小さく指で場所を示してくれる。
「えっと……三千二百円です」
「合ってる」
教室の何人かが笑った。
教師も呆れたように息を吐く。
「今日は聞いてないかと思った」
「途中までは聞いてました」
「途中から?」
「少し考え事を」
「十一組ラボか?」
「それもあります」
それも。
嘘ではない。
教師は深く追及せず、次の問題へ進んだ。
なつきは小さく息を吐き、隣の生徒へ礼を言う。
「今日ずっと変だね」
小声で言われた。
「分かる?」
「朝から時計見すぎ」
「放課後、用事あるから」
「十一組ラボ?」
「……その後も」
「何かあるの?」
「まだ秘密」
女子生徒は少し目を細めた。
「恋愛?」
「どうして分かるの?」
思わず聞き返し、相手が笑う。
「当たりなんだ」
「声大きい」
「横田さんの方」
なつきは顔が熱くなり、慌てて前を向いた。
周囲の生徒が何人かこちらを見ている。
誰も詳しく聞いてはこない。
けれど、少し笑っている。
以前なら、恥ずかしさで何も言えなくなったかもしれない。
今も恥ずかしい。
それでも。
恋愛かもしれないことを、完全には否定しなかった。
自分の気持ちは、もうなかったことにしたくない。
昼休み。
十一組ラボの教室には、昨日の九枚の打ち直し記録が机へ並べられていた。
今日行うのは、正式設置へ進む前に確認する五つの課題を、作業単位へ分けること。
一つ。
最初の青い案内の情報量。
二つ。
中継案内を見落とした二つの状況。
三つ。
学校が許可した案内だと伝える方法。
四つ。
第二実習室前の詳しい案内との接続。
五つ。
正式運用時の管理方法。
紅秋は黒板の前に立ち、昨日のまとめを読み上げた。
「今日は全部の案を作らない」
島中が口を開きかけたが、先に紅秋が続ける。
「課題ごとに、何を確認するか決める」
「試作は?」
「確認方法が決まったものから」
「一つくらい作れる?」
「時間があれば」
「分かった」
島中は以前ほど不満そうではない。
直したい気持ちは残っている。
それでも、九枚を読んだ後の今は、最後の一枚だけへ引っ張られてはいない。
「最初の案内の文字量」
美優が試験で使った青い案内を机へ置く。
大きな青い丸。
第二実習室。
右向き矢印。
『青い丸が目印です』
『詳しい確認は、第二実習室前でできます』
「二行が多いという声」
田辺が言う。
「でも、どちらが負担だったか分からない」
「詳しい確認の文は、今の状態では内容も問題」
蓮が続ける。
「実際に詳しい案内がなかった」
「じゃあ一度外す?」
島中が尋ねる。
「黄色い案内が完成するまでは」
なつきが答える。
「外せば、文字量も減る」
「二つの問題を同時に解決したように見える」
春樹が言う。
「でも、黄色い案内を置いた後は戻す可能性がある」
「そのときまた文字量が増える」
「だから、今だけ外して分かりやすくなったとしても、正式形の確認にはならない」
「じゃあどうする?」
「二案」
美優が紙を用意する。
一案目。
詳しい案内の文を外し、『青い丸が目印です』だけ。
二案目。
黄色い詳しい案内を第二実習室前へ用意し、情報を絵や短い印で伝える。
「最初の案内で、詳しい説明があることまで伝える必要ある?」
茜が尋ねる。
「目的地へ着いた後に見つけられるなら、最初に覚えなくていい」
なつきが言う。
「前に分けた理由と同じ」
「行く前に必要な情報だけ最初へ」
「到着後の詳しい案内は、到着後に見えるようにする」
「なら詳しい確認の文は消せる?」
「黄色い案内が、第二実習室前で自然に見つかるなら」
「そこを確認する」
紅秋が黒板へ書く。
最初の青い案内は、目的地と最初の進行、途中の目印だけ。
詳しい案内の存在は、第二実習室前で初めて伝える案。
「これなら文字量減る」
島中が言う。
「でも黄色へ気づけるかが重要」
「第二実習室前の場所が少ない問題」
「室内入口机へ置く案だった」
「入る前に必要な情報は、青へ戻す」
「今度は青が増える」
「行く前に必要なもの、本当にある?」
蓮が問いかける。
話がまた広がりかける。
紅秋が手を上げた。
「今日は接続の確認方法まで」
「全部作らない」
島中が自分から言う。
「分かってる」
役割が決まる。
美優と茜は、最初の青い案内の情報整理。
なつきと春樹は、黄色い詳しい案内へ必要な情報を、行く前と到着後で分ける。
島中と田辺は、中継を見落とした二つの状況を再現する方法。
蓮と紅秋は、正式性の表示と管理方法を担当教師へ確認する。
「また春樹と同じ」
なつきが役割表を見て言う。
「今日は紅秋が決めた」
春樹が答える。
「嫌じゃない?」
「もう聞かなくても言う」
「何て?」
「嫌じゃない」
「良かった」
島中が何か言おうと口を開く。
田辺が見る。
島中は自分で口を閉じた。
「成長」
茜が小声で言い、周囲に笑いが広がった。
なつきと春樹は、第二実習室前の情報を三つへ分けた。
入る前に必要なこと。
室内で使うときに必要なこと。
困ったときに必要なこと。
以前も分けた。
けれど、試験を終えた後では見え方が違う。
「入る前に必要なこと」
なつきが読み上げる。
「利用目的に合った場所か」
「教室名で分かる?」
「第二実習室って名前だけだと、何の実習か分からない」
「その日の授業予定表が扉にある」
「なら案内へ入れなくても見られる」
「必要な持ち物」
「授業なら先生から事前に伝えられる」
「案内で初めて知ることじゃない」
「担当者へ声を掛ける必要」
「教室前の現在表示に書いてある」
「黄色へ移す?」
「入る前に必要だから、扉で見える必要がある」
二人で現在の表示内容と、黄色い案内へ入れたい内容を比較する。
「私たち、詳しい案内を新しく作ろうとしてたけど」
なつきが言う。
「今ある教室前表示にも、必要な情報はある」
「問題は、青い案内から続くものだと分からなかった」
「新しく全部作るんじゃなくて、今ある表示へ黄色い三角を付ける?」
春樹が紙へ描く。
現在の教室表示。
右上へ小さな黄色い三角。
その横へ、『到着後の確認』。
「案内を増やさない」
「今ある情報へ、つながりを付ける」
「黄色い三角は、詳しい確認の印」
「青で進んで、着いたら黄色」
「でも最初の青から、黄色のことを伝えなくても気づける?」
「第二実習室前で目立てば」
「扉の横は余白が少ない」
「現在表示の一部を使う」
「先生の許可」
「必要」
春樹が紙の端へ書く。
『既存表示を生かす案』
「一つに全部を背負わせないだけじゃなくて、新しいものを増やしすぎない」
なつきが言う。
「すでにある役割をつなぐ」
「今回の意見がなければ、新しい黄色い案内を作ってたかも」
「詳しい案内が見つからなかったって言ってくれたから」
「切れてる場所が分かった」
声は、直してほしいという指示だけではない。
どこで経験が途切れたかを教えてくれる。
「これ、良い案?」
なつきが尋ねる。
「僕は良いと思う」
「でも決めない?」
「先生と、初見の人に見てもらう」
「学んだね」
「なつきに言われたくない」
「同じでしょう」
二人で笑う。
昼休みが終わる頃には、試作ではなく、確認するための二案ができていた。
一つ。
現在の教室前表示へ黄色い三角を付け、青い流れの続きだと示す。
二つ。
室内入口机へ黄色い案内を置き、教室前表示には黄色い三角と『詳しい確認は中へ』だけを付ける。
行く前に必要な情報は、現在表示へ残す。
使うときの情報は、室内へ。
「今日、作り始めない?」
島中が尋ねる。
「担当教師へ確認してから」
紅秋が答える。
「分かった」
「島中たちの見落とし確認は?」
「二つに分ける」
島中が自分の記録を見せる。
「友達と話しながら歩く場合。正面だけ見て窓側を見ない場合」
「再現する人へ、話しながら歩いてって頼む?」
なつきが尋ねる。
「それだとわざとらしい」
「二人組に普段どおり会話してもらう」
「案内を探す目的は伝える?」
「伝えないと協力にならない」
「知ったら案内を意識する」
「そこで困ってる」
田辺が答える。
「日常観察だけでは、同じ条件を待つ必要がある」
「でも監視しすぎない」
「一度、先生へ相談」
「今日全部決まらない」
島中が言う。
けれど、今度は笑っていた。
「分かってる。次へ進むための今日」
その言葉を聞き、なつきは少し驚いた。
「島中、本当に変わったね」
「九枚読んだから」
「前から少しずつ」
「今日は褒めていい」
昼休み終了のチャイムが鳴る。
全員が記録を片付け、それぞれの教室へ戻る。
午後の授業は、午前中よりさらに長く感じた。
なつきは、今日の十一組ラボで考えたことをノートの端へ書いた。
『新しく増やす前に、今あるものをつなぐ』
その下へ。
『明日ではなく、今日聞く』
書いてから、自分で少し笑った。
案内と恋愛を同じにしない。
春樹に何度も言われた。
けれど、自分の中では、活動で考えたことが気持ちへ重なる。
新しい言葉を無理に作らなくてもいい。
今まで伝えたものをつなぐ。
特別。
隣にいたい。
聞いてもいいか。
逃げない。
今日答える。
それらが、もう分かれた言葉ではなくなりつつある。
六時間目。
終了のチャイム。
なつきは、今度こそすぐに立ち上がりかけた。
けれど、鞄へ教科書を入れる手が震えている。
焦って筆箱を落とした。
床へ転がる。
「大丈夫?」
近くの女子生徒が拾ってくれる。
「ありがとう」
「今日の放課後?」
朝、恋愛かと聞いた生徒だった。
なつきは一瞬黙り。
小さくうなずいた。
「頑張って」
「何を?」
「分からないけど」
「私も分からない」
「でも頑張って」
「うん」
詳しいことは話していない。
それでも、短い応援が胸へ残る。
十一組ラボの教室へ向かう。
今日は、昨日の記録整理の続き。
全員が集まる。
担当ごとの確認結果を共有する。
最初の青い案内の情報量は、黄色い案内との接続方法を決めた後に再確認。
見落とし二状況は、担当教師と相談し、日常観察と同意を得た二人組確認を組み合わせる。
正式性の表示は、学校共通の小さな許可印を試験的に使えるか、施設管理と生徒指導へ確認。
管理方法は、正式設置なら朝一回と週一回の詳細確認を基本案とし、異常時の連絡先を教職員へ共有。
黄色い案内は、既存表示を生かす二案を担当教師へ提示。
「今日はここまで」
紅秋が言った。
時計は、普段の終了時刻より少し早かった。
なつきの胸が一気に速くなる。
全員が片付けを始める。
島中は、なつきと春樹を何度か見た。
けれど何も言わない。
田辺も止めない。
茜がなつきの隣へ来る。
「今日だよね」
小さな声。
「うん」
「怖い?」
「すごく」
「聞く?」
「聞く」
「戻ってくる?」
「明日、学校には来るよ」
「そうじゃなくて」
茜は少し笑った。
「どんな答えでも、話したくなったら聞くから」
「うん」
「今は結果を聞かない」
「どうして?」
「なつきが自分で言いたくなるまで待つ」
茜らしい言葉だった。
以前なら、中間案を出していた。
今は、なつきが選ぶ場所を残している。
「ありがとう」
「頑張って、とは言わない」
「何て言う?」
「ちゃんと聞いてきて」
「うん」
紅秋も、なつきへ短く声を掛けた。
「今日の活動は終わり」
「うん」
「活動の答えを、二人の話へ持ち込まなくていい」
「どういうこと?」
「どちらも、今日決めなければならないことじゃない。春樹の答えは春樹のもの。なつきの反応はなつきのもの」
「うん」
「正しく受け取ろうとしすぎないで」
なつきは少し目を見開いた。
意見を受け取るとき。
理由を分ける。
事実と解釈を分ける。
誰かを見なかったことにしない。
それらを大切にしてきた。
けれど、今日の春樹の答えに対して、十一組ラボのように正しく振る舞おうとしすぎる必要はない。
嬉しければ喜ぶ。
傷つけば傷つく。
すぐに整理できなくてもいい。
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「それでいい」
教室を出る。
春樹は少し先で待っていた。
鞄を肩へ掛け、廊下の窓の外を見ている。
「待った?」
なつきが尋ねる。
「少し」
「ごめん」
「待つって決めてた」
「行く?」
「うん」
二人で歩き出す。
廊下。
階段。
昇降口。
上履きを履き替える。
校舎を出る。
いつもの帰り道。
普段なら、十一組ラボの話をする。
今日の意見。
島中の変化。
黄色い案内。
既存表示を生かす案。
話すことはたくさんある。
けれど二人とも、ほとんど話さなかった。
沈黙が重い。
それでも、逃げるような沈黙ではない。
同じ速度で歩く。
校門を出る。
生徒たちの流れへ混ざる。
駅へ向かう道。
コンビニの前。
信号。
横断歩道。
人の多い場所を過ぎる。
いつも二人が少し立ち止まる、小さな川沿いの道へ入る。
住宅地の間。
歩道は狭いが、放課後のこの時間は人が少ない。
川の水面へ、夕日が細く伸びている。
風が草を揺らす。
遠くで車の音がする。
春樹が立ち止まった。
なつきも止まる。
約束した場所は、具体的に決めていなかった。
けれど、二人ともここだと分かった。
「ここでいい?」
春樹が尋ねる。
「うん」
二人は向かい合う。
いつもは隣を歩いている。
向かい合うと、距離が違って感じる。
春樹の顔がよく見える。
緊張している。
唇が少し固い。
鞄の持ち手を強く握っている。
自分も同じ顔をしているのだろう。
「私から聞くんだよね」
「うん」
「言葉、決めてた?」
「昨日から」
「私は決めてない」
「なつきらしい」
「ひどい」
「悪い意味じゃない」
少し笑う。
けれど、笑いはすぐに静かになる。
聞く。
なつきは一度、川の方へ視線を向けた。
夕日。
流れる水。
風。
何かを待つ時間。
これまでのことが、次々に思い浮かぶ。
春樹の隣を歩いた。
意見箱を運んだ。
話し合った。
待った。
すぐ意味を付けないよう考えた。
嫌じゃないから困ると言われた。
特別かもしれないと言われた。
逃げないと約束した。
今日、答える。
もう、聞ける。
「春樹」
「うん」
「私のこと、どう思ってる?」
言った。
ずっと残していた問い。
もっと長い言葉にすることもできた。
好きか。
恋愛としてか。
付き合いたいと思うか。
けれど、最初に春樹へ聞いてもいいか尋ねたのは。
自分をどう思っているか。
その問いだった。
春樹は、すぐには答えなかった。
なつきは、沈黙を待つ。
以前より長く感じる。
風が吹く。
川沿いの草が揺れる。
遠くを自転車が一台通り過ぎる。
春樹は視線を逸らさなかった。
「最初は」
やがて、ゆっくり話し始めた。
「なつきは、隣にいるのが普通の人だった」
なつきは黙って聞く。
「同じ場所にいて。話して。困ってたら気づいて。僕が考えてる間も、先に進みそうになりながら待ってくれる人」
「進みそうになってた?」
「何度も」
「否定できない」
春樹の口元が少しだけ緩む。
「僕は、なつきが隣にいることへ、最初から名前を付けてなかった」
「うん」
「友達とか。大事な人とか。特別とか。そういうのを考えないで、いるのが普通だと思ってた」
春樹は一度、息を吸った。
「でも、なつきが他の人と歩いてるところを見たとき」
なつきの胸が動く。
「嫌だった?」
「嫌というより、落ち着かなかった」
「いつ?」
「何度か」
「言ってくれなかった」
「自分でも分からなかった」
「うん」
「なつきが、僕の隣を歩きたかったって言ったとき」
春樹の声が少し震える。
「嬉しかった」
なつきは息を止めそうになる。
「僕が特別なのかもしれないって思った。でも、勝手に意味を付けてるだけかもしれないと思った」
「違わないって言った」
「うん」
「春樹は特別って」
「そのとき、嬉しかった」
「うん」
「でも、嬉しいから同じ言葉を返すのは違うと思った」
「だから待った?」
「うん」
春樹は鞄の持ち手から片手を離した。
けれど、その手をどこへ置けばよいか分からないように、少しだけ指先を動かす。
「なつきが喜ぶ答えを作ってないか。嫌われたくなくて、同じ気持ちだと言おうとしてないか。ずっと考えた」
「うん」
「それで」
春樹は一度だけ視線を下げた。
すぐに、なつきを見る。
「なつきがいないところを考えた」
胸が締めつけられる。
「いない?」
「僕の隣にいないところ」
「うん」
「十一組ラボで、別の人と話してることじゃない。帰り道を一緒に歩かないこと。聞きたいことを、僕には聞かなくなること。困ったときに僕を見ないこと」
「嫌だった?」
「嫌だった」
今度は、はっきりした言葉。
「なつきが僕の隣にいることを、普通だから失いたくないんじゃない」
春樹の声は小さい。
それでも、一つずつ届く。
「なつきだから、隣にいてほしい」
なつきの目の奥が熱くなる。
まだ、答えの最後ではない。
けれど、もう胸の中がいっぱいになり始めている。
「それって」
「うん」
春樹は逃げなかった。
「僕は、なつきが好き」
夕方の川沿い。
風。
草の音。
遠くの車。
全部が一度、遠くなった。
聞こえた言葉だけが、はっきり残る。
好き。
春樹が。
自分を。
「本当に?」
なつきは、自分でも驚くほど小さな声で尋ねた。
「うん」
「私が聞いたからじゃなくて?」
「うん」
「喜ぶと思ったからじゃなくて?」
「喜んでほしいとは思ってる」
「でも?」
「それだけで作った答えじゃない」
「特別かもしれない、じゃなくて?」
「特別」
「好き?」
「好き」
なつきの目から、涙が落ちた。
泣くつもりはなかった。
嬉しい答えが来ても、笑いたいと思っていた。
それなのに、一度落ちると止められない。
「なつき」
春樹が困ったように一歩近づく。
「ごめん」
「どうして春樹が謝るの?」
「泣いたから」
「嬉しいから」
「本当に?」
「うん」
なつきは涙を拭う。
上手く拭えない。
春樹はポケットからハンカチを出し、差し出した。
「使う?」
「春樹の?」
「うん」
「返す?」
「いつでも」
なつきは受け取り、目元へ当てた。
少し恥ずかしい。
でも、涙が止まるまで顔を隠せることがありがたかった。
「私も」
ハンカチ越しに言う。
春樹が待つ。
「私も、春樹が好き」
「うん」
「特別とか、隣にいたいだけじゃなくて」
「うん」
「恋愛として。好き」
春樹の表情が変わる。
答えは分かっていたはずだ。
なつきが特別だと言った。
恋愛の問いを残した。
それでも、はっきり好きと言われることは違うのだろう。
春樹の耳が赤くなる。
「嬉しい?」
なつきが尋ねる。
「嬉しい」
「良かった」
「なつきも?」
「すごく」
涙の中で笑う。
春樹も、緊張が解けたように笑った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
答えを聞いた。
好きと言った。
同じだった。
それなのに、この後どうすればいいのか分からない。
今までなら。
隣を歩く。
十一組ラボの話をする。
駅へ向かう。
それでよかった。
今は、関係へ名前が付く可能性がある。
「これから、どうする?」
なつきが尋ねた。
「付き合う?」
春樹が言う。
聞き返すような声だった。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「またそれ」
「好きだから、付き合いたい」
春樹が言い直す。
なつきの胸がまた強く鳴る。
「私も」
「付き合う?」
「うん」
「今日から?」
「今日から」
言葉にすると、あまりにも簡単だった。
けれど、その言葉へ来るまでに、長い時間があった。
一緒に歩いた。
隣にいた。
名前を急がなかった。
怖いと伝えた。
聞く日を決めた。
答えを待った。
その全部の先に。
「恋人?」
なつきが確認する。
「うん」
「春樹が、私の彼氏?」
「そうなる」
「私が、春樹の彼女?」
「うん」
「本当に?」
「何回確認するの?」
「だって、急に変わった感じする」
「答えは前から考えてた」
「私には今日だから」
「僕も、言ったのは今日」
二人で笑う。
嬉しい。
けれど。
恋人になったからといって、急に何かが分かるわけではない。
手をつなぐのか。
呼び方を変えるのか。
周囲へ伝えるのか。
明日からどうするのか。
新しい分からないことが一気に増えた。
「何から変える?」
なつきが尋ねる。
「変えたい?」
「分からない」
「僕も」
「付き合ったのに?」
「付き合ったら全部分かるわけじゃない」
「案内みたい」
「恋愛を案内にしない」
「でも今のは春樹が言った」
「似てるだけ」
「じゃあ、何も変えない?」
「何も変えないのは嫌?」
なつきは少し考えた。
今までと同じように隣を歩く。
同じように話す。
それは嫌ではない。
むしろ、失いたくなかった。
けれど、好きだと分かった今。
恋人になった今。
何か一つ、今日までとは違うものが欲しいとも思った。
「手」
なつきが言った。
「手?」
「つなぐ?」
言った瞬間、顔が熱くなる。
春樹も固まった。
川沿いの道。
人は少ない。
少し遠くに、自転車が見える。
今なら。
「嫌?」
なつきが尋ねる。
「嫌じゃない」
「好きだから?」
「好きだから」
春樹が右手を差し出した。
動きは少しぎこちない。
なつきも左手を出す。
指先が触れる。
一瞬、二人とも止まる。
その後。
春樹の手が、なつきの手を包む。
温かい。
少し汗ばんでいる。
自分の手も同じだろう。
強く握るわけではない。
離れない程度。
でも、確かにつながっている。
「春樹、緊張してる」
「なつきも」
「分かる?」
「手で」
「恥ずかしい」
「僕も」
手をつないだまま、二人は歩き出した。
いつもの帰り道。
歩幅は同じ。
距離だけが少し近い。
今まで、隣を歩くことを何度も意識した。
今日は、つないだ手がある。
「これ、駅まで?」
春樹が尋ねる。
「人増えたら離す?」
「なつきは?」
「離したくない」
「見られるよ」
「少し恥ずかしい」
「僕も」
「でも、今日くらい」
「うん」
川沿いの道を抜ける。
少しずつ人通りが増える。
同じ学校の生徒が前を歩いている。
二人へ気づくかもしれない。
なつきは一瞬、手を離そうとした。
春樹の指が少しだけ強くなる。
「離す?」
「春樹は?」
「もう少し」
「じゃあ、もう少し」
手はつながったまま。
「明日、みんなに言う?」
なつきが尋ねる。
「十一組ラボ?」
「うん」
「島中は絶対気づく」
「今日も気づいてた」
「茜も知ってる」
「付き合ったことは知らない」
「言いたい?」
「隠したくはない。でも、全員へ発表するのも恥ずかしい」
「聞かれたら答える?」
「春樹は?」
「それでいい」
「付き合ってるって?」
「うん」
「言える?」
「たぶん」
「練習する?」
「今?」
なつきは少し笑う。
「大國春樹くんと付き合っています」
「硬い」
「春樹と付き合うことになりました」
「自然」
「春樹も言って」
「横田なつきさんと付き合うことになりました」
「名字?」
「みんなの前なら」
「二人のときは?」
「なつき」
春樹が名前を呼んだ。
今までも呼ばれたことはある。
それでも、恋人になった後に呼ばれると違う。
「もう一回」
「なつき」
「うん」
「何?」
「嬉しい」
春樹の顔が赤くなる。
「春樹」
「うん」
「私も呼んだ」
「いつも呼んでる」
「恋人として」
「違い分からない」
「気持ち」
「なら、分かった」
少しずつ。
新しい関係を確かめる。
恋人になったからといって、急に自然になるわけではない。
言葉へ出すたびに恥ずかしい。
手をつなぐだけで緊張する。
名前を呼ぶだけでも、意味が増える。
「明日も一緒に帰る?」
なつきが尋ねる。
「うん」
「図書委員は?」
「終わるまで待つ?」
「自分のことする」
「止まらない?」
「止まらない」
「終わったら?」
「一緒に帰る」
「手は?」
「学校の中では?」
「恥ずかしい?」
「周りが多い」
「帰り道なら?」
「つなぐ?」
「うん」
「毎日?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「好きだから?」
「好きだから」
同じやり取りを何度もする。
けれど、今日はそれが嬉しい。
確認するたびに、春樹の答えが消えていないと分かる。
「私、しつこい?」
「少し」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「便利」
「でも、全部に答えるとは限らない」
「今日は答えて」
「今日は」
「明日は?」
「明日もできる範囲で」
「恋人っぽい」
「恋人だから」
その言葉で、なつきはまた笑った。
駅が近づく。
人が増える。
同じ制服の生徒もいる。
つないだ手へ視線を向ける人がいるかもしれない。
それでも、二人は駅の少し手前まで離さなかった。
改札の近く。
さすがに人が多くなり、春樹が手を緩める。
なつきも離す。
手のひらへ、春樹の温かさが残っている。
「帰ったら連絡する?」
なつきが尋ねる。
「何て?」
「今日はありがとう?」
「告白した側が言う?」
「答えてくれてありがとう」
「なつきも好きって言ってくれた」
「じゃあ、お互い?」
「うん」
「おやすみも?」
「いつも送ってる?」
「たまに」
「今日から毎日?」
「決める?」
「決めると義務になる」
「送りたい日に?」
「うん」
「今日は送りたい」
「僕も」
電車の時間が近づく。
二人が乗る車両は同じ。
それでも駅では、人の流れへ合わせて少し距離が開く。
さっきまで手をつないでいたことが、もう遠い出来事のようにも感じる。
けれど、春樹が隣にいる。
恋人として。
その事実は消えない。
電車へ乗り、並んで座る。
混雑はそれほど多くない。
会話は少ない。
疲れたわけではない。
言葉を使いすぎたように、二人とも静かだった。
なつきは窓へ映る二人を見る。
肩が近い。
以前と同じ。
でも違う。
「春樹」
「何?」
「今日の答え、明日も変わらない?」
春樹は少し困ったように笑った。
「今すぐ変わらない」
「明日は?」
「未来を全部約束するのは怖い」
「うん」
「でも、今はなつきが好き。明日も一緒にいたい」
「それでいい」
「なつきは?」
「今は春樹が好き。明日も、その次も一緒にいたい」
「その次まで?」
「もっと先も」
「強い」
「でも未来は分からない」
「うん」
「だから、毎日また選ぶ」
なつきは自分で言いながら、その言葉が一番自然だと感じた。
恋人になった。
それで終わりではない。
明日も隣にいたいと思う。
話す。
待つ。
困ったら聞く。
分からなければ、分からないと言う。
その積み重ねで関係を続ける。
「案内みたい?」
なつきが尋ねる。
「少し」
「春樹から認めた」
「完成したから置くんじゃなくて、向き合えるところまで来たから言った」
「やっぱり似てる」
「でも、試験じゃない」
「うん」
「好きって言ったことは、試しじゃない」
春樹の声は小さい。
なつきは胸の奥が温かくなる。
「私も」
「うん」
「付き合ったことも?」
「試しじゃない」
「嬉しい」
電車が揺れる。
窓の外を、夕方の街が流れていく。
昨日まで。
なつきは春樹の隣を目指していた。
もっと近づきたい。
自分がどう思われているか知りたい。
聞ける場所を残したい。
そう思っていた。
今日。
春樹は、なつきだから隣にいてほしいと言った。
なつきは、春樹が好きだと答えた。
付き合うことになった。
手をつないだ。
それでも、隣を目指すことが終わったわけではない。
恋人になれば、自動的に同じ気持ちでいられるわけではない。
春樹の考える速さ。
なつきの動く速さ。
違うところは残る。
だから、これからも隣を目指す。
追いつくためではない。
同じ人になるためでもない。
別々のまま、一緒に歩ける場所を探すために。
最寄り駅へ着く。
電車を降りる。
改札を出る。
別れる場所が近づく。
いつもなら「また明日」と言って終わる。
今日は、その言葉にも新しい意味がある。
「じゃあ」
春樹が言う。
「また明日」
「うん」
なつきは少し迷い。
もう一度、春樹の手へ自分の手を伸ばした。
指先だけ触れる。
駅前で長くつなぐほどの勇気はない。
それでも、今日の最後に少しだけ。
春樹も指先を返す。
「また明日、春樹」
「また明日、なつき」
二人は手を離す。
別々の方向へ歩き出す。
なつきは何度も振り返りたくなった。
三歩。
五歩。
十歩。
振り返る。
春樹も振り返っていた。
二人の視線が合う。
少し笑う。
今度こそ、それぞれの道へ進む。
夜。
家へ帰り。
夕食を食べ。
風呂へ入り。
自分の部屋へ戻った後。
なつきはベッドへ座り、スマートフォンを開いた。
春樹との画面。
何と送るか考える。
長い文章にするか。
今日の全部を書くか。
何度も入力して。
消した。
最後に、短く打つ。
『今日は、答えてくれてありがとう』
送信。
すぐに既読は付かない。
なつきは画面を伏せる。
数秒後。
振動。
春樹から。
『聞いてくれてありがとう』
その下へ、もう一通。
『これからも隣にいてほしい』
なつきは胸を押さえた。
今日、何度も嬉しくなった。
もう十分だと思った。
それなのに、また涙が出そうになる。
返信する。
『うん。私も春樹の隣にいたい』
少し考え。
もう一文。
『彼女として』
送る。
既読。
少し間。
『僕も、彼氏として』
なつきはスマートフォンを胸へ抱えた。
笑う。
泣きそうになる。
恥ずかしい。
嬉しい。
全部が一緒にある。
今日。
答えを聞いた。
春樹は、なつきが好きだと言った。
なつきも、春樹が好きだと伝えた。
二人は恋人になった。
それは、物語の終わりではない。
十一組ラボには、まだ課題がある。
最初の青い案内。
中継の見落とし。
正式性の表示。
黄色い詳しい案内。
管理方法。
島中たちとの活動は続く。
春樹との関係にも、分からないことがたくさんある。
周囲へどう伝えるか。
手をつなぐ距離。
恋人としての言葉。
喧嘩をしたとき。
考える速さが違うとき。
きっと、迷う。
立ち止まる。
戻る。
それでも。
戻れる場所を作る。
聞ける場所を残す。
違う入口からでも、同じ方向へ進めるようにする。
今日まで、十一組ラボで学んだこと。
春樹の隣で学んだこと。
その全部を抱えながら。
なつきは、画面に残った言葉をもう一度見た。
『これからも隣にいてほしい』
ずっと目指していた。
春樹の隣。
けれど気づけば。
自分が隣を目指していただけではなかった。
春樹も、自分に隣にいてほしいと思ってくれていた。
同じ方向へ進もうとしていた。
明日。
学校へ行く。
十一組ラボの教室へ入る。
春樹と会う。
恋人として、初めての朝。
きっと恥ずかしい。
茜には気づかれる。
島中は何か言う。
田辺が止める。
紅秋は、活動と二人の話を分けようとする。
美優と蓮は、静かに見守るかもしれない。
それでも。
明日も隣を歩く。
今までと同じように。
今までとは少し違う気持ちで。
なつきはスマートフォンへ最後の言葉を打った。
『おやすみ、春樹。また明日』
返事はすぐに来た。
『おやすみ、なつき。また明日』
画面を閉じる。
部屋の照明を消す。
今夜は、目覚ましより早く起きるかもしれない。
嬉しくて眠れないかもしれない。
それでも、昨日とは違う。
答えを待つ夜ではない。
答えを受け取った後の夜。
新しい関係の最初の夜。
なつきは布団へ入り、目を閉じた。
胸の奥には、まだ春樹の手の温かさが残っている。
好きだと言われた声も。
隣にいてほしいと言われた言葉も。
消えない。
消したくない。
君の隣を目指して歩いていた。
何度も迷い。
待ち。
戻り。
それでも歩き続けていたら。
いつの間にか。
君は、私の隣にいてほしい人になっていて。
私も、君の隣にいてほしい人になっていた。
明日からも。
完成した二人ではなく。
分からないことを話せる二人として。
なつきは春樹の隣を目指し続ける。
今度は、一人で追いかけるのではなく。
同じ歩幅を探しながら。
二人で。




