第178話 戻ってきた案内は、置く前よりも多くの声を抱えている
試験設置二日目の朝。
梅桜高校の空には、前日とは違う薄い雲が広がっていた。
雲の切れ間から差し込む光は弱く、校舎の白い壁も、中庭の木々も、少しだけ色を失って見える。夜の間に降った短い雨の名残が窓の外側へ残り、細かな水滴が朝の風に揺れていた。
昨日の朝。
青い丸と大きな矢印を分かれ道の窓へ置いた。
案内は一日を無事に終えた。
剥がれなかった。
大きな汚れもつかなかった。
観察できた利用者は、全員第二実習室へ進んだ。
意見用紙も使われている。
試験を続けられる。
その結果だけを思い出せば、少し安心してもよいはずだった。
それでも、なつきは昨日より早く目を覚ました。
まだ目覚ましが鳴る前。
薄暗い部屋の天井を見上げたまま、窓の案内が夜の間に剥がれていないかを考えた。
施設管理の教師が、朝も確認すると言っていた。
十一組ラボの当番も決めてある。
自分の担当は放課後。
朝は蓮と春樹。
分かっている。
それでも、目を閉じ直して眠ることはできなかった。
学校へ着いたのは、普段より二十分ほど早い時間だった。
昨日のように春樹と待ち合わせをしたわけではない。
春樹は朝の状態確認担当で、なつきより先に来る予定になっている。
校門をくぐり、昇降口で上履きへ履き替える。
まだ生徒の少ない階段を上がりながら、なつきは何度も自分へ言い聞かせた。
見に行かない。
朝の確認担当ではない。
蓮と春樹が見る。
自分は教室へ行く。
けれど、中央棟二階へ着くと、足は自然に分かれ道の方向へ向きかけた。
「横田さん」
後ろから声を掛けられ、なつきはその場で止まった。
振り返ると、春樹が状態確認表を持って立っていた。隣には蓮もいる。
「おはよう」
「おはよう」
「見に行こうとしてた?」
「教室に行こうとしてた」
「分かれ道は反対」
「少しだけ確認しようかなって」
「担当は僕たち」
「分かってる」
「来る?」
春樹が尋ねる。
なつきは一瞬、顔を上げた。
「いいの?」
「近くで触らないなら」
「でも役割増やさないって」
「状態確認は僕と蓮がする。なつきは見るだけ」
蓮が少しだけ眉を寄せる。
「見に来る人が増えると、確認する側が結果を合わせようとする可能性がある」
「じゃあ行かない」
なつきはすぐに答えた。
残念ではある。
けれど、蓮の言うことも分かる。
自分が隣で「大丈夫そう」と言えば、春樹や蓮が小さな違和感を言いにくくなるかもしれない。
案内へ触らなくても、観察へ影響を与えることはある。
「ごめん」
蓮が言った。
「謝らなくていいよ」
「横田さんが気にしてることは分かる」
「うん」
「だからこそ、僕たちだけで見る」
「任せる」
言葉にすると、昨日より少し自然に出た。
任せる。
分けた役割を信じる。
自分が全部を見る必要はない。
春樹は小さくうなずいた。
「終わったら教室で伝える」
「詳しく?」
「記録を見せる」
「なら我慢する」
「子どもみたい」
「春樹が言ったんでしょう」
「我慢って言ったのはなつき」
「そうだけど」
三人で少し笑う。
蓮と春樹は分かれ道へ向かい、なつきは十一組ラボの教室へ向かった。
教室には、まだ誰もいなかった。
窓を開ける。
朝の冷たい風が入り、机の上に置かれていた昨日の記録用紙の端が揺れる。
なつきは鞄を置き、黒板の前へ立った。
昨日の一日目記録。
設置状態に異常なし。
中継案内前で誤方向へ進んだ利用者なし。
案内へ視線を向けず、前の人へ続いた利用者あり。
案内前で複数人が横並びになり、後続が回避した事例あり。
矢印確認後に文字へ戻った事例あり。
教師へ追加確認した利用者あり。
意見用紙、複数枚使用。
良いことだけではない。
危険な問題もない。
利用者が、作った側の想像どおりだけに動いていない。
それが、一日目の記録だった。
黒板の下には、試験終了後の流れも書かれている。
放課後。
最後の状態確認。
案内撤去。
窓の原状確認。
意見用紙回収。
おかえり会。
その後。
なつきは最後の言葉を、黒板にはない場所で思い出した。
春樹と、聞く日を決める。
試験設置が終わった後。
おかえり会の後。
いつかではなく、日を決める。
約束した。
そのことを考えると、胸の中に別の緊張が生まれる。
案内の意見を読む怖さ。
春樹との約束へ近づく怖さ。
二つは違う。
けれど、どちらも今日の放課後に待っている。
「早いね」
茜が教室へ入ってきた。
「おはよう」
「案内、見に行った?」
「行こうとしたけど、蓮に止められた」
「正しい」
「茜まで」
「担当がいるから」
「分かってる」
「納得してない顔」
「少しだけ」
茜は笑いながら鞄を置き、黒板の記録を見る。
「昨日、思ったより使われたね」
「うん」
「今日、何か出るかな」
「悪いこと?」
「良いことも」
「どっちが多いと思う?」
「分からない」
「茜も分からないって言うようになった」
「前から言ってるよ」
「前は何か案を出してた」
「案を出せない分からないもある」
茜は窓際へ立ち、外を見る。
「でも、意見用紙が減ってたってことは、何か書いてくれた人がいる」
「うん」
「全部悪いことなら?」
「読む」
「全部良いことなら?」
「疑う」
「なつきらしい」
「だって、見落としがあるかもしれない」
「良いって言われた理由を聞けばいい」
「理由が書いてなかったら?」
「観察記録と重ねる」
「うん」
昨日まで何度も話したことだった。
肯定の声も受け取る。
否定の声だけを大切にするのではない。
良かったという言葉も、何が良かったのか考える。
ただし、良かったから完成とは決めない。
悪かったから全部失敗とも決めない。
声を一つずつ見る。
八時前。
蓮と春樹が教室へ戻ってきた。
なつきはすぐに春樹の方へ向きかけたが、途中で止まった。
先に全員へ報告する。
春樹だけから聞こうとしない。
「状態確認結果」
蓮が用紙を机へ置く。
「最初の青い案内、中継案内ともに剥がれなし。粘着材の浮きなし。汚れなし」
「雨の跡は?」
なつきが尋ねる。
「窓の外側だけ。案内の見え方に大きな影響なし」
「曇りは?」
「文字背景の一部に外の水滴が重なって見える角度がある。でも判読可能」
「反射は?」
「朝はほぼなし」
「通行は?」
「状態確認中の通行人数は少ない。妨げなし」
蓮は事実だけを順番に伝えた。
春樹も自分の用紙を出す。
「右側から近づいて確認。青い丸、矢印、文字の順に全部見えた。左側からは文字が少し斜めだけど読める」
「昨日と変わったところは?」
「窓の外の水滴」
「気になる?」
「案内の中の汚れに見える人がいるかもしれない」
「内側の紙は汚れてない?」
「ない」
「記録?」
「した」
なつきは息を吐いた。
「大丈夫だった?」
「今のところ」
「良かった」
「試験は今日の放課後まで」
「分かってる」
「でも少し喜んでいい」
「紅秋みたい」
「昨日言ってたから」
春樹は少し笑った。
朝の観察は、始業前の十分間だけ行われた。
担当は蓮と春樹。
なつきは教室で待つ。
昨日より、待つ時間が長く感じた。
教室の廊下側から、生徒たちの声が増えていく。
階段を駆け上がる足音。
友人を呼ぶ声。
朝練習から戻ってきた運動部員の笑い声。
その中を、案内を必要とする人も通っているのだろう。
なつきには見えない。
春樹と蓮が見ている。
任せると言った。
それでも、時計を何度も確認した。
観察を終えた二人が戻ると、島中と田辺、美優、紅秋も集まり始めていた。
「朝の利用」
春樹が記録を開く。
「僕が分かれ道で確認したのは六人」
「全員?」
島中が前のめりになる。
「六人全員左へ進んだ」
「中継案内見た?」
「明確に視線を向けたのは四人」
「残り二人?」
「一人は友人と話しながら、友人が矢印を指した。一人は前を歩く人について左」
「案内の影響は?」
「直接見たかは不明」
「昨日と同じだな」
「人を通して届いてる可能性」
なつきが言う。
「可能性」
蓮が訂正する。
「決めない」
「分かってる」
「最初の案内では?」
紅秋が尋ねる。
「七人確認」
蓮が答える。
「六人が右へ。一人は案内を見た後、別方向へ進んだ」
教室が少し静かになる。
「間違えた?」
島中が尋ねる。
「第二実習室へ行く人かは分からない」
「案内見たのに違う方向?」
「案内を読んだからといって、目的地へ向かうとは限らない」
紅秋が言う。
「関係ない人が見ただけかもしれない」
「そうだった」
島中が少し恥ずかしそうに椅子へ戻る。
「案内を見る人全員が利用者じゃない」
「見るだけの人も、通るだけの人もいる」
「それも利用者?」
なつきが尋ねる。
「案内を使う利用者ではない」
蓮が答える。
「でも共用廊下の利用者ではある」
「分ける」
「うん」
初日よりも、全員の言葉が慎重になっている。
見た。
進んだ。
左へ曲がった。
その事実を、すぐ成功や失敗へ結びつけない。
「一人、文字の前で長く止まった」
春樹が言う。
「どのくらい?」
「約九秒」
「何を見た?」
「最初に矢印。その後文字。試験期間表示も見た」
「迷った?」
「分からない」
「左へ行った?」
「行った」
「意見書いてくれるかな」
島中が言う。
「期待しない」
田辺が返す。
「少しくらい」
「書く義務はない」
「分かってる」
朝の結果。
大きな問題なし。
試験継続。
あと半日。
「今日で外すんだよな」
島中が黒板を見る。
「放課後」
「朝は大丈夫だったのに」
「二日間の申請だから」
「正式に残すかは、おかえり会の後」
「分かってる」
島中は何度も同じ返事をしている。
分かっている。
けれど、残したい気持ちが表情へ出る。
なつきも同じだった。
昨日一日、利用者が使った。
今日の朝も問題はない。
このまま残してもよいのではないか。
そんな気持ちが、少しだけ生まれている。
それでも、決めた期間が終われば外す。
期間を延ばしたくなったからと、その場で変えない。
一度戻す。
声を読む。
記録を見る。
それから決める。
「撤去、嫌になってきた?」
春樹が隣から尋ねた。
「少し」
「僕も」
「春樹も?」
「使われてるのを見ると、なくすのがもったいない気がする」
「でも外す?」
「約束だから」
「利用者との?」
「学校との。試験条件との。自分たちとの」
なつきはうなずいた。
外すことまで含めて試験。
残したいという気持ちが出ても、先に決めた手順へ戻る。
案内を置く約束。
返ってきた声を読む約束。
二日で撤去する約束。
どれか一つだけ守ればよいわけではない。
午前中。
なつきは、昨日よりも授業へ集中できた。
案内の状態は確認されている。
朝の利用記録も聞いた。
昼は紅秋と美優が担当。
放課後は自分と春樹。
次に自分が見る時間が決まっている。
待つ場所がある。
それだけで、気持ちは少し落ち着いた。
昼休み。
紅秋と美優が状態確認へ向かう。
なつきは十一組ラボの教室で、茜や島中たちと弁当を食べた。
「見に行かないの?」
島中が尋ねる。
「担当じゃない」
「昨日は行きたそうだった」
「今日も行きたい」
「我慢?」
「任せてる」
「言い方変わったな」
「島中は?」
「行きたい」
「行かない?」
「行かない」
「成長」
「もう言わなくていい」
島中は弁当の唐揚げを口へ入れた。
「でも、撤去した後の窓、寂しくない?」
「まだ見てないのに」
田辺が答える。
「想像できるだろ。青い丸なくなる」
「正式設置になれば戻る」
「意見が悪かったら?」
「直す」
「全部駄目なら?」
「全部駄目って何?」
「邪魔。見にくい。前の方がいい」
「その理由を見る」
蓮が言った。
「島中は、悪い意見が怖い?」
なつきが尋ねる。
「怖い」
島中はすぐに答えた。
「昨日も言ったけど、実際に近づくともっと怖い」
「良い意見は?」
「来てほしい」
「良いことだけなら?」
「成功って思いたい」
「でも?」
「思っちゃ駄目なんだろ」
「駄目じゃない」
なつきは首を横へ振る。
「成功したって嬉しくなるのはいいと思う。でも、それで他の記録を見なくなるのは駄目」
「良いって思ってもいい?」
「うん」
「前にも聞いた気がする」
「良いと思う気持ち、消さなくていいって春樹が言った」
「大國の言葉だったのか」
「私も使ってる」
「じゃあ、良い意見来たら喜ぶ」
「うん」
「悪い意見来たら?」
「腹立つ」
田辺が即答する。
島中は少し睨んだ。
「その後、少し待つ」
「何を?」
「内容を見る」
「なら大丈夫」
笑いが起きる。
昼の状態確認を終えた紅秋と美優が戻ってくる。
案内状態に異常なし。
反射は昨日と同程度。
通行への大きな影響なし。
観察十五分。
中継案内付近を通ったうち、第二実習室へ向かったと判断できる利用者は十一人。
九人が案内へ明確に視線。
二人は同行者へ続いた。
誤方向へ進んだ人なし。
「意見用紙」
美優が残数表を見る。
「昨日の放課後から、さらに四枚減ってる」
教室の空気が変わる。
「封筒?」
島中が尋ねる。
「厚み増えてる」
「何枚入ってる?」
「開けてない」
「今日の放課後」
「うん」
「長かった」
島中が机へ突っ伏す。
「あと数時間」
「授業三つ」
「数えるなよ」
なつきも封筒の厚みを想像した。
昨日から複数枚。
今日も四枚減った。
全部が封筒へ入ったとは限らない。
持ち帰った人。
書き損じた人。
机へ残した人。
それでも、声は増えている。
「安全に関する連絡は?」
蓮が尋ねる。
「教師からなし」
「施設管理の確認も問題なし」
「試験、最後まで継続」
紅秋が言った。
教室の誰もが、少しだけ息を吐いた。
まだ終わっていない。
けれど、撤去時間まで案内を残せる。
午後の授業。
時間は、朝よりも遅く進んでいるように感じた。
なつきは何度か時計を見た。
一時間。
四十五分。
三十分。
最後の授業終了まで、少しずつ近づく。
案内の試験が終わる。
封筒を開く。
そして、春樹との約束へも近づく。
全部が同じ放課後へ集まっている。
六時間目終了のチャイムが鳴った瞬間、教室の生徒たちは一斉に動き出した。
部活動へ向かう者。
帰り支度を急ぐ者。
友人の席へ集まる者。
なつきはすぐには立ち上がらなかった。
急ぐと、忘れ物をしそうだった。
ノートを閉じる。
筆記具をしまう。
教科書を鞄へ入れる。
一つずつ確認する。
「今日は落ち着いてるね」
茜が振り返る。
「落ち着いてない」
「動きは」
「中が速い」
「分かる」
「茜も?」
「少し」
「意見?」
「それも。でも、二日間終わるのが寂しい」
「同じ」
二人で十一組ラボの教室へ向かう。
教室には、すでに紅秋、島中、田辺、美優、蓮が集まっていた。
春樹は図書室の当番を終えてから、分かれ道へ直接来る予定。
撤去担当は、なつきと春樹。
施設管理の教師。
紅秋と美優が補助。
他のメンバーは、少し離れた場所で記録する。
「春樹、間に合う?」
なつきが尋ねる。
「十分後」
紅秋が時計を見る。
「撤去開始は十五分後」
「遅れたら?」
「待つ」
「試験期間、少し延びる?」
「十数分は申請内」
「なら良かった」
島中が笑う。
「なつき、今日は春樹のことばっかり気にしてる」
「案内も気にしてる」
「同じくらい?」
「聞かないで」
「強いな」
「島中」
田辺が肩を掴む。
「今日は余計なこと言うな」
「分かってる。今のは案内の話も入ってる」
「どこに?」
「春樹が来ないと撤去できない」
「なつき一人でもできる」
「役割決めたから」
「なら静かに待て」
島中は口を閉じたが、笑っていた。
分かれ道へ向かう。
中継案内は、二日前と同じ場所にあった。
青い丸。
大きな左向き矢印。
『第二実習室は左です』
その下に、小さな試験期間表示。
案内の前を、一人の女子生徒が歩いてくる。
矢印へ視線を向ける。
左へ曲がる。
最後の時間にも使われている。
「あと少しで外すんだよね」
島中が小さく言う。
「うん」
「この人、明日来たらない」
「元の案内は残る」
「でも中継はない」
「だから試験後の判断を急ぐ?」
蓮が聞く。
「急ぎたい」
「でも?」
「声読む」
「よし」
島中は、自分で自分を止めるように息を吐いた。
春樹が廊下の向こうから歩いてきた。
少し急いだらしく、図書委員のファイルを鞄へ入れながら近づいてくる。
「ごめん」
「間に合った」
なつきが答える。
「待った?」
「少し」
「案内見ながら?」
「うん」
「最後まで残ってるね」
「うん」
二人は並んで、窓の案内を見る。
春樹も、少し寂しそうに見えた。
「外すの嫌?」
なつきが尋ねる。
「少し」
「同じ」
「でも外す」
「約束」
「うん」
施設管理の教師が到着し、撤去前の最終状態確認が始まった。
端の浮きなし。
汚れなし。
粘着材のずれなし。
文字判読可能。
枠の反射、許容範囲。
通行への妨げなし。
撤去前写真。
正面。
右側。
反対側。
設置初日の写真と同じ角度。
「撤去開始」
紅秋が言った。
なつきと春樹が窓の前へ立つ。
手順書では、最初に試験期間表示。
次に細い枠。
文字背景。
矢印。
最後に青い丸。
貼った順番とは逆。
端を急に引かない。
粘着材を窓と平行へゆっくり動かす。
「最初、私でいい?」
なつきが尋ねる。
「うん」
「失敗したら?」
「一緒に止める」
試験期間表示の端へ指を掛ける。
薄い素材を折らないよう、ゆっくり持ち上げる。
粘着材が抵抗する。
力を強くしすぎない。
少しずつ。
紙が窓から離れる。
「取れた」
「跡は?」
春樹が窓を見る。
「見えない」
施設管理の教師も確認する。
「問題なし」
次に細い枠。
四隅。
中央。
一つずつ外す。
春樹が素材を支え、なつきが粘着材を剥がす。
設置したときは、島中と田辺が貼った。
外すのは、なつきと春樹。
それぞれ違う人が、同じ案内へ責任を持つ。
「右上、少し強い」
なつきが言う。
「止める?」
「ゆっくりならいける」
「窓へ平行に」
「うん」
枠が外れる。
薄灰色の文字背景。
『第二実習室は左です』
二日間、利用者が確認した言葉。
矢印だけで進めた人もいる。
文字へ戻った人もいる。
全部読んだ人もいる。
その紙が、窓から離れる。
「軽い」
なつきが呟く。
「紙だから」
「でも二日分ある感じする」
春樹は何も言わず、外した文字背景を保管用の台紙へ置いた。
大きな左向き矢印。
窓から外すと、教室で作ったときと同じ素材へ戻る。
けれど、もう同じには見えない。
誰かが遠くから見た。
誰かが指差した。
誰かが友人へ伝えた。
誰かが一歩進んでから戻り、文字を読んだ。
その全部を、表面から見ることはできない。
それでも、二日間使われたことは消えない。
「矢印、支える」
春樹が上側へ手を添える。
「お願い」
二人で外す。
最後に青い丸。
最初の案内から続く目印。
丸より矢印を先に見た人。
青い色全体でつながりを感じた人。
青い丸を探した人。
「これで最後」
なつきが言う。
「うん」
丸を外す。
窓には、何もなくなった。
昨日までと同じ大きな窓。
外の木々。
薄い雲。
午後の光。
案内だけが消えた。
「寂しい」
島中が少し離れた場所から言った。
「分かる」
なつきも答える。
「正式設置、早く決めたい」
「まず窓確認」
田辺が止める。
窓面へ粘着材の跡なし。
汚れなし。
傷なし。
採光の変化なし。
撤去後写真。
設置前と同じ角度。
施設管理の教師が確認表へ署名する。
「原状回復、問題なし」
その言葉で、二日間の試験設置が正式に終了した。
誰も拍手しなかった。
設置許可が下りたときのような喜びではない。
案内がなくなった窓と、台紙へ戻された部品を見る。
終わった。
成功したかは、まだ分からない。
ただ、予定した二日間を安全に終えた。
「終わったね」
茜が言う。
「うん」
「声、取りに行く?」
美優が意見回収台へ視線を向ける。
教室の空気が一気に変わった。
封筒。
二日間、開けずに待った。
利用者から戻ってきた声。
「俺が持つ?」
島中が尋ねる。
「担当は紅秋」
蓮が答える。
「分かってる。聞いただけ」
紅秋が回収台へ近づく。
意見用紙の残数を数える。
初日に用意した枚数から、九枚減っている。
「九枚?」
なつきが尋ねる。
「使用されたのは九枚」
「全部入ってる?」
「まだ分からない」
封筒の外観を確認。
破損なし。
濡れなし。
口の部分に折れなし。
封筒を持ち上げる。
確かな厚みがある。
紙が重なった音。
島中が小さく息を吸う。
「今、開ける?」
「教室へ戻ってから」
紅秋が答える。
「ここじゃない?」
「共用廊下。内容を周囲へ見せない」
「無記名でも?」
「書いた人が近くにいるかもしれない」
「分かった」
封筒を閉じたまま、専用の箱へ入れる。
試験用意見用紙。
撤去した案内。
状態確認表。
観察記録。
設置前後の写真。
全部を十一組ラボの教室へ運ぶ。
案内が置かれていた窓から離れる。
なつきは一度だけ振り返った。
何もない。
けれど、二日前と同じ何もない場所ではない。
利用者が左へ曲がった場所。
十一組ラボが観察した場所。
声が書かれた場所。
案内がなくなっても、起きたことは残っている。
「行こう」
春樹が隣で言う。
「うん」
二人で教室へ戻る。
机は、おかえり会の形へ並べ直されていた。
中央に、回収箱。
その隣へ、観察記録。
撤去した案内は、壁際の机へ順番に置く。
青い丸。
矢印。
文字。
枠。
試験期間表示。
置く前よりも、少しだけ使われた跡がある。
折れや汚れではない。
外した粘着材の跡。
持ち上げたときのわずかな曲がり。
二日間、窓にあった証拠。
「開ける前に確認」
紅秋が言った。
全員が席へ着く。
「試験意見は、現在の二回目回収とは別記録」
「うん」
「誰が書いたか推測しない」
「うん」
「筆跡を共有しない」
原本は紅秋と美優が確認し、内容をその場で打ち直す。
個人を特定できる表現があれば、内容を変えない範囲で伏せる。
「一人で先に読まない」
島中が言った。
「今、全員で見る」
「良い意見からとか、悪い意見からとか分けない」
蓮が続ける。
「封筒から出た順?」
「順番に意味はない」
美優が答える。
「用紙番号もない」
「じゃあ、一枚ずつ」
「内容を打ち直してから共有」
「時間かかる?」
島中が聞く。
「かかる」
「今日全部読める?」
「読める範囲まで」
「途中で終わったら?」
「続きは次回」
「おかえり会、今日終わらない?」
「声の数による」
島中は少しだけ肩を落とした。
「春樹との約束は?」
島中が口にしかけた瞬間、田辺が机の下で足を踏んだらしい。
「痛っ」
「余計なこと言うな」
「何も言ってない」
「途中まで言った」
なつきは顔が熱くなるのを感じた。
春樹も少し視線を下げている。
けれど、島中はすぐに頭を下げた。
「ごめん。おかえり会と関係ない」
「うん」
なつきは短く答えた。
約束は消えない。
今日全部を読めなくても。
おかえり会が一日で終わらなくても。
先に案内の声へ向き合う。
春樹も、そのことを分かっている。
「焦らなくていい」
春樹が小さく言った。
なつきだけに聞こえる声。
「でも、約束は?」
「残ってる」
「うん」
それだけ確認し、なつきは回収箱へ視線を戻した。
「開封前に、観察記録の事実だけ共有する」
紅秋が言う。
「意見を読んだ後だと、観察の解釈が引っ張られる可能性があるから」
「先に記録?」
「うん」
二日間の観察結果が黒板へまとめられる。
朝、昼、放課後。
観察時間の合計。
明確に中継案内へ視線を向けた利用者。
同行者の案内や前を歩く人へ続いた利用者。
矢印だけを見た利用者。
文字へ戻った利用者。
案内前で複数人が横並びになった事例。
教師へ追加確認した利用者。
誤方向へ進んだことを確認した利用者は、試験期間中の観察範囲ではゼロ。
安全上の問題、ゼロ。
案内の剥がれ、ゼロ。
通行停止、ゼロ。
「良かった?」
島中が尋ねる。
「観察範囲では、中継案内は目的地へ進む助けになった可能性が高い」
蓮が答える。
「可能性?」
「全員を追ってない。案内を見た全員の目的地も確認してない」
「でも、第二実習室へ向かった人は左へ行った」
「そう判断できた範囲では」
「言い方が硬い」
「報告書だから」
「嬉しくない?」
「嬉しい」
蓮が即答し、島中が少し驚く。
「嬉しいんだ」
「嬉しいよ。でも記録は分ける」
「なら良かった」
なつきは黒板を見た。
誤方向ゼロ。
安全問題ゼロ。
その数字だけを見れば成功に見える。
けれど、観察できなかった時間もある。
案内を見ずに誰かへ聞いた人もいるかもしれない。
途中で戻った人もいるかもしれない。
意見用紙の中に、観察では見えなかった困り方が入っているかもしれない。
「観察結果だけなら、残したい?」
紅秋が全員へ尋ねる。
「残したい」
島中がすぐに答える。
「条件付き」
蓮が続く。
「意見と、管理負担、素材の継続性を見る」
「私も残したい」
美優が言う。
「ただ、青い丸の文言と、黄色い詳しい案内のつながりは別課題」
「通行への影響も継続確認」
田辺が加える。
「複数人が横並びになることはあった」
「危険ではなかったけど」
茜がうなずく。
「なつきは?」
紅秋が尋ねた。
なつきは少し考えた。
「残したい」
正直に答える。
「使われてるのを見たから。迷わず進めた人がいたから。文字へ戻って確認した人もいたから」
「でも?」
「この気持ちで意見を選びたくない」
「良い意見を待ってる?」
「少し」
「悪い意見は?」
「怖い」
「それでも読む?」
「読む」
紅秋はうなずいた。
「春樹は?」
「残す方向で考えたい」
「理由は?」
「違う入口から進めた。矢印だけの人も、文字を読む人も、青い印を追う人もいた」
「観察できなかった人は?」
「意見と、次の試験で見る」
「次の試験?」
島中が聞く。
「正式設置の前に、必要なら条件を変えてもう一度」
「また?」
「今回の結果次第」
「分かってる」
島中は笑いながら答えた。
以前のような不満ではない。
また試す可能性を、最初から受け入れている。
「では開封する」
紅秋が回収箱を開ける。
中から封筒を取り出す。
二日間、廊下へ置かれていた封筒。
表面には『中継案内・試験用』。
端に少しだけ折れがある。
破損ではない。
何人かが用紙を入れたときに触れた跡。
紅秋が封を開ける。
教室が静かになる。
廊下からは、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえる。
窓の外では、雲の隙間から夕日が差し始めている。
封筒の中から、複数の折られた紙が出てくる。
一枚。
二枚。
三枚。
紅秋が数えながら、机へ伏せて置く。
四枚。
五枚。
六枚。
七枚。
八枚。
最後に、少し小さく折られた一枚。
「九枚」
美優が言った。
使用された用紙と同じ枚数。
持ち帰られたものも、捨てられたものもない。
九人が書き、九人が封筒へ入れた。
「多い」
島中が小さく呟く。
「一枚ずつ打ち直す」
紅秋が一番上の紙を取る。
まだ内容は全員へ見せない。
美優と二人で確認する。
教室の誰もが、二人の表情を見ようとしていた。
「顔を見ない」
蓮が言う。
「だって気になる」
島中が答える。
「内容を聞く前に判断する」
「分かってるけど」
なつきも、紅秋の表情を見てしまいそうになる。
良いことが書いてあるのか。
悪いことか。
長いのか。
短いのか。
表情だけで意味を作りたくなる。
なつきは意識して、机の上の撤去した青い丸を見る。
置く前は、ただの試作だった。
今は、九枚の声と一緒に戻ってきた。
紙自体が重くなったわけではない。
けれど、もう自分たちだけの考えで扱えるものではない。
紅秋が一枚目の内容を打ち直す。
美優が確認する。
言葉を変えすぎていないか。
個人が特定される情報がないか。
選択肢の回答。
自由記述。
打ち直した紙が、机の中央へ置かれる。
「一枚目」
紅秋が言った。
教室の空気が、さらに静かになる。
なつきは隣の春樹へ視線を向けた。
春樹もこちらを見る。
言葉は交わさない。
それでも、隣にいる。
昨日約束したとおり。
良い声でも。
悪い声でも。
一緒に読む。
紅秋が紙を裏返す。
戻ってきた案内の最初の声が、十一組ラボの中央へ置かれた。




