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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第177話 置いた瞬間から、案内は作った人たちだけのものではなくなる


 翌朝。


 梅桜高校の正門前には、まだ登校する生徒の姿がほとんどなかった。


 空は明るくなり始めていたが、校舎の窓に朝日が届くには少し早い。道路沿いの街路樹からは、夜の間に残った水滴が風に揺れるたび落ち、歩道へ小さな跡を作っている。校門脇の警備員は、いつもより早く集まってきた生徒たちへ何度か不思議そうな視線を向けながらも、名前を確認すると笑って中へ通してくれた。


 なつきは校門の外で、腕時計を何度目か分からないほど確認していた。


 七時三十八分。


 待ち合わせは七時四十分。


 約束より二分早い。


 それでも、春樹の姿が見えないことが気になってしまう。


 遅れているわけではない。


 まだ約束の時間前だ。


 分かっているのに、駅から続く道へ何度も視線を向けてしまう。


「横田、何してんの?」


 背後から島中の声が聞こえた。


 なつきが振り返ると、校内側から島中が歩いてくるところだった。制服の上着はきちんと着ているが、髪の一部が寝癖のように跳ねている。手にはコンビニの袋があり、中から小さなパンの袋が覗いていた。


「待ってる」


「誰を?」


「春樹」


「知ってる」


「じゃあ聞かないでよ」


「本当に校門で待ってるとは思わなかった」


「約束したから」


「設置見たいって言ってなかった?」


「春樹と来る方を選んだ」


「迷わなかった?」


「少し」


「正直だな」


 島中は笑いながら、門の外へ少し出た。


「大國、もうすぐ来るだろ」


「うん」


「俺、七時二十八分に着いた」


「早すぎ」


「母親に起こされた」


「自分で起きてないの?」


「起きる予定だった」


「予定だけ?」


「目覚まし止めた記憶はある」


「それ、寝たままじゃん」


「でも来た」


 島中は胸を張った。


 確かに、普段は始業直前に教室へ入ることも多い島中が、今日は誰より早く登校している。


 中継案内の設置担当。


 窓へ素材を貼る。


 剥がれがないか確認する。


 その役割を、島中は昨日から何度も口にしていた。


 早く直したい。


 早く置きたい。


 以前から変わっていない部分もある。


 けれど今は、置いた後の責任まで含めて、その役割を楽しみにしているように見えた。


「緊張してる?」


 なつきが尋ねる。


「してない」


「パンの袋、ずっと握ってる」


 島中が手元を見る。


 透明な袋が少し潰れていた。


「これは寒いから」


「パン握って暖まるの?」


「気持ち」


「緊張してるんじゃん」


「横田に言われたくない」


「私はしてる」


「認めるの早いな」


「だって、今日置くんだよ」


 校舎を見る。


 二階。


 分かれ道の大きな窓。


 今は外から案内の姿は見えない。


 あと少しすれば、そこへ青い丸と矢印が置かれる。


「変な意見来たらどうする?」


 島中が小さく尋ねた。


「変な意見?」


「全然見えないとか。邪魔とか。前の方が良かったとか」


「読む」


「それだけ?」


「最初は」


「落ち込まない?」


「落ち込むかもしれない」


「俺も」


「でも、書いてくれたってことは使ったんでしょう」


「使わないで邪魔って思った人かも」


「それも利用者」


「案内使ってなくても?」


「通った人なら」


 昨日まで何度も話してきた。


 案内を読む人だけが利用者ではない。


 窓の光を必要とする人。


 廊下を通る人。


 掃除する人。


 避難経路を確認する人。


 試験設置の存在そのものが気になる人。


 その誰かから「邪魔だった」と届けば、案内の役割だけを見てはいけない。


「嫌な意見でも?」


「嫌な言い方は、少し嫌かも」


「内容は?」


「分けて考える」


「蓮みたい」


「春樹にも言われた」


「大國みたいでもある」


「島中は?」


「俺はまず腹立つ」


「正直」


「でも、少し待つ」


「成長したね」


「今は言っていい」


 島中は笑った。


 校門の先へ視線を向ける。


「来た」


 なつきも同じ方向を見る。


 春樹が、少し早足で歩いてきていた。


 肩に鞄を掛け、いつもよりわずかに息が上がっている。


「遅れてないよ」


 なつきは、春樹が何か言う前に答えた。


「まだ七時四十分」


「走った?」


「最後だけ」


「どうして?」


「なつきが待ってると思ったから」


 その言葉だけで、朝の冷たい空気の中に、胸の内側だけが温かくなる。


「待ってた」


「ごめん」


「だから遅れてないって」


「でも二人とも先に来てる」


「島中は早すぎただけ」


「俺を基準外にするなよ」


「いつもならまだ駅でしょう」


「今日は特別」


 春樹は島中の手にある袋を見た。


「朝ご飯?」


「食べたけど、足りなかった」


「緊張すると腹減る?」


「横田と同じこと言うな」


「僕、何も聞いてないけど」


「二人して俺が緊張してることにしたいらしい」


 島中はそう言いながら、二人へ背を向けた。


「もう設置始まる。急ぐぞ」


「先に行っててよかったのに」


「横田が動かないから」


「待ってたんだって」


「知ってる」


 三人で校門をくぐる。


 早朝の校舎は、普段より音が少なかった。


 昇降口には数人の運動部員がいるだけで、上履きへ履き替える音が広く響いている。廊下の窓はまだ閉じられており、ワックスの匂いと、朝の冷たい空気が混ざっていた。


 中央棟二階へ上がると、すでに紅秋、美優、田辺、施設管理の教師が分かれ道へ集まっていた。


 床には保管箱が置かれ、その横には設置手順書。


 窓の表面は、乾いた布で丁寧に拭かれている。


「時間どおり」


 紅秋が時計を見る。


「島中はパン食べてから」


「設置しながらじゃ駄目?」


「駄目」


「分かった」


 島中は慌てて袋を開け、パンを口へ入れた。


「急いで食べると詰まるよ」


 なつきが言う。


「設置が」


「二分待つ」


 紅秋の声には逆らえず、島中はゆっくり噛み直した。


 その間に、設置前の確認が始まる。


 窓に汚れなし。


 粘着材の試料、異常なし。


 案内素材、申請寸法と一致。


 つや消し枠、反射なし。


 試験期間表示、日付確認。


 避難経路図との距離、基準以上。


 通行幅、問題なし。


 窓の開閉部へ干渉なし。


「設置前写真」


 美優が同じ位置から三枚撮る。


 正面。


 利用者が歩いてくる右側。


 反対側。


 何もない窓の状態を残す。


 試験終了後、同じ角度から撮影し、粘着材の跡や汚れがないか比較するためだった。


「写真一枚でよくない?」


 パンを食べ終えた島中が尋ねる。


「角度によって反射が違う」


 蓮の代わりに田辺が答える。


「窓の跡も正面だけじゃ分からない」


「分かってる。確認しただけ」


「昨日も説明した」


「朝だから記憶が」


「パンは覚えてたのに」


「朝飯は大事」


 会話はいつもどおりに見える。


 けれど、誰も窓から大きく離れない。


 全員が、もうすぐ案内が置かれる場所を気にしている。


「設置開始」


 紅秋が言った。


 声は大きくない。


 それでも、周囲の空気が一段階変わった。


 島中と田辺が、手順書どおりに青い丸の位置を測る。


 窓の右端からの距離。


 床からの高さ。


 案内全体の中心。


 仮位置を示す小さな印を、跡の残らない素材で付ける。


「右、一ミリ」


 田辺が言う。


「さっき左って言っただろ」


「動いた」


「俺の手?」


「呼吸で」


「止める?」


「止めなくていい。置くときだけ」


 島中は大きく息を吸い、止めた。


「苦しくなる前に」


 美優が注意する。


「今」


 青い丸が窓へ置かれる。


 白い縁。


 中央の青。


 朝の薄い光の中でも、形ははっきり見えた。


 田辺が中央を押さえ、島中が外側へ空気を逃がす。


 粘着材の浮きなし。


 端のめくれなし。


 次に大きな左向きの矢印。


 青い丸との間隔を測り、仮位置へ合わせる。


「少し下?」


 島中が言う。


「申請位置はここ」


 紅秋が手順書を見る。


「見た感じだと下に見える」


「丸の中心と矢印の中心が違うから」


「変えない?」


「安全上の問題じゃない」


「分かった」


 島中は手を止めたまま、一度だけ案内全体を見る。


 それから申請どおりの位置へ貼った。


 昨日決めた条件から、その場の感覚だけで変えない。


 なつきは、その短いやり取りを見ながら、自分まで息を詰めていたことに気づいた。


「横田さん」


 春樹が小さく呼ぶ。


「何?」


「息」


「してるよ」


「今、吐いたから」


「見てた?」


「隣だから」


 春樹の声で、少しだけ肩の力が抜ける。


 薄灰色の文字背景。


『第二実習室は左です』


 文字が窓へ置かれる。


 最後に、全体をつなぐつや消しの細い枠。


 枠は完全な四角ではない。


 案内の周囲を囲みながらも、窓を大きく塞がない細さ。


 中央部にも、風で浮かないよう追加の粘着材を使う。


 試験期間表示は、文字案内の右下。


『第二実習室中継案内・短期試験』


『試験期間 本日から二日間』


 遠くからは読めない。


 案内へ近づき、気になった人だけが確認できる大きさ。


「設置完了」


 紅秋が言った。


 誰もすぐには返事をしなかった。


 窓にある案内を見る。


 青い丸。


 大きな左向きの矢印。


 第二実習室は左です。


 昨日まで、机の上や仮置きで何度も見た形。


 それなのに、正式な許可を得て、決めた時間に、利用者の通る場所へ置かれたものは、全く違って見えた。


「置いた」


 島中が呟く。


「うん」


 なつきも小さく答えた。


「本当に置いた」


「見れば分かる」


 田辺が言う。


 声は冷静だったが、口元には少し笑みがあった。


「状態確認」


 紅秋が全員を現実へ戻す。


「喜ぶのは終わってから」


「今も少し喜んでいいって、前に言っただろ」


 島中が返す。


「少しなら」


「よし」


 正面から確認。


 右側から確認。


 反対側から確認。


 窓の光。


 文字の読みやすさ。


 丸と矢印の輪郭。


 枠の反射。


 端の浮き。


 全て問題なし。


 設置直後の写真を撮る。


 施設管理の教師も、窓の周囲と通行幅を確認した。


「試験開始を許可する」


 教師が言う。


 その瞬間、島中が小さく拳を上げた。


「やった」


「声大きい」


 田辺が注意する。


「まだ生徒少ない」


「だから響く」


 なつきは笑いながら、窓の案内を見つめた。


 これで、十一組ラボの手から一度離れた。


 もう、気になったからと勝手に位置を変えられない。


 文字を一行足すこともできない。


 今から二日間。


 安全上の問題がない限り、同じ条件で利用者へ渡す。


「触りたくなる?」


 春樹が尋ねた。


「少し」


「どこ?」


「文字が、ほんの少し右に見える」


「昨日直したところ?」


「別。窓に置くとそう見える」


「本当に右?」


 春樹が少し離れる。


「僕には中央」


「じゃあ私だけ?」


「今直す?」


「直さない」


 答えた後で、なつきはもう一度案内を見る。


 右に見える。


 けれど、読めないわけではない。


 安全にも関係ない。


 記録するほどの違和感か。


 それも今は分からない。


「メモする?」


 春樹が聞く。


「私がそう感じたってだけ」


「それも記録できる」


「でも利用者をそこへ誘導したくない」


「内部記録」


「じゃあ、設置者所感に」


 なつきは自分の記録用紙へ、小さく書いた。


『設置後、文字背景がわずかに右へ寄って見えた。寸法上は申請位置どおり。利用への影響は未確認』


 直さない。


 なかったことにもしない。


 その中間へ置く。


 七時五十五分。


 登校する生徒が少しずつ増えてきた。


 十一組ラボのメンバーは、予定どおり各位置へ分かれる。


 なつきは最初の青い案内付近。


 春樹は分かれ道。


 茜は渡り廊下。


 蓮は第二実習室前。


 紅秋と美優は全体を回りながら、案内状態と観察記録を確認する。


 島中と田辺は、設置直後の道具を片付けた後、教室へ戻る予定だった。


「じゃあ、後で」


 春樹が言う。


「うん」


「分かれ道へ来ないでね」


「行かない」


「本当に?」


「観察が混ざるから」


「分かってるならいいけど」


「春樹も最初の案内へ来ないでよ」


「行かないよ」


「終わったら?」


「記録を持ち寄る」


「一緒に見る?」


「うん」


「じゃあいい」


 春樹は小さく笑い、分かれ道へ向かった。


 なつきは最初の青い案内が見える位置へ立つ。


 物陰に隠れるわけではない。


 不自然に見えないよう、壁際の掲示板を確認する生徒の邪魔にならない場所。


 手にはクリップボード。


 声を掛けない。


 案内を使った人を追いすぎない。


 見た事実だけを記録する。


 登校時間が近づくにつれ、廊下の音が増えていった。


 教室へ向かう足音。


 朝練習を終えた生徒たちの声。


 窓を開ける音。


 掃除用具を運ぶ職員。


 まだ授業前にもかかわらず、校舎は少しずつ日常の形へ戻っていく。


 最初の青い案内の前を、一人の女子生徒が通り過ぎた。


 見なかった。


 目的地を探していない。


 それでいい。


 次に、二人組の男子生徒が案内へ一度視線を向ける。


「何か変わった?」


「第二実習室だって」


「俺ら関係ない」


 そのまま通り過ぎる。


 使わなかった。


 けれど、案内が変わったことには気づいた。


 なつきは記録へ書く。


 七時五十九分。


 二人組。


 青い案内へ視線。


 利用なし。


 通行への影響なし。


「全部書くの?」


 近くを通った島中が小声で尋ねる。


「最初の時間だけ」


「俺、これ見てたら授業前にノート一冊終わりそう」


「だから役割分けてる」


「最初の利用者、まだ?」


「まだ」


「分かれ道で待ってる春樹も暇かな」


「見に行かないでよ」


「行かない。片付け」


 島中は保管箱を持って教室へ戻っていった。


 八時三分。


 一人の男子生徒が、青い案内の前で立ち止まった。


 鞄を肩へ掛け直し、目的地名を読む。


 青い丸。


 大きな右向き矢印。


『青い丸が目印です』


 その下の詳しい案内についての文は、読んだか分からない。


 男子生徒は一度周囲を見る。


 そのまま右へ曲がった。


 なつきの胸が強く鳴る。


 初めて。


 確認協力者ではない。


 十一組ラボへ頼まれた人でもない。


 本当に第二実習室を探している利用者。


 追いたい。


 分かれ道まで見届けたい。


 けれど、自分の役割は最初の案内。


 なつきはその場に残る。


 クリップボードへ事実を書く。


 八時三分。


 男子一名。


 案内前で停止約四秒。


 目的地名、矢印、青い丸へ視線。


 右へ進む。


 その後は、茜と春樹の記録に残る。


 自分一人で全部を見なくていい。


 分けたからこそ、別の場所にいる仲間へ任せる。


 それでも、男子生徒の姿が廊下の奥へ消えるまで視線で追ってしまった。


「横田さん」


 紅秋が近くへ来た。


「追いかけなかったね」


「行きたかった」


「顔に出てた」


「みんな同じこと言う」


「記録できた?」


「うん」


 紅秋は用紙を覗かず、なつきの表情だけを見る。


「怖い?」


「少し」


「何が?」


「迷ってないか」


「春樹が見てる」


「うん」


「茜も」


「うん」


「第二実習室前には蓮」


「分かってる」


「じゃあ任せる?」


 なつきは廊下の奥を見る。


 男子生徒の姿はもう見えない。


「任せる」


「よし」


 紅秋はそれだけ言い、次の確認場所へ移動した。


 八時五分。


 女子生徒二人が案内の前で会話する。


「第二実習室ってこっちだっけ?」


「青い丸追えばいいんじゃない?」


 二人は右へ曲がる。


 青い丸を追う。


 言葉が実際に使われた。


 なつきは、思わず記録を書く手を止めそうになった。


 嬉しい。


 けれど、会話だけで成功と決めない。


 二人が分かれ道で中継案内へ気づくかは、春樹の記録を見るまで分からない。


 八時七分。


 普通科の男子生徒が、青い案内を遠くから見たまま速度を落とさず右へ曲がる。


 何を見たかは分からない。


 止まっていない。


 八時十分。


 大きな荷物を持った女子生徒が案内の前へ立つ。


 荷物を床へ置かない。


 片手で鞄の持ち手を直しながら、文字を読む。


 その後、右へ。


 意見用紙へ書く時間はないだろう。


 それでも案内は使われる。


 なつきは、一人ひとりの行動を記録しながら、試験前には想像できなかった実感を抱いていた。


 案内は、もう自分たちの話し合いの中だけに存在していない。


 見る人は、十一組ラボが何日考えたか知らない。


 青い丸の意味が変わった経緯も。


 黄色い三角で立ち止まった人がいたことも。


 素材を何度も比べたことも。


 窓の反射を確認したことも。


 知る必要はない。


 必要なときに見つけ、進めればいい。


 だからこそ、使われた瞬間に、作った側の物語は案内の前から消える。


 利用者にとっては、今そこにあるものだけが答えになる。


 八時十三分。


 青い案内へ近づいた男子生徒が、下の二行を読む。


 眉を少し寄せる。


 もう一度上から見る。


 右へ進む。


 なつきは、昨日島中が気にしていた下部の余白を思い出した。


 窮屈に見えたのか。


 読みにくかったのか。


 ただ内容を確認しただけなのか。


 見ただけでは分からない。


 勝手に意味を付けない。


『案内前で約七秒停止。下部二行へ二度視線。右へ進む』


 事実だけを書く。


 八時十五分を過ぎると、登校する生徒の流れが増えた。


 案内の前へ立ち止まる人がいると、後ろの生徒が少し避ける。


 通行が完全に止まるほどではない。


 一度だけ、三人組が案内の前で横に並び、後ろの生徒が大きく回り込んだ。


「邪魔かな」


 なつきは小さく呟く。


 通行幅は基準を満たしている。


 案内自体は壁際。


 けれど、見る人が並べば流れは変わる。


 設置物だけではなく、利用者の立ち方まで含めて、通行への影響になる。


 紅秋へ合図を送る。


 紅秋が少し離れた場所から状況を見る。


 三人組は数秒で散らばり、右へ進んだ。


 危険ではない。


 それでも記録へ残す。


『八時十七分、三人組が横並びで案内確認。後続一名が約一メートル外側へ回避。停止なし。接触なし』


 試験設置前には、案内の大きさと通行幅を測った。


 けれど、実際に人が集まったときの形までは分からなかった。


 案内が見やすいほど、立ち止まる人が増える可能性もある。


 分かりやすさが、別の流れを生む。


 八時二十分。


 最初の観察時間が終わる。


 なつきは青い案内の状態を確認する。


 端の浮きなし。


 汚れなし。


 反射なし。


 通行への恒常的な妨げなし。


 ただし、複数人が同時に見る場合の立ち位置は継続確認。


 記録用紙を持ち、十一組ラボの教室へ戻る。


 教室には、各地点の担当が集まり始めていた。


 春樹もいる。


 なつきは自分の席へ向かう前に、春樹の近くへ行った。


「最初の男子生徒」


「八時三分?」


「うん。どうだった?」


「気づいた」


 それだけで、胸が少し軽くなる。


「分かれ道の何歩前?」


「四歩くらい」


「何を見た?」


「最初に矢印。そのあと青い丸。文字は読んだか分からない」


「止まった?」


「少し速度落としただけ。そのまま左」


「良かった」


 思わず声が出る。


 春樹は少し笑った。


「でも、まだ一人」


「分かってる」


「女子二人組も来た」


「青い丸追えばいいって言ってた」


「分かれ道でも、片方が丸を先に見つけた」


「じゃあ」


「左へ行った」


 なつきは大きく息を吐いた。


「今、やっと息した?」


「朝からしてる」


「でも止めてたでしょう」


「少し」


「僕も」


「春樹も?」


「最初の男子が近づいたとき」


 二人で小さく笑う。


 同じ場所にはいなかった。


 それでも、同じ利用者を別の地点から見ていた。


 最初の案内で受け取ったもの。


 分かれ道で見つけたもの。


 記録を重ねることで、一人の動きがつながる。


「全部気づいた?」


 なつきが尋ねる。


「僕の時間では、分かれ道まで来た七人全員」


「本当?」


「ただ、一人は窓の案内じゃなくて、前を歩く人について左へ曲がった可能性がある」


「見たか分からない?」


「案内へ視線は向けてない」


「じゃあ気づいてないかも」


「でも迷わなかった」


「案内がなくても?」


「前の人がいたから」


「それも利用の仕方?」


「案内を直接使ったわけではない」


「でも前の人は使ったかもしれない」


「案内の影響が、人を通して届いた可能性はある」


 すぐには決められない。


 案内を見なかった人が左へ進んだ。


 それを成功に数えるか。


 案内の利用としては数えない。


 けれど、実際の学校では、人は一人で動くとは限らない。


 前を歩く人。


 友人。


 会話。


 それらも進む手掛かりになる。


「記録は?」


「案内への明確な視線なし。前方の利用者と同じ方向へ進む」


「解釈は?」


「案内を直接利用したかは不明」


「うん」


 紅秋が全員へ着席を促す。


 始業まで、残り十五分ほど。


 朝の初期確認を短く共有する。


 最初の青い案内では、確認できた利用者九人。


 うち八人が右へ進んだ。


 一人は案内を見た後、近くの教師へ質問し、右へ進んだ。


「案内見たのに聞いた?」


 島中が尋ねる。


 なつきが記録を確認する。


「目的地名と矢印は見てた。でも教師が近くにいたから聞いたみたい」


「分かりにくかった?」


「本人へは聞いてない」


「何て質問した?」


「『第二実習室、この先で合ってますか』」


「確認?」


「たぶん。でも解釈」


「事実は?」


「案内を約五秒確認。教師へ『この先で合っていますか』と質問。教師が肯定。右へ進む」


「案内だけで自信が持てなかった?」


「かもしれない」


「意見用紙に書いてくれるかな」


「書かないかもしれない」


 案内があっても、人へ聞く。


 以前の初見確認でもあった。


 それを失敗にする必要はない。


 人へ聞ける利用者なら、その方が安心できる場合もある。


 ただし、人へ聞けない人が案内だけで進めるかは別に確認する。


 渡り廊下では、茜が八人を確認。


 途中で戻った人はいない。


 分かれ道では、春樹が七人を確認。


 六人は中継案内へ明確に視線。


 一人は前方の人へ続いた。


 全員左へ進んだ。


 第二実習室前では、蓮が六人を確認。


 一人は教室前の現在表示へ立ち止まり、内容を読む。


 五人は教室名を確認しただけで到着。


「数が一人ずつ減ってる」


 島中が言う。


「途中で別の場所へ行った人がいる?」


 紅秋が尋ねる。


「最初の案内を見た人全員を追跡してない」


 なつきが答える。


「人数が多くなってから、同じ人を完全に見分けられなかった」


「記録をつなぐ印が必要?」


「服装や鞄を詳しく書く?」


 美優が少し迷った。


「個人を追いすぎない?」


 蓮が言う。


「誰がどこへ行ったか分かる記録は、本人特定に近づく」


「初見確認では同意を取ってた」


「今回は日常の利用」


「じゃあ人数を完全につなげない?」


「地点ごとの傾向を見る」


 紅秋が決める。


「同一人物の追跡は、明らかに分かる範囲だけ。特徴を細かく記録しない」


「最初の男子だけつないだのは?」


 島中が尋ねる。


「時間と動きで一致した」


「名前はない」


「今後も、個人を追うために特徴を書かない」


 観察したい。


 けれど、利用者を監視するようになってはいけない。


 案内を改善するためという理由で、必要以上に誰かの行動を追い続けない。


 また新しい境界が見えた。


「朝の時点では、条件満たしてる?」


 島中が尋ねる。


 紅秋はすぐに答えなかった。


「試験は二日間」


「分かってる」


「今朝の範囲では、中継案内を見つけた人は進めた」


「通行への影響は?」


 なつきが三人組の記録を出す。


「一度、後続が回避した」


「危険?」


「接触なし。通行停止なし」


「継続確認」


「案内状態は?」


「問題なし」


「では、試験継続」


 島中が小さく笑った。


「よし」


「成功じゃない」


「分かってる。でも継続できる」


「それは喜んでいい」


「今の紅秋、前より優しい」


「前から優しい」


「そういう意味じゃなくて」


 始業を知らせる予鈴が鳴る。


 全員が記録を所定のファイルへ入れ、教室を出る準備をする。


「昼の状態確認」


 紅秋がなつきと茜を見る。


「十二時四十五分」


「観察は?」


「状態確認後、十五分だけ」


「意見用紙回収は?」


「封筒は開けない。厚みと状態だけ」


「読むのは二日目の撤去後?」


「途中で安全に関わる意見がある可能性は?」


 なつきが尋ねる。


 教室が少し静かになる。


 無記名の意見用紙。


 試験終了まで開けないと決めれば、条件はそろう。


 けれど、中に「剥がれそう」「危ない」と書かれていても気づけない。


「安全に関する連絡は、別にすぐ伝えられる場所が必要」


 蓮が言った。


「意見用紙だけじゃ遅い」


「担当教師へ知らせてください、を入れる?」


 美優が尋ねる。


「試験表示へ追加する?」


「今から変える?」


 島中が反応する。


 安全に関わる。


 その場合は、途中で変更しないという条件より優先する。


「表示を増やさず、担当教師と各教室へ連絡を回す」


 紅秋が答えた。


「案内が剥がれている、通行の危険がある場合は、近くの教職員か十一組ラボへ知らせてください、と」


「利用者全員には伝わらない」


「状態確認を一日三回行う」


「その間に剥がれたら?」


「近くの職員が気づけるよう、職員室へ共有」


「試験表示にも小さく入れた方がいい?」


「申請変更になる」


「安全なら変更しても?」


 話が止まらない。


 予鈴の後、始業まで時間がない。


 紅秋が決断する。


「今朝の設置状態に問題なし。職員共有を追加。昼の状態確認を十五分早める。表示変更はしない」


「理由は?」


 なつきが尋ねる。


「連絡方法を増やすために案内の情報量を増やすと、利用を妨げる可能性がある。安全確認は管理側の責任として強化する」


「利用者に任せない?」


「気づいた人が伝えられることは大事。でも、気づいてもらう前提にはしない」


 なつきはうなずいた。


 案内を置いた責任は、利用者へ渡してはいけない。


 剥がれていたら教えてください。


 その言葉があっても、利用者が必ず見つけるとは限らない。


 管理する側が、自分たちで確認する。


「じゃあ昼、十二時三十分」


「分かった」


 全員がそれぞれの教室へ急いだ。


 午前中の授業。


 なつきは黒板へ向かいながらも、何度も時計が気になった。


 一時間目。


 案内はまだ貼られているか。


 端は浮いていないか。


 誰かがぶつかっていないか。


 意見用紙は入っているか。


 けれど、授業を抜けて見に行くわけにはいかない。


 管理当番は決めた。


 教師へも共有した。


 自分一人が見続けなくても、試験は続く。


 それでも、二時間目の休み時間には、分かれ道へ向かいかけた。


「なつき」


 茜に呼び止められる。


「どこ行くの?」


「トイレ」


「反対方向」


「……案内」


「十二時半」


「少し見るだけ」


「見る役割じゃない時間」


「でも剥がれてたら」


「先生が確認してくれてる」


「本当に?」


「さっき職員室へ行った生徒が、施設管理の先生が見てたって」


 なつきは足を止めた。


「じゃあ大丈夫?」


「今の時点では」


「見に行かない?」


「行かない」


「茜は気にならないの?」


「気になる」


「なら」


「だから、決めた時間に見る」


 茜はなつきの顔を見て、少し笑った。


「外へ出したら、ずっと手元には置けないでしょう」


「分かってる」


「利用者のものになる時間も必要」


「利用者のもの」


「作った私たちがずっと横にいたら、普段どおり使えないよ」


「でも今は授業中だから、誰も使わないかも」


「移動教室ある」


「……そうだね」


「戻ろう」


 なつきは自分の席へ戻った。


 何度も振り返りたくなる。


 それでも、次の授業の教科書を出す。


 案内は外へ出た。


 置いた瞬間から、作った人たちだけのものではない。


 見ている時間。


 見ていない時間。


 使われる時間。


 使われない時間。


 その全部を、十一組ラボが支配することはできない。


 昼休み。


 十二時三十分。


 なつきと茜は、状態確認表を持って最初の青い案内へ向かった。


 案内は、朝と同じ位置にあった。


 端の浮きなし。


 汚れなし。


 反射は朝より少し強い。


 文字判読可能。


 通行への妨げなし。


「大丈夫」


 なつきが小さく息を吐く。


「まだ最初」


 茜が笑う。


「分かってる」


 分かれ道へ向かう。


 中継案内も、朝と同じ位置。


 つや消し枠。


 青い丸。


 矢印。


 文字。


 どれも剥がれていない。


 窓には朝より強い光が差し込んでいるが、文字背景は反射していない。


 右から近づく。


 見える。


 少し速度を上げて歩く。


 矢印が先に目へ入る。


 左側から見る。


 文字は少し斜めだが読める。


「問題なし?」


 茜が尋ねる。


「今は」


「記録」


 なつきは状態確認表へ丸を付ける。


 窓の下にある意見回収台を見る。


 用紙の残数。


 朝より三枚減っている。


 回収封筒には、わずかな厚みがあった。


「入ってる」


 なつきが言う。


「開けないよ」


「分かってる」


「触りすぎない」


「厚みだけ」


 封筒を持ち上げず、外から状態を見る。


 封筒の口は閉じている。


 落下なし。


 破損なし。


 中に一枚以上ある可能性。


「何て書いてあるかな」


「二日後」


「長い」


「明日も使うから」


「安全の意見だったら?」


「職員共有と状態確認」


「分かってる」


「でも気になる?」


「すごく」


 茜も封筒を見る。


「私も」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 十五分間の観察。


 朝よりも利用者は多かった。


 昼休みは、友人同士で歩く生徒が多い。


 中継案内へ気づき、指を差す人。


 会話を止めずに左へ進む人。


 案内の前で立ち止まり、文字まで読む人。


 一度通り過ぎ、友人に袖を引かれて戻る人。


 なつきは事実を記録する。


 特に気になったのは、一人の女子生徒だった。


 彼女は最初の青い案内を見て右へ進んだ。


 分かれ道の中継案内へ近づく。


 大きな矢印を見る。


 左へ一歩進む。


 その後、戻る。


 中継案内の文字を読む。


 再び左へ進む。


 迷ったようにも見える。


 確認しただけかもしれない。


「声掛けない?」


 なつきが小さく尋ねる。


「正しい方向へ進んだ」


 茜が答える。


「でも戻った」


「文字を確認した」


「不安だった?」


「後で意見を書いてくれるかもしれない」


「書かないかも」


「見た事実だけ」


 なつきは記録へ書く。


『女子一名。矢印確認後、左へ一歩。案内前へ戻り、文字を約三秒確認。再び左へ進む』


 その人が探していたものは分からない。


 矢印だけでは不安だったのか。


 第二実習室で合っていると確認したかったのか。


 試験表示が気になったのか。


 見ただけでは決めない。


 観察終了後、二人は十一組ラボの教室へ戻った。


 春樹たちも昼の担当ではないため、教室で弁当を食べていた。


「どうだった?」


 春樹がすぐに尋ねる。


「剥がれてない」


「利用は?」


「朝より多い」


「迷った人?」


「分からない。でも戻って文字を読んだ人がいた」


「正しい方向へ?」


「行った」


「なら、文字が確認の役割になった可能性」


「可能性」


 なつきは春樹の隣へ座り、弁当箱を開いた。


 朝から緊張していたせいか、急に空腹を感じる。


「意見、入ってた」


「何枚?」


「分からない。一枚以上」


「読みたい?」


「すごく」


「開けない?」


「開けない」


「我慢できる?」


「できる」


「本当に?」


「春樹、私を信用してない」


「朝、授業の間に見に行こうとした?」


「……茜に止められた」


「やっぱり」


「でも行ってない」


「偉い」


「子ども扱いしないで」


 春樹が小さく笑う。


 なつきは卵焼きを口へ入れながら、封筒の中身を想像した。


 見つけやすかった。


 文字が小さい。


 青い丸が分かりやすい。


 枠が光っていた。


 どれも可能性。


 今は読めない。


「外へ出すと、見えない時間増えるね」


 なつきが言う。


「案内?」


「うん。教室で作ってたときは、ずっと見られた」


「置いたら、授業中も使われる」


「私たちがいないときも」


「それが普通」


「分かってるけど、少し寂しい」


「案内が?」


「自分たちだけのものじゃなくなったから」


 春樹は少し考えた。


「良いことじゃない?」


「良いこと。でも寂しい」


「両方?」


「うん」


「僕も少し分かる」


「春樹も?」


「作ってる間は、意味を全部知ってる。外へ出したら、見る人が別の意味で使う」


「青い丸を追う人も、矢印だけ見る人も」


「前の人についていく人も」


「私たちの考えた使い方じゃなくても、着ければいい?」


「危なくなくて、誰かを困らせないなら」


「でも、全然違う意味に受け取られたら?」


「声を聞く」


「二日後」


「うん」


「長い」


「また言った」


 二人で笑う。


 昼休みの教室には、いつものように他のメンバーの声が重なっている。


 島中は朝の設置写真を何度も見返し、田辺に「写真は変わらない」と言われていた。美優は意見用紙の残数を確認し、紅秋は午後の職員共有をまとめている。蓮は中継案内の通行記録へ目を通し、茜は弁当を食べながら委員会の連絡をしていた。


 試験は始まった。


 それでも学校の日常は止まらない。


 授業。


 委員会。


 図書室。


 部活動。


 昼食。


 その中へ、案内の管理が加わっている。


「放課後、一緒に見られる?」


 なつきが春樹へ尋ねる。


「今日の担当は島中と田辺」


「私たちは?」


「観察しない」


「少し遠くから」


「担当を増やさないって決めた」


「じゃあ、終わった後に記録を見る?」


「うん」


「一緒?」


「うん」


「良かった」


 なつきは素直に笑った。


 春樹も少しだけ笑う。


「二日目の放課後は撤去も一緒」


「覚えてる」


「その後、おかえり会」


「うん」


「その後」


 言葉が止まる。


 聞く日を決める。


 昨日、約束した。


 春樹も思い出したように視線を少し下げた。


「忘れてない」


 春樹が先に言った。


「私、何も言ってない」


「顔」


「分かりやすい?」


「今日は特に」


「案内のことで頭いっぱいなのに」


「それでも残ってる?」


「残ってる」


「僕も」


 短い言葉。


 何が残っているのか、全部を言わなくても分かる。


 試験設置が終わったあと。


 おかえり会のあと。


 聞く日を決める。


 答えはまだ。


 それでも約束は、案内が外へ出た今日も消えていない。


 午後の授業。


 放課後。


 なつきは自分の役割でない時間に案内を見に行かなかった。


 何度か気になった。


 六時間目の前には、窓の光が強くなっているのではないかと思った。


 部活動へ向かう生徒が増えれば、通行が詰まるかもしれないとも考えた。


 それでも、島中と田辺が担当する。


 施設管理の教師も確認する。


 自分だけで守ろうとしない。


 放課後、十一組ラボの教室へ集まると、島中が状態確認表を掲げていた。


「問題なし」


 声には明らかな喜びがあった。


「端の浮きなし。汚れなし。反射は少しあるけど文字読める。通行も止まってない」


「観察は?」


 紅秋が尋ねる。


「十五分で十二人」


「中継案内へ気づいたのは?」


「明確に見たのが九人。三人は前の人について左」


「通り過ぎた人は?」


「ゼロ」


「本当に?」


「俺と田辺で別々に記録した」


 田辺が自分の用紙を出す。


「九人は案内へ視線。三人は前の人または友人の動きに続いた。全員左へ進んだ」


「意見用紙は?」


 美優が尋ねる。


「朝より二枚減ってた」


「封筒は?」


「厚み増えた」


 なつきの胸がまた速くなる。


「何枚?」


「触ってないから分からない」


「島中、我慢できた?」


「俺を何だと思ってるんだよ」


「開けそうな人」


「開けない。二日後」


「成長したね」


「今日は言われすぎ」


 笑いが起きる。


 紅秋が一日目の記録を黒板へまとめる。


 試験案内、設置状態に異常なし。


 観察した範囲では、中継案内前で誤った方向へ進んだ利用者なし。


 中継案内へ直接視線を向けず、他者の動きへ続いた利用者あり。


 最初の案内前で複数人が横並びになり、後続者が回避した事例一件。


 中継案内前で、矢印確認後に文字へ戻った事例一件。


 教師へ追加確認した利用者一名。


 意見用紙、複数枚使用。


 回収封筒、異常なし。


「成功?」


 島中が尋ねた。


「一日目継続可能」


 紅秋が答える。


「またその言い方」


「試験は明日もある」


「分かってる。でも今日は良かっただろ」


「良かった」


 紅秋は、今度は迷わず言った。


「安全上の問題なし。観察範囲では、目的地へ進めてる。試験を続けられる」


「じゃあ少し喜ぶ」


「少し」


 島中が田辺と手を合わせようとした。


 田辺は一度避けた後、島中が少し寂しそうな顔をしたため、仕方なさそうに手を合わせた。


 軽い音。


 教室に笑いが広がる。


 なつきも笑った。


 一日目。


 まだ半分。


 意見は読んでいない。


 明日、別の時間帯や別の利用者から、新しい問題が出るかもしれない。


 それでも、今日使われた。


 誰かが青い丸を見た。


 誰かが矢印だけで左へ進んだ。


 誰かが文字へ戻り、確認した。


 誰かが前の人について進んだ。


 作った側が想像していた使い方だけではない。


 それでも、観察できた人は第二実習室へ着いた。


「案内、もう私たちのものじゃないね」


 なつきが言った。


 教室が少し静かになる。


「どういう意味?」


 美優が尋ねる。


「置いたら、使う人が自分のやり方で使う。全部読まない人もいる。丸じゃなく矢印を見る人もいる。前の人についていく人もいる」


「作った目的から外れた?」


 蓮が聞く。


「外れてない。第二実習室へ着けてるから」


「なら?」


「案内の使い方を決めるのは、私たちだけじゃないんだなって」


 紅秋が黒板の記録を見る。


「置いた瞬間から、利用者と一緒に作るものになる?」


「うん。でも利用者が直すわけじゃない」


「使い方と声を返す」


「私たちが受け取る」


「二日後に」


 島中が封筒のある方向を見る。


「長いな」


「朝から同じこと言ってる」


 田辺が呆れたように返す。


「明日一日」


「我慢」


「できる」


 日が傾き始める頃、全員で翌日の当番を確認した。


 二日目の朝。


 蓮と春樹。


 昼。


 紅秋と美優。


 放課後。


 なつきと春樹。


 撤去と最終確認。


「一緒」


 なつきが役割表を見る。


「知ってたでしょう」


 春樹が答える。


「書いてあるの見ると嬉しい」


「分かりやすいな」


 島中が言う。


「もう隠してないから」


「強い」


「何が?」


「大國、逃げられないな」


 春樹の表情が少し硬くなる。


 なつきはすぐに島中を見る。


「そういう言い方しないで」


「ごめん」


 島中は、今度もすぐに謝った。


「冗談のつもりだった」


「分かってる。でも、逃げないって春樹が自分で言ってくれたから」


「俺が言うことじゃない?」


「うん」


「分かった」


 教室に短い沈黙が置かれる。


 以前なら、気まずさを消すために誰かがすぐ別の話を始めたかもしれない。


 今は、それぞれが一度言葉を受け止めている。


 春樹がなつきを見る。


「大丈夫」


「嫌だった?」


「少し。でも、島中も分かったから」


 島中が頭を下げる。


「悪かった」


「うん」


「今後、恋愛の進行役はやめる」


「今までもしてない」


 田辺が言い、教室に少しずつ笑いが戻った。


 言葉の失敗。


 その場で止める。


 謝る。


 なかったことにしない。


 それでも全部を壊さない。


 案内が見落とされても戻れる道を残すように、人の会話にも戻れる場所がある。


 片付けを終え、なつきと春樹は二人で教室を出た。


 帰る前に、紅秋から許可をもらい、遠くから中継案内を見る。


 触らない。


 位置を変えない。


 状態確認は終わっている。


 ただ、一日利用者の中にあった姿を見る。


 朝と同じ窓。


 青い丸。


 大きな矢印。


 薄灰色の文字。


 夕方の光を受けても、読める。


「残ってる」


 なつきが言う。


「うん」


「一日使われた」


「うん」


「変わってないように見える」


「紙は」


「中身は?」


「声が増えた」


「封筒の中」


「観察記録にも」


「私たちの中にも?」


「たぶん」


 二人は少し離れた場所から、案内を見つめる。


 廊下を一人の男子生徒が歩いてくる。


 中継案内へ視線を向ける。


 左へ曲がる。


 それだけ。


 十一組ラボの存在には気づかない。


 なつきと春樹が見ていることにも気づかない。


 案内だけを使い、進む。


「これでいいんだね」


 なつきが言う。


「何が?」


「私たちを知らなくても」


「案内だから」


「誰が作ったかより、使えること」


「でも知りたい人には、変更記録がある」


「うん」


「全部見せない。でも隠さない」


「難しいね」


「今日、ずっと難しいって言ってる」


「だって難しいもん」


 春樹が少し笑う。


 二人は案内から離れ、昇降口へ向かった。


「明日、撤去」


 なつきが言う。


「二日目が終わったら」


「少し寂しい」


「まだ正式に残るか分からない」


「意見読むの怖い」


「うん」


「良いことだけだったら?」


「それも怖い?」


「問題見落としてないかって思う」


「悪いことがあったら?」


「落ち込む」


「どっちでも怖い」


「春樹は?」


「同じ」


「じゃあ一緒に読む?」


「全員で」


「隣?」


 春樹は少しだけ考える。


「隣で」


「本当?」


「うん」


「約束?」


「うん」


 階段を下りる。


 夕方の光が、踊り場の窓から斜めに差している。


「撤去して、おかえり会して」


 なつきがゆっくり続ける。


「その後」


「聞く日を決める」


「覚えてる?」


「覚えてる」


「怖い?」


「今日の朝より」


「どうして?」


「近づいたから」


 なつきも同じだった。


 いつか。


 その言葉で置いていたときより、具体的になった。


 明日、試験二日目。


 撤去。


 おかえり会。


 その後。


 聞く日を決める。


 進むほど、怖さは薄くならない。


 むしろ輪郭がはっきりする。


「戻りたい?」


 なつきが尋ねた。


 春樹は足を止めなかった。


「戻りたくない」


「本当に?」


「怖いけど」


「うん」


「今日、案内が置かれて、もう教室の中だけには戻らなかったでしょう」


「撤去はするよ」


「でも、使われたことは消えない」


「うん」


「僕たちも、言ったことは消えない」


 特別かもしれない。


 春樹はそう言った。


 なつきは、春樹が特別だと伝えた。


 逃げないと約束した。


 聞く日を決めると決めた。


 もう、何もなかった頃と同じには戻れない。


「じゃあ進む?」


 なつきが聞く。


「うん」


「明日も?」


「うん」


「その後も?」


 春樹は少しだけ間を置いた。


「話しながら」


「答えが違っても?」


「そこは、まだ怖い」


「私も」


「でも逃げない」


「うん」


 二人は再び歩き出す。


 試験設置一日目。


 案内は剥がれなかった。


 観察した利用者は、第二実習室へ進めた。


 通行を止める大きな問題もなかった。


 意見用紙は複数枚使われた。


 それだけが、今日分かったこと。


 成功と決めるには早い。


 完成と呼ぶには足りない。


 けれど、外へ出したことでしか届かなかった声が、封筒の中へ増えている。


 置いた瞬間から、案内は作った人たちだけのものではなくなった。


 見る人が、自分の入り口から使う。


 読まない部分を残す。


 必要なところだけ受け取る。


 迷ったら文字へ戻る。


 誰かへ聞く。


 前の人についていく。


 その全部を、作った側が正しい使い方へ直すのではなく、何が起きたかを受け取る。


 明日。


 二日目の利用者が通る。


 今日とは違う天気。


 違う時間。


 違う人の流れ。


 そして放課後。


 案内は窓から外される。


 空になった場所と、声の入った封筒が十一組ラボへ戻ってくる。


 なつきは春樹の隣を歩きながら、明日の分かれ道を思った。


 窓へ残る青い丸。


 大きな矢印。


 第二実習室は左です。


 その言葉は、利用者へ進む方向を伝えている。


 けれど今のなつきにとっては、別の意味にも見えた。


 今日までで合っている。


 戻らなくていい。


 怖くても、次の場所へ進んでいい。


 案内が利用者のものになったように。


 二人の間へ置いた言葉も、もう片方だけのものではない。


 受け取った側の中に残り、次の言葉を待っている。


 夕暮れの校門へ向かう道で、二人の影は長く並んでいた。


 明日、何が届くかはまだ分からない。


 それでも。


 外へ出した約束から、目を逸らさずにいられるよう。


 なつきは今日も、春樹の歩幅へ自分の歩幅を合わせていた。

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