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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第167話 直したい気持ちは、待つ理由と喧嘩する


 六時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴っても、なつきはすぐには教科書を閉じられなかった。


 黒板の前では、担当教師が次回までの課題を伝えている。教室の後方では、もう帰り支度を始めた生徒の鞄から筆箱が落ち、乾いた音を立てて床を転がった。窓際の男子は椅子を半分引いたまま、グラウンドの方を気にしている。運動部らしい何人かは、教師の話が終わるより早く腕時計へ視線を落とし、廊下へ出る準備を整えていた。


 いつもの放課後前の空気だった。


 まだ授業中ではあるものの、教室の意識はすでに次の場所へ向いている。部活動へ行く者、図書室へ寄る者、友人と帰る者、委員会へ向かう者。それぞれが自分の予定へ身体を傾け始め、教室全体が少しずつ落ち着きを失っていく。


 その中で、なつきだけが机の上のノートを見つめたまま動けずにいた。


 開いているページには、授業の内容とは関係のない言葉が小さく書かれている。


 文字が小さい。


 矢印が分かりにくい。


 どこを見ればいいか迷った。


 昨日、一回目の意見回収用封筒から取り出した二枚の用紙に書かれていた内容だった。


 もちろん、そのまま書き写したわけではない。個人が特定されないよう、紅秋がまとめ直した表現を、自分なりに短く残しただけだ。


 それでも、授業中に何度も目へ入った。


 一度見てしまうと、頭から離れなかった。


 直せる。


 文字を大きくすることも、矢印を太くすることも、情報の置き方を変えることも、今の十一組ラボならできる。完全に作り直すわけではない。案内表示だけなら、今日話し合って、明日には修正版を置くことだって不可能ではない。


 だからこそ、なつきには待つ理由が分からなくなりかけていた。


「横田」


 教壇から名前を呼ばれ、なつきは肩を揺らした。


「はい」


「課題、聞いてたか?」


 教室の何人かが振り返る。


 教師の声は怒っているほどではなかったが、明らかに意識が別の場所へ飛んでいた生徒へ向けるものだった。なつきは慌てて黒板へ目を向け、隅に書かれた範囲を確認する。


「教科書の八十四ページから八十七ページまでです」


「聞いてたならいい。提出は次の授業の最初だからな」


「はい。すみません」


 前を向き直ると、斜め前の席にいる茜が肩越しにこちらを見た。


 口は動かさず、目だけで大丈夫かと尋ねてくる。


 なつきは小さくうなずいた。


 けれど、実際にはあまり大丈夫ではなかった。


 チャイムが鳴り、教師が教室を出た瞬間、生徒たちが一斉に立ち上がる。椅子を引く音と話し声が重なり、静かだった教室は数秒で放課後の場所へ変わった。


「なつき、今日のおかえり会だよね?」


 鞄へ教科書をしまいながら、茜が近づいてくる。


「うん」


「その前に、ちょっとだけ話せる?」


「話す?」


 茜はなつきのノートへ視線を落とした。


「ずっとそれ見てたでしょう」


 咄嗟に隠すほどのものではなかったが、なつきは少しだけ気まずくなってノートを閉じた。


「見えてた?」


「前の席だからね。振り返らなくても、何回も下を見てるのは分かった」


「委員長、後ろまで見すぎじゃない?」


「心配してるだけです」


 わざと硬い口調で言った茜は、すぐに表情を柔らかくした。


「直したい?」


 周囲では、帰り支度を終えた生徒たちが次々と教室を出ていく。二人の近くを通った女子が「また明日」と手を振り、茜が振り返してから、なつきは小さく息を吐いた。


「うん。すごく直したい」


「やっぱり」


「二枚とも、案内表示のことだったでしょう。書き方は違うけど、困ったところは近い気がするし」


「私も読んだときはそう思ったよ」


「だったら、直していいんじゃないかな」


 口にしてみると、自分の中にあった気持ちが少し強くなった。


 意見を集めたのは、改善するためだ。


 困っていると教えてもらったのに、そのままにしておくのは違う気がする。すぐに変えられるところなら、なおさら待つ必要はないのではないか。


 茜はすぐに賛成も反対もしなかった。


 机の脇へ立ったまま、閉じられたノートを見ている。教室に残っている生徒は少なくなり、開け放たれた廊下側の扉から、別のクラスの笑い声が入り込んできた。


「でも、紅秋が昨日言ったことも分かるんだよね?」


「……分かる」


「二枚だけで決めない方がいいかもしれないってこと」


「分かるけど」


 なつきは鞄のファスナーを閉めた。少し強く引きすぎて、金具が乾いた音を立てる。


「分かるけど、困ったって書いてくれた人がいるのに、次の回収が終わるまで何もしないのも違わない?」


「うん。違う気がする」


「茜も?」


「するよ」


 即座に返され、なつきは顔を上げた。


 茜は困ったように笑っていた。


「だから今日、話すんでしょう」


「答えを知ってるみたいに言うから、待つ方が正しいって言われるのかと思った」


「私だって分からないよ。分からないから、おかえり会に行くの」


 その言葉には、諭すような響きがなかった。


 正しい方へ連れていこうとするのではなく、自分も同じ場所で迷っていると伝える声だった。


 なつきは閉じたノートを鞄へしまった。


「そっか」


「うん」


「じゃあ、行こうか」


「行こう」


 二人が教室を出ると、廊下にはまだ多くの生徒が残っていた。


 教室前で立ち話をする者、階段へ向かって急ぐ者、部活動の荷物を抱えて走りかけ、通りかかった教師に歩けと注意される者。窓の外からは、グラウンドへ出た運動部の掛け声が聞こえ始めていた。


 西日が校舎の奥まで差し込み、磨かれた床の上へ細長い光を作っている。そこを横切る生徒の影が何度も伸び、重なり、途切れていった。


「十一組ラボ、今日また集まるんだって?」


 前方から聞こえた声に、なつきは無意識に歩みを緩めた。


 廊下の窓際で、普通科らしい女子生徒が二人話している。


「そうみたい。意見のやつ見るんじゃない?」


「何枚入ったんだろうね」


「さあ。でも、私の友達が使ったって言ってた」


「どうだったって?」


「分かりやすかったけど、最初どこ見ればいいか迷ったって」


 茜も聞こえたらしく、なつきの隣でわずかに眉を動かした。


 二人の女子生徒は、なつきたちに気づかないまま階段の方へ歩いていく。会話はやがて別の話題へ移り、声も人混みへ紛れて消えた。


 なつきは立ち止まらなかった。


 けれど胸の中では、さっきまでよりも直したい気持ちが強くなっていた。


「今の聞いた?」


「聞いた」


「やっぱり迷う人いるんだよ」


「いるね」


「だったら――」


 言いかけたところで、茜は前を歩く生徒を避けるように半歩横へ寄った。


「今の人の友達は、分かりやすかったとも言ってたよ」


「……うん」


「迷ったけど、使えなかったわけじゃないのかもしれない」


「それでも迷ったんでしょう」


「そうだね」


 また、答えが一つに定まらない。


 なつきは唇を少し尖らせた。


「茜、今日ずっと両方言うね」


「だって両方聞こえるんだもん」


「ずるい」


「ずるくないです」


「委員長なのに」


「委員長は何でも決められる人じゃありません」


 真面目に言い返され、なつきは少しだけ笑った。


 笑っても、胸の奥の引っ掛かりは残っている。


 十一組ラボで使っている教室へ入ると、すでに半分ほどの席が埋まっていた。


 島中は田辺と机を動かしており、美優は配布資料を人数分に分けている。蓮は窓側の席で、昨日の回収記録らしい紙へ目を通していた。紅秋は教卓の横へ立ち、大きなファイルから必要な資料だけを抜き出している。


 春樹はまだ来ていなかった。


 そのことに気づいた自分を意識して、なつきは少しだけ視線を逸らす。


「来たな、すぐ直したい派」


 机を置いた島中が、なつきを見て言った。


「なんで分かるの?」


「顔」


「みんな顔って言う」


「分かりやすいからな」


「島中に言われたくない」


「俺は感情を隠さないだけ」


「隠せないの間違いじゃない?」


 近くにいた田辺が淡々と返し、美優が笑いをこぼした。


「おい、田辺。今日そっち側?」


「事実を言っただけ」


「仲間だと思ってたのに」


「今すぐ直した方がいいとは思ってる」


「ほら仲間」


「でも島中の顔が分かりやすいこととは別」


「分けるなよ」


 二人のやり取りに、教室の空気が少し和らいだ。


 なつきは茜と並んで席へ向かう。鞄を置いたところで、廊下側の扉から春樹が入ってきた。


「遅れてない?」


「まだ始まってないよ」


 なつきが答えると、春樹は小さく息を吐いた。


「図書室で返却の確認が長引いた」


「お疲れさま」


「ありがとう」


 それだけの会話だった。


 けれど春樹が隣の席へ座ったことで、なつきの肩から余計な力が少し抜けた。


 全員が揃うと、紅秋が教室前方へ立った。


「始める前に確認するね。今日は一回目の意見を共有して、二回目の回収期間中に案内表示を直すか、そのまま待つかを話す」


 島中が手を挙げる。


「修正案まで作る?」


「話し合い次第。先に結論を決めない」


「了解」


「それと、意見を書いた人を推測しない。書き方や内容から誰かを特定しようとしない。これは前にも言ったけど、もう一度確認しておく」


 教室の何人かがうなずいた。


 意見用紙は無記名で回収している。


 だからこそ、書いた本人がその場にいるかもしれないし、いないかもしれない。誰が書いたかではなく、何を感じたかだけを見る。それは最初に決めた大切な約束だった。


「じゃあ、おかえり会を始めます」


 紅秋の声を境に、教室の空気が少し変わった。


 窓の外から聞こえていた運動部の声が遠くなったわけではない。廊下を通る生徒の足音も、吹奏楽部が音を合わせる響きも残っている。


 それでも、机を囲んだ全員の意識は教室の中央へ集まっていた。


 最初に、昨日設置した二回目回収用封筒の状態が報告された。


 設置位置に問題はないこと。


 封筒の口が狭く、用紙を入れにくくならないよう少し調整したこと。


 案内表示そのものは、一回目と同じ状態を維持していること。


 その確認が終わると、紅秋は透明なファイルから二枚の紙を取り出した。


 原本ではない。


 個人の筆跡が分からないよう、美優と紅秋が内容だけを打ち直した共有用紙だった。


「一枚目から読むね」


 紅秋が視線を落とす。


 誰かが小さく椅子へ座り直した。紙の擦れる音がして、その後に短い沈黙が置かれる。


「案内の内容は分かった。ただ、少し離れたところから見ると文字が小さく、近づくまで何が書かれているか分からなかった。人が前にいると後ろから見えにくかった。矢印も説明と同じ大きさだったので、進む方向を見つけるまで時間がかかった」


 読み終えても、すぐに声は上がらなかった。


 なつきは共有用紙へ目を落とす。


 昨日一度読んでいる。それでも全員がいる場所で改めて聞くと、言葉の重さが違って感じられた。


 人が前にいると見えにくい。


 それは、試作を作っているときに十分考えられていなかった部分だった。


 一人で正面から見ることは何度も試した。


 少し離れて見ることもした。


 けれど、廊下に複数の利用者がいる状態で、後ろからどの程度見えるかまでは、ちゃんと確認できていなかった。


「二枚目」


 紅秋が続ける。


「必要な情報は書かれていたと思う。ただ、最初にどこを見ればいいのか分からなかった。上から読むのか、色の付いたところを見るのか、矢印を先に探すのか迷った。全部読めば分かったが、通りながら見るには少し時間が必要だった」


 今度は、読み終わった直後に島中が腕を組んだ。


「直そう」


 声は大きくなかった。


 冗談を言うときの軽さもない。


「二枚とも、結局は見るのに時間がかかってるってことだろ」


 田辺も共有用紙を見ながらうなずく。


「文字の大きさと、視線の順番。別の話に見えるけど、立ち止まらないと分かりにくいってところは同じかもしれない」


「だったら、少なくとも文字を大きくするのと、矢印を目立たせるのは先にやってもいいんじゃない?」


 島中の言葉に、なつきは反射的にうなずいた。


「私もそう思う」


 自分の声が、考えていたよりも早く出た。


 教室の視線が集まる。


 以前なら、それだけで言葉が止まっていたかもしれない。けれど今は、伝えたいことが胸の中にはっきりあった。


「二人とも、書くのに時間を使ってくれたんだよね。困ったところを伝えてくれたのに、分かっていてそのまま使ってもらうのは、少し違う気がする」


「だよな」


 島中が強くうなずく。


「直せないなら仕方ないけど、直せるんだろ?」


「案内表示だけなら、たぶん今日中に案は作れる」


 美優が資料を確認しながら答えた。


「印刷は明日になるけど、大きさと配置を変えるだけなら難しくないと思う」


「ほら」


 島中は蓮の方を見る。


「早い方がいいだろ」


 名指しされた蓮は、すぐには答えなかった。


 机の上へ置いた共有用紙の二枚目をもう一度読み、指先で端を揃える。その落ち着いた動作を待つ間、教室には微妙な沈黙が生まれた。


「直した方がいい可能性は高いと思う」


 ようやく蓮が口を開く。


 島中が少し意外そうな顔をした。


「じゃあ――」


「でも、今は変えない方がいい」


「なんでだよ」


「二回目の回収を、同じ条件でできなくなるから」


 蓮は教室全体へ視線を向けた。


「一回目と二回目で表示が違ったら、集まった意見を同じものとして比べられない。文字を大きくした後に意見が減ったとしても、文字の大きさを変えたからなのか、利用した人が違ったからなのか、分からなくなる」


「でも、試験じゃないだろ」


 島中の返事は早かった。


「比べることより、使いやすくする方が大事じゃない?」


「そうだと思う」


「なら直せばいい」


「ただ、二枚だけを見て変えることで、別の人にとって使いにくくなる可能性もある」


「文字を大きくして使いにくくなる?」


「大きくした分、情報が詰まるかもしれない。矢印を目立たせたら、必要な説明が読まれなくなるかもしれない。配置を変えたら、今の方が見やすかった人にとっては順番が崩れるかもしれない」


「それは作り方の問題だろ」


「作る前に、何が問題なのかをもう少し確認した方がいいって言ってる」


 島中と蓮の声が、少しずつ硬くなる。


 言い争いというほどではない。


 けれど、どちらも譲ろうとしていないことは分かった。


 島中は、今困っている人を見ている。


 蓮は、まだ見えていない利用者を見ようとしている。


 なつきには、どちらも間違いだとは思えなかった。


「島中」


 田辺が横から声を掛ける。


「何だよ」


「蓮は直すなって言ってるんじゃなくて、今すぐ全部変えるなって言ってるんだと思う」


「分かってるよ」


 島中は椅子の背へ身体を預けた。


「でもさ、意見を集めました、分かりにくいって言われました、でも次も同じものを使ってくださいって、書いてくれた人が知ったらどう思うんだよ」


 その言葉に、教室が静かになった。


 なつきの胸の奥にも同じ不安があった。


 意見を求めておきながら、反映しない。


 それは、聞いただけで終わることにならないだろうか。


 相手に書かせて、自分たちは記録を取って満足する。


 そんな十一組ラボにはなりたくなかった。


「私も、それは気になる」


 美優が慎重に言葉を挟んだ。


「意見をもらった後に、何も変わらない状態が続くと、書いても意味がないって思われるかもしれない」


「だよな」


「でも、だからすぐ直すべきだとも言い切れない」


 島中の顔に、また不満が浮かぶ。


「美優まで両方言うのかよ」


「両方あるから」


「今日、それ多くない?」


 茜が小さく笑った。


「私もさっきなつきに言われた」


「みんなずるいんだよ」


「島中が一つに決めるの早すぎるんじゃない?」


 田辺の言葉に、教室の何人かが笑った。


 張りつめかけた空気が少しだけ緩む。


 けれど紅秋は、すぐに話を次へ進めなかった。


 笑いが消え、全員の視線が再び机の上へ戻るまで待ってから、ゆっくり口を開く。


「今、出てるのは三つかな」


 紅秋は黒板へ向かい、チョークを手に取った。


 一つ目に、今すぐ修正する。


 二つ目に、二回目の回収が終わるまで変えない。


 そして三つ目を書こうとして、手を止める。


「三つ目は、まだ言葉になってない」


「準備だけする、じゃない?」


 茜が言った。


 紅秋が振り返る。


「どういう準備?」


「今の表示は変えない。でも、修正案は作っておく」


 教室の空気が少し動いた。


「二回目の意見が集まるまで何もしないんじゃなくて、今ある二枚から考えられる案を用意する。次の意見が同じならすぐ反映できるし、違う意見が出たら案を作り直せる」


「待つけど、止まらないってことか」


 田辺が呟く。


「うん。直すか直さないかだけで決めなくてもいい気がする」


 島中はすぐには反応しなかった。


 腕を組んだまま黒板を見る。


「修正案を作っても、結局今困ってる人は同じ表示を使うんだろ」


「そうだね」


 茜は否定しなかった。


「そこは変わらない」


「なら、やっぱり――」


「でも、本当に今困っているのか、私たちは用紙だけで想像してる部分もあると思う」


 美優が共有用紙の一枚目を指した。


「この人は、近づけば内容は分かったって書いてる。二枚目の人も、全部読めば分かったと言ってる。使えなかったわけではない」


「迷ったことは迷ったんだろ」


「うん。だから直す必要はあるかもしれない。でも、どのくらい急ぐ必要があるかは、まだ分からない」


 なつきは二枚の用紙を見比べた。


 困った。


 分かりにくかった。


 そう受け取っていた。


 けれど、書かれているのはそれだけではない。


 近づけば分かった。


 全部読めば分かった。


 利用できなかったとは書いていない。


 だから問題ではない、とは思わない。


 ただ、自分が言葉の一部だけを強く見ていたことには気づいた。


 直したいという気持ちが先にあり、その気持ちに合う部分だけを拾っていたのかもしれない。


「実際に見た方がよくない?」


 春樹の声が、なつきの隣から聞こえた。


 それまで黙って話を聞いていたため、全員が少しだけ意外そうに顔を向ける。


「案内表示を使う人を?」


 紅秋が尋ねる。


「うん。意見を書いた人を探すんじゃなくて、今の表示の前で、みんながどう動いてるかを見る」


「今から?」


「放課後も人は通るよ。部活や委員会で商業棟へ来る人もいるし」


 蓮が時計を確認した。


「二十分くらいなら、まだ人の流れはあると思う」


 島中が椅子から身を起こす。


「見るだけで分かるか?」


「全部は分からない」


 春樹は落ち着いた声で答えた。


「でも、今は紙に書かれた二人しか見えてないから。少なくとも、他の人がどう使ってるかは見られる」


 紅秋は少し考えてから、手にしていたチョークを置いた。


「行こう」


「全員で?」


「全員で固まったら利用する人が気にするから、二、三人ずつに分かれる。声は掛けない。邪魔をしない。見たことを勝手に決めつけない」


「最後の難しくない?」


 島中が言う。


「難しいから確認したの」


「はい」


 教室に小さな笑いが起きた。


 資料を机へ残し、筆記用具だけを持って、十一組ラボのメンバーは設置場所へ向かった。


 案内表示が置かれているのは、中央棟から商業棟へ続く渡り廊下の手前だった。


 廊下の幅は広いが、放課後は人の流れが重なりやすい。部活動で特別教室を使う生徒、委員会へ向かう生徒、教師に呼ばれて移動する生徒が行き交い、昼休みとは違う種類の賑わいが生まれる場所だった。


 窓の外では、西へ傾いた日差しが中庭の木々を照らしている。風が通るたびに葉の表面が光り、開いた窓から入る空気には、グラウンドの土と少し湿った草の匂いが混ざっていた。


 なつきは春樹、茜と一緒に、案内表示から少し離れた掲示板の前へ立った。


 紅秋と美優は反対側。


 島中、田辺、蓮は渡り廊下寄り。


 普段からそこにいるように見せるため、それぞれが掲示物を見たり、手元のノートを確認したりしながら、人の流れへ視線を向ける。


「なんか怪しくない?」


 なつきが小声で言う。


「何が?」


 茜も声を落とす。


「みんな、見てませんって顔で見てる」


「なつきが一番きょろきょろしてるよ」


「してないよ」


「今、島中の方見たでしょう」


「島中が怪しいから」


 渡り廊下側を見ると、島中は掲示板の前で腕を組み、全く内容を読まずに同じ場所を見続けていた。田辺が何かを言い、慌てて別の掲示へ目を移す。


 なつきは笑いそうになり、唇を押さえた。


「始まる前から見すぎ」


 春樹が小さく笑う。


「だって気になるもん」


「普通にしてた方が見えるよ」


「普通って難しい」


 そんなやり取りをしているうちに、最初の利用者が現れた。


 一年生らしい男子生徒が一人で歩いてくる。


 手にはプリントを持っており、何度か周囲を確認している。案内表示の前まで来ると、歩調を緩めた。


 なつきの身体に自然と力が入る。


 男子生徒は表示の上部を見る。


 次に中央。


 それから矢印へ視線を移し、右手の廊下を確認した。


 立ち止まっていた時間は、三秒か四秒ほどだった。


 その後、迷った様子もなく右へ進んでいく。


「使えたね」


 茜が囁く。


「うん」


「でも、少し止まった」


 春樹が言う。


「迷ったのかな」


「分からない。読むために止まっただけかもしれない」


 早速、見たことの意味が決まらない。


 なつきはノートへ、男子生徒が数秒立ち止まり、右へ進んだとだけ書いた。


 次に来たのは、女子生徒二人組だった。


 二人は会話をしながら歩いていたが、案内表示の少し手前で片方が「あれ」と声を上げた。二人で表示へ近づき、上から下まで目を動かす。


「こっちじゃない?」


「え、でも特別教室って向こうじゃなかった?」


「新しい棟の方じゃないの?」


「どっち?」


 会話が聞こえた。


 なつきは思わず一歩動きかけた。


 教えてあげたい。


 答えは分かっている。


 けれど隣で、春樹がほんの少し腕を動かした。止めるために触れたわけではない。ただ、今は声を掛けないという約束を思い出させるには十分だった。


 なつきは足を止める。


 二人の女子生徒は、表示をもう一度見た。


「あ、矢印これか」


「小さくない?」


「説明と一緒になってるから分かりにくいんじゃない?」


「でも、こっちだね」


 二人は正しい方向へ歩いていった。


 姿が見えなくなった後も、なつきはしばらくその場所を見ていた。


「今のは迷ってた」


「うん」


 茜の声も少し沈んでいる。


「矢印、小さいって言ってたね」


「意見と同じだった」


 胸の中で、直したい気持ちが一気に膨らんだ。


 やっぱり直すべきだ。


 同じところで困っている人が、目の前にもいた。


 たまたま二枚の意見が似ただけではない。


 今すぐ島中のところへ行って、直そうと言いたくなる。


 だが、その直後。


 運動着姿の男子生徒が三人、勢いよく歩いてきた。


「第二実習室どっちだっけ?」


「そこ書いてある」


 一人が案内表示を指差す。


「右だって」


「早く行こうぜ。先生もういるかも」


 三人はほとんど立ち止まらずに曲がっていった。


 迷った様子はない。


 矢印もすぐに見つけていた。


 なつきはノートへ記録しようとして、少し手を止める。


「今の人たちは、すぐ分かったね」


 茜が言う。


「うん」


「背が高かったから?」


 なつきは先ほどの二人組を思い出した。


「目線の高さが違ったのかな」


「話しながら来たか、一人が最初から表示を探してたかの違いかもしれない」


 春樹の言葉に、なつきはまた迷う。


 文字が小さいから。


 矢印が目立たないから。


 そう決めかけていた。


 けれど、使う人の身長や歩く速さ、何人で来たか、最初から表示を探していたかによっても見え方は変わる。


 その後も利用者は途切れなかった。


 表示を一度見ただけで進む生徒。


 少し離れた場所から目を細め、近づいて読む生徒。


 友人に聞いて表示をほとんど見ない生徒。


 表示の前で立ち止まったものの、スマートフォンへ視線を落とし、別の理由で止まっていたらしい生徒。


 案内を読み終えた後、正しい方向とは逆へ歩きかけ、途中で気づいて戻ってくる生徒もいた。


「あれは表示の問題?」


 なつきが小さく尋ねる。


「読んだ後に逆へ行ったから、そうかもしれない」


 茜が答える。


「でも、途中で誰かに呼ばれたようにも見えた」


 春樹が言う。


「分からないね」


「うん」


 見れば分かると思っていた。


 実際の利用者を見れば、どちらが正しいか決められると思っていた。


 けれど、見れば見るほど分からなくなる。


 立ち止まったから迷ったとは限らない。


 すぐに進んだから分かりやすかったとも限らない。


 正しい方向へ行った人が、表示だけを頼りにしたのかも分からない。


 観察できるのは行動だけだ。


 その人が何を考え、どこで迷い、何を見て理解したのかは、本人の言葉がなければ届かない。


 二十分ほど経った頃、紅秋が全員へ小さく合図を送った。


 観察を終え、再び教室へ戻る。


 移動中、島中はいつもより静かだった。


 田辺と並んで歩いているが、冗談を言う様子もない。蓮もノートへ書いた内容を確認しながら、何かを考えている。


 教室へ入ると、全員が元の席へ戻った。


 先ほどまでと同じ机。


 同じ二枚の共有用紙。


 けれど、案内表示の前で何人もの利用者を見た後では、その二枚の見え方も変わっていた。


「見たことを共有しよう」


 紅秋が言う。


「先に、解釈じゃなくて事実だけ」


 各組が順番に報告する。


 何人が立ち止まったか。


 何人がほとんど止まらず進んだか。


 どんな会話が聞こえたか。


 正しい方向へ進んだか。


 途中で戻った人がいたか。


 同じ利用者を複数の組が見ているため、人数を重ねないよう確認しながら黒板へ記録していく。


 結果だけを見ると、問題なく利用したように見える人の方が多かった。


 ただし、はっきり迷った会話が聞こえた人もいる。


 矢印が小さいと口にした人もいた。


 離れた位置から表示を見つけられず、近くまで来て初めて気づいたように見える人もいた。


「で、どうする?」


 紅秋が全員を見た。


 すぐに答える者はいなかった。


 島中は机の一点を見つめている。


 蓮は黒板へ書かれた記録を追っている。


 美優は二枚の意見用紙と観察記録を交互に見比べていた。


「島中」


 田辺が隣から呼ぶ。


「何だよ」


「さっきまでなら一番に直すって言ってた」


「今も直したいよ」


 島中は顔を上げる。


「矢印小さいって、実際に言ってた人いたし。あの二人、表示の前で迷ってただろ」


「うん」


「でも、すぐ分かった人もいた」


 その後に続く言葉が出てこないのか、島中は口を閉じた。


 蓮が静かに尋ねる。


「すぐ分かった人がいるから、直さなくていいと思う?」


「思わない」


「じゃあ?」


「分かんねえよ」


 島中の声には、苛立ちよりも悔しさが混じっていた。


「直したいのは変わらない。でも、俺が見た二人だけで決めたら、最初に俺が言ってたことと同じになるんだろ。困ってる人を見たから、その人に合わせて全部決める。でも、困ってなかった人も利用者なんだよな」


「そうだね」


「だからって、困ってた人を待たせるのも嫌なんだよ」


 誰もすぐには返さなかった。


 島中が言葉にした迷いは、その場にいる全員の中にもあった。


 なつきは、自分の手元へ視線を落とす。


 直したい。


 その気持ちは、観察前よりも強くなっている。


 実際に迷っている人を見た。


 矢印が小さいという言葉も聞いた。


 今の表示には、確かに直せる部分がある。


 それなのに、同時に待ちたい気持ちも生まれていた。


 まだ見えていないから。


 観察した人の中にも、本当は困っていたのに表へ出さなかった人がいるかもしれない。逆に、立ち止まっていたけれど何も困っていなかった人もいるかもしれない。


 二回目の封筒には、そうした外からは分からない声が入る可能性がある。


 今変えれば、次に届くはずだった声は、今の表示へ向けたものではなくなる。


 だから待つ。


 けれど、待っている間にも利用者は来る。


 今日見た女子生徒のように、少し迷う人がいるかもしれない。


 どちらを選んでも、誰か一人を見ないことになるように感じた。


「なつきは?」


 紅秋に呼ばれ、顔を上げる。


 教室の視線が集まっていた。


「最初に直したいって言ってたけど、今はどう思う?」


 すぐに答えられなかった。


 以前の自分なら、沈黙が怖くて何かを言っていたかもしれない。


 曖昧でも、途中でも、とにかく早く答えようとしていた。


 けれど今は、言葉が見つかる前に話す方が怖かった。


 なつきは一度息を吸い、黒板を見る。


 直す。


 待つ。


 準備する。


 三つの言葉が並んでいる。


「直したい」


 まず、それだけを言った。


「今も?」


「うん。今の方が直したいかもしれない」


 島中が少しだけ顔を上げる。


「実際に迷ってる人を見たから。あの人たちが次も来るかは分からないけど、同じように迷う人はいると思う。できることがあるなら、したい」


「うん」


「でも」


 なつきはそこで言葉を止めた。


 窓から入った風が、机の上の共有用紙を揺らす。春樹が飛ばないよう紙の端へ指を置いた。


「待ちたいとも思う」


 自分で口にすると、胸の中で二つの気持ちがぶつかった。


 直したいのに、待ちたい。


 まるで反対のことを言っている。


「まだ書いてない人がいるから」


 紅秋は急かさずに聞いている。


「今日見た人たちも、本当はどう思ったか分からなかった。立ち止まった人が迷ったのかも、すぐ進んだ人が本当に分かりやすかったのかも、見ただけじゃ決められなかった」


「うん」


「だから、二回目の声を待ちたい」


 そこまで言っても、心は軽くならなかった。


 待つと決めれば納得できると思っていたわけではない。


 むしろ、直せるのに直さないことへの引っ掛かりは残ったままだ。


「でも、待つだけは嫌」


 なつきは黒板の三つ目を見る。


「茜が言ったみたいに、修正案は作りたい。文字を大きくしたものと、矢印を変えたものと、見る順番を分けたもの。いくつか作って、次の意見が来たときに比べられるようにしておきたい」


 茜が小さくうなずいた。


「今の表示を残したまま、別の案を作るってことだね」


「うん。それで、できるなら」


 なつきは少し迷ってから続けた。


「案内の近くに、今は意見をもとに見直し中ですって書けないかな」


 紅秋の眉がわずかに動く。


「書いてくれた意見を無視してるんじゃなくて、ちゃんと受け取って考えてるって分かるように?」


「そう。変えてないから何もしてない、って思われないように」


「それ、いいかも」


 美優が身を乗り出した。


「ただ、見直し中って書くことで、今の案内は使えないと思わせる可能性もある」


「あ……」


「でも、表現を変えればいいと思う。『ご意見を受けて、より見やすい案を検討しています』とか」


「長くない?」


 島中が言う。


「そこは短くする」


「また文字が増えたら見づらいしな」


 田辺の指摘に、教室へ小さな笑いが広がった。


 今度の笑いは、先ほどよりも柔らかかった。


 対立していた意見が消えたわけではない。


 直したい者もいる。


 待ちたい者もいる。


 どちらにも決められない者もいる。


 それでも、二つの間に道を作ろうとする言葉が出始めていた。


「じゃあ、今日決めるのはここまでにしよう」


 紅秋が黒板へ新しい項目を書き足す。


 一つ。二回目の回収が終わるまで、現在の案内表示は大きく変更しない。


 二つ。二枚の意見と今日の観察をもとに、複数の修正案を作る。


 三つ。意見を受け取って検討していることが伝わる、小さな案内を追加するか次回までに文案を考える。


 四つ。二回目の回収後に、最初の二枚と合わせて改めて判断する。


「大きく変更しない、ってことは、小さな安全上の問題が見つかったら直す?」


 蓮が確認する。


「そこは別。使えない、誤った場所へ案内する、通行の邪魔になるみたいな問題があればすぐ変える」


「見やすさについては待つ」


「うん」


 紅秋は全員を見回した。


「反対はある?」


 島中が腕を組んだまま、しばらく黒板を見ていた。


 誰も急かさない。


 窓の外では吹奏楽部の音が一度途切れ、遠くで教師の声が響いた。廊下を走った生徒が誰かに注意され、足音が急にゆっくりになる。


 放課後の日常が流れる中で、島中はようやく息を吐いた。


「直さないのは、まだ嫌だけど」


「うん」


「何もしないわけじゃないなら、やる」


 紅秋がうなずく。


「ありがとう」


「修正案、俺も作る」


 蓮が顔を上げた。


「じゃあ、違う案を作ろう。島中は、今すぐ一番直したいと思った形。僕は、今の配置をなるべく崩さない形」


「勝負?」


「比較」


「ほぼ勝負だろ」


「利用者にとって良い方を選ぶなら、どっちが残ってもいい」


「それ言われると勝負にしづらいな」


 田辺が呆れたように笑う。


「最初から勝負にするなよ」


 教室の空気がようやく大きく緩んだ。


 全員が同じ答えへ揃ったわけではない。


 それでも、違う意見を持ったまま一緒に動くことはできる。


 なつきは黒板に並んだ決定事項を見つめた。


 今すぐ直したい気持ちは消えていない。


 今日見た女子生徒の戸惑う顔を思い出せば、明日にでも変えたくなる。


 待つ理由も、完全に気持ちへ馴染んだわけではない。


 まだ届いていない声のために同じ状態を残すことが、目の前で困る人を置いていくように思える瞬間もある。


 きっと、どちらかを選べば全部きれいに納得できるものではない。


 利用者のためという同じ場所から生まれた気持ちが、互いに喧嘩している。


 けれど、その喧嘩を急いで終わらせなくてもいいのかもしれない。


 どちらかを黙らせるのではなく、両方の声を聞いたまま次の方法を探す。


 十一組ラボで何度もしてきたのは、そういうことだった。


 おかえり会が終わった後も、数人は教室へ残った。


 島中と蓮は早速、案内表示の大きさを測り始めている。田辺は二人の間に入り、どちらかが勝手に用紙を使いすぎないよう枚数を確認していた。


「文字を二倍にしたら入らないだろ」


「説明減らせば入る」


「減らした説明が必要な人もいる」


「じゃあ矢印だけ二倍」


「それだと見る順番の問題は残る」


「蓮、直さない派のくせに注文多くない?」


「直さない派じゃない」


「まだ言うか」


 さっきまでの硬さは残っていなかった。


 意見は違ったままだが、同じ紙を覗き込み、同じ利用者のことを考えている。


 美優と茜は、「検討中」と伝える案内の言葉を相談していた。


「ご意見ありがとうございます、から始める?」


「それだと長くなりそう」


「じゃあ、『いただいたご意見をもとに、案内を見直しています』」


「見直しています、だけだと、いつ変わるのか気になるかも」


「次回回収後に反映予定……は決めすぎかな」


 二人の間には、候補の言葉がいくつも書かれた紙が置かれている。


 紅秋は今日の決定事項を記録へまとめ、春樹は観察中に書いたノートを見返していた。


 なつきはその隣へ座る。


「疲れた?」


 春樹が顔を上げる。


「少し」


「話したから?」


「考えたから」


「そっちか」


「春樹は?」


「僕も少し疲れた」


「ずっと静かだったのに」


「静かでも考えてるよ」


 その言い方がおかしくて、なつきは笑った。


「ごめん」


「いいけど」


 春樹もわずかに笑う。


 少しの間、二人で教室の様子を見た。


 島中が大きな文字を書こうとして、田辺に枠からはみ出していると止められる。蓮は別の紙へ情報の順番を整理し、美優はその両方を見比べていた。


 直すと決まったわけではない。


 それでも、みんな動いている。


「待つって、何もしないことじゃないんだね」


 なつきが呟くと、春樹はすぐには返事をしなかった。


 手元のノートを閉じ、少しだけ考えてから口を開く。


「待つためにすることもあるんじゃないかな」


「待つために?」


「何も考えずに時間が過ぎるのを待つのと、次の声を受け取れるように準備して待つのは違うと思う」


「……うん」


「ただ」


 春樹は窓の外へ目を向ける。


「待つことがいつも正しいわけでもないと思う」


 なつきは隣の横顔を見る。


「今日、迷ってた人は本当にいたから」


「そうだね」


「だから、待つって決めたことに安心しすぎない方がいい。次の回収まで、今の表示を使う人がいることは忘れない方がいいと思う」


 なつきは小さく息を吐いた。


 春樹なら、待つことを肯定してくれると思っていた。


 けれど、そうではなかった。


 待つ理由を認めながら、直したい気持ちも置き去りにしない。


 その言葉が、なつきには嬉しかった。


「私、待つって決めたら、直したいって思っちゃ駄目なのかと思ってた」


「どうして?」


「決めたのに、まだ迷ってたら駄目かなって」


「今日、決めたのは気持ちじゃなくて、次にすることだよ」


 春樹の声は穏やかだった。


「直したい気持ちが残っててもいいんじゃない?」


「喧嘩したままで?」


「無理に仲直りさせるよりは」


「変なの」


「そう?」


「でも、分かるかも」


 なつきは教室の前方へ目を向けた。


 黒板には、まだ「直す」「待つ」「準備する」という言葉が残っている。


 三つとも消されていない。


 今の十一組ラボは、その全部を抱えたまま進もうとしている。


 しばらくして片付けが始まり、教室に残っていた生徒たちも帰り支度を整えた。


 修正案は一日で完成させず、それぞれが次回までに一案ずつ考えることになった。検討中であることを伝える短い文も、明日の昼休みに候補を持ち寄る。


 そして二回目回収用封筒は、今のまま設置を続ける。


 教室を出た頃には、廊下を行き交う生徒もかなり減っていた。


 窓から差し込む夕日は赤みを増し、床の上へ伸びる影も長くなっている。部活動の声はまだ続いていたが、授業直後の騒がしさとは違い、校舎の中には少しずつ静けさが戻り始めていた。


 茜は委員会の確認があると言って、途中の階段で別れた。


 紅秋たちは商業棟側に残り、なつきと春樹は中央棟へ向かう。


 二人の足音が、夕方の廊下へ一定の間隔で響く。


「今日のおかえり会、長かったね」


 なつきが言う。


「長かった」


「疲れた?」


「少し」


「また同じ答え」


「同じ質問だから」


「そうだけど」


 なつきは笑いながら窓の外を見た。


 中庭の木々が夕日に照らされている。葉の間を抜ける光は柔らかく、昼間の強い日差しとは違っていた。


「私ね」


「うん」


「意見をもらったら、すぐ直すのがちゃんと聞くことだと思ってた」


 春樹は歩調を変えずに聞いている。


「書いてくれた人に、変わりましたって見せることが大事だと思ってた。今も、それは大事だと思う」


「うん」


「でも、最初の二人だけにすぐ合わせたら、その後に書こうとしてる人の声は、もう同じ場所へ届かなくなるんだよね」


「表示が変わるから?」


「うん。それに、今日見た人たちもみんな違った。迷う人も、すぐ分かる人も、表示を見ない人もいた」


 階段の踊り場へ差しかかり、二人は少し速度を落とした。


 下の階から、掃除用具を持った生徒が上がってくる。道を譲り、すれ違ってから、なつきは言葉を続けた。


「まだ届いてない声って、何もないわけじゃないんだね」


「どういうこと?」


「まだ紙になってないだけで、その人の中にはもう困ったこととか、分かりやすかったこととかがあるかもしれない。私たちが知らないだけで」


 春樹は少し考え、うなずいた。


「そうだね」


「だから、待つのも利用者のためなのかも」


 言葉にした後も、胸の中にはわずかな引っ掛かりがあった。


 きれいに納得できたわけではない。


 今日迷っていた女子生徒を思い出すと、やはり明日にでも直したくなる。


「でも、まだ嫌」


 なつきは正直に付け足した。


「何が?」


「待ってる間に、また誰かが迷うかもしれないこと」


「うん」


「だから、待つのが正しいって言い切りたくない」


 春樹は少しだけ笑った。


「言い切らなくていいと思う」


「また?」


「さっきも言ったけど、決めたのは次にすることだから」


「気持ちは決めなくていい?」


「決められないものを、決めたことにしなくてもいいんじゃないかな」


 踊り場の窓から入る風が、なつきの前髪を揺らした。


 直したい。


 待ちたい。


 二つの気持ちは、まだ胸の中でぶつかっている。


 けれど、そのどちらかを間違いにしなくてもいい。


 今日すぐに表示を変えなかったことも。


 修正案を作ることも。


 次の声を待つことも。


 今困っている人を忘れないことも。


 全部を持ったまま進めばいい。


「春樹」


「何?」


「今日、隣にいてくれて良かった」


 言った後で、少しだけ恥ずかしくなった。


 けれど春樹は驚いた顔をしただけで、からかったりはしなかった。


「僕、ほとんど何もしてないけど」


「見に行こうって言った」


「それだけ」


「あと、待つことが正しいって決めつけなかった」


 春樹は少し視線を逸らした。


 夕日を受けた耳が、わずかに赤く見える。


「なつきが、もう考えてたからだよ」


「一人だったら、どっちかに決めようとしてたと思う」


「決めるのが悪いわけじゃないけど」


「うん。でも今日は、まだ決め切らなくて良かった」


 二人は再び歩き出した。


 昇降口へ近づくにつれて、外から聞こえる部活動の声が大きくなる。靴箱の前には、帰る準備をする生徒が何人か残っていた。


 なつきは上履きを脱ぎながら、二回目回収用封筒を思い浮かべる。


 今はまだ、中身を確認していない。


 もしかすると何も入っていないかもしれない。


 次の声が、最初の二枚と同じとは限らない。


 案内表示ではなく、端末の支え方や説明の順番について書かれるかもしれない。分かりやすかったという言葉が届くかもしれないし、自分たちが全く気づいていなかった困り事が現れるかもしれない。


 それを知るまでは、今の答えを完成させない。


 完成していないまま、修正案を作る。


 矛盾しているようで、それが今の十一組ラボにできる一番誠実な進み方なのかもしれなかった。


 校舎を出ると、夕方の空気が頬へ触れた。


 昼間よりも温度は下がっていたが、舗装された道にはまだ一日の熱が残っている。校門へ向かう生徒たちの声が重なり、自転車置き場では鍵を探す音や、金属製のスタンドが跳ね上がる音が続いていた。


 なつきと春樹は、人の流れに合わせて並んで歩く。


 隣にいる。


 何か特別なことを話し続けなくても、歩く速さを合わせてくれている。


 そのことが、今日のなつきにはいつもより心強かった。


 直したい気持ちは、まだ待つ理由と喧嘩している。


 きっと明日になっても、すぐには仲直りしない。


 けれど、そのままでいい。


 喧嘩している二つの気持ちの間に、考えるための机を置く。


 届いた二枚の声を並べる。


 まだ届いていない声のために、空いた場所を残しておく。


 そして、いつでも直せるように手を動かしておく。


 今日の十一組ラボは、何かを完成させたわけではなかった。


 案内表示も変わっていない。


 明確な正解も出ていない。


 それでも、何も進まなかったわけではない。


 すぐ直すことだけが前進ではないと知った。


 待つことだけが慎重さではないと知った。


 見えている人と、まだ見えていない人の両方を置いていかないためには、答えを急がず、けれど手を止めないことが必要なのだと、少しだけ分かった。


 夕暮れの校門を抜けながら、なつきは明日の封筒を思う。


 次に届く声が、どんなものなのかは分からない。


 それでも今は、その分からなさを怖いとは思わなかった。


 まだ知らない誰かのために、場所を残しておける。


 それは何もしない時間ではなく、次の言葉を受け取るための時間だった。

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