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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第151話 何でも置けるものは、誰の迷いも減らせない


 翌日の朝。


 梅桜高校商業科棟二階、十一組の教室には、夜の雨を残したような湿った空気が漂っていた。窓の外に広がる空は薄い灰色で、雲の切れ間から差し込む光も柔らかく、黒板や机の輪郭を淡く浮かび上がらせている。


 廊下には、濡れた傘を傘立てへ押し込む音や、上履きの底が湿った床を擦る音が響いていた。生徒たちは制服の肩へついた小さな雨粒を払いながら教室へ入り、いつもより少し低い声で朝の会話を始めている。


「雨、止んだ?」


「今は」


「帰る頃にまた降るらしいよ」


「一番嫌な時間だけ降るやつ」


「朝降るよりいいじゃん」


「朝も降ってた」


「じゃあ両方嫌なやつ」


 窓際では、男子生徒が濡れた鞄を雑巾で拭いていた。


「そこまで濡れたの?」


「水たまりを避けたら、車にやられた」


「避けた意味なかったね」


「むしろ動かなければ足だけで済んだ」


「人生の選択みたいに言うなよ」


 教室のあちこちで、雨の日特有の少し落ち着いた空気と、いつもの笑い声が混ざっていく。


 なつきは自分の席へ鞄を置き、黒板の右端へ目を向けた。


 昨日まで残されていた名前候補はすべて消され、その代わりに、茜の字で二つの文章が並んでいた。


『最初の目的:限られた机上スペースで、道具や資料を迷わず置ける位置を示す』


『現在の中心:机の上で、置く場所と向きに迷う時間を減らす』


 その下には、新しい問いが一つ。


『何を置く人の、どんな迷いを減らすのか』


 なつきは、その問いを声に出さずに読んだ。


 昨日。


 名前を決める前に、自分たちが何を作っているのかをもう一度言葉にしようと決めた。


 置く場所を分かりやすくするもの。


 正しい位置と向きへ導く補助。


 間違った置き方を減らす道具。


 机の上を使いやすくするもの。


 目印。


 枠。


 型。


 仕切り。


 置き方の見本。


 全員が同じ試作品を見ながら、少しずつ違う言葉を使った。


 共通していたのは。


『合わせる』


 ということ。


 けれど。


 何を合わせるのか。


 誰が使うのか。


 どんな場面で迷うのか。


 そこがまだ曖昧だった。


「おはよう」


 隣から声をかけられ、なつきは振り返った。


 春樹が鞄を肩から下ろしながら立っている。


「おはよう」


「黒板見てた?」


「うん」


「答え、出た?」


「まだ」


「俺も」


 春樹は黒板の問いを見上げる。


「何でも置けるようにすると、答えにくい」


「でも、最初は何でも置ける方が便利だと思ってたよね」


「うん」


「資料も、筆記具も、スマートフォンも、飲み物も」


「増えた」


「途中で袋も増えた」


「安全も」


「選ぶときの説明も」


 二人は、黒板の問いと、これまで作ってきた試作品を思い返す。


 何でも置ける。


 どんな机でも使える。


 誰でも使える。


 作り始めた頃は、それが良いことのように思えた。


 使える場面が多いほど。


 使う人も増える。


 便利に見える。


 無駄になりにくい。


 しかし。


 何でも置けるようにしようとすると。


 形は曖昧になり。


 説明は長くなり。


 名前は広くなり。


 初めて見る人には、何のためのものか分からなくなった。


「大國くん」


「うん」


「何でも置けるものって、便利じゃないのかな」


 春樹は少し考えた。


「便利なこともある」


「じゃあ、悪いわけじゃない?」


「悪くない。でも、今の試作品には合ってないかもしれない」


「どうして?」


「何でも置けるなら、置く場所を決める必要がない」


 なつきは少し黙った。


「自由に置けばいい?」


「うん。でも俺たちが作ってるのは、迷う人へ場所を示すもの」


「自由と、迷わないは違う?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「まだ考えてるから」


 春樹の慎重な返事に、なつきは小さく笑った。


「でも、分かる気がする」


「何が?」


「何でもいいって言われると、逆に困るときある」


「ある」


「好きなもの選んでいいよ、とか」


「何食べたい、とか」


「何でもいいって言ったのに、何でもよくない人いるよね」


「いる」


 二人の会話を聞いていた三浦が、後ろから突然加わった。


「それ、俺の姉ちゃん」


「急に誰の話?」


 なつきが振り返る。


 三浦はコンビニの袋を机へ置きながら、深刻そうな顔をしていた。


「夕飯何がいいって聞かれて、何でもいいって言うと怒られる」


「それは考えてほしいんじゃない?」


「じゃあ聞くなよ」


「聞かれた側の責任もある」


 紅秋が近くから言う。


「板倉、家でもそんな感じ?」


「俺は候補を二つ出す」


「強い」


「何が?」


「生活力」


 三浦は感心したように紅秋を見た。


 その横で、茜が黒いノートを机へ置く。


「何でもいいは、選ばなくていい言葉じゃなくて、相手に選ぶ負担を渡す言葉になることもあるから」


「朝から難しい」


 三浦が言う。


「でも、今の試作品と似てない?」


 なつきが黒板を見る。


「何でも置けます、って言うと、使う人が何をどこへ置くか決めないといけない」


「それなら、迷いを減らしてない」


 春樹が答える。


 三浦は一度黒板を見たあと、自分の机へ座りながら小さく唸った。


「何でも置けるのに、迷うのか」


「自由だから」


 茜が言う。


「自由って良いことじゃない?」


「選びたい人には」


「選びたくない人には?」


「負担になることもある」


 教室へ入ってきた生徒たちが、自然と会話へ加わってくる。


「分かる。席どこでもいいって言われると迷う」


「仲良い子の隣が空いてなかったら、さらに迷う」


「先生が好きなところ座っていいって言う授業、結局いつもの席になる」


「変える勇気ない」


「でも指定されると文句言うじゃん」


「それとこれは別」


 笑いが広がる。


 なつきは、皆の反応を聞きながら、黒板の問いをもう一度見た。


『何を置く人の、どんな迷いを減らすのか』


 何でも。


 誰でも。


 どんな場面でも。


 その言葉は、一見すると大きくて便利に見える。


 けれど。


 大きすぎる言葉は。


 誰の困りごとも、具体的には見せてくれない。


「今日は、何を置くか決める?」


 三浦が聞く。


「決めるというより、最初に想定していた場面を確認する」


 茜が答える。


「ノートにある?」


「ある」


「さすが遠山」


「みんなで決めたことだから」


「俺、覚えてない」


「それも記録しておく?」


「成長しない人みたいになるからやめて」


 教室に笑い声が広がったところで、予鈴が鳴った。


 担任が入ってくると、黒板の問いを見て足を止める。


「今日は対象を絞るのか」


 三浦がすぐに顔を上げた。


「先生、分かるんですか?」


「その問いを見ればな」


「俺たち昨日まで分からなかったのに」


「作っている側ほど見えなくなることはある」


 担任は出席簿を教卓へ置いた。


「何でもできる商品は、何も得意ではない商品になる場合がある。商業でもよくある話だ」


「先生、それ昨日言ってくださいよ」


「昨日聞かれてない」


「聞かないと教えてくれない!」


「授業なら教える」


「ラボは?」


「自分たちで考える時間だろ」


 三浦は不満そうに口を尖らせたが、教室には笑いが起こっていた。


 担任は黒板の問いを一度見直し、少しだけ声を落とす。


「ただ、絞ることは捨てることと同じではない。最初に誰を助けるかを決めるだけだ」


 なつきは、その言葉へ少し引っかかった。


 誰を助けるか決める。


 それは。


 それ以外の人を拒むことではない。


 最初に。


 最も困っている人を、はっきり見ること。


 ホームルームが始まる。


 なつきは前を向きながら、担任の言葉を心の中で繰り返していた。


 絞ることは。


 捨てることではない。


 昼休み。


 四時間目の授業が終わると、十一組の教室は一気に賑やかになった。机を寄せる音、弁当箱の蓋を開ける音、購買から戻った生徒が友人へ戦果を報告する声が重なる。


「焼きそばパン取れた!」


「一個?」


「最後の一個」


「後ろの人に恨まれてるよ」


「戦いだから」


「昼休みに戦争しないで」


 三浦は今日も三つのパンを机の上へ並べた。


「今日は何?」


 なつきが聞く。


「焼きそば、たまご、メロン」


「昨日と似てる」


「安定」


「野菜は?」


 紅秋が聞く。


「焼きそば」


「昨日も聞いた」


「答えも同じ」


「改善しろ」


「俺の昼飯までラボみたいに直さないで!」


 茜が笑いながら弁当箱を開く。


「でも、対象は三浦くん一人だから絞れてるね」


「何を?」


「栄養改善」


「俺、今日の教材?」


 周囲から笑いが広がる。


 なつきは弁当箱を開き、春樹の方へ目を向けた。


 今日は、なつきの弁当にも、春樹の弁当にも卵焼きが入っている。


 春樹も気づき、箸で一切れ持ち上げた。


「交換する?」


「うん」


 二人は自然に卵焼きを交換した。


 昨日。


 今の二人の距離を。


 名前へ合わせて無理に変えなくていいと話した。


 今のままも好き。


 でも、変わりたくないわけではない。


 急がずに。


 止まらずに。


 その言葉を交わしたあと。


 今日も。


 何か特別なことをするわけではない。


 けれど。


 卵焼きを交換する動作が。


 昨日までより少しだけ、自分たちで選んでいるものに感じられた。


「最近、本当に自然だな」


 三浦が言う。


「何が?」


 なつきが聞く。


「卵焼き」


「毎日じゃない」


「でも、ある日は交換する」


「絶対じゃないよ」


「そこが自然なんだよ」


 三浦は妙に納得したような顔で、自分のたまごパンを見た。


「俺も交換する相手を探すか」


「パンを?」


「一口ずつ」


「嫌がられる」


 紅秋が即答する。


「何でだよ!」


「三浦くん、三つ全部違うから一人で楽しめるでしょう」


 茜が言う。


「自由なのに?」


「選んだ結果でしょう」


 三浦は少し考えたあと。


「俺は自由を楽しめる側か」


 と、妙に誇らしそうに言った。


 昼食が終わると。


 茜が黒いノートを開き、最初の企画メモを中央の机へ置いた。


 ページには。


『授業中や話し合いのとき、机の上へ資料・筆記具・端末などを置く際、配置に迷う人を助ける』


 と書かれていた。


「端末?」


 三浦がすぐに反応する。


「スマートフォン?」


「タブレットも想定してた」


 紅秋が答える。


「最初から三種類」


 なつきが言う。


「資料、筆記具、端末」


「何でもじゃなかった?」


 三浦が首を傾げる。


「何でもに近い」


 春樹はページを見ながら言う。


「でも、場面は授業中と話し合い」


「教室の机」


 茜が黒板へ書く。


『場面:授業中・話し合い』


『場所:教室の机』


『置く物:資料・筆記具・端末』


『困る人:配置に迷う人』


「ここまで最初にあった」


 なつきが言う。


「でも、途中で机一般になった」


 紅秋も続ける。


「会社でも使える。家でも使える。勉強机でも使える。会議でも使える」


「広げた」


 三浦が呟く。


「使える人を増やしたかったから」


「悪いことじゃない」


 茜は黒板へ、広げた対象も書き出す。


『会社』


『家庭』


『学習机』


『会議室』


『受付』


『図書館』


「こんなに出してた?」


「三浦くんが受付って言った」


「俺?」


「名札と書類を置けるって」


「ああ、言ったかも」


「俺は図書館」


 春樹が言う。


「本とノートの場所を分けられると思った」


「私は家の机」


 なつき。


「宿題するとき」


「私は会議」


 茜。


「資料と筆記具の位置を揃えられる」


「全部使えそう」


 三浦が言う。


「だから広げた」


「でも、全部に合わせたら」


 紅秋は今の試作品を机へ置いた。


「何を置く輪郭か決められなかった」


 今の試作品には、仮の資料と筆記具の輪郭線が描かれている。


 しかし。


 スマートフォンを入れるなら。


 幅を変える必要がある。


 タブレットなら。


 さらに大きくなる。


 飲み物を置くなら。


 丸い印が必要になる。


 会社の机なら。


 名刺入れ。


 電卓。


 印鑑。


 家の机なら。


 教科書。


 ノート。


 筆箱。


 それぞれで必要な物は違う。


「全部入れる?」


 三浦が聞く。


「入らない」


 なつきが答える。


「大きくすれば?」


「机の空いている場所が減る」


 春樹。


「折り畳みにする?」


「形が複雑になる」


 紅秋。


「置く物ごとに交換する?」


「種類が増えすぎる」


 茜。


 三浦は腕を組み、黒板を見上げた。


「何でも使えるようにしたら、使う前に選ぶことが増える」


「迷いを減らす商品なのに」


 なつきが続ける。


「どれを使うか迷う」


「中心と逆」


 春樹が言った。


 教室に。


 少し静かな時間が落ちる。


 窓の外では。


 昼休みの校庭を走る生徒の声が聞こえている。


 廊下では。


 誰かが牛乳パックを落としたらしく、慌てた声と笑い声が響いた。


「じゃあ」


 三浦が慎重に言う。


「最初の授業中と話し合いに戻る?」


「戻るというより」


 茜が答える。


「最初の対象を、最初の一種類として選ぶ」


「最初の一種類?」


「これから先、別の場面向けを作ることはできる」


 紅秋が言う。


「でも今の試作品は、教室の机で使うものに絞る」


「会社版はあと?」


「必要なら」


「家版も?」


「必要なら」


 三浦は少し安心したように息を吐いた。


「捨てない」


「担任が言ってたでしょう」


 なつきが答える。


「絞ることは捨てることじゃない」


「最初に誰を助けるか決める」


 春樹が続けた。


 三浦は黒板の『困る人』を見る。


「配置に迷う人って、誰?」


「生徒」


「全員?」


「全員が困ってるとは限らない」


 なつきが言う。


「机の上へ適当に置いても平気な人もいる」


「俺」


 三浦が手を上げる。


 紅秋が三浦の机を見る。


 パンの袋。


 筆箱。


 ノート。


 スマートフォン。


 配布されたプリント。


 すべてが少しずつ重なっている。


「平気なだけで、使いやすくは見えない」


「俺は場所分かる」


「プリントどこ?」


 三浦は机の上を探し。


 パンの袋の下から取り出した。


「ここ」


「探した」


「一秒」


「迷ってる」


「これは確認!」


 教室に笑いが広がる。


「でも」


 茜が少し考える。


「三浦くんみたいに、本人は困っていないと思っている人もいる」


「俺は困ってない」


「周りが困ることは?」


 紅秋が聞く。


「何で?」


「話し合いの資料をすぐ出せない。机を寄せたときに物が落ちる。共用の道具がどこにあるか分からない」


 三浦は反論しようとして。


 少し黙った。


「……あるかも」


「認めた」


「成長」


 なつきが笑う。


「最近、何でも成長って言えば俺が黙ると思ってない?」


「黙ったよ」


「今は!」


 笑いが落ち着いたあと。


 なつきは黒板の『困る人』を見つめた。


「配置に迷う人だけじゃなくて」


「うん」


 春樹が聞く。


「自分では困ってないけど、授業や話し合いで置く場所が毎回変わる人も?」


「それは、困ってるの?」


「本人じゃなくて、作業が」


 紅秋が答える。


「道具を探す時間が増える。資料が重なる。共有物が見つからない」


「じゃあ、困りごとは」


 茜が黒板へ書く。


『自分の物をどこへ置くか迷う』


『毎回置く場所が変わる』


『必要な物を探す』


『机上スペースが狭くなる』


『話し合いで共有物の位置が分からない』


 三浦は並んだ項目を見て、少し難しい顔をした。


「また増えた」


「枝」


 なつきが答える。


「中心から伸びる」


「全部入れない?」


「入れない」


 春樹も言う。


「一番根元を探す」


「どれ?」


 全員が黒板を見る。


 置く場所が決まっていない。


 それによって。


 迷う。


 探す。


 重なる。


 狭くなる。


 共有しにくくなる。


「置く場所が決まってないこと?」


 三浦が言った。


「近い」


 紅秋が答える。


「でも、この商品が場所を決める?」


 なつきが聞く。


「最初に先生や使う人が決める?」


 春樹。


「形を選ぶ時点で決まる?」


 茜。


「またそこ」


 三浦が天井を見上げる。


「誰が決めるんだよ」


 教室に。


 少し長い沈黙が落ちた。


 茜は最初の企画メモをもう一度めくる。


 その中に。


 初期の話し合いで書かれた、授業中の机の絵があった。


 中央に資料。


 右側に筆記具。


 左上に端末。


 机の手前側は、手を動かすために空ける。


「これ」


 茜が指差す。


「最初から置き方の例がある」


「誰が決めた?」


 三浦が聞く。


「みんなで」


「どうしてこの配置?」


「手を動かしやすいから」


 紅秋。


「資料が中央にあると見やすい」


 春樹。


「筆記具は利き手側」


 なつき。


「端末は視線を上げたとき見える位置」


 茜。


「じゃあ」


 三浦が絵を覗き込む。


「正解を押しつけるんじゃなくて、使いやすい配置の例を示す?」


「例」


 なつきがその言葉を繰り返した。


「絶対にここじゃない」


「でも、最初に迷ったときの基準になる」


 春樹が言う。


「合わせる場所を、先に一つ示す」


 紅秋も頷く。


「使う人が合わなければ、別の配置を選べる」


「それなら自由も残る?」


 三浦が聞く。


「最初から全部自由ではない」


 茜が答える。


「でも、使ってから変えることはできる」


「何でもいい、じゃなくて」


 なつきはゆっくり言った。


「まずはこれを試してみて、合わなければ変えていい?」


 春樹が小さく頷く。


「迷う人に、最初の一つを渡す」


 その言葉に。


 全員の視線が集まった。


「最初の一つ」


 三浦が呟く。


「何でも選べる前に?」


「うん」


「選ぶための基準?」


「そうかも」


 茜が黒板の中央へ。


『迷う人へ、最初の配置例を渡す』


 と書いた。


 なつきは、その一文を見つめた。


 昨日までの中心。


『机の上で、置く場所と向きに迷う時間を減らす』


 それよりも。


 誰を助けたいかが少し見える。


 何を渡すのかも見える。


「これ、目的?」


 三浦が聞く。


「中心に近い」


 紅秋が答える。


「今までより、人がいる」


 春樹が言った。


「人?」


「迷う人」


「前は、机と物だけだった」


 なつきも気づく。


「置く場所と向き。でも、誰が迷うのかがなかった」


「商品は、机を助けるんじゃない」


 茜が言う。


「使う人を助ける」


 教室に。


 静かな空気が広がった。


 窓の外から入る風が。


 黒板の端へ貼られた紙を小さく揺らす。


「何か」


 三浦が珍しく小さな声で言った。


「今まで、物ばかり見てたな」


「試作品だから」


 なつきが答える。


「壊れないか。置けるか。向きは分かるか」


 春樹も続ける。


「でも、その先に使う人がいる」


「初見確認で、人に見てもらってたのに」


 紅秋は少しだけ眉を寄せた。


「見てもらう相手を、確認する人としてしか見てなかった」


「使う人として?」


 茜が聞く。


「そこまで考えてなかったかもしれない」


 なつきは、これまで協力してくれた生徒たちの顔を思い出した。


 分からない。


 使いにくい。


 逆向きに置いた。


 壊れそう。


 何を置くものか分からない。


 その反応を。


 試作品の問題として記録してきた。


 けれど。


 その人が、なぜそうしたのか。


 何を見て。


 何に迷ったのか。


 どんな場面なら使いたいのか。


 もっと。


 人の側から見る必要があった。


「次の初見確認」


 なつきが言う。


「答えを聞くだけじゃなくて」


「何でそう思ったか?」


 春樹が続ける。


「使いたい場面があるか」


 紅秋。


「何に困ってるか」


 茜。


「誰に聞く?」


 三浦が尋ねる。


 全員が少し考える。


「机の上で困ってる人」


 なつきが答える。


「でも、自分から困ってるって言わない人もいる」


「三浦みたいな?」


 紅秋が言う。


「俺を見ないで!」


 教室に笑いが戻った。


 予鈴が鳴り。


 昼休みの話し合いは、そこで一度終わった。


 午後の授業。


 なつきは。


『迷う人へ、最初の配置例を渡す』


 という一文を何度も思い返していた。


 最初の一つ。


 それは。


 正解を押しつけるものではない。


 ただ。


 何から始めればいいか分からない人へ。


 最初に試せる形を渡す。


 そのあと。


 合うかどうかを見て。


 変えてもいい。


 選び直してもいい。


 人との関係も。


 少し似ているのかもしれない。


 友達。


 ラボ仲間。


 特別。


 大事。


 恋人。


 言葉は。


 正解を決めるものではない。


 今の二人を無理に形へ合わせるものでもない。


 でも。


 何を大事にしたいのか分からなくなったとき。


 一緒にいたい。


 という中心へ戻ることはできる。


 そこから。


 今日は一緒に帰る。


 話したいことを話す。


 少し待つ。


 相手の答えを聞く。


 そんな。


 次の一つを選べる。


 放課後。


 十一組ラボの机の上には。


 これまでの試作品と。


 授業中の机を描いた初期の配置図が並べられていた。


「対象は」


 茜が黒板へ書く。


『教室の机で、授業や話し合いをする生徒』


「置く物は」


『資料・筆記具・必要に応じて端末』


「困りごとは」


『どこへ置けば作業しやすいか分からない』


『毎回置く位置が変わり、探したり重なったりする』


「渡すものは」


『最初に試せる配置例』


 三浦は黒板を見上げ。


 ゆっくり息を吐いた。


「前より分かる」


「何が?」


 なつきが聞く。


「誰が使うか」


「生徒」


「いつ?」


「授業と話し合い」


「何に困ってる?」


「配置」


「何を渡す?」


「最初の例」


 三浦は一つずつ指で数える。


「名前、考えられそう」


「まだ名前?」


 紅秋が呆れたように言う。


「ここまで来たら考えるだろ!」


「考えるのはいい」


 茜が答える。


「でも今日決めない」


「先に言われた!」


 教室に笑いが広がる。


 紅秋は、今の試作品から余分な輪郭線を外す。


「資料」


「中央」


「筆記具」


「利き手側」


「端末は?」


 三浦が聞く。


「全員使うとは限らない」


 春樹が言う。


「じゃあ別の部品?」


「必要な人だけ追加できるようにする」


「交換式?」


「たぶん」


「また作り直す?」


 三浦は少しだけ身構えた。


「全部じゃない」


 紅秋が答える。


「基本の形を絞る」


 机の上へ。


 資料を置く中央の範囲。


 筆記具を置く側面の範囲。


 手前には。


 手を動かすための空白。


「空いてる場所も必要なんだ」


 なつきが言う。


「物を置く場所だけじゃない」


 春樹が続ける。


「置かない場所も示す」


「それ、今までなかった」


 茜は黒板へ書き加える。


『置く場所だけでなく、作業するために空ける場所を示す』


 三浦が大きく頷いた。


「机を埋める商品じゃない」


「逆」


 紅秋が答える。


「空けるために置く場所を決める」


「何でも置けるようにしてたときは」


 なつきは最初の試作品を見る。


「全部の場所を使おうとしてた」


「便利に見せるために」


 春樹。


「でも、使う人が必要なのは」


 茜が言う。


「物を置く場所だけじゃなくて、作業できる余白」


 教室に。


 また新しい沈黙が落ちた。


 余白。


 何もない場所。


 一見すると。


 使われていないように見える場所。


 けれど。


 文字を書く。


 資料をめくる。


 手を置く。


 考える。


 そのために必要な場所。


「何も置かないのに必要」


 三浦が呟く。


「そう」


 なつきが答える。


「何もないから使える」


「人も?」


 三浦が、今度は悪気なく聞いた。


 紅秋が肩を押さえようとしたが。


 なつきは首を振った。


「いいよ」


「何が?」


「少し分かるから」


 三浦は驚いたように黙る。


 なつきは、空白として残された机の手前を見つめた。


「ずっと一緒にいればいいわけじゃない」


 春樹が、少し離れたところからなつきを見た。


「話さない時間も必要」


 なつきは続ける。


「考える時間。自分で決める時間。会わない時間」


「空いてる場所?」


 三浦が聞く。


「うん。でも、いらない場所じゃない」


 茜が静かに頷いた。


「余白があるから、近くにあるものを使える」


 紅秋が言う。


「物を置きすぎると、必要な物まで使いにくくなる」


「何でも入れれば安心って思ってた」


 三浦は試作品を見ながら言った。


「でも、入れない場所も決める」


「役割を持たせないところ?」


 春樹が尋ねる。


「何もしない役割」


 なつきが答える。


 少し妙な言い方だった。


 けれど。


 皆には伝わったようだった。


「それ、記録する?」


 三浦が茜を見る。


「する」


『余白は、何もない場所ではなく、使うために空ける場所』


 茜のノートへ。


 また一つ。


 十一組ラボの言葉が増えた。


 その後。


 基本配置を絞る作業が続いた。


 資料は中央。


 筆記具は利き手側。


 利き手が違う人へ向けて、左右を入れ替えられる形。


 端末は追加式。


 机の手前には、書いたり、手を置いたりするための余白。


 全員同じ形を押しつけるのではなく。


 最初に試せる基本を作り。


 そこから。


 必要な人が調整できるようにする。


「最初の一つ」


 三浦が何度も言う。


「気に入った?」


 なつきが聞く。


「分かりやすい」


「名前に入れそう」


 紅秋が警戒する。


「入れる」


「やめろ」


「まだ何も言ってない!」


「顔で分かる」


 笑い声が広がる。


 片づけの時間になった頃。


 茜は今日のまとめを黒板へ書いた。


『何でも置けるものではなく、教室で最初に試せる配置例を作る』


『置く場所だけでなく、作業するための余白を示す』


『自由をなくすのではなく、迷う人へ最初の基準を渡す』


 三浦は黒板を見上げ、満足そうに頷いた。


「今日、かなり進んだ」


「形はまだ作ってない」


 紅秋が言う。


「でも、何を作るか分かった」


「前よりは」


 春樹も頷く。


「明日は?」


「基本配置の試作」


 茜が答える。


「左利き版も?」


「最初から交換できる形を考える」


「端末は?」


「追加部品」


「名前は?」


「まだ」


「毎日聞くからな!」


「毎日断る」


 教室に笑い声が広がり。


 十一組ラボの一日は終わった。


 皆が帰り支度を始める。


「また明日」


「お疲れ」


「三浦、今日は名前を増やすなよ」


「基本配置に合うやつだけ!」


「増やす気だ」


「二個まで!」


「昨日の補欠方式は禁止」


「先に言われた!」


 賑やかな声が廊下へ遠ざかっていく。


 なつきは鞄へノートをしまいながら、机の上へ残った配置図を見ていた。


 資料。


 筆記具。


 必要なら端末。


 そして。


 手前に残された余白。


「横田さん」


「うん」


「帰る?」


「うん」


 春樹が待っている。


 なつきは立ち上がり。


 二人で教室を出た。


 廊下には。


 雨上がりの湿った空気と。


 夕方の淡い光が混ざっていた。


 窓の外の雲は薄くなり。


 西の空だけが、少し橙色に染まっている。


「今日」


 なつきが歩きながら言う。


「何でも置けるものは、誰の迷いも減らせないって分かったね」


「全部じゃないと思う」


 春樹が答える。


「何でも置けることが必要な人もいる」


「そうだった」


「でも、俺たちが最初に助けたい人には合わない」


「迷ってる人」


「うん」


「最初の一つが必要な人」


 二人は階段へ向かう。


「大國くんは」


 なつきが聞いた。


「自由に決めたい人?」


「何を?」


「机の置き方」


「だいたい決まってる」


「本は左?」


「うん」


「筆箱は右」


「うん」


「ノートは真ん中」


「よく見てる」


「大國くんだから」


 以前。


 春樹が同じ言葉を言った。


 今日は。


 なつきが返した。


 春樹は少しだけ目を伏せ。


 嬉しそうに笑った。


「横田さんは?」


「毎回少し違う」


「迷う?」


「迷うときもある」


「試作品、使いたい?」


「うん」


「最初の対象?」


「たぶん」


「じゃあ、横田さんのため?」


 なつきは一瞬、足を止めかけた。


「私だけじゃないよ」


「分かってる」


「でも?」


「横田さんが使いやすいか、見たい」


 また。


 急に嬉しいことを言う。


「ずるい」


「今日は何が?」


「私を最初に入れる」


「対象だから」


「言い方」


「変だった?」


「変じゃない」


 二人は少し笑った。


 階段を下り。


 昇降口へ向かう。


「余白の話」


 春樹が言う。


「うん」


「横田さんも、必要?」


「一人の時間?」


「うん」


「必要」


「俺といない時間も?」


「必要だと思う」


 春樹の表情が。


 ほんの少しだけ曇ったように見えた。


 なつきは。


 すぐに続ける。


「でも、大國くんといたくない時間じゃないよ」


「違う?」


「一人で考える時間。茜ちゃんと話す時間。家族といる時間。何も考えずにぼんやりする時間」


「うん」


「そういう時間があるから、大國くんに話したいことも増える」


 春樹は少し黙った。


 昇降口では。


 帰宅する生徒たちが靴を履き替えている。


 靴箱の扉が閉まる音。


 傘立てから傘を抜く音。


 友人を呼ぶ声。


 その中で。


 春樹が小さく言った。


「俺も」


「一人の時間、必要?」


「うん。本読む時間も」


「大事だもんね」


「でも」


「うん」


「横田さんといない時間に、横田さんのこと考えることもある」


 なつきの手が。


 靴箱の扉に触れたまま止まった。


「何を?」


「今日話したこと」


「ラボ?」


「それも」


「それ以外は?」


 春樹は少し困ったように視線を逸らした。


「今、言わないと駄目?」


「聞いたら駄目?」


「駄目じゃない」


「じゃあ」


「また会いたい、とか」


 なつきの胸へ。


 ゆっくり。


 暖かいものが広がった。


「一人の時間なのに?」


「うん」


「それ、余白?」


「たぶん」


「大國くんの余白に、私いるの?」


「いる」


「それ、余白じゃなくない?」


「何もしてないから」


「考えてる」


「考えるために空いてる」


 なつきは少し笑った。


「難しい」


「ラボと同じ」


「何でもラボにする」


「横田さんも」


 二人は靴を履き替え。


 並んで昇降口を出た。


 外の空気は。


 朝より少し涼しく。


 濡れた土と葉の匂いが混じっている。


 校門へ続く道には。


 雨上がりの小さな水たまりが残っていた。


「横田さん」


「うん」


「今日は、少し離れて歩く?」


「どうして?」


「水たまり」


 春樹が足元を指す。


 二人の間には。


 細長い水たまりがある。


 並んだまま進むには。


 少し近づくか。


 少し離れるか。


 どちらかが端へ寄らなければならない。


 なつきは水たまりを見て。


 春樹を見た。


「近づく」


「いいの?」


「離れる必要ないでしょう」


 なつきは、春樹側へ半歩寄った。


 肩が触れるほどではない。


 けれど。


 いつもより少し近い。


 春樹も。


 反対側へ逃げずに、その距離を受け入れた。


 二人は。


 細い道を並んで歩く。


 水たまりを越えれば。


 また少し距離を戻してもいい。


 ずっと近くにいなければならないわけではない。


 でも。


 今。


 近づいた方が歩きやすいなら。


 自分たちで、そう選べばいい。


「今の」


 春樹が言う。


「うん」


「最初の一つ?」


「何が?」


「近づく」


 なつきは少し考え。


 笑った。


「たぶん」


「使い方、合ってる?」


「私たちが使いやすいなら」


「正解を押しつけない」


「うん」


「合わなかったら?」


「また話す」


 春樹も笑った。


 今日。


 十一組ラボは。


 何でも置けるものを作ることをやめた。


 教室の机で。


 授業や話し合いをする生徒へ。


 資料や筆記具を置く。


 最初の配置例を渡す。


 そこから。


 必要に応じて変えられるようにする。


 自由を奪うためではない。


 迷っている人が。


 最初の一つを選べるようにするため。


 そして。


 物を置く場所だけでなく。


 作業するために空けておく余白も示す。


 何も置かない場所は。


 無駄ではない。


 そこがあるから。


 手を動かせる。


 考えられる。


 必要な物を使える。


 人と人の間にも。


 余白は必要なのかもしれない。


 ずっと話し続けなくてもいい。


 毎日、同じことを確認しなくてもいい。


 一人で考える時間。


 別の人と過ごす時間。


 会わない時間。


 それがあるから。


 また会いたいと思える。


 話したいことが増える。


 相手のことを考える。


 余白は。


 離れるための場所ではない。


 次に近づくために。


 自分たちで使える場所。


 二人の関係には。


 まだ恋人という名前はついていない。


 けれど。


 何も決まっていないわけではない。


 一緒にいたい。


 急がずに進みたい。


 相手へ合わせる前に。


 二人で話したい。


 そして。


 必要なときは。


 自分たちで近づく。


 今日。


 水たまりを避けるために選んだ半歩は。


 誰かに決められたものではない。


 恋人らしい形へ合わせたものでもない。


 ただ。


 二人が歩きやすいように選んだ距離。


 それでよかった。


「大國くん」


「うん」


「水たまり、もう終わったよ」


 春樹は足元を見る。


 二人はすでに。


 乾いた道へ出ていた。


「戻る?」


 なつきは。


 二人の間の距離を見た。


 近すぎない。


 けれど。


 少しだけ。


 いつもより近い。


「このままでいい」


 春樹は、すぐに答えなかった。


 けれど。


 少しして。


「俺も」


 と答えた。


 二人は。


 そのまま歩く。


 誰に見せるためでもない。


 何かの名前へ合わせるためでもない。


 今の二人が。


 今。


 歩きやすいと思う距離で。


 十一組ラボは。


 明日。


 最初の配置例を形にする。


 なつきと春樹も。


 まだ名前のない関係の中で。


 自分たちが選んだ最初の一つを。


 静かに。


 歩き始めていた。

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