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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第150話 十一組ラボの名前は、分かったつもりの真ん中に隠れていた



 翌朝。


 梅桜高校商業科棟二階、十一組の教室には、薄い雲を通した白い光が広がっていた。昨日ほど日差しは強くなく、窓から入る風には少しだけ湿り気が混じっている。


 校舎脇の植え込みでは、夜の間に降ったらしい小さな雨粒が葉の上へ残っていた。風が吹くたび、先端に集まった雫が落ち、濡れた土へ音もなく吸い込まれていく。


 教室へ入ってくる生徒たちは、廊下の床へ残った湿気を上履きで擦りながら、それぞれの席へ向かっていた。


「今日、体育ある?」


「ある」


「外?」


「たぶん」


「たぶんで外にしないでくれ」


「先生に言って」


「先生に天気変えられる?」


「走る距離なら変えられる」


「悪い方に?」


「だいたい」


 窓際では、女子生徒が折り畳み傘を鞄から出し、布地を少し開いて顔をしかめていた。


「まだ濡れてる」


「教室で開かないでね」


「少しだけ」


「少しでも匂いは全体へ広がる」


「私の傘、そんなに信用ない?」


「昨日、乾かすの忘れたって言ってたでしょう」


「覚えてたの?」


「危険情報だから」


 そんな朝の会話と笑い声が重なる中。


 黒板の右端には、昨日の放課後に残した言葉が消されずに残っていた。


『机の上で、置く場所と向きに迷う時間を減らす』


 その下に、茜の整った字で。


『中心・仮』


 と書かれている。


 さらに横には、いつ書かれたのか分からない大きな文字が加わっていた。


『この中心に合う名前を考える!』


 なつきは自分の席へ鞄を置きながら、その文字を見上げた。


「三浦くんだ」


「何で毎回分かるんだよ」


 すぐ後ろから声がして、なつきは振り返る。


 三浦は大きな紙袋を抱え、少し不満そうな顔で立っていた。昨日と同じ紙袋だが、今日は中身がさらに増えているらしく、袋の口から何枚もの厚紙がはみ出している。


「字が大きいから」


「見やすさを意識してる」


「場所を使いすぎる」


「黒板は広いだろ」


「授業でも使うよ」


「消される前に見てもらえば勝ち」


「何に勝つの?」


 三浦は少し考えた。


「先生との時間勝負」


「始めないで」


 なつきが笑うと、近くの生徒たちも黒板と三浦を見比べて笑い始めた。


「今日は何個持ってきたの?」


「聞いて驚け」


「十個?」


「十二個」


「上限、昨日十個って言われてなかった?」


「二個は補欠」


「同じ袋に入ってる時点で候補でしょう」


 三浦は答えず、紙袋を自分の机の上へ置いた。


 ちょうどそこへ、紅秋と茜が教室へ入ってくる。


 茜は黒板の大きな文字を見ると、三浦へ視線を向けた。


「朝から増やしたね」


「昨日の中心に合う名前だけです」


「十二個?」


「十個と補欠二個」


「補欠も数える」


「厳しい」


 紅秋は紙袋の中を一度覗き、すぐに目を逸らした。


「もう嫌な予感がする」


「まだ見てないだろ」


「一番上が『迷わんデスク』だった」


「分かりやすい!」


「通販番組みたい」


「親しみやすさ!」


 教室の周囲から笑いが起こる。


 三浦は気にせず、厚紙を机の上へ順番に並べ始めた。


『机上ナビ』


『置き位置ガイド』


『デスクガイド』


『迷わんデスク』


『ピタ置き』


『置くべえ』


『ここです台』


『ジャストスペース』


『デスクポジション』


『机上コンパス』


『迷わず君』


『オキピタ』


 すべて並べ終わったところで、教室に何とも言えない沈黙が落ちた。


 三浦は両腕を広げる。


「昨日より、かなり中心に寄せた」


 最初に口を開いたのは、近くにいた男子生徒だった。


「『置くべえ』は何?」


「親しみやすさ」


「茨城感?」


「そこまで考えてない」


「考えてないのかよ」


 別の女子生徒が『ここです台』を指差す。


「これは、何がここなの?」


「置く場所」


「商品が自分で主張するの?」


「分かりやすいだろ」


「夜中に言われたら怖い」


「しゃべらない!」


「じゃあ名前だけ急に話しかけてくる感じ」


 三浦は少しずつ追い詰められながらも、『机上コンパス』を手に取った。


「これは良くない?」


「方向を示す?」


 なつきが聞く。


「向きと場所を案内する」


「本物の方角と間違えない?」


「机の上で北とか探さないだろ」


「人による」


「どんな人だよ!」


 教室に笑い声が広がった。


 その途中で。


 前方の扉が開き、春樹が入ってきた。


 いつものように鞄を肩へ掛け、片手には本を持っている。教室の賑わいへ少しだけ目を向けたあと、黒板と三浦の机に並んだ候補を見た。


「増えた」


「大國!」


 三浦がすぐに駆け寄る。


「昨日、お前が認めた『机上ナビ』を中心に、進化させた」


「認めた?」


「候補として生き残った」


「採用とは言ってない」


「今日も最初から厳しい!」


 春樹は候補を順番に見た。


「『置き位置ガイド』は分かりやすい」


 三浦の表情が明るくなる。


「採用?」


「少し説明に近い」


「名前じゃない?」


「名前でもいいけど、覚えやすいかは分からない」


「一勝半くらい?」


「数え方が増えた」


 なつきが笑う。


 春樹は自分の席へ向かう前に、なつきの机の横で足を止めた。


「おはよう」


「おはよう」


 それだけの挨拶。


 昨日までと同じ。


 けれど。


 なつきの中には、昨日の帰り道に交わした会話が残っていた。


 恋人という言葉へ抱く意味は、二人で完全に同じではなかった。


 それでも。


 一緒にいたい。


 そこだけは同じだった。


 そして。


 最初より今の方が好きだと、二人とも言った。


 あの言葉を思い出すと、いつもの朝の挨拶が、ほんの少し違うものに感じられる。


 春樹はなつきの顔を見て、少し首を傾げた。


「考えてる?」


「顔に出てる?」


「少し」


「昨日のこと」


 春樹の視線が、ほんのわずかに揺れた。


「ラボ?」


「どっちも」


「どっち?」


「ラボと、私たち」


 近くで紙を並べていた三浦の手が止まる。


 なつきはすぐにそちらを見た。


「聞いてる?」


「聞こえただけ」


「今、明らかに手が止まったよ」


「重要情報だと思って」


「重要でも三浦くんには関係ない」


「クラスメイトとして!」


「戻って」


 紅秋が三浦の肩をつかみ、机の方へ引き戻した。


「大國も横田も、朝から油断するな」


「紅秋くんまで」


「三浦がいるときは特に」


「俺が危険人物みたいじゃん」


「違うのか?」


「違う!」


 笑い声が広がり、なつきの緊張も少しだけ解けた。


 春樹は小さく笑ったあと、黒板の中心文を見た。


「昨日の一行、まだ仮のまま」


「今日、もう一回試すんだよね」


「うん」


「伝わるかな」


「前よりは」


「大國くんでも、たぶんじゃないんだ」


「前よりは、だから」


「やっぱり慎重」


「横田さんは?」


「伝わってほしい」


「自信は?」


「少しだけ」


 春樹は頷いた。


「同じ」


「同じ方向?」


「うん」


 短いやり取り。


 けれど。


 昨日の話を知っている二人には、それだけで十分だった。


 予鈴が鳴り、担任が教室へ入ってくる。


 黒板に並んだ名前候補を見た担任は、足を止めた。


「また増えたな」


「中心に合う名前です」


 三浦が胸を張る。


「中心は決まったのか?」


「仮です」


「なら名前も仮だな」


「全部仮!」


「試作だからな」


 担任は名前候補を一枚ずつ見ていき、『置くべえ』のところで少し眉を寄せた。


「これは何だ」


「親しみやすさです」


「何に親しめばいい」


「商品に」


「先に用途を伝えろ」


 三浦は机へ突っ伏した。


「先生は一貫してる」


「お前も一貫して順番を間違えてる」


 朝から教室へ笑いが広がった。


 ホームルームが始まり、黒板の名前候補は一度すべて外されることになった。


 三浦は残念そうに回収しながらも、一枚ずつ丁寧に紙袋へ戻していく。


 なつきは前を向きながら、昨日から何度も出てきた「中心」という言葉を考えていた。


 中心が決まれば。


 名前。


 説明。


 絵。


 形。


 それぞれが同じ方向へ向く。


 けれど。


 中心は、最初からなかったわけではない。


 置く場所に迷うことを減らしたい。


 机の上を使いやすくしたい。


 それは、最初の話し合いでも出ていたはずだった。


 なぜ。


 今まで、見えなくなっていたのだろう。


 昼休み。


 四時間目終了のチャイムが鳴ると、教室の緊張が一気にほどけた。購買へ向かう生徒たちが扉へ集まり、少し遅れた男子生徒が「焼きそばパン残して!」と友人へ叫びながら廊下へ走っていく。


「廊下走るなよ!」


「焼きそばパンが!」


「先生に捕まるぞ!」


「それでも行く!」


 教室から笑い声が追いかける。


 三浦は今日も三つのパンを机へ並べた。


「今日は何?」


 なつきが聞く。


「焼きそばパン、カレーパン、クリームパン」


「最後だけ甘い」


「バランス」


 紅秋が袋を見る。


「野菜は?」


「焼きそばに入ってる」


「少ない」


「カレーにも」


「ほとんど溶けてる」


「厳しい!」


 茜は弁当箱を開きながら笑う。


「昨日よりは考えてるんじゃない?」


「遠山!」


「でも、牛乳も飲んだ方がいい」


「やっぱり管理されてる」


 なつきも弁当箱を開く。


 今日は甘い卵焼きが二切れ入っていた。


 春樹の弁当を見ると、あちらにも卵焼きがある。色は少し薄く、甘くない方だと分かる。


 春樹もなつきの視線に気づいた。


「ある」


「うん」


「交換する?」


 昨日はなかった。


 だからというわけではない。


 それでも、春樹から聞かれたことが少し嬉しかった。


「する」


 二人は一切れずつ交換する。


 その様子を見ていた三浦が、パンを持ったまま呟いた。


「今日はあるのか」


「何が?」


「定例行事」


「定例じゃない」


 春樹が答える。


「昨日なかったから、今日やると余計に定例感ある」


「三浦くんは、毎日パン三個でしょう」


「俺は習慣」


「同じじゃない?」


「俺は一人で完結してる」


「少し寂しい言い方になってるよ」


 周囲の生徒たちが笑う。


 なつきは春樹の卵焼きを口へ入れた。


 甘くない。


 少しだけ出汁の味がする。


 春樹はなつきの卵焼きを食べ、少し目を細める。


「今日、甘い」


「いつも甘いよ」


「昨日なかったから、久しぶりに感じる」


「一日だけなのに?」


「うん」


 何でもない会話だった。


 けれど。


 昨日、一緒にいたいと確認したあとだからか。


 今日もこうして同じ机の近くで昼食を食べ、卵焼きを交換していることが、少し大切なことに思えた。


 毎日しなければならないわけではない。


 名前をつけた習慣でもない。


 それでも。


 あると嬉しい。


 なくても不安になる必要はない。


 そんな距離が、今の二人には合っている気がした。


 昼食が終わると。


 茜が黒板へ、今日の初見確認で使うものを並べた。


『仮称:机上ナビ』


『説明:机の上で、道具や資料を置く場所と向きに迷いにくくするガイドです』


 その横へ。


 昨日修正した二枚の絵。


 一枚目は、机の上へ資料や筆記具を置こうとして、どこへ置くか迷っている場面。


 二枚目は、試作品に合わせて道具や資料を置き、空いた場所を使えるようになった場面。


 さらに。


 試作品の本体には、仮の輪郭線が加えられていた。


 資料を置く範囲。


 筆記具を置く範囲。


 上下を示す印。


 それぞれが、昨日決めた中心へ向かうよう修正されている。


「今日は全部一緒に見せる?」


 三浦が聞く。


「最初は別々」


 茜が答える。


「昨日と同じ?」


「昨日直したものが、それぞれどこまで中心を伝えられるか確認する」


「最後に全部?」


「うん」


 三浦は腕を組む。


「同じ答えが出れば勝ち?」


「同じ言葉じゃなくていい」


 紅秋が答える。


「置く場所が分かる。向きに迷いにくい。机の上で使う。それに近い答えなら」


「中心が届いた?」


「そう」


 今日協力してもらうのは。


 昨日とは別の四人。


 ラボの話し合いへほとんど参加していない生徒たちだった。


「また俺たち?」


 一人の男子生徒が少し警戒したように聞く。


「昨日の人とは別」


 三浦が答える。


「何か作らされる?」


「見るだけ」


「感想は?」


「言ってもらう」


「やっぱり」


「お礼は、俺のクリームパン半分」


 三浦が言うと、紅秋が止める。


「自分の昼食を勝手に報酬へするな」


「食べたいならあげる」


「三浦、優しいじゃん」


「だろ?」


「じゃあやる」


「食べ物で決まった」


 笑いの中、確認が始まる。


 最初は。


『机上ナビ』


 という名前だけ。


 協力してくれる女子生徒は、紙を見て少し考えた。


「机の上で、物を置く場所を教えるもの?」


 三浦の顔が明るくなる。


「昨日より近い!」


「声を出さない」


 茜が止める。


「形は?」


「仕切りか、マットみたいなもの」


「何を助ける?」


「机の上を整える?」


 完全ではない。


 けれど。


 昨日の「収納」「アプリ」より、置く場所へ近づいている。


 茜が記録する。


『名前だけで、机上・置く場所・整えるを想像』


 三浦は声を抑えながら、両手で小さく拳を握った。


「一勝」


「まだ」


 紅秋が言う。


「半勝?」


「数えるな」


 次は説明文だけ。


『机の上で、道具や資料を置く場所と向きに迷いにくくするガイドです』


 男子生徒は一度読み、すぐに答えた。


「置き場所を示すもの」


「形は?」


「枠か、印がある板」


「何のため?」


「毎回同じ場所に置けるようにする」


 春樹が小さく頷く。


「昨日より近い」


「補助具をガイドに変えたから?」


 なつきが聞く。


「それもあると思う」


 紅秋が説明文の中の言葉を指す。


「場所と向きを、迷いにくくする。何を助けるかが前へ出た」


 昨日は。


『正しい場所と向きに置けるようにする補助具』


 という表現に近かった。


 正しいという言葉が。


 測る。


 合わせる。


 矢印。


 定規。


 そんな固い道具を想像させた。


 今日は。


 迷いにくくする。


 使う人の困りごとを中心に置いている。


「同じ意味だと思ってたけど、受け取り方が違う」


 三浦が言う。


「正しい場所と、迷わない場所」


「どっちも同じ位置かもしれないけど」


 なつきが続ける。


「見る人の気持ちは違う」


「正しいは、間違えちゃ駄目に見える」


 協力していた男子生徒が言った。


「迷いにくくするなら、助けてくれる感じ」


 教室に少し静かな間が生まれた。


 茜が黒いノートへ、その言葉を記録する。


『正しく置かせるのではなく、迷いにくくする』


「これ、大事かも」


 春樹が言う。


「作る側は、正しく使ってほしいと思ってた」


 紅秋も頷く。


「でも、使う側が困っているのは、間違えることより、分からないこと」


「間違えたくない気持ちもあるけど」


 なつきは試作品を見る。


「最初にあるのは、どこへ置けばいいか分からないこと」


「じゃあ中心、合ってる?」


 三浦が黒板を見る。


『机の上で、置く場所と向きに迷う時間を減らす』


「前より近い」


 春樹が答える。


 次は絵。


 女子生徒は二枚を見比べると、最初の絵を指した。


「どこへ置くか迷ってる」


 次に二枚目。


「これに合わせると、置く場所が決まる?」


「向きは?」


「この印を上にする?」


「何のための商品?」


「机の上で物を置きやすくするもの」


 昨日のように。


 きれいに見せる。


 整理整頓する。


 そこだけへ受け取りが寄らなかった。


 困っている場面と。


 使った後の場面。


 二つを並べたことで。


 何が変わったのかが見える。


「絵も、中心に近づいた」


 なつきが言う。


「完成だけ見せても、困っていたことは伝わらない」


 春樹。


「失敗したもの、迷ってる状態、使う前」


 紅秋が、これまでの初見確認を思い返すように言う。


「完成したものだけでは、必要な理由が分からない」


 三浦は二枚の絵を見つめた。


「失敗を見せるって、悪いことじゃないんだな」


「前にも出た」


 茜が答える。


「失敗を隠すより、どこで困ったか見せた方が伝わる」


「俺たちの失敗も?」


「全部は見せない」


「何で?」


「多すぎるから」


「遠山!」


 笑い声が起こる。


 最後は形だけ。


 男子生徒が試作品を持ち、上下を変えながら観察する。


「この輪郭に物を置く?」


「何を?」


「紙と、ペン?」


「向きは?」


「矢印が上」


「何のため?」


「置く場所を分かりやすくする」


 全員が一瞬止まった。


 三浦は声を出さないように両手で口を押さえた。


 紅秋が横目で見る。


「言っていいぞ」


「届いた!」


 教室に笑いが広がる。


「形だけで?」


「完全ではないけど」


 茜が記録を見直す。


「机で使う。資料と筆記具を置く。向きがある。置く場所を分かりやすくする。中心にはかなり近い」


「輪郭線を入れたから?」


 なつきが試作品を見る。


「何を置くか想像できた」


 協力した男子生徒が答える。


「前は、何をはめるか分からなかった」


「見れば分かる形」


 春樹が呟く。


「説明しなくても、使う人が近づける」


「形が答えを強制するんじゃなくて」


 なつきはゆっくり言う。


「迷う範囲を少なくする」


 紅秋が頷いた。


「中心と同じ」


 最後に。


 名前。


 説明。


 絵。


 形。


 すべてを一緒に見せる。


 四人目の女子生徒は。


 机に置かれた試作品。


『机上ナビ』


 という仮の名前。


 短い説明。


 前後の絵。


 すべてをゆっくり見たあと。


「机の上で、資料とか筆記具をどこへ置けばいいか分かるようにするもの?」


 と答えた。


「向きは?」


「印に合わせる」


「使うと、何が変わる?」


「置く場所に迷わなくなる。机も使いやすくなる」


 教室が静かになる。


 昨日。


 分けたものは。


 ばらばらの商品へ見えていた。


 今日は。


 名前。


 文章。


 絵。


 形。


 それぞれが違う情報を伝えながら。


 一つの中心へつながった。


「同じ言葉じゃない」


 なつきが言う。


「でも、同じところへ届いた」


 春樹が答える。


 三浦は嬉しそうに黒板の『机上ナビ』を指差した。


「名前も仕事した?」


「した」


 紅秋が認める。


「採用?」


「仮称としては残す」


「一勝!」


「仮」


「一勝半!」


「増やすな」


 教室に笑い声が戻る。


 協力してくれた四人へ礼を言い、三浦は本当にクリームパンを半分渡した。


「約束だから」


「いいの?」


「今日、俺の名前が仕事した記念」


「まだ仮だよ」


 女子生徒が笑う。


「今日くらい喜ばせて」


「自分で言うんだ」


 茜は黒いノートへ、今日の結果を書いた。


『名前・文章・絵・形が、同じ中心へつながった』


『正しく置かせるのではなく、迷いにくくする』


『仮称:机上ナビ』


 その下へ。


『次:そもそもの中心が、本当に最初の目的と同じか確認』


 と書き加える。


 三浦の笑顔が止まった。


「待って」


「何?」


「今、届いたんだろ?」


「届いた」


「じゃあ、中心も決定じゃないの?」


「今日の四人には伝わった」


 茜はノートを閉じずに答える。


「でも、この中心が、私たちが最初に作りたかったものと同じかは確認してない」


「同じじゃないの?」


「分からない」


「また?」


 紅秋が透明な箱の中から、最初期の試作品を取り出した。


 今のものより薄く。


 印も。


 輪郭線も。


 左右の幅の違いもない。


 ただ。


 机の上へ置く位置を示すための簡単な形。


「最初は、向きまで入ってなかった」


 春樹が言う。


「安全も、片づけも、袋も」


 なつきも続ける。


「作っていくうちに増えた」


 三浦は今の試作品と、最初の試作品を見比べる。


「中心も変わった?」


「変わってないかもしれない」


 紅秋が答える。


「でも、変わってないと思い込むのも危ない」


「分かったつもり」


 なつきが呟く。


 茜が頷く。


「最初から分かっていると思って、見直していないところ」


 教室へ。


 少しだけ静かな空気が落ちた。


 昼休みの終わりを知らせる予鈴まで、あと数分。


 黒板には。


『机上ナビ』


『机の上で、置く場所と向きに迷う時間を減らす』


 という言葉が並んでいる。


 今日。


 確かに伝わった。


 けれど。


 伝わったからといって。


 それが、本当に作りたかったものとは限らない。


「一番最初の記録、見る?」


 なつきが聞く。


 茜は黒いノートへ視線を落とした。


「ある」


「どこ?」


「かなり前」


 三浦が少し身を引く。


「遠山のノート、最初から全部あるの?」


「うん」


「怖い」


「紙だから」


「前にも聞いた」


 茜は最初のページから、ゆっくりめくり始めた。


 初見確認。


 試作。


 亀裂。


 補強。


 上下。


 袋。


 説明。


 選ぶ理由。


 ページの中には。


 失敗。


 気づき。


 言葉。


 笑い。


 その日の空気まで思い出せるような記録が残っていた。


 やがて。


 茜の指が、十一組ラボを始めたばかりのページで止まる。


「これ」


 そこには。


『限られた机上スペースで、道具や資料を迷わず置ける位置を示す』


 と書かれていた。


 全員が黙った。


 三浦は黒板の中心文と。


 ノートの最初の一文を見比べる。


「……ほとんど同じ」


「うん」


 なつきも、少し驚いた。


「最初から書いてあった」


「でも」


 春樹がノートへ顔を近づける。


「向きはない」


「時間を減らす、もない」


 紅秋も言う。


「場所を示す」


 茜が最初の一文を読み上げる。


「迷わず置けるようにする」


「中心は同じ?」


 三浦が聞く。


「たぶん」


 春樹が答える。


「でも、前より意味が増えた」


 なつきはノートと黒板を交互に見る。


 最初の一文。


 今日の中心。


 言葉は少し違う。


 でも。


 同じところを見ている。


「じゃあ、変わったんじゃなくて」


 なつきは、ゆっくり言った。


「分かることが増えた?」


 春樹が頷く。


「最初は、置く場所を示せばいいと思ってた」


「でも、場所だけ分かっても」


 紅秋が続ける。


「向きを間違える。安全に使えない。片づけに迷う。何の商品か伝わらない」


「枝が増えた」


 茜が言う。


「中心から」


「最初の目的が、途中で消えたんじゃない」


 三浦は珍しく、真剣な声で言った。


「近くにありすぎて、見なくなった?」


 誰もすぐには答えなかった。


 なつきの胸へ。


 その言葉が残った。


 近くにありすぎて。


 分かっていると思った。


 だから。


 わざわざ見直さなかった。


「三浦くん」


「何?」


「今日すごく良いこと言った」


「何回目?」


「たぶん三回目」


「記録して!」


「もうしてる」


 茜は黒いノートへ。


『最初の目的は消えたのではなく、近くにありすぎて見なくなっていた』


 と書いていた。


「長いけど格好いい」


「三浦くんの言葉から」


「俺の!」


 笑いが起こる。


 予鈴が鳴り。


 昼休みの話し合いは、そこで一度終わった。


 午後の授業。


 なつきは。


 黒板へ残された中心文を何度も思い返していた。


 最初からあった。


 でも。


 その意味を全部分かっていたわけではない。


 試作を重ね。


 人に見てもらい。


 失敗し。


 困り。


 言葉を変え。


 ようやく。


 最初に書いたものの意味が、前より分かるようになった。


 同じ言葉でも。


 今は、見え方が違う。


 人も。


 同じなのかもしれない。


 春樹を最初に見たとき。


 静かな人。


 本を読む人。


 話しかければ返事をする人。


 それだけだった。


 今は。


 優しい。


 よく見ている。


 言葉を忘れない。


 少し嫉妬する。


 時々ずるい。


 急に嬉しいことを言う。


 嫌われるのが怖いと、正直に言う。


 一緒にいたいと思っている。


 最初から。


 春樹は春樹だった。


 途中で別の人になったわけではない。


 ただ。


 なつきが分かることが増えた。


 そして。


 春樹も。


 最初より今のなつきを知っている。


 明るいだけではない。


 考えすぎる。


 我慢する。


 聞けなくなる。


 嫉妬する。


 急に大事な言葉を言う。


 その全部を。


 少しずつ見つけてくれた。


 分かったつもりで。


 最初の印象だけを握っていたら。


 今の春樹は、見えなかった。


 放課後。


 十一組ラボでは。


 最初の記録をすべて机へ並べることになった。


 中央の机へ。


 最初の企画メモ。


 初期試作。


 失敗した部品。


 初見確認の記録。


 亀裂の入った三号。


 袋の案。


 説明文の候補。


 名前候補。


 今の試作品。


 順番に並べていく。


「歴史展示」


 三浦が言う。


「まだ始めてそんなに経ってない」


 なつきが答える。


「濃い」


「失敗が多いから?」


「板倉、言い方」


「事実」


 近くに残っていたクラスメイトたちも、机の周りへ集まってくる。


「これ最初の?」


「薄い」


「印もない」


「今と全然違う」


「これ、割れたやつ?」


「亀裂」


「本当に残してるんだ」


 それぞれの反応が重なる。


 三浦は亀裂の入った試作品を持ち上げた。


「これも必要だったんだよな」


「壊れたけど」


 なつきが答える。


「壊れたから、補強が必要って分かった」


「じゃあ成功?」


「失敗」


 紅秋が言う。


「でも、必要な失敗」


「失敗なのに必要」


 三浦は少し不思議そうに笑った。


「前なら捨てたかった」


「今は?」


「残したい」


「どうして?」


「次に同じところで壊さないため」


 紅秋が少しだけ頷く。


「成長」


 三浦は自分から言った。


「自分で言うようになった」


 なつきが笑う。


 茜は、最初の目的と現在の中心を黒板へ並べた。


『最初:限られた机上スペースで、道具や資料を迷わず置ける位置を示す』


『現在:机の上で、置く場所と向きに迷う時間を減らす』


「どっちを使う?」


 三浦が聞く。


「まだ選ばない」


 紅秋が答える。


「また?」


「役割が違うかもしれない」


 春樹が言う。


「最初の一文は、目的」


「今の一文は、中心?」


 なつきが聞く。


「同じじゃない?」


 三浦は首を傾げる。


 茜が少し考えたあと、黒板へ書き加える。


『目的:何を変えたいか』


『中心:判断するときに戻る場所』


「違うの?」


 近くの女子生徒が聞く。


「目的は、最終的にどうしたいか」


 紅秋が答える。


「中心は、機能を増やすか、言葉を選ぶか、形を変えるか決めるときの基準」


「じゃあ」


 三浦が試作品を指差す。


「向きの印を入れるか迷ったら、置く場所と向きに迷う時間が減るか考える?」


「そう」


「袋の絵を増やすときは?」


「使う前に迷う時間が減るか」


「安全機能は?」


「置き方を間違えて壊れることが減るか」


「全部、中心へ戻る」


 なつきは黒板を見た。


「名前も?」


「名前を見た人が、迷いを減らすものだと想像できるか」


 春樹が答える。


「じゃあ、中心が名前を決める?」


 三浦が言う。


「名前だけじゃない」


 茜。


「中心が、全部の判断に関わる」


 三浦は少し大げさに息を吐いた。


「中心、仕事多いな」


「一つに全部を背負わせないんじゃなかった?」


 なつきが聞く。


「それは、役割」


 紅秋が答える。


「中心は、全部をやるんじゃない」


「どこへ向かうかを決める?」


 春樹が言う。


「そう」


 役割は分ける。


 名前。


 説明。


 絵。


 形。


 安全。


 片づけ。


 選ぶとき。


 それぞれが全部を背負わない。


 けれど。


 向かう先は同じ。


「中心って、上司?」


 三浦が聞く。


「違う」


「司令塔?」


「少し近い」


「船長?」


「離れた」


「太陽?」


「急に大きい」


「三浦くん、例えを探さなくてもいいよ」


「分かりやすくしようとしてる!」


「中心は中心でいい」


「その言葉の説明をしてるんだろ!」


 教室へ笑い声が広がる。


 しばらくして。


 春樹が最初のノートを見ながら言った。


「対象の名前を考える前に」


「また止めるの?」


 三浦が不安そうに聞く。


「一回、全員がこれを何だと思ってるか出した方がいい」


「何だと思ってる?」


「同じものを見ていても、少し違うかもしれない」


 昼休みの初見確認。


 名前。


 説明。


 絵。


 形。


 それぞれから。


 人は少しずつ違うものを受け取った。


 では。


 ずっと作ってきた自分たちは。


 同じものを作っているつもりで。


 何を思い浮かべているのだろう。


「私は、置く場所を分かりやすくするもの」


 なつきが最初に言った。


 茜が黒板へ書く。


「俺は、正しい位置と向きに置くための補助」


 春樹。


「間違った置き方を減らすための道具」


 紅秋。


「机の上を使いやすくするもの」


 茜。


「迷わず置くための台」


 三浦。


「台?」


「形があるから」


「ガイドじゃない?」


「どっちなんだ?」


 周囲の生徒たちも意見を出す。


「目印」


「枠」


「型」


「仕切り」


「整理用品」


「置き方の見本」


 黒板には。


 違う言葉が並んだ。


 三浦は腕を組み、少し困ったように眉を寄せた。


「みんな違う」


「でも、共通してる」


 なつきが言う。


「何が?」


「合わせること」


 春樹が黒板を見る。


「位置に合わせる。向きに合わせる。枠に合わせる。見本に合わせる」


 紅秋が黒板の中央へ。


『合わせる』


 と書いた。


「位置合わせ」


 三浦が呟く。


「前に先生が言った」


「近かったんだ」


 茜が頷く。


「でも、何を合わせる?」


 なつきが聞いた。


 教室に。


 また沈黙が落ちる。


 三浦は天井を見上げた。


「そこへ戻るのか」


「戻ってない」


 なつきが答える。


「前は、分からないまま言葉を探してた。今は、何が足りないか分かってる」


「何が足りない?」


「何を置くのか。誰が使うのか。どんな場面なのか」


 春樹も続ける。


「何を合わせるガイドなのか」


 三浦は黒板の『机上ナビ』を見る。


「だから、これだけだと広かった?」


「うん」


「机の上の何でも案内できるみたい」


「それが悪いとは限らない」


 紅秋が言う。


「今の試作品より、名前の範囲が広い」


「名前が大きすぎる?」


「そう」


 三浦は少し落ち込んだように候補の紙を持つ。


「せっかく届いたのに」


「届いたから分かった」


 なつきが答える。


「入口にはなった。でも、中へ入ったあとに、違うものを想像する人もいる」


「じゃあ失敗?」


「仮称として役割を果たした」


 茜が言う。


「名前が悪いと決まったわけじゃない」


「でも、正式ではない」


「うん」


 三浦は少し考え。


 紙を捨てずに、机の端へ置いた。


「残す」


「どうして?」


「次の名前と比べる」


 紅秋がまた小さく頷く。


「成長」


「今日は板倉が言った!」


 笑い声が起こる。


 夕方の教室へ。


 少しずつ橙色の光が入り始める。


 窓の外では、部活動へ向かう生徒たちの声が遠くなり、校庭からは規則的な掛け声が聞こえていた。


 今日の結論は。


 正式な名前を決めることではなかった。


 むしろ。


 まだ名前を決められない理由が、前よりはっきりした。


 自分たちが作っているものを。


 全員が少しずつ違う言葉で捉えている。


 中心は近い。


 でも。


 対象の輪郭がまだ曖昧だった。


「名前って」


 なつきが黒板を見ながら言う。


「最初に決めるものだと思ってた」


「俺も」


 三浦が答える。


「格好いい名前があれば、作る気も出る」


「それもある」


 茜は否定しなかった。


「でも、途中で変わってもいい」


「仮だから?」


「仮じゃなくても」


 春樹が言う。


「作ったものが変われば、名前が合わなくなることもある」


「人も?」


 なつきが聞く。


 三浦がこちらを見る前に、紅秋が肩を押さえた。


「まだ何もしてない!」


「予防」


「最近それ多い!」


 笑いが落ち着いたあと。


 春樹は、なつきの問いへ静かに答えた。


「人も、あると思う」


「友達だった人が、友達じゃなくなる?」


「それもある」


「新しい言葉が増えることも?」


「うん」


 なつきは昨日の帰り道を思い出す。


 友達。


 ラボ仲間。


 特別。


 大事。


 隣にいたい人。


 恋人という言葉が、いつか増えても嫌ではない。


 でも。


 言葉が先にあったわけではない。


 話した。


 笑った。


 不安になった。


 嫉妬した。


 一緒に帰った。


 卵焼きを交換した。


 大事と言った。


 一緒にいたいと確認した。


 その積み重ねのあとに。


 恋人という言葉が、未来の候補として現れた。


「名前をつけたから、そうなるんじゃない」


 なつきが言う。


「なっていったものに、名前が合うか考える?」


 春樹が少し驚いたように見る。


「今日、良いこと言うね」


「三浦くんみたいに言わないで」


「俺の褒め方!」


 三浦が反応する。


「でも、本当にそうかも」


 茜が黒いノートへ書く。


『名前を先に合わせるのではなく、そこにあるものへ合う名前を探す』


「なつき発?」


「みんなの流れ」


「三浦くんと同じ扱い」


「何で俺が基準なんだよ」


 教室に笑い声が広がった。


 片づけが始まる。


 試作品を箱へ戻し。


 名前候補をまとめ。


 最初のノートを閉じる。


 今日は。


 何も新しく作っていない。


 正式な名前も決まらなかった。


 それでも。


 何を見直すべきか。


 どこへ戻るべきか。


 前よりはっきりした。


 中心。


 最初から。


 すぐ近くにあったもの。


 分かっていると思い。


 見なくなっていたもの。


「明日は?」


 三浦が聞く。


「最初の目的を基に、対象をもう一度一言で表す」


 茜が答える。


「また言葉?」


「うん」


「何回目?」


「回数は関係ない」


「次こそ名前?」


「対象を言葉にできたら」


「遠い」


「でも近づいてる」


 なつきが言う。


「階段?」


 春樹が聞く。


 三浦の顔が明るくなる。


「俺の例え!」


「覚えてた」


「大國!」


 笑いながら。


 全員が教室を出ていく。


「また明日」


「お疲れ」


「三浦、十二個全部持って帰れよ」


「新しいのも考える」


「増やすな」


「中心に合うやつだけ!」


 声が廊下へ遠ざかる。


 なつきは鞄へノートをしまいながら、少しだけゆっくり動いていた。


 春樹も。


 いつものように。


 なつきが帰る準備を終えるまで、急がずに本を鞄へ入れている。


「帰る?」


「うん」


 二人は並んで教室を出た。


 夕方の廊下には。


 窓から入る橙色の光が長く伸びていた。


 床へ落ちる二人の影が。


 歩くたびに重なり。


 また少し離れる。


「今日」


 なつきが言う。


「名前、決まらなかったね」


「うん」


「三浦くん、残念そうだった」


「十二個持ってきたから」


「大國くんは?」


「何が?」


「名前、決まらなくて残念?」


 春樹は少し考える。


「前よりは、残念じゃない」


「どうして?」


「決めない理由が分かったから」


「同じ」


 二人は階段へ向かう。


「昨日」


 なつきは、少し声を小さくした。


「恋人って言葉の意味を話したでしょう」


「うん」


「今日、ラボの名前を急がなくていいって分かったら」


「うん」


「私たちも、急がなくていいのかなって思った」


 春樹の足が、ほんの少しだけ遅くなった。


「恋人になるのを?」


「うん」


「なりたくない?」


 春樹の声は。


 責めるようなものではなかった。


 ただ。


 少しだけ不安が混じっていた。


 なつきはすぐに首を振る。


「違う」


「じゃあ?」


「名前を決めるために、急いで何かを変えなくていい」


 春樹は黙って聞いている。


「恋人になったら、手をつながないといけないとか。毎日好きって言わないといけないとか。今よりずっと一緒にいないといけないとか。そういう形へ、先に合わせなくていいのかなって」


「名前に合わせるんじゃなくて?」


「うん」


「今の俺たちに、いつかその名前が合うか考える」


「そう」


 二人は階段の踊り場で足を止めた。


 窓の外には。


 夕日に照らされた雲が広がっている。


 校庭から届く笛の音。


 廊下を走る生徒の足音。


 遠くの教室から聞こえる笑い声。


 学校の中には、いつもの放課後が続いている。


「横田さん」


「うん」


「今のままがいい?」


 なつきは、すぐに答えなかった。


 今のまま。


 友達。


 ラボ仲間。


 特別。


 大事。


 一緒にいたい相手。


 それは。


 十分に嬉しい。


 でも。


 ずっと変わらなくていいとは思わない。


「今のままも好き」


 なつきはゆっくり答えた。


「でも、変わりたくないわけじゃない」


「どう変わりたい?」


「分からない」


「分からない?」


「ラボと同じ。今決めたら、名前に合わせて無理するかもしれない」


 春樹は少し考え。


 小さく頷いた。


「俺も」


「同じ?」


「今の横田さんとの距離は好き。でも、ずっとここで止まりたいわけじゃない」


 なつきの胸へ。


 ゆっくり熱が広がる。


「前へ進みたい?」


「うん」


「急がずに?」


「うん」


「それなら同じ」


 二人は少し笑った。


「昨日は、中心が一緒にいたいって分かった」


 なつきが言う。


「今日は?」


「名前を急がなくていい」


「それが進んだことになる?」


「なると思う」


「どうして?」


「急いで決めないって、何も考えてないのとは違うから」


 春樹はなつきを見る。


「ちゃんと考えて、今は決めない」


「うん」


「それなら、止まってない?」


「止まってない」


 なつきは頷いた。


「階段を上がってる」


 春樹が少し笑う。


「三浦の例え」


「今日は使える」


「本人に言ったら喜ぶ」


「言わない」


「どうして?」


「明日また長くなる」


「名前候補が?」


「たぶん」


 二人は階段を下り始めた。


 一段。


 また一段。


 同じ校舎。


 同じ階段。


 同じ帰り道。


 何度も通ってきた場所。


 それでも。


 昨日までと全く同じではない。


「大國くん」


「うん」


「今日の中心、覚えてる?」


「ラボ?」


「私たち」


 春樹は少しだけ目を細めた。


「一緒にいたい」


「うん」


「変わってない」


「私も」


「確認したかった?」


「少し」


「昨日、確認しなくても分かるって言った」


「分からなくなったら聞くとも言った」


「分からなくなった?」


「違う」


「じゃあ?」


「聞いたら嬉しいかなって」


 春樹は。


 ほんの少しだけ困ったように笑った。


「嬉しい」


「本当?」


「うん」


「じゃあ、たまに聞いてもいい?」


「毎日は?」


「面倒?」


「面倒じゃないけど」


「恥ずかしい?」


「少し」


「大國くんも恥ずかしいんだ」


「横田さんもでしょう」


「うん」


 二人は昇降口で靴を履き替える。


 今日は。


 手をつながない。


 好きと何度も言わない。


 恋人になる日を決めない。


 でも。


 一緒にいたいという中心を。


 もう一度。


 同じ言葉で確認した。


 それだけで。


 昨日より、少し進んだ気がした。


 校舎の外へ出ると。


 湿り気を含んだ夕方の風が、頬へ触れた。


 植え込みの葉には、朝の雨がまだ少し残っている。夕日の光を受けた雫が、葉の上で小さく輝いていた。


「横田さん」


「うん」


「もし」


 春樹は、少し言葉を探す。


「恋人って名前が合うと思ったら、どうする?」


 なつきは隣を歩きながら考えた。


「言う」


「誰が?」


「気づいた方」


「先に?」


「うん」


「相手がまだだと思ってたら?」


「話す」


「すぐ決める?」


「決めなくてもいい」


「また?」


「大事でしょう」


 なつきは少し笑う。


「一人で決めない」


「ラボと同じ」


「うん」


「でも、三浦は入れない」


「絶対に」


 二人は笑った。


 夕方の道へ。


 二人の足音が並ぶ。


 今日。


 十一組ラボの正式な名前は決まらなかった。


 仮称の『机上ナビ』は、初見の人を入口へ導く役割を果たした。


 説明。


 絵。


 形。


 それぞれも。


 昨日より同じ中心へ近づいた。


 それでも。


 まだ決めなかった。


 なぜなら。


 伝わる名前であることと。


 本当に作りたいものへ合う名前であることは。


 同じではないから。


 最初に書いた目的。


 今の中心。


 作ってきた形。


 増えた役割。


 すべてを見直して。


 その真ん中にあるものを。


 もう一度。


 自分たちの言葉で確かめなければならない。


 最初の目的は。


 消えていなかった。


 ただ。


 近くにありすぎて。


 分かったつもりになり。


 見なくなっていた。


 失敗を重ね。


 人に見てもらい。


 伝わらず。


 言葉を変え。


 形を直し。


 ようやく。


 最初に書いた一文が、前より深く見えるようになった。


 そして。


 なつきと春樹も。


 少し似ている。


 友達。


 ラボ仲間。


 特別。


 大事。


 隣にいたい人。


 恋人という未来の候補。


 どの言葉も。


 今の二人の一部を表している。


 けれど。


 一つだけを先に選び。


 その名前へ二人を合わせる必要はない。


 今の二人が。


 何を大事にし。


 どんな距離でいたくて。


 どこへ進みたいのか。


 それを確かめながら。


 いつか。


 そこに合う名前を選べばいい。


 二人の中心は。


 一緒にいたい。


 今は。


 それで十分だった。


 十分だからこそ。


 急がずに。


 でも。


 止まらずに。


 次の言葉へ進んでいける。


「大國くん」


「うん」


「今日も一緒に帰れてよかった」


 春樹は少しだけ歩く速度を緩めた。


「俺も」


「これも、中心?」


「たぶん」


「今日はたぶん?」


「中心から伸びた枝」


「あ」


「一緒にいたいから、一緒に帰れて嬉しい」


 なつきは少し俯いた。


「大國くん、今日もずるい」


「何が?」


「急に、全部つなげる」


「ラボでやったから」


「便利に使ってる」


「横田さんも」


 二人は笑う。


 十一組ラボの名前は。


 まだ決まっていない。


 二人の関係にも。


 新しい名前はついていない。


 けれど。


 名前がないから。


 何もないわけではない。


 中心は。


 もう見えている。


 そこから伸びたものも。


 少しずつ増えている。


 それなら。


 今は。


 名前を急がなくてもいい。


 分かったつもりの真ん中に隠れていたものを。


 二人とも。


 もう。


 見失わずに歩けていた。

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