第148話 一つの言葉に、全部を背負わせなくてもいい
翌日の放課後。
梅桜高校商業科棟二階、十一組の教室には、昼間の暑さを少しだけ残した空気が漂っていた。窓は半分ほど開けられているものの、外から入ってくる風は弱く、カーテンの裾を時折揺らすだけで、机や椅子に溜まった熱まで連れ去ってはくれない。
それでも、授業が終わった直後の教室には独特の解放感があった。部活動へ向かう生徒たちが鞄を肩へ掛け、廊下へ飛び出していく一方で、残った者たちは机の間に立ったまま話を続けたり、購買で買った紙パック飲料を飲みながら窓際へ集まったりしている。
「今日の英語、最後の問題分かった?」
「分からないから、雰囲気で三番にした」
「俺も三番」
「じゃあ三番じゃない気がしてきた」
「何でだよ」
「二人とも勘だから」
教室前方では、日直の生徒が黒板を消しながら、消し残した英文を指でなぞっていた。
「これ何て書いてある?」
「授業中に聞いて」
「聞いたけど忘れた」
「授業中に忘れたの?」
「終わった瞬間に」
「記憶の保存期間が短すぎる」
そんな会話の間を縫うように、三浦が透明な収納箱を両腕で抱えて教室後方から現れた。箱の中には、十一組ラボで作ってきた試作品と、用途説明の候補を書いた付箋や紙が乱雑に重なっている。
「本日の主役、到着!」
「物を運んできただけで、三浦くんが主役になるわけじゃないよ」
なつきが言うと、三浦は箱を机の上へ置き、信じられないものを見るような目を向けた。
「今の言い方、かなり冷たくなかった?」
「事実を言っただけ」
「横田、最近板倉に似てきたぞ」
「それは紅秋くんに失礼じゃない?」
「俺に失礼だろ」
少し離れたところで、紅秋が鞄を机へ置きながら答える。
「どっちにも失礼」
「味方がいない!」
三浦の声に、近くに残っていたクラスメイトたちが笑った。
なつきも笑いながら、箱の中を覗き込む。昨日の話し合いでは、用途を一行で説明しようとしたものの、必要な意味をどこまで入れるべきか分からず、何度書き直しても長すぎるか、短すぎるかのどちらかになってしまった。
机の上へ置いて使うこと。
道具や資料の置く場所を示すこと。
置き方や向きを迷いにくくすること。
限られた机上のスペースを使いやすくすること。
安全に使えること。
片づけやすいこと。
それらを一つの文章へ入れようとすると、説明文はすぐに長くなった。けれど、短くすると今度は、何をするものなのかが分からなくなる。
昨日の最後に残ったのは、短ければいいわけではないということだけだった。
「今日は、昨日の続きからでいい?」
茜が黒いノートを開きながら尋ねる。
「異議なし」
三浦が片手を上げる。
「本当に分かってる?」
「昨日の続きだろ。説明文を格好よくする」
「違う」
紅秋が即座に否定する。
「何でだよ。一日経っても駄目なのか?」
「最初からそこじゃない」
「じゃあ、分かりやすくする?」
「それは近い」
「一勝」
「まだ何もしてない」
三浦は机へ手をつき、少し大げさに肩を落とした。
茜はそのやり取りを気にせず、黒板へ昨日最後に残した文章を書いた。
『机の上で、道具や資料を正しい場所と向きに迷わず置けるようにし、作業しやすい机上環境を作るための位置合わせ補助具』
書き終えたところで、教室に残っていた生徒たちから、思い思いの反応が飛んでくる。
「長い」
「途中で何の話か分からなくなる」
「位置合わせ補助具って固い」
「商品説明というより、役所の書類みたい」
「役所に失礼」
「じゃあ、校則」
「それは分かる」
三浦は黒板を見上げ、腕を組んだ。
「でも、必要なことは全部入ってるんだよな?」
「たぶん」
なつきが答える。
「そこが難しい」
春樹は黒板の文章をじっと見ながら、少し考えるように言った。
「全部入っているから、分かりにくいのかもしれない」
「昨日と逆じゃない?」
三浦が聞き返す。
「昨日は、短くすると意味が足りないって話だった」
「うん。でも、だから全部を一つへ入れるとは限らない」
「一つへ入れないなら、どこへ入れるんだ?」
春樹はすぐには答えなかった。視線を透明な収納箱へ落とし、中に入っていた試作品を一つ取り出す。
厚紙を折って作られた本体には、上下を示す小さな印があり、正しい向きで置けるよう左右の幅も変えてある。近くには、袋へ貼りつけるために作った説明の絵と、用途を書いた付箋も残っていた。
「本体」
春樹が言う。
「袋」
「説明」
「名前」
紅秋が続ける。
「見た目も?」
なつきが尋ねると、春樹は頷いた。
「形でも伝えられる」
「待って」
三浦が手を上げる。
「それ、昨日まで全部一つの文章へ入れようとしてたことを、分ければいいってこと?」
「たぶん」
「また大國のたぶんが出た」
「決めつけないため」
「便利だな、それ」
三浦は少し考えたあと、黒板の文章を指差した。
「じゃあ、たとえば『机の上で使う』は、箱の絵で分かる?」
「机の上に置いている絵なら」
茜が答える。
「『道具や資料を置く』は?」
「絵で分かるかもしれない」
「『向きを迷わない』は?」
「本体の形と印」
「『位置合わせ補助具』は?」
全員が少し黙った。
「それは名前?」
なつきが言う。
「でも、名前に位置合わせ補助具って書いてあっても、買いたくない」
三浦が正直に答える。
「名前は、買いたくなるかどうかだけじゃない」
紅秋が言う。
「でも大事だろ?」
「目を止めてもらう役割はある」
「ほら!」
三浦は嬉しそうに胸を張る。
「まだ三浦くんの案が採用されたわけじゃないよ」
なつきが釘を刺すと、三浦は再び肩を落とした。
「今日は上がったり下がったり忙しい」
「いつもでしょう」
「遠山まで!」
笑い声が広がる。
教室の外では、運動部へ向かう生徒たちの足音が階段を駆け下りていった。少し遅れて、吹奏楽部の音合わせらしい低い金管音が校舎の奥から響き、途切れ途切れの旋律が窓から入る風に混ざっている。
なつきは、黒板へ書かれた長い一文を見つめた。
昨日までは、この文章をどう縮めるかばかり考えていた。けれど、春樹の言う通り、すべてを文章だけで伝える必要はないのかもしれない。
「名前が、これは何かを伝える」
なつきは、考えながらゆっくり口にした。
「うん」
春樹が頷く。
「絵が、どう使うかを伝える」
「本体の形が、どちら向きかを伝える」
紅秋が続ける。
「説明文は?」
三浦が聞く。
「それだけで分からないところ」
茜が答えた。
「じゃあ、文章は補足?」
「補足だけじゃなくて、中心を伝える役割もあると思う」
「中心?」
なつきは春樹の言葉を繰り返す。
春樹は黒板の文章の中から、いくつかの言葉を指で追った。
「机の上。道具や資料。置く場所と向き。作業しやすくする。全部大事だけど、この商品が一番助けたいことは何か」
「迷うことを減らす」
紅秋が答える。
「置き場所を分かるようにする」
茜も言う。
「机の上を整える」
近くの女子生徒が加わる。
「全部似てるけど、少し違う」
なつきが呟く。
三浦はしばらく黒板を見たあと、試作品を手に取った。いつものようにすぐ冗談を言うのではなく、左右の幅や折り目を確かめるように指でなぞっている。
「これってさ」
三浦が、珍しく静かな声で言った。
「置く場所を決めるものなのか、置く場所を教えるものなのか、どっちなんだ?」
教室の空気が少し止まった。
「違う?」
三浦は不安そうに周囲を見る。
「いや」
紅秋が試作品を受け取る。
「大事かもしれない」
「褒めた?」
「今は」
「今はって何だよ」
「続けるぞ」
紅秋は試作品を机へ置いた。
「これ自体が場所を決めるなら、使う人が合わせる」
「教えるなら、目印?」
なつきが言う。
「でも、置く場所は最初に誰が決めるの?」
春樹が聞く。
「作る側?」
「使う人?」
「先生?」
「作業によって変わる?」
周囲から次々に声が上がり、三浦は両手で頭を抱えた。
「また問題増えた!」
「問題が増えたんじゃなくて、見えるようになっただけ」
茜が落ち着いて言う。
「最近、その言葉で何でも乗り切ってない?」
「本当だから」
「便利だな」
三浦は言いながらも、もう嫌そうな顔はしていなかった。
茜は黒板の横へ、新しく二つの項目を書く。
『名前で伝えること』
『文章で伝えること』
さらに紅秋が、その下へ続けた。
『絵で伝えること』
『形で伝えること』
四つの項目が並ぶ。
三浦は椅子へ座り直し、紙パック飲料へストローを差した。
「分担表みたい」
「そうかも」
なつきは頷く。
「一人で全部やるんじゃなくて、それぞれ役割がある」
「会社みたいだな」
「商業科っぽい」
「急に授業感が出た」
笑いが起こる。
そこで茜は、全員へ小さな付箋を配った。
「それぞれの役割を一回分けてみよう。正解を決めるんじゃなくて、今の考えを書く」
「何枚?」
「四枚」
「多い」
「一枚に一つだけ」
「それなら楽」
三浦は付箋を受け取ると、すぐに書き始めた。
なつきもペンを持つ。
『名前で伝えること』
最初に目へ入る言葉。
何のためのものか。
誰が使うのか。
考え始めると、また全部を書きたくなる。
なつきは一度ペンを止めた。
名前へ全部入れようとしている。
昨日と同じだった。
少し考え直し、短く書く。
『何の仲間か』
自分でも少し曖昧だと思った。
けれど、名前はその商品のすべてを説明するのではなく、何に近いものなのかを知らせる役割なのかもしれない。
次。
『文章で伝えること』
なつきは少し迷ったあと。
『何を助けるものか』
と書いた。
『絵で伝えること』
『使う場面』
『形で伝えること』
『向きと置き方』
書き終えると、なつきは春樹の手元を見た。春樹は最後の一枚をじっと見つめ、まだ何も書いていない。
「難しい?」
「形」
「何を伝えると思う?」
「使い方と、間違いにくさ」
「二つになった」
「うん」
「分ける?」
「でも、どちらも形で伝える」
「一枚に一つって茜ちゃんが言ったよ」
春樹は少し困った顔をした。
「じゃあ、間違いにくい使い方」
「長くなった」
「横田さんは?」
「向きと置き方」
「二つ」
「あ」
二人は顔を見合わせる。
少し離れたところから三浦が笑った。
「二人とも、俺に細かいこと言うのに同じことしてる!」
「今のは正しい」
紅秋が言う。
「やった!」
「喜ぶところ?」
三浦は満足そうに付箋を並べた。
全員の付箋を黒板へ貼ると、同じ項目でも内容がかなり違っていた。
『名前で伝えること』
商品の仲間。
興味を持ってもらう。
特徴。
使う場所。
覚えやすさ。
『文章で伝えること』
何を助けるか。
使う理由。
困りごと。
効果。
誰向けか。
『絵で伝えること』
使用場面。
置くもの。
手順。
完成した状態。
『形で伝えること』
向き。
置く場所。
間違いにくさ。
安全。
使い方。
黒板を見上げた三浦が、少し感心したように息を吐いた。
「同じ説明でも、こんなに分かれるんだな」
「だから、全部を一行へ入れようとすると長くなる」
紅秋が答える。
「でも、分けすぎると伝わらなくない?」
近くの男子生徒が聞く。
「ばらばらに見えたら駄目」
春樹が言う。
「全部が同じ中心へつながってないと」
「また中心」
なつきはその言葉へ少し引っかかった。
「中心って、何?」
全員が黒板を見る。
すぐに答えは出なかった。
名前、文章、絵、形。
それぞれが違う役割を持つ。
けれど、別々のことを伝えるのではなく、一つの目的へ向かわなければならない。
「この商品で、一番変えたいこと」
茜が言う。
「使う人が、置く場所に迷わないこと」
紅秋が答える。
「じゃあ、それが中心?」
なつきが聞く。
「近いと思う」
春樹は試作品を見ながら続けた。
「名前も、文章も、絵も、形も、最終的にそこへつながる」
「全部が『迷わない』を手伝う?」
三浦が言う。
「そう」
「でも、名前に『迷わない』って入れる?」
「必ず入れるわけじゃない」
「じゃあ名前は何するんだよ」
「入口」
春樹が答えた。
三浦は少し驚いたように春樹を見る。
「入口?」
「見てもらう。何のためのものか、少し想像してもらう」
「説明は?」
「中へ入ってもらう」
「絵は?」
「迷わないように案内する」
「形は?」
「実際に使ったとき、間違えにくくする」
三浦は少し黙ったあと、何度か頷いた。
「今の分かりやすい」
春樹は少しだけ目を伏せる。
「たぶん」
「たぶん付けなくてもいいだろ」
教室に笑いが広がった。
なつきは黒板の四項目を眺めながら、胸の中で春樹の言葉を繰り返した。
入口。
案内。
実際に使うとき。
一つの文章へ全部を入れなくてもいい。
名前だけですべてを分からせようとしなくてもいい。
説明文だけへ、商品の役割も、使い方も、良さも、安全も、すべて背負わせなくていい。
そう考えると、昨日まで苦しく見えていた長い一文が、少し違って見えた。
文章が悪かったのではない。
背負わせすぎていた。
「これ、人も同じかな」
なつきは、ほとんど独り言のように呟いた。
「何が?」
春樹が隣から聞く。
「一つの言葉へ、全部入れなくていい」
「例えば?」
「友達とか」
三浦の耳がこちらへ向いたことが分かった。茜も一瞬視線を上げる。
なつきは少し恥ずかしくなったが、話を止めるほどではなかった。
「友達って言っても、みんな同じじゃないでしょう。茜ちゃんとは昔から一緒にいるし、紅秋くんや三浦くんとはラボで話すことが多いし、大國くんとは……」
そこで言葉が止まる。
「俺とは?」
春樹は急かさず、ただ静かに聞いた。
なつきは周囲の気配を少し気にした。三浦は明らかにこちらを見ている。茜は見ていないふりをしながら、ノートを開いたままペンを止めている。
「いろいろ」
なつきが答えると、三浦がすぐに口を挟んだ。
「一番説明してほしいところが『いろいろ』!」
「三浦くんには説明してない」
「俺たちにも分かるように!」
「何で?」
「クラスの共有情報として」
「違う」
紅秋が三浦の頭を軽く小突いた。
「痛い!」
「邪魔するな」
「興味を持っただけなのに!」
笑い声の中、なつきは少しだけ助かったと思った。同時に、春樹へきちんと答えられなかったことが、ほんの少し心へ残る。
春樹は何も追及しなかった。
けれど、少しだけ寂しそうに見えた気がして、なつきは自分の見間違いか確かめるように横顔を見つめた。
「大國くん」
「うん」
「あとで」
「何が?」
「いろいろの続き」
春樹の目が少しだけ和らいだ。
「分かった」
その短いやり取りを見ていた三浦が、何か言おうと口を開いた。けれど、茜が無言で視線を向けると、三浦は自分で口を閉じた。
「三浦くん、成長したね」
なつきが言う。
「今の我慢、かなり偉くない?」
「偉い」
「もっと褒めて」
「そこまで」
「急に上限が低い!」
放課後の教室に、また笑い声が広がる。
話し合いは、その後も続いた。
名前は入口。
絵は使う場面や手順。
文章は何を助けるか。
形は実際に迷いにくくする。
仮の役割分担を決め、明日はそれぞれを別々に考えることになった。
「じゃあ、今日は名前を考えなくていいの?」
三浦が少し残念そうに聞く。
「考えてもいい」
茜が答える。
「ただし、名前だけで全部を説明しようとしない」
「格好よくてもいい?」
「何の仲間か分かれば」
「よし!」
三浦はすぐに新しい紙を取り出した。
「もう始めるの?」
「宿題」
「珍しい」
「横田、俺が真面目にやると毎回驚くのやめてくれ」
「嬉しい驚きだよ」
「本当か?」
「たぶん」
「大國の影響!」
春樹が少し笑う。
教室に残っていた生徒たちも、少しずつ帰り支度を始めた。窓の外では、夕方の光が校庭を斜めに照らし、運動部の長い影が土の上へ伸びている。
茜は黒いノートへ、今日のまとめを書いた。
『一つの文章に、すべての役割を背負わせない』
『名前、文章、絵、形で役割を分ける』
『すべてが同じ中心へつながるようにする』
それを見た三浦が、少し感心したように呟く。
「今日のまとめ、何か格好いい」
「三浦くんが言うと不安になる」
「何でだよ!」
「でも、分かりやすい」
なつきが言う。
「一つに全部を背負わせない」
「人にも使えそう」
三浦が何気なく言った。
なつきは少しだけ反応する。
「さっき横田も言ってた」
「聞いてたの?」
「同じ机にいるんだから聞こえる」
「三浦くんの場合、聞こうとしてるでしょう」
「興味」
「余計なところに強い」
紅秋が片づけを始める。
「今日は終わるぞ」
「まだ名前案を」
「家でやれ」
「珍しくやる気あるのに!」
「だから宿題にしろ」
三浦は納得いかない顔をしながらも、紙を鞄へ入れた。
試作品や付箋を箱へ戻し、机を元の位置へ動かす。誰かが椅子を引きずる音と、鞄のファスナーを閉める音が重なり、ラボの時間がゆっくり日常の放課後へ戻っていく。
「また明日」
「お疲れ」
「三浦、変な名前だけは増やすなよ」
「変かどうかは明日決める!」
「もう不安」
笑いながら、三浦と紅秋、茜たちが教室を出ていった。
なつきは鞄へノートをしまいながら、少しだけゆっくり動いていた。春樹も同じように、本を鞄へ入れている。
特に示し合わせたわけではない。
けれど、二人とも急いで帰ろうとはしなかった。
「横田さん」
「うん」
「あとでって」
「覚えてた?」
「うん」
「忘れてくれてもよかったのに」
「忘れない」
春樹はそれだけ言い、鞄を肩へ掛けた。
なつきも小さく息を吸ってから立ち上がる。
「帰りながらでいい?」
「うん」
二人で教室を出ると、廊下には夕方の色が広がっていた。窓から差し込む橙色の光が床へ長い四角を作り、そこを歩くたび、二人の影が重なったり離れたりする。
遠くでは、掃除当番らしい生徒たちが箒を片づけながら話していた。
「そこ、ゴミ残ってる」
「風で戻った」
「風のせいにするな」
「自然には勝てない」
「箒には勝って」
その声を聞きながら、なつきと春樹は階段へ向かう。
「さっきの」
春樹が言う。
「うん」
「俺とは、いろいろって」
「うん」
「何?」
やはり聞かれると、言葉にするのは難しかった。
クラスメイト。
友達。
ラボ仲間。
よく一緒に帰る人。
隣へいたいと思う人。
他の女子と話していると、少し気になる人。
自分をよく見ている人。
髪が違うだけで、寝坊したことに気づく人。
少しずつ増えたものが多すぎて、一つの言葉には収まらない。
「大國くんは」
なつきは階段を一段ずつ下りながら、ゆっくり言った。
「友達でしょう」
「うん」
「ラボ仲間でもある」
「うん」
「よく話す人で、一緒に帰る人で、私のことをよく見てる人」
春樹の足がほんの少し遅くなった。
「それから?」
なつきの胸が少し速くなる。
「特別な人」
その言葉だけは、以前にも伝えた。
けれど、今言うと、前より少し重く感じた。
春樹はすぐには答えなかった。
階段の踊り場へ差しかかり、二人の足が自然に止まる。窓の外では、夕日に照らされた雲の端が淡く光っていた。
「それで、いろいろ?」
「うん」
「全部?」
「まだあるかもしれない」
「分からない?」
「うん。大國くんのこと、まだ全部分からないから」
春樹は少しだけ目を伏せた。
「俺も、横田さんのこと全部は分からない」
「じゃあ同じ」
「でも」
「何?」
「増えていくのは、嫌じゃない」
なつきは春樹を見る。
「何が?」
「横田さんを説明する言葉」
その言い方は、今日のラボの話と似ていた。
明るい。
優しい。
考えすぎる。
我慢する。
笑う。
急に真剣になる。
よく人を見ている。
たまに鈍い。
言葉。
増える。
でも。
一つで全部を説明しなくていい。
「私も、大國くんを説明する言葉が増えるの、嫌じゃない」
「例えば?」
「静か。本を読む。優しい。よく見てる。少し嫉妬する」
「それは」
「さっき認めたでしょう」
「少しだけ」
「あと、ずるい」
「何が?」
「急に嬉しいことを言う」
「今も?」
「今も」
春樹は少し困ったように笑った。
「横田さんも」
「私?」
「急に特別って言う」
「前にも言ったよ」
「今言われるのは違う」
「どう違う?」
「分からないけど」
「大國くんも分からないって言うんだ」
「うん」
「じゃあ、今は分からないまま?」
「でも、嫌じゃない」
なつきは小さく笑った。
「同じ」
二人は再び歩き出す。
一階へ下りると、昇降口には部活動へ向かう生徒と、帰宅する生徒が混ざっていた。靴箱の前で立ち止まる者、友人を待つ者、スマートフォンを確認する者。
その中で。
二人は並んで靴を履き替える。
「大國くん」
「うん」
「一つの言葉に、全部入れなくていいなら」
「うん」
「友達って言葉だけにしなくてもいい?」
春樹の手が、一瞬止まった。
「どういう意味?」
「友達だけじゃない言葉も、増えていいのかなって」
言ったあと。
なつきは、自分の声が少し小さくなったことに気づいた。
春樹もすぐには答えなかった。
昇降口の外から、吹き込んだ風が二人の間を通る。近くを走り抜けた男子生徒が、友人に「廊下走るなって言われるぞ」と呼び止められている。
「例えば?」
春樹が聞く。
「分からない」
「さっきと同じ」
「うん。でも、たとえば」
なつきは言葉を探した。
今。
一番先に思い浮かんだ言葉を、そのまま口にするのは怖かった。
けれど。
何も言わなければ、春樹には伝わらない。
「恋人とか?」
春樹の表情が止まった。
なつきも。
自分で言っておきながら、心臓が大きく跳ねた。
周囲には、帰宅する生徒たちの声がある。靴箱を閉じる音も、校庭から届く笛の音も聞こえている。
それなのに。
二人の間だけ、音が少し遠くなったように感じた。
「今すぐって意味じゃないよ」
なつきは慌てて続ける。
「分かってる」
「未来に、そういう言葉が増えることもあるのかなって」
「うん」
「嫌?」
春樹は少し俯き、自分の靴の先を見つめた。
答えを急いでいるようには見えなかった。
なつきも待った。
短い返事を求めているわけではない。
正しい答えが欲しいわけでもない。
ただ。
春樹がどう感じたのか。
それを聞きたかった。
「嫌じゃない」
やがて、春樹が言った。
声は小さかったが、なつきにははっきり聞こえた。
「本当?」
「うん」
「でも、今すぐじゃない?」
「今すぐかは、まだ分からない」
「そっか」
少しだけ安心する。
少しだけ残念にも思う。
でも、その両方があることを、なつきは否定しなかった。
「横田さんは?」
「何が?」
「恋人って言葉が増えるの」
「嫌じゃない」
春樹が顔を上げる。
「今すぐ?」
なつきは聞き返されると思っていなかった。
「分からない」
「同じ?」
「うん。同じ」
二人は少しだけ笑った。
恋人。
今はまだ、二人の関係を示す言葉ではない。
ただ。
いつか増えるかもしれない言葉。
その候補を、二人とも嫌だとは思わなかった。
それだけ。
けれど。
昨日までより、確かに一つ増えた。
「じゃあ」
春樹が言う。
「今は、友達と、ラボ仲間と、特別」
「あと、よく一緒に帰る人」
「隣にいる人」
「大事な人」
なつきが付け足すと、春樹の耳が少し赤くなった。
「多い」
「一つに全部入れなくていいんでしょう」
「今日の話」
「うん」
「便利に使ってる」
「大國くんもでしょう」
春樹は少し笑う。
「恋人は?」
なつきが聞く。
「まだ候補」
「候補って変かな」
「三浦が好きそう」
「作戦名にされる」
「明日言わない方がいい」
「絶対言わない」
二人は笑いながら、昇降口を出た。
外の空気は教室より少し涼しく、夕方の風が頬へ触れる。校門へ続く道の脇では、植え込みの葉が弱く揺れ、運動部の掛け声が規則正しく響いていた。
今日。
十一組ラボでは、新しい試作品を作らなかった。
用途説明の完成形も決まっていない。
商品名も、まだない。
けれど。
一つの文章へ、すべてを背負わせなくていいと分かった。
名前には、入口としての役割がある。
文章には、何を助けるものなのかを伝える役割がある。
絵には、使う場面や手順を見せる役割がある。
形には、実際に迷いにくくする役割がある。
それぞれが違うことを伝えても、中心へつながっていればいい。
そして。
人と人の関係も、少し似ているのかもしれない。
友達。
ラボ仲間。
よく一緒に帰る人。
特別な人。
大事な人。
隣にいたい人。
どれか一つだけが正解ではない。
一つの言葉へ、今まで積み重ねた全部を入れなくてもいい。
未来に新しい言葉が増えても、それまでの関係が消えるわけではない。
恋人。
その言葉は、まだ二人のものではない。
けれど。
いつか増えても嫌ではない。
春樹も。
なつきも。
そう答えた。
校門を出て、二人はいつもの道を並んで歩く。
距離は昨日と大きく変わらない。
会話も、急に恋人同士のようになるわけではない。
それでも。
なつきには、二人の間に見えない付箋が一枚増えたように感じられた。
『いつか増えても嫌ではない言葉』
まだ貼る場所は決まっていない。
正式な名前でもない。
でも。
捨てずに残しておきたい候補だった。
「横田さん」
「うん」
「明日、名前考える?」
「ラボの?」
「うん」
「三浦くんがいっぱい持ってくると思う」
「変なのも」
「ほとんど?」
「たぶん」
「でも、一個くらい良いのあるかも」
「三浦くんに言ったら喜ぶよ」
「言わない」
「どうして?」
「調子に乗るから」
「もう遅いと思う」
二人は笑った。
夕方の道へ、二人の足音が並ぶ。
一つの言葉では、まだ二人を説明できない。
でも。
それでよかった。
言葉が足りないのではなく。
伝えるものが、一つではないだけ。
今日の十一組ラボは、そんな当たり前のことを、失敗を重ねたあとでようやく知った。
そして、なつきと春樹も。
まだ名前のついていない関係の中で、同じことを少しだけ知り始めていた。




