雨のにおいは、同時に自分の体温を教えてくれる。
「これは、応と僕が生まれたときのはなし…」
甲のゆっくりと語る言葉を聞きながら、要は自分がまるで雨の中の森にいる様な錯覚を覚えた。
自分に向かって淡々と静かに話をする甲と対面しているこの場所は、確かに和室の中なのに…しかし自分の周りにはちゃんと肌が湿る水の感触と植物の呼吸を感じる様な世界。
甲が口を開く度に、要の心の中はしっとりとした静けさの中に誘われていたのだ。
「僕と応が生まれた場所は山形県と新潟県のちょうど県境で…四方を山で囲まれた辺境地。昔からある小さな集落の中でも、うちは特に雪が積もりやすい場所だったよ。」
「父も母も同じ集落の生まれで、父は麓に降りて働きに出ていた。母は祖父母と昔よりだいぶ小さくなった畑を耕して、自分達が食べる分の野菜とか米とかを育てて生活していたんだ。」
厳しい自然の中に身を置き暮らす父や母たちには、お世辞にも贅沢な生活というものはなかった。
けれど、それでも何故か両親は生まれ育ったこの場所から出ていこうとは思わなかったらしい。
夏でも深い木々に囲まれたこの地は涼しい風が吹くと大層気持ちよかったが、しかし言い換えれば冬はそれだけ寒さに厳しいところだった。
「あまりに田舎なその場所は、まあ分かりやすい言うと…山には山の神様がいらっしゃる的な…昔からの言い伝えが根付いた場所だった。」
家のすぐ裏にある小さな祠に向かって父や祖母が手を添えて祈っていた記憶を、甲は頭の片隅で思いだしていた。
「その言い伝えの中に、生まれてくる子供が双子の場合は不吉とされ、その家だけでなく集落にも不幸が訪れる…ってされてた。」
「え、そんな事って!?」
眉を顰める要を見て、甲は小さく頷くと、僅かに口角を上げた。
それなのに視線だけは、どこまでも冷たく鋭い。
ほんの一瞬だが、垣間見れた彼のその表情だけで、要はこの話しが何処までも悲しいものだと悟った。
「時代錯誤も良い所だよね?まあ明治大正はどうだか知らないけれど、父も母もその言い伝えは知っててもそんな事気にもしてなかったみたい…
もちろん集落の皆んなもね。
ただ、ある日母が僕達を妊娠してから状況は変わってしまった」
「え?」
「父の母…つまり僕達の祖母は腕利きの産婆で、昔から集落で生まれた子供達を取り上げてきたんだ。」
「当然、母も祖母に見て貰ったわけ……だけど」
「だけど…?」
要は甲の細い指先を見た。
彼の細い…まだ成長途中の手はわずかな震えを抑えるためか、しっかりと片手でもう片方の手首を押さえつけていた。
甲は自分の二本の指を空虚に見つめた。
「祖母が母に伝えた事は2つ。お腹にいる子は間違いなく双子だろうと…しかし胎動は1つしか聞こえないってこと。」
「!?」
要の驚いた表情と同時に息をのむ気配に、イズモはそっと目を閉じた。
李人も静かに視線を外に向ける。
あれほどうるさかった滝の音が、いつまにか止んだ気がしたからだ。
「双子の片割れはお腹の中で死産したとされたんだ。そして、とうとう…母に臨月がやってきた。」
予定よりも早く陣痛が来てしまった母は、まるで隠されるように家の一番奥の雨戸を閉め切った6畳の部屋で僕らを生んだんだ…と甲は言うと、また小さく口元だけで自傷するような笑みを作った。
大粒の汗を作り、意識が混濁する中で母が聞いたであろう二人分の産声…そして祖母の恐怖を色濃く表す大きく見開かれた瞳。
「祖母が1番驚いただろうね…両方とも生きてたんだから。」
「ただの間違いだったんじゃ?病院に行けば…」
「どちらに行くの?」
「え、」
「2つの守り地をもつ人神を宿した母は、どちらの土地に足を踏み込めば良かったの?」
「!?」
甲の言葉がとてもじゃないが冷静で、それがあまりに悲しくて…悲しくて要は息が詰まった。
自分が責められているわけでもないのに「ごめんなさい」と要が口から出そうになる前に、甲はもう小さく頷いていた。
彼は決して謝ってほしかったわけじゃない、分かっている…それでもこの胸の締め付けが要にはもどかしかった。
そんな彼女を見て、甲は視線を少しだけ緩めた。
「要さんが今思った通り、僕らの心音が一つしか聞こえない時点で、母達は麓の病院に行こうとしたんだ。…でも、県境に立つ自宅から車で離れようとする度に、母の容態は悪くなって、原因不明の突風や地響きが重なったりね…偶然も何回も重なるとジンクスになって…まあ、やがて最後は災いとか言われてしまうわけ。」
突然起こった強風が、甲たちの両親の目の前で、胴回りが2メートル以上ある大木をなぎ倒してしまった。
体の骨を砕くかのような木の軋む音と、バリバリッ!と縦に身を裂け切る音。
そして一気に地面へと叩き付けられたその姿を見て、誰もが身を震わせたのだという。
大きな音を立てて倒れた巨木の振動が、地面を伝って自分たちの足元に這うように伝わってくる。
それは死という存在が足元にゆっくりとしがみ付くような感覚なのだと…父が言っていた。
「恐ろしくなった母達は結局、自宅で産婆である祖母の元で産む事になってしまった。」
「最初にも言ったけど、双子の赤坊は両方とも生きてた。父も最初はそれを喜んでた。でも…」
「母は僕達を産んですぐに亡くなってしまった。
多分、何回も2つ重なる守り地から離れようとした…その代償を母1人が背負ってしまったせいだと思う。」
甲の灰色の瞳が、一瞬ゆらりと危なげに動いたのを李人は見逃さなかった。
甲は一見静かで大人しいために、年齢よりも大人びて見えてしまう。
でも、この話をするたびに…初めて会った時の…あの小さなやせっぽちの男の子が李人の目の前に現れるのだ。
李人が彼に初めて出会ったとき、小さな甲は自分の灰色の瞳をとても嫌がっていた。
彼のそんな冷たい声が、今もこの部屋に悲しく響いている。
「父と祖母はね、それでも僕達を育て様としたけれど…この目がね、まあ普通じゃないし。
僕や応が守地を出ようとする度に体調を崩したり、意識が朦朧とするほどの熱がでたら山火事とか大雨とか起きると…まあ、山奥の田舎だから余計に目立った。
で、昔からの言い伝えなんかあるからさ…他人の目を気にした祖母たちは、とうとう僕らを家の蔵に閉じ込めたんだよ。」
「え!?」
「まあ、蔵っていっても納戸がちょっと大きくなったものみたいな…そんな立派なものではなかったけれどね」と笑う甲を見つめた要は気づけば眉が寄っていた。
グッと唇に力を入れる要の表情を見て、甲はもう笑うのをやめた。
彼は見つめていた指先で自分の頬をかくと「まあ…」と言葉を続け、一度大きく頷く。
「うん。言わずもがな虐待なんだけどね…父も祖母も怖ったんだよ。普通の子供には無い見た目も、変な現象ばかり起こす僕らがさ。…あと、母のこともあったんだろうね。」
母…そう口にするたびに、甲は自分たちに向けてくる父のあの責めるような瞳を思い出す。
「ああ、この人自分の事が嫌いなんだろうなっていう目ってさ、子供でも分かるんだよね。子供だから分からないと思って簡単に放った言葉が、その子からしたらさ、大人になっても心に突き刺さったまんま消えはしないって誰も知らないのかな?」
甲の灰色の瞳には、まるで石が投げ込まれたかのように憎悪とそして悲しみが同時に波紋のように広がっていた。
「ほんと、簡単に…一言でエグれるのにね。」
きっと、ここに応がいたら、泣いていた。
やっぱり彼女をここから出して良かったと、甲は心の片隅で思っていた。
「親の言葉…いや、親だけじゃないな。人からの言葉っていつまでも…消えないまま永遠に突き刺さるんだよ。」
要はぎゅっと自分の胸元を握った。
甲の言葉を聞いて、要は自分の周りの…父の言葉、母の言葉、妹の言葉、静の言葉…巽の言葉…クラスメイトからかけられた言葉…すべてを思い返していた。
苦しい…苦しい…きっと甲も、応も、今の要のように身を縮こませていたのだろう。
自分がなぜ責められるかもわからなかったあの頃…10にも満たない子供の世界の、なんて封鎖的なことだろう。
ましてや、甲たちは名の通り閉じ込められていたのだから、その孤独感は計り知れない。
甲は今でも、あの時、応が自分の横にいてくれて良かったと思っている。
たとえ双子で生まれてきたことが閉じ込められる原因であったとしても…
それでも、あの狂いそうな…昼間でも暗くじめじめしてかび臭い空間の中で、独りぼっちじゃなかったことだけが救いだったから。
小さな応が「甲ちゃん」と呼ぶ。それだけでよかった。
自分の名前を嬉しそうに呼んでくれる声、体温を分け与えてくれる小さな手、自分を映してくれる瞳…そのどれもが今の甲を存在させてくれる宝物たちだったのだ。
しかし…この生活がどこまでも続いていくのかと…頭の片隅で暗い闇が付きまとっていたのも事実だった。
だが、転機は突然起こる。
「ただね、何歳の頃だったか忘れたけど…ある日、応の前に使いが現れたんだ。」
「八咫烏…」
「そう、僕たちの前に神の使いが現れたんだ。」
それは、救いと絶望の始まりだった。




