18 鳴動
一点の曇りはあったけれど、今までになく充実した美術鑑賞だった。
ナターリアと共に美術館を後にしながら、サラはそう思った。
「楽しかったです。私、今までこういうものにぜんぜん興味がなかったんですけど、これで楽しみ方のコツがつかめた気がします。ありがとうございました」
「俺も楽しかった。また言ってくれたら案内するよ」
「ええ」
またというのはおそらく無理だが、その好意だけはちゃんと受け取る。
「次は市街巡るのもいいよね。市内の保護地区。素敵だよ。連絡先お――」
突然、ナターリアの声が途切れた。
五感のうち聴力だけが綺麗に抜け落ち、その戸惑いのせいで思考が完全に止まる。
次に気づいたときは、地面に膝をついていた。ナターリアの腕の内側にいる。頭はまったく回っていない。潤滑油のない機械のようだ。
体が震えだした。それと同時に、徐々に音が戻ってくる。聞こえにくいが、ナターリアの声も聞こえた。
「サラ、大丈夫?」
「・・・・・・な、にが」
うまく喋れない。
「わかんない。たぶん、爆発」
「ばく・・・?」
大きな悲鳴が響き渡った。――ずっと続いていたのかもしれない。サラの耳がようやく音を拾えるようになったのだ。
怒号、泣き声、悲鳴、雑多なざわめき。次々と、館内から人々が逃げ出してくる。
はっとしてナターリアの腕の中から出る。
火の手が上がっている。美術館の端からだ。
(爆破テロ)
嫌な単語が、サラの脳裏に浮かんだ。
「サラ、帰ろう」
「ダメです」
無意識のうちに、ナターリアを突き放した。
「ナターリアは帰ってください。危険です」
「サラだって危ない」
「いいえ」
返事を言い切るより前に、サラは駆け出していた。
逃げる人の流れに逆らい、火の手の上がる一角を目指す。それほど近づかぬうちから熱気が吹き付けてきた。ぐしゃりと足元が鳴ったと思えば、下には吹き飛んだガラス片が散らばっている。
「サラ!ダメだよ」
ナターリアが追いかけてきた。その声にかぶさって、凛とした声が響いた。
「館内の客の誘導を!分かれて消火にあたれ!」
軍服に似た制服を身に纏った人々である。――市内総合警察だ。それに混じって、研究所の人間がいることにサラは気づいた。テロの対象である彼らが堂々と研究所の制服を纏うはずもなく、ちらりと見えた所属部署を表すエンブレムから判断したのだが。
(警察はともかく、なんで研究所の人が?)
市内総合警察は、迷子の保護者探しからテロ対策までしている何でも屋の公務員だ。
観光客の多い美術館周辺には常に配置されていたから、すぐに駆けつけているのもうなずける。
彼らはたった五人ほどだったが、統率された動きであっという間に消火活動を始めた。一人は集まってきた野次馬を近づけないように誘導し、一人は怪我をした人々を一箇所に集めている。
サラは迷わず怪我人の手当てを手伝いにいった。警察官たちの統率取れた動きを阻害せず、サラがもっとも役に立てる場所はここだと判断した結果だ。特殊警備隊に配属されたため、研修では応急処置も学んでいる。
「手伝います」
手当てにあたっていた中年の警察官は一瞬驚きを見せたが、すぐにうなずいた。
爆傷を負った人々は、皆ぐったりとしていた。ある人は血まみれで、ある人は泣いている。映像では見たことがあったものの、目の当たりにするのは初めてだ。
警察官の持っていた応急処置キットでは出来ることなど限られていた。サラの仕事は、酷い出血を最低限にとどめ、痛みと不安に襲われている怪我人を励ます程度だ。中には目を背けたくなるような傷を負った人もいたが、サラは決して不安を表情に出さなかった。
間もなく救急隊と消防車が到着した。すぐに消火活動が始まり、救急隊は重症者を優先で運んでいく。
人手が行き届いたのを確認して、サラはその場を離れた。
周囲には人がかなり集まっていて、皆惨状に表情をこわばらせていた。
すぐにナターリアがサラの隣に並んだ。彼は最初、怪我人の手当てを手伝っていたのだが、あまりの酷さに気分が悪くなったらしく、少し離れた場所で休んでいた。
「ごめん、サラ」
「なにがですか?」
「俺、役に立たなかった」
「・・・・・・仕方ないです。私も、泣きそうでした」
「でもちゃんとやってた」
「必死だったからです。それに、いざと言うときには女のほうが肝が据わってるとも言いますし」
「うん・・・・・・」
「帰りましょう。さすがに疲れました」
「・・・そうだね」
このときになって、消防車、救急車のほかに研究所の車両があることに気づいた。
改めて辺りを見渡せば、野次馬を遠ざけているのは武装した特殊警備隊である。軍隊さながらの機敏な動きだが、それほど重装備には見えない。というのも、彼らは最新のテクノロジーをふんだんに使った武器防具で身を固めているから。――研究所のくせに軍隊を持っていると言われるゆえんである。
遠くない将来、ああやって働くんだなぁとその姿をしばらく眺める。
そのときふと、同じように彼らの動きを見つめる青年の姿に気づいた。二十歳前後だろう、暗がりでもわかりやすいほどに、イニア系が強く出た顔立ちである。こわばった表情は、周囲の人々と一緒。しかし、それにしては顔色が悪い。
ナターリアのように、血を見てショックを受けているのかもしれない。
妙に気になってしまい、サラは青年に近づいていった。
「あの、」
青年の肩に手をかける。青い顔で振り向く青年。
「だいじょ――」
――うぶですか?
言い切るよりも先に、サラは青年に突き飛ばされた。とっさに何も反応できなかったが、幸いにも集まっていた野次馬の誰かに受け止められた。周囲では「なんだ?」と驚きの声があがる。
青年はそんなものには目もくれず、人ごみを掻き分けて走っていった。
(まさか)
ぞわりと予感が背中を這い上がる。
「――待って!」
サラはすぐさまその後を追った。
「サラ?!」
ナターリアの声が追いかけてくる。
青年は大きな通りを渡って、路地に入った。サラも路地へ飛び込む。
青年が走りながらサラを振り返った。その顔は走っているというのに血の気が失せ、真っ白だった。
そして顔を見たのは一瞬だった。
目の前が赤く染まった。
「え・・・・・・?」
遅れて、耳が爆音を伝えてくる。
脳からの指令が止まり、ただただ立ちすくむ。
「サラ!・・・っ!」
遅れてやって来たナターリアが呻いた。そしてサラの腕を掴み、強く引っ張って路地の外へ連れ出した。
ようやく、サラの目の前から赤が消えた。
「サラ・・・なんで、」
「・・・・・・」
目の前で、人の体が吹き飛んだ。
見たばかりの光景が信じられないくらいなのに、赤が飛び散る瞬間がまぶたの裏に張り付いている。
手の震えを認識した途端、足の力が抜けて立てなくなった。
そうしているうちに爆音を聞きつけた特殊警備隊がやって来て、ことを処理し始める。総合警察官がサラの姿を見て「怪我は?!」と聞いてきた。サラの服は、先ほどの怪我人の手当てで血まみれだから、勘違いしたのだろう。
口もきけなくなっていたサラに代わって、ナターリアが「大丈夫です」と伝える。
「ショックを受けているだけですから」
「そうか・・・」
「大丈夫です、俺が送っていくんで」
「いや・・・、悪いんだが、ちょっと待ってもらえるかな」
「目撃証言とかですか?後日でもいいですよね?」
「出来れば署に来てもらって・・・そこにも休む場所はある。話は落ち着いてからでかまわない」
「出来ません」
「・・・・・・」
「とりあえず、所属と名前があれば連絡はつくでしょう」
「しかし・・・・・・」
警察官とやりとりするナターリアの声はどんどん冷たくなっていく。
このまま警察で事情聴取だなんて真っ平だったので、庇ってくれるナターリアの行動はありがたい。だが、テロの事後処理をする公務員に慈悲を求めるのも無理だろう。折れるように言おうと、サラが口を開きかけた、そのときだった。
「彼らからの事情聴取は不要ですよ」
よく知った声が割り込んで、警察官とナターリアのやり取りを止めた。
サラは驚いたが、しかし首すらもゆっくりとしか動かず、その人物の姿を視界に入れるまでに時間を要した。
「・・・セイファ、なんでお前が」
ナターリアが驚きの声を上げる。
セイファはナターリアには目もくれず、警察官と対峙する。
「きみは・・・?」
セイファは研究所の身分証をちらりと見せて、警察官の疑問に答えた。
「システム研究所の研究員を狙った爆破テロと判断されました。声明も確認されています。これに伴い、この事件は情報統制下に置かれました。捜査権限も、すべて研究所に所属します」
「しかし」
「この場は我々が処理します。ですが美術館のほうは被害が甚大ですので、引き続きご協力をお願いします」
「・・・・・・」
警察官は不満そうに顔をしかめたが、それ以上何も言わずに去って行った。
その背中が消えるのを見届けたセイファが、サラへと視線を移す。
「さて。――色々あったようですね」
「残念ね、間に合わなかったみたい」
セイファの背後から、女性が現れた。赤毛で眼鏡をかけた知的な印象の女性である。サラは見覚えがあった。その記憶をたどりきるより先に、ナターリアが答えを言う。
「あれ?トゥレ出版の記者さん?」
「こんにちは。いづもよ、ユハナくん」
惨劇の近くだというのに、赤毛の記者はにこりと笑った。それを見て、セイファは不機嫌になる。
「あんたがさっさと情報出してれば防げたんだ、白々しく残念だなんて言ってんなよ」
「こっちは情報で食べてるの。タダでそれを巻き上げられたら、餓死するわ」
「ざけんな!懸かってんのは人命だ!」
「どのみち、私が入手した程度の情報で、これが防げた可能性は低いわ」
「でもゼロじゃない」
「確率の問題を議論するの?ばかばかしいわ」
「ともかくあんたは黙ってろ。言い訳じみた話は別の機会に、もっと面倒な相手にすればいいんだ」
セイファの苛立ちを、記者は肩をすくめただけで受け流した。
セイファがサラを見た。霧を纏う湖面のようだ。冷たくて、静か。
思わず身を震わせるサラを、ナターリアが抱き寄せた。だが、冷気は容赦なく侵食してくる。
「ご同行願います。お分かりでしょうけれど、拒否権はありません」