バッタの墓標
題(悪夢/カード/扇風機)
向かいの道路に陽炎が立ち上っている。風は凪ぎ、澱んで停滞した空気が、草いきれのにおいとともに体中にべたべたとまとわりついている。また汗が噴き出してきた気がした私は、首にかけたタオルの端で顔を拭く。何度拭ったかはもう忘れた。
砂場、ブランコ、アスレチック。週に一度のお出かけ。保育園からすぐ近くにあるこの公園で、子供たちは思い思いの帽子を被り、汗を飛ばしながら、はしゃぎまわっている。
子供のほうが地面に近いから、太陽の照り返しを強く受けてるはずなんだけど……。立っているだけの私のほうが先に暑さにやられそうだ。
「そろそろ帰りましょう」
そこで園長の声が公園に響き、私はほっと胸を撫でおろした。
渋る子供たちをなだめながら一列に並ばせ、園長が前から数え、私が後ろから数え、人数を確認する。全員、いる。
「さ、帰ろう。帰ったらまずお水を飲んでね」
足取り重く、園児の列が進み出した。私は周囲に気を配りながら、一番後ろをついていく。
前を歩く女の子の帽子から覗く、綺麗でさらさらした髪が、歩くたびに揺れる。一番手のかからない、麻友ちゃんの背中だ。その首には、何かストラップのようなものがかかっている。なんだろう、と思っていると、声を掛ける暇もなく保育園についた。
外出はこのくらい近くないと、親に難癖つけられるからなぁ。何かあったら責任とれるの、とかなんとか。
水道で園児たちが水を飲んでいる横で、私も水筒に入ったスポーツドリンクをがぶ飲みした。
「何が入ってるの?」
いつの間にか麻友ちゃんが、下から見上げていた。首にかかったストラップの先には、虫かごがあった。
「水。麻友ちゃんのは?」
「バッタ」
私はしゃがみ、虫かごを眺める。雑草の中に放り込んだら紛れ込んでしまいそうな萌黄色をしたバッタが、狭い虫かごの中を跳ね回っている。さっきまでの子供たちみたいに元気がいい。
「こんなにいっぱい取ったんだ。すごいねー」
麻友ちゃんの頭を撫でる。いつもだったら嬉しそうに頬を緩めるはずの麻友ちゃんが、今はただ、無表情で私を見つめている。微かな違和感。
けれどそこで昼寝の準備が始まった。それをガラス越しに確認した私たちは向かい合うのをやめ、中に入った。
うちの保育園では、三歳未満の子供たちと三歳以上の子どもたちを別々の保育士が担当して、三歳以上の子供たちのほうは、昼寝の時間帯だけエアコンを使っている。設定温度を高くして、扇風機との併用。さっきまで外にいた私としてはこれだけでも十分満足で、子供たちの中にも、ぐずる子はいない。悪夢にうなされている子はいるけど。あの子はいつも夢見が悪い。苦笑いしつつ、部屋を見回す。どうやら全員、眠りに入ったようだった。
子供たちは園長が見てくれているので、私はその間に、おもちゃが散乱する部屋の中に手をつけた。トランプ、積木、絵本、粘土、そういったものをひとつひとつ片付けていると、
「麻友ちゃんがいない!」
という園長の悲鳴に近い声がした。私は手に持っていたトランプのカードを放り出し、慌ててガラス戸を開けた。ガラス戸は鍵が閉まっていたはずだが、小学校を控えた麻友ちゃんなら自分で開けられる。
左右を見回すが、目に付くところに麻友ちゃんの姿はない。道路に飛び出したんじゃないかと思い、通りまで走った。いない。
昼寝の時は確かにいたのに。どうしよう。どこかで事故にでも遭ってたら。
麻友ちゃんへの心配が半分、責任問題という現実的な言葉の重さが半分。その狭間で立ち尽くした私は、園内をまだ探していないことを思い出した。麻友ちゃんは頭のいい子だから、勝手に遠くまで行ったりはしないはずだ。都合のいい想像で自分を奮い立たせて、園の敷地に戻った。
都合のいい想像は、当たってくれていた。園長が、麻友ちゃんの背中を押しながら、ガラス戸を開けようとしているところだった。
「どこにいたんですか?」
息を切らしている自分が恥ずかしくなり、私は小さな声で聞いた。
「裏手のところで、アリの巣を見てたわ。ごめんなさい、私が目を離したせいで」
「あ、いえ、園長のせいではないです。私の気が緩んでしまっていて……」
お互いに責任の奪い合いをしていると――本当に麻友ちゃんがどこかへ行っていたら、たぶん責任の押し付け合いだっただろうが――麻友ちゃんが不思議そうな顔をして私たちを見上げていた。その首には虫かごがかかっていた。中にいたバッタは全部、消えていた。
「麻友ちゃん、お外で何してきたの?」
そう聞くと、麻友ちゃんは建物の裏手のほうを指差した。
「見てきて」
微笑した麻友ちゃんに、園長と二人で目を見合わせる。園長が軽く頷いて見せたので、私は麻友ちゃんに
「わかった。見てくるから、大人しくしててね」
麻友ちゃんは園長に連れられて中に入っていった。
んー……暑いけど、まあ、我慢するか。
「なんだろ……」
麻友ちゃんは花を使って綺麗に飾り付けるのが好きだから、その花束にバッタたちを戯れさせているのかもしれない。
私は角を曲がり、保育園の建物の裏手に出た。
色の薄い土の上に、バッタの姿が見えたので、しゃがむ。
アリの巣の近くに置かれたバッタは四肢をもがれていた。そのバッタに、アリが群がっている。鮮やかな萌黄色が、黒の六本足の大群に隠れんばかりだった。既にその体は、細かく噛み砕かれ、運搬され始めていた。時々、最後の抵抗をみせるようにバッタの体が動くが、四肢を失っているので動けず、アリたちの為すがままになっている。近くを見ると、他にも似たような状態のバッタが、いくつも転がっていた。
自分の腕にとまった蚊も殺せない麻友ちゃんが、これを……。
気持ち悪くなってきて、そこから目を離したら、また別のバッタたちが目に入った。
四匹のバッタには、四肢はあったが、頭がなかった。頭はねじ切られ、それをまた、別のアリの群れが運んでいた。
四匹の死体の近くに、それぞれ砂文字が書いてある。
おかあさん
おとおさん
ゆーちゃん
みーちゃん
普段の自分なら、道端で虫が死んでいたってなんとも思わない。ただ風景の一部として切り取って、過ぎ去っていく背景の一つとしてしか見ない。
それなのに、なんだか、昼に食べたものが、喉の奥までせり上がってくるような感覚がした。
私は軽く口を押さえながら、立ち上がった。
中に戻ると、みんなが昼寝をしている中で、一人だけ布団に座ったままの麻友ちゃんが、無表情で布団を見つめていた。私は、そんな麻友ちゃんのそばに寄り、見下ろした。
どうしたの、何かあったの、あんなひどいことをしたら駄目じゃない、そういったことを、言うべきなんだろう。けれど口は空気を吐き出すだけで、音として出てくれなかった。
私は麻友ちゃんの背後に座り、麻友ちゃんを自分のほうに引き寄せた。頭を抱えて、抱き締める。まだ体が出来上がっていない、小さな体。
「せんせい、暑い」
涼やかな風が麻友ちゃんの髪を撫で、続いて私の前髪を揺らした。
扇風機の回る音だけが、部屋に響いている。
私は更に強く、麻友ちゃんを抱く腕に力を入れた。
(2012/5/11)




