十字路の牢獄
題(イヤホン/迷路/アンテナショップ)
カナカナカナカナ……。
イヤホンから聞こえる音が途絶え、代わりに、ヒグラシの鳴き声が響く。鳴き始めは風情があるなというくらいにしか感じなかったが、今ではただの雑音でしかない。
足元の「止まれ」の白線の上で、俺は立ち止まった。車一台が通れる程度のこの道をまっすぐに行くと、地方公務員の社宅が六棟。そこに俺の住んでいる家がある。はずだ。
首を巡らせる。右側は生垣によって囲われた木造家屋。左側はブロック塀で目隠しをした木造家屋。似たり寄ったりの家々の前を道路が走っている。
何の変哲もない、十字路。
沈まない夕陽に気味の悪さを覚えながら、俺はまた、歩き出す。十字路を通り過ぎて、両脇をブロック塀に圧迫された道を歩くと、途中に、アンテナショップが見えてくる。県内の特産品を県内でPRするという、なんだかよくわからないことをやっているお店だ。そこを通り過ぎると、大通りに出る。はずなんだ。
けれど俺はまた、十字路に戻っている。いや、目は悪いほうじゃないから、さっきの十字路にいた時点で、またこの十字路に戻ってくることは分かっていた。だけど歩かずにはいられなかった。ボールペンのインクが切れたあとも、インクが出てこないか試してしまうアレだ。別のパターンも試したが、右に行っても駄目、左に行っても駄目。
俺は、拾った石で、「止まれ」の白線近くのコンクリート上に、回数を記録していた。今回でちょうど、百。俺は数字のゼロを書いてから、石を放った。
考えようとしているのに、カナカナカナカナ……うるさい。俺は耳を塞ぎ、うずくまった。それでも聞こえてくる。まるで頭の中で直接鳴っているかのように。
俺はありったけの空気を吸い込み、そして怒声とともに吐き出した。
「ここから出せ!」
迷い込んでからずっと出せなかった声が、ようやく出た。
ヒグラシが鳴き止む。
俺は耳から手を離し、周りを見回した。これまで何もいなかったはずのブロック塀に、一匹の蝉が、とまっていた。
「またあんたか……」
『そう言われてもねえ』
頭の中に、俺と同じくらいの……高校生くらいの女の声が、響く。
「その、頭の中に直接言葉を突っ込んでくるのやめろ。気持ち悪い」
『ここに勝手に迷い込むのはいつも決まって、君のほうなんだよ。また何か辛いことでもあった?』
「蝉に同情されるようなことはないね。つーかこの迷路はなんなんだよ。毎回毎回」
『子供のころ、何度も続く住宅街の十字路を歩いていて、このままここに囚われ続けるんじゃないかって思ったこと、ない?』
「ない」
『私はあるよ。まあそんなことばっかり考えてるから蝉になっちゃったんだけどね』
彼女は――と言って差し支えなければだが、カナカナカナカナ……と鳴いてみせた。
俺はコンクリートの上にあぐらをかいて、彼女を軽く睨んだ。
「なんでメスが鳴いてるのかも分かんねぇし」
『うんうん。世の中は不思議でいっぱいだね』
「なんで夏でも冬でも、出てくるのかも」
『だから、そんなこと私に言われたってねえ』
「なんで俺が一番つらいときに限ってこの迷路に迷い込むのかも」
分からないことだらけだ。
俺はコンクリートの上に視線を落とし、目を閉じた。
今朝、家であったことを思い出しそうになり、更に強く、目を閉じた。
その途端、彼女は、話題を変えた。
『ねえ、君。粘菌って知ってる?』
「は?」
『黄色くて、アメーバのようにただ蠢いてるだけの生き物なんだけど、その粘菌を、立体化した迷路の入り口に置くの。迷路の出口にはエサを置いてね。すると粘菌は、迷路脱出の最短距離を導き出す!』
彼女は嬉しそうに語りながら、
『つまり、答えが示されてる迷路の出口に辿り着けない君は、菌よりも能無しの役立たずってことだよ』
毒を吐いた。俺は反論しなかった。
『顔を上げてみなよ。ここは迷路じゃない。十字路の先には同じ十字路、そんなことは有り得ない』
言われた通りに目を開け、顔を上げる。
十字路の先にはいつも通りの道があり、いつも通りの社宅が、見えるようになっていた。
『うろうろ歩き回ってる間に、少しはすっきりしたでしょ。君はついてるんだよー、こぉんなに優しいお姉さんが慰めてくれるなんて、他の子にはない特権なんだからさー』
「能無し呼ばわりしといてよく言う……」
『家にいるのが嫌になったら、その辺をうろついて体を動かす。今回のアドバイスはこれくらいかな。ほら、立て、少年』
「うわっ」
脇の下に温かな手が差し入れられたような感触。自分では何もしていないのに、俺の体は勝手に浮き上がり、気づけばその場に立っていた。
『いつも言ってるけど、君のことを待っている将来は、明るいものじゃない。だから君は、自分の足で歩け。こんな場所に囚われたら駄目なんだよ。私みたいに、なりたくなかったらね』
俺は蝉のほうを一瞥してから、大通りへ向かう。ヒグラシの鳴き声が後ろから聞こえてくる。
十字路の端のアンテナショップを通り過ぎると、人も車も行き交わない、灰色のペンキで塗りたくられた大通りが目の前に広がった。俺は、灰色の世界と夕暮れの世界のちょうど境目あたりで、足を止めた。
「あんたは」
『ん?』
「あんたは、これからも、ここに留まるしかないのか。こんなところに、ずっと独りで」
『あらら? 同情? あーんなに小さかった君も、大人になったんだね』
「そんな言い方、するなよ。俺はただ……あんたにも、幸せになってほしいんだよ。俺とか、俺みたいなやつのことばっかり、構ってないで」
『私はここから出られないよ。死ぬこともできずに、鳴き続けるだけ』
「どうしてあんたは、そんなことに?」
俺は今までずっと溜め込んできた疑問を、ついに我慢しきれなくなり、呟いていた。
蝉には表情がないから、彼女が何を考えているのかは分からない。けれど彼女は、しばらく考え込むような間を空けてから、応えてくれた。
『言ったでしょ。私は、変なことばっかり考えてた子供だったの。そのひとつがたまたま、蝉になりたい、だっただけ』
「……どうして、蝉になりたかったんだ」
『蒸し暑い夏で、木でできた電柱にとまったヒグラシの、涼しげな鳴き声が響いてた……。私は自分の体から力が抜けていくのを感じながら、ぼうっと空を見上げてたよ。空が真っ青でさあ、電柱がそこに向かって伸びててさあ。そんな場所にとまって、青空にも太陽にも激しく愛情を要求してて、ああ、蝉はいいなあと思った』
俺は何も言えずに、突っ立っている。
『んー……。もうそろそろ言ってもいいかな。相打ちだよ。無理心中しようとした両親と』
カナカナカナカナ、と彼女は一度鳴いてから、続けた。
『私の家は、このあたりにあったんだ。そこで、一緒に死んでくれって包丁を突き付けられた。直感って言うのかな、こいつら、私だけを殺して死なないな、って思った。それで、手首にちょっと傷をつけて、死にきれなかったとか言って同情を誘おうとするな、って。だから、必死で抵抗した。で、はさみとか椅子とか使ってどうにか返り討ちにしたけど、お腹をざっくりやられてて。隣の家に助けを呼びに行こうとしたけど、この十字路で力尽きた』
彼女が情感を込めずに言い切ったので、あまり大げさに憤ることはできなかった。だから俺は、静かに拳を握りしめた。
「そんなの、正当防衛だろ……」
『やめなよ。私が親を殺したのには代わりないんだからさ』
「あんたは……あんたは、確かに人を殺したかもしれない、でも」
『私は死ぬ間際に、蝉になりたかった。だから満足してるよ。日がな一日、誰もいない住宅街の十字路で、ただぼうっと、沈まない夕陽を眺めているだけ。それでたまに、ここに迷い込んだ、私と境遇の似た子たちと喋る。女だったら喋り方を真似して遊んで、男とは世間話で新しい常識を仕入れる。何十年も、そうしてきた』
彼女の声は達観したように、何の感情も示さない。
「なあ、本当に、どうにか、ならないのか……」
『ありがと。救われるよ、その気遣いだけで』
柔らかな声とともに、ぽん、と背中が押された。
『ばいばい。もう来ないでね』
何かが、体を通り抜けた。灰色だった景色は信号機や夕空、店の看板にいたるまで、一瞬にして色彩を取り戻した。無音を伝えてきていたイヤホンからは音楽が鳴り、歩行者の行き交う音も混じり始めた。背後からクラクションを鳴らされた。俺は慌てて歩道によけるついでに、十字路のほうを振り返った。迷路のように感じられたその十字路の隅には、時代遅れの木製電柱が、一本だけ立っている。
真夏のような暑さだったあの場所から戻ってみると、余計に寒さが身に染みた。俺は身震いをした。
それから俺は、自分の足で、地面を踏みしめる。能無しの役立たずにも、自分の足で立つことくらいは、できるらしい。
俺は色鮮やかなオレンジ色の夕景を見上げ、あの迷路……十字路の牢獄に閉じ込められ続けている一匹の蝉を想った。




