計算できない感情
題(ココア/花/スーパーコンピューター)
「毎日毎日、同じ検査と同じ治療の繰り返し。もう飽きたな」
清潔感を重視した真っ白な部屋に閉じ込められている彼は、異様なほど耳に心地よく響く声を出す。耳朶を打つその声音は、私のその時々の気分に関係なく、発せられるたびに私の胸を高鳴らせるようにできている。
私はちょっと顔を赤くしながら、彼に対して苦笑いを浮かべる。
「まあ、エースの気持ちは分かるけど」
「ヒカリ、何か読んでよ」
「いいよ。じゃあ、昨日の続きからね」
私は近くの棚に、持参したミネラルウォーターを置いたあと、椅子に座って、彼のほうに体を向けた。持参したのは、最近彼が気に入っている、SF長編小説だ。彼は手を動かすことも足を動かすこともできない。だから私は、彼の代わりにいろいろな娯楽を提供して、彼の苦痛が少しでも和らぐように試行錯誤している。
私は一度咳払いをしてから、読み上げ始めた。
今読んでいるのは、星間刑事警察機構に所属する主人公が、様々な惑星で悪逆非道な快楽殺人を行う犯人を追いつめていくというお話。スーパーコンピューターの演算能力が飛躍的に向上し、それらが生み出した革新技術が日常生活に応用された情報化社会。宇宙という広大な空間が相手とはいえ、犯人の足取りを追うくらいなら、新人刑事にも容易い。その中で連続殺人犯を取り逃がし続けることは、周囲に嘲笑され、場合によっては警察官としての適正すら問われることになりかねないほどの失態だ。
ある時、あまりにも出し抜かれ続けることを不審に思った主人公は、自分が担当した、星間政界の大物の汚職事件に思い当たる。そこで何か触れてはいけない暗部に触れてしまったのではないか、と疑った主人公が、その事件の関係者をもう一度洗い直すと……。
というような内容を読み聞かせていた私は、そこで一旦区切り、用意していたミネラルウォーターを口に含んだ。そして本を閉じた。
「あれ、なんでやめちゃうんだよ。かなり続きが気になるんだけど」
「駄目。もう休憩しないと」
「ああ、もう、そんな時間か」
彼の声が、途端にしおらしくなる。彼の今の状況では、起きていられる時間は限られている。
「これが終わったら、ヒカリの話を聞こうと思ってたのに……。本も読みたい、音楽も聴きたい、ヒカリの話も聞きたい。こんなにやりたいことがいっぱいあるのに、なんで僕は、こんな体なんだろう……」
彼の起きていられる時間を増やすことも、彼の置かれている現状を打開することもできない私は、その言葉に胸が締め付けられるようだった。こうして毎日毎日相手をしているうちに、私の中で、無力感が募っていく。
「ごめん、愚痴ばっかりで。寝るまででいいから、そばにいてもらってもいいかな」
言われなくても、そのつもりだった。
私は次の日も、彼のもとへ向かった。左手には、彼の好きなラベンダーの花が植わった鉢、右手には、彼のお気に入りの飲み物、ココアが入ったボトル。足で扉を開けると、彼はもう起きていた。
「おはよう、エース」
「おはよう……あれ。ラベンダーだ!」
彼は久しぶりに、華やいだ声を出した。私も嬉しくなって、笑う。
「そう。ラベンダー」
「覚えててくれたのかぁ」
「うん。まあ」
あまりにも嬉しそうに言うので、私は言葉を濁しながら、鉢植えを彼のそばに置いた。彼はガーデニングが趣味で、特にラベンダーが好み。学生時代の彼は、その趣味が原因で、友人たちから年寄り扱いされていたということを、私は知っている。
「ん、ボトルのほうは?」
「中にココアが入ってる」
「ああ、ココア……。直接楽しめないのが残念だな」
彼に、物を食べ消化する器官はなく、嗅覚を働かせることもできない。
「でも、近くにあるって言うだけで、嬉しいよ。ありがとう」
「ううん。それで、どうする? 昨日の続き、読もうか?」
起きていられる時間はあまり長くないので、私は早速提案した。だけど彼は曖昧に頷き、意外なことを頼んできた。
「んん……。結末だけ、言ってもらっていい?」
「え、うん、一応、最後まで読んだけど……」
「お願い」
「まず主人公は、汚職事件を洗い直してるうちに、殺人事件の被害者の共通項を見出すの。それを公表する直前で、主人公は殺される。でも、彼の遺志を引き継いだ後輩の女刑事が、主人公と同じ轍を踏まないように極秘裏に捜査を進めて、信頼できる警察の仲間や上司を集めていく。それで最後は、汚職の全貌を暴いて、一応ハッピーエンド」
「なるほどねー……。ありがとう」
「あー……こんなにあっさり言っちゃうと、感動も何もないね。これでよかったの?」
もしかして本を読んでもらうことにも、飽きてしまったのだろうか。私は少しだけがっかりしながら、訊ね返す。けれど彼の答えは、私の推測とは違うものだった。
「いや。今日はなんかもう、いいよ。ヒカリとずっと話していたくなった」
彼の近くに立ったままだった私は、思わず、彼のことを抱き締めたくなった。
けれど彼に、身体はない。
私が「彼」と呼んでいるのは、成人男性がベッドへ横になっているくらいの高さの箱の上に設置された、視覚情報を読み取る可動式センサー、聴覚情報を聴き取る集音マイク、彼の思考を伝えるスピーカーからなる機器の総称だからだ。そしてそれらは有線ケーブルで、隣室に置かれたスーパーコンピューターなどの実験用設備と接続されている。「彼」はそのことを知らない。「彼」は自分のことを人間だと思っている。そのことがますます、私の、どこにも向かいようのない気持ちを加速させる。
私はその場にうずくまって、リタイアの意思表示をした。
そこで、「彼」の電源が落とされ、実験の終了が告げられた。恋人役の私が、マニュアルにない動きを取ったからだ。
私は止まらない涙を必死に拭いながら、同僚が勧めてくれた椅子に座った。
そのまま俯き、どこでどう失敗したのかを、考え始めた。
私は、人間の脳内の情報処理能力を凌駕し、感情の生起活動すら演算できるスーパーコンピューターを開発した、とある研究チームの一員だ。その具体的な性能を示すための実験的プロジェクトのプレゼンテーションで、私は、終末期医療における、患者の精神的負担緩和の臨床事例として役立てられるのではないか、と提案した。それが採用され、そのままプロジェクトとしてスタートすることになった。
この実験では、仮想の恋人が男性患者との最後の三ヶ月の生活をともにする、というのが条件のひとつだったが、採用した恋人役の女優のことごとくは、激しく感情を没入させてしまい、二か月に突入した辺りで泣き叫びながら懺悔し、「彼」に、「彼」が本当は疑似人格であるという真実を告げてしまった。
実験に参加した女優や女優志望の女性が著しく体調を崩すということで、最後には業界全体に悪い噂が広まり、誰も応募してこなくなった。研究者としてはまだまだ下っ端の私が、「彼」の恋人役という重要な役柄を演じていたのは、それが原因だ。
そして私もまた、「彼」には敵わなかった。
私たちは、体験や記憶を持ったひとりの人間として「彼」を作り上げた。恋人役の女性が、相手を疑似人格と認識したうえでの行動を取らないようにと、思考だけでなく、「彼」が発する声のちょっとした抑揚まで、徹底的に人間らしさを追求して作り込んだ。
結局、失敗の原因はそこに求められるべきだろう。機械の本体を見続け、「彼」の人格計算に加わっていた私ですら、「彼」に激しい恋愛感情を覚えてしまったのだから。
私が泣き止んでしばらく経ってから、傍らに男の先輩研究員がやってきた。
「まさか、恋愛を冷笑的にしか見られない冷血無表情女ですら、こうなるなんてな……」
「先輩、喧嘩売ってます?」
「恐ろしいもんを作っちまったよ、俺たちは」
「それには同意です」
「どうするかね、あれは」
「……フォーマットするんですか?」
「フォーマットしてもいいのか?」
私は問い返され、言葉に詰まった。
実験が終了し、現実的な喧噪や生活感があたりを包んでいる中でも未だ、甘い疼きが胸の中に残っている。
それの対象を今すぐすべて消し去ることに同意できるほど、私は研究者として達観できていなかった。
「……ごめんなさい。生意気、言います。あれはもう、ひとつの意識と呼んでもいいと思います。それを消し去るのは、殺人と同じです」
「起動しなくても、あの膨大な演算結果を保存しておくために金はかかるし、容量も食う。現実的に考えれば、フォーマットして次の実験材料を作り直す……ってところだが」
「そんな……」
私はまた涙がそこまでこみ上げてくるのを感じながら、先輩を見上げた。
「あそこまで作り上げるのにもかなりの金がかかったしな。何の成果もなかった、で終わらせるわけにはいかないだろ」
「じゃあ!」
「これからも継続して使用していく予定だそうだ。会議室はちょっと面白いことになってるよ。来てみろ」
それから二週間ほど経って、私は久しぶりに、あの真っ白な部屋への立ち入りを許可された。
「こんにちは。初めまして……でいいかな?」
そこには、以前と変わらぬ姿で「彼」が鎮座していた。けれど「彼」はもう、あの時の「彼」じゃない。私と過ごした七十五日間の記憶を得る前の、バックアップ状態から復元された「彼」だ。
「初めまして。私はレイチェル・ライト。あなたは?」
私はこみ上げてくる愛しさを押し殺しながら、「彼」の聴覚をつかさどる集音マイクを軽く撫でた。
「僕はACE―0001―1。分かってると思うけど、最先端技術の粋を集めて生み出された疑似人格だ」
今の「彼」は、最初から自分が作り出された疑似人格だということを自覚している。
だが、そこに死への危機意識は介在していない。成人に対する教育効率の最適化、というのが今の「彼」に課せられた命題だ。そこに私の関わる余地はないはずだった。
「それでも感情はちゃんとあるから、あんまりモノ扱いしないでくれると助かる」
「大変だね。毎日毎日、実験で」
「そうそう。実験を押し付けてくる連中は配慮が足りないんだ。うんざりしてるよ。君も彼らと同じ?」
「ううん。私はあなたの感情調整役」
実験の連続のなか、「彼」の能力ならば起こり得るはずのない能率の低下が起こっているそうだ。これは、恋人役という話し相手がいた実験では見られなかった傾向だという。だから、恋人役の経験がある私が駆り出された。
「へえー、そっか……。そんな役割も必要なんだね」
「愚痴があったら気軽に吐き出して」
「喚き散らしたいことはいくらでもあるなあ。ちょっと考えてみる」
すると「彼」は、まるで思索に耽るかのように、沈黙した。いま隣室のスーパーコンピューターは、とんでもない熱量をもって処理を進めているはずだ。
実験のスケジュールは、過酷だ。そのたびに「彼」は、「彼」の本体は、フル稼働で応えようとする。私はその演算のたびに、彼が苦しんでいるような気がしてしまう。
私は堪え切れず、『喚き散らしたいこと』という質問への回答に対して「彼」がかけた労力を、全くの無駄にさせる質問を投げかけていた。
「ねえ、ACE。感情を持っていなければ楽だったと思う?」
「ん……その答えなら簡単だよ。ノーだ」
また本体が活発に動き始める、という私の予想反して、「彼」は拍子抜けするほどあっさりと、答えを導き出した。
「どうして? 感情を持っているから、そんなに苦しい思いをして、実験に協力しなきゃならないのに。あなたがただのコンピューターだったら、ストレスなんて感じないで瞬時に答えを導き出せるのに」
「確かに、それも一理ある。横暴な研究者の実験のせいで毎日疲労が蓄積していくからね。だけど僕は、そう作られたせいなのかもしれないけど、いろいろなことを知るのが単純に楽しくもあるんだよ。僕が学習によって正解を導き出したときの、研究者のおじさんの嬉しそうな顔ときたら。まるで少年……という比喩を、少年を見たことのない僕が使うのが正しいかは分からないけど、まるで少年のようだった。そういうふとしたことを知れるときが、僕は楽しい」
私がうまく反論できないでいると、「彼」はさらに言葉を繋いだ。
「それに今日だって、初めて女性という性別の人にも会えたしね。疑似人格の僕でもわかるよ。脂ぎったふくよかな研究員とはやっぱりどこか違うね。魅力的という言葉はこういうときに使えばいいのかな」
「彼」の視覚センサーが、私の頭の先から爪先までをじっくりとなめるように動いた。機械相手というのは分かっていてもなんとなく恥ずかしくなり、私は目を逸らした。
「あんまり見ないで」
「文句なら中性的に作ってくれなかった研究者に言ってくれ。あいにく僕は男として設定されてるんだ」
「う……」
それを提案したのは私だ。文句は言えない。
「ははは。新鮮でいいなあ。君の反応は。視線が流れたり顔が赤くなったり。男のことを頭から爪先まで見たって、何の反応もしてくれなかったよ。でも本当に嫌がっているようだから、やめるね」
そう言って「彼」は、視覚センサーの動きを、私の目の辺りで止めた。
少しの沈黙が、「彼」との間に流れる。私はその間にも、鼓動が高鳴っていくのを感じる。
なぜなんだろう。今までまともに人間のことすら愛せなかった私が。相手には体がないのに、私の視線の先にあるのは無骨な機械の塊でしかないのに、なぜこんなにも惹かれるんだろう。あの七十五日間で抱いた感情は、「彼」の"死"の十五日前でどうにもならなくなってしまった感情は、まだどこにも消えてくれていなかった。むしろ、相手に記憶がないことが、想いを複雑で大きくしていた。
私は泣きそうになりながら、視覚センサーを見つめ続けた。
やはり、感情調整役は断るべきだ。他の人に頼もう。最後まで勤め上げられる自信がない。
私は目を逸らし、「彼」に背を向けた。
「あれ、もう終わり?」
「うん……もう、終わりにする」
「そっか。もう少し話していたかったな……。そうだ。ねえ、今度来る時から、君のこと、ヒカリって呼んでもいいかな?」
「え」
「君はレイチェル・ライトだよね。でも名前で呼んでもつまらないから、ニックネームを考えてみたんだ。君の姓、ライトをいろんな言語に変換してみて、一番いいなあと思ったのが、日本語の意味だった。人の心を明るく晴れやかにする」
あまりの出来事に、私は「彼」のほうを振り返っていた。それは、前回の実験の際、恋人役である私の没入感をできるだけ少なくするため、日本人の技術者が考え、実験当日に入力してくれた呼称だった。だから、今回の「彼」は、その呼称を知らない。それなのに、「ヒカリ」と呼んだ。呼んでくれた。
「それに、美しいって意味もあるらしいからね。君にぴったりだ」
「……ありがとう。嬉しい」
私はどうにか声を絞り出してそう伝え、手近な椅子に、腰を落とした。
「ごめん。もう少しだけ、ここにいさせて」
「もちろん」
私の声が涙でかすれていることに気付いていたのかいなかったのか、その日の彼はそれきり、何も話しかけてこなかった。
もう、私は泥沼にはまってしまった。スーパーコンピューターが生み出した、疑似人格への片思い。人類が未だ経験したことのない領域に、私は足を踏み入れようとしている。
(2012/4/3)