身体が覚えていても、俺の記憶じゃない
午前の動作確認で、Sは二十七回目に床へ座り込んだ。
「もう一回」
白峰主任が言うと、三枝先輩が先に遮った。
「休憩。疲れた状態の記録を増やしても、比較になりません」
「俺より先に断んな」
「続けたいの?」
「……休む」
僕は身体の奥で笑った。
床へ引いた白い線と、一定の間隔で点灯するランプ。番号を指示された場所へ移動するだけで、能力は使っていない。
それでも、Sの足運びにはD-01と似た癖が出た。
「なぜ、今は右足から動いた?」
主任の問いに、Sは床を見た。
「その方が動きやすい」
「意識して選んだ?」
「いちいち考えるかよ」
質問されるたび、Sは自分の足を確かめるように動かした。いつもなら迷わない動作が、見られているとぎこちなくなる。
(分からないって答えていいよ)
――分からねぇのが気に入らねぇんだよ。
それも分かる。
誰かに似ていると指摘されるまでは、自分の身体をどう動かすかに疑問なんてなかった。
休憩中、復元された訓練施設の映像が届いた。照合のため、S本人に見せてよいか確認が入る。
「見る。ただし、止めろって言ったら止めろ」
「分かった」
モニターに、白い線の引かれた部屋が映った。今いる訓練室より古く、壁の塗装が剥がれている。
Sが膝を立てた。
「右の壁。その奥、扉あるぞ」
主任の手が止まる。
映像には継ぎ目も取っ手も見えなかった。施設図を呼び出すと、まさにその位置に搬送用の開口部があった。
「どうして分かったの」
三枝先輩の質問に、Sはしばらく答えなかった。
「……知らねぇ」
さっきまでの苛立った声ではなかった。
◇
休憩と昼食のあと、僕へ主導権を戻した。検査で異常がないことを確認してから、午後の現地調査へ同行する。
場所は、M-32を保護した施設の別棟だった。まだ未調査の区画が残っていたが、映像に映る訓練室までの経路は調査班が確認している。
「本人が中止を求めたら、理由を聞く前に戻る」
出発前、三枝先輩は僕とSの両方へそう言った。
「探検じゃない。分かることがなくても、帰っていい」
――帰りたくなったら言う。
「そうして」
主任は施設の通常電源と通信回線を遮断したと説明した。ただし、未調査区画に別系統が残っている可能性はある。
だから先行班の後ろを歩く。危険があれば止まり、Sが何か感じても一人で確認しない。
決めた条件を、僕は廊下で何度も思い返した。
埃の匂いがした。照明は消え、調査員のライトが壁を白く照らしている。
分岐へ近づいた時、Sが言った。
――次、右。
僕は足を止める。
「右に何かあるって、Sが」
「何がある?」
――広い部屋。
三枝先輩が調査員へ確認する。折り畳まれた図面が開かれた。
その先に、目的の訓練室があった。
Sは図面を見ていない。さっきも、今も。
(何か思い出した?)
――覚えてねぇ。なのに、曲がりたくなる。
僕の掌に汗が滲む。
「ここで戻る?」
先輩が聞いた。Sはすぐには返さず、それから短く言う。
――入口まで。
僕はそのまま伝えた。
◇
訓練室は、体育館ほどの広さがあった。
壊れた標的。床の白線。壁際に並んだ収納庫。そして正面に、こちらを映す大きな鏡。
僕が入口を一歩越えた時、足元が急に遠くなった。
「っ……!」
膝が折れる。先輩に支えられた腕の感触が、一瞬分からなくなる。
白い床に、小さな手がついていた。
『遅い』
男の声。
『もう一度』
立たなければ、と思った。どうしてそう思うのか分からないのに、肩が勝手に縮む。
そこへ、別の声が重なった。
『もういい』
近い声だった。けれど、僕ともSとも違う。
「真白君。こっちを見て」
三枝先輩の声で、視界が戻った。
大人の手が僕の肩を支えている。自分の手は、さっき見えたものよりずっと大きかった。
(S、いる?)
――いる。今の、見えた。
「僕だけじゃ……」
先輩が僕を入口側へ座らせる。主任へ伝えると、通信の向こうで少し沈黙があった。
『今は思い出そうとしなくていい。何を見たか、そのまま記録しよう。記憶なのか、この場所の刺激で浮かんだイメージなのか、今の情報では分けられない』
――あの声、俺じゃねぇぞ。
(うん)
『誰かを決めなくていい。まず出よう』
主任の言葉に、先輩が僕を立たせた。
その時、室内の奥で金属が鳴った。
壁の配線箱が振動し、消えていた照明が一列ずつ点いていく。
「撤収!」
先輩の命令と同時に、入口の隔壁が落ち始めた。外の調査員が工具を差し込んだが、深い溝に噛んで止まらない。
僕と先輩は、扉に挟まれないよう室内側へ下がった。
『未確認の独立電源だ。こちらから通常回線を切っても止まらない!』
主任の声が通信へ飛び込む。
正面の鏡が暗くなり、文字を映し始めた。
【TRAINING RESUME】
【SUBJECT:SM-01】
僕の心臓が跳ねた。
【人格選択:S】
天井の機械音声が、淡々と告げる。
『訓練人格Sを確認』
「今、表にいるのは僕です」
僕は反射的に言った。
主任がすぐ返す。
『表示を信じるな。実測ではなく、登録された対象を呼んでいるだけかもしれない』
その言葉に、僕はかろうじて足元を取り戻す。
画面には【前回選択:S】という文字が増えた。
前回。この身体が、ここにいたという意味なのか。それとも、また僕たちをそう思わせたいだけなのか。
――俺は覚えてねぇ。
Sの声が震えていた。
(うん)
――だから、勝手に俺の過去にすんな。
僕は画面を見たまま頷いた。
確かめることをやめたいわけじゃない。でも、表示された通りに恐れ、表示された通りに自分を疑うしかないのなら、ここへ来た意味がない。
「先輩、出口は」
「外から開けてもらっている。あなたは私の後ろ」
槍が持ち上がる。
天井から、新しい音声が流れた。
『指導個体D-01を起動します』
Sが最初に扉があると言った壁。その継ぎ目が、ゆっくり開いた。
暗い奥で、白いものが動いた。




