僕の身体で勝手に戦うな
速い。それしか分からなかった。景色が後ろへ吹き飛んでいく。校舎裏の壁も、フェンスも、さっきまで僕を殴っていた男子も全部が静止して見えるくらいに僕の身体が勝手に動いている。いや、正確には――僕の身体を、Sが動かしている。
(ちょ、ちょっと待って!)
――待つかよ。
(僕の身体だよ!?)
――俺の身体でもあるだろ。
(そういう問題じゃなくて!)
意識はある。景色も見えている。なのに指一本、自分の意思では動かせない。最悪だった。僕は自分の人生で初めて、身体を乗っ取られる恐怖というものを知った。そしてもっと最悪なことに乗っ取った奴が、とても楽しそうだった。
「おら!」
Sが地面を蹴る。次の瞬間、黒いパーカーの男の懐へ潜り込んでいた。男の目が大きく開く。
「速――」
言い終わる前に僕の拳が男の腹へめり込んだ。鈍い音。男の身体がくの字に折れる。そこへもう一発。さらにもう一発。右。左。蹴り。肘。Sは笑っていた。
「遅ぇ!」
(やめて!)
――は?
(もう十分だよ!)
――こいつ、お前を殺そうとしたんだぞ。
(でも!)
――でもじゃねぇ!
男が腕を振り回す。赤黒い衝撃が放たれた。Sは首を傾けるだけで避けた。直後、速度がまた上がった。僕にも分かった。Speed。Sが拳や蹴りを当てるたび、身体の奥にMomentumとは別の熱が増える。そして、その熱を使った直後だけ速度が一段跳ね上がる。
僕は攻撃を受けて力を得る。Sは相手へ攻撃を通して力を得る。似ているのに、向きは正反対だった。僕は受けて、Sは攻める。僕は耐えることを選びがちで、Sは仕留めることを選びたがる。
「ふざけんな……!」
男が叫んだ。右腕の赤黒い煙が一気に膨れ上がる。嫌な感じがした。
(S!)
――分かってる。
地面が爆発した。凄まじい衝撃。けれど、爆炎が広がるより先に、僕たちはそこから消えていた。いや、Sが、僕の身体を移動させていた。校舎の壁。
フェンス。
室外機。地面。あらゆる場所を足場にして、跳ねるように男の周囲を走る。
「どこだ……!」
男が周囲を見る。Sは楽しそうに笑う。
「こっち」
背後。男が振り向く。もういない。
「こっちだよ」
右。
「クソが!」
またいない。Sの速度は、既に普通の人間が目で追える範囲を超えていた。
(S! 遊ばないで!)
――遊んでねぇよ。
(絶対遊んでる!)
――じゃあ終わらせる。
嫌な予感がした。Sが腰を落とす。地面を蹴る。今までで一番速い。男へ向かって一直線。拳を引く。
(待って!)
――遅い。
「死ね」
(駄目だ!)
その瞬間、身体が止まった。拳が男の顔の数センチ手前で。
「……あ?」
Sが呟く。僕も分からなかった。でも、右腕に力が入らない。いや、身体全体が重い。
――なんだこれ。
(知らないよ)
膝が落ちる。速度が消える。世界が元の速さへ戻ってくる。そこで初めて気づいた。痛い。とんでもなく痛い。Momentumで力を得たからといって、傷が消えるわけじゃない。さっき受けた衝撃も、転倒も、爆発も、身体にはきちんと残っている。
それなのにSは、僕がどれだけ傷ついているかを知らないまま、限界を無視して走り続けていた。
――……お前。
Sの声が低くなる。
――最初からこんなボロボロだったのか?
(……たぶん)
――たぶんじゃねぇ。
黒いパーカーの男が笑った。
「なるほどな」
立ち上がる。
「速いだけか」
右腕に赤黒い光が集まる。
「なら、止まった瞬間に終わりだ」
まずい。動けない。Sも反応できない。男の腕が振り下ろされる。その瞬間だった。
「伏せなさい!」
女の声。直後、男と僕の間へ何かが落ちた。銀色の棒。いや、槍。地面に突き刺さった瞬間、透明な壁が展開された。赤黒い衝撃が激突する。轟音。なのに、壁はこちらへ一ミリも動かなかった。
「誰だ!」
男が叫ぶ。校舎の屋上。そこに一人の少女が立っていた。僕たちと同じ制服。長い黒髪。赤い腕章。見たことがある。三年生の先輩。確か、生徒会の人だ。少女は屋上から飛び降りた。
「えっ」
着地。普通なら脚を折る高さ。なのに、彼女は何事もなかったように立ち上がった。地面に刺さった槍を引き抜く。
「対象確認」
少女の視線が黒いパーカーの男へ向く。
「未登録能力者。校内への侵入。民間人への能力使用」
続いて。僕を見る。一瞬、ほんの一瞬だけ。その目が細くなった。
「……新規覚醒者、一名」
「二名だ」
Sが訂正した。
(余計なこと言わないで!)
少女がこちらを見る。
「二名?」
「いや、何でもないです!」
僕は慌てて答えた。…………答えられた。
「あ」
身体が動く。Sの支配が解けている。
――チッ。
頭の奥から舌打ち。
(戻った!)
――うるせぇ。
どうやらSが限界を迎えたことで、僕に主導権が戻ったらしい。少女は眉を寄せた。
「独り言?」
「ち、違います!」
――独り言だろ。
(黙って!)
「……?」
まずい。絶対変な奴だと思われてる。いや、今はそれどころじゃない。黒いパーカーの男が後退していた。
「政府の犬か」
少女の目つきが変わる。
「その呼び方をするということは」
槍を構える。
「あなたは『リベル』関係者ね」
リベル。
聞いたことがない。男は笑った。
「学生にまで首輪つけてんのかよ。管理局は」
「質問に答えなさい」
「嫌だね」
男の腕が光る。少女の槍も淡く発光する。僕は立ち上がろうとした。
「動かないで」
言われた。
「でも」
「邪魔」
一文字で心が折れた。
――ダッセ。
(うるさい)
少女が踏み込む。男が衝撃波を撃つ。槍が振るわれた。一閃。赤黒い衝撃が真っ二つに裂けた。
「は?」
僕と男の声が重なる。
「能力名――Measure」
少女が言う。
「私が認識した力は、出力を測定できる」
槍が男の胸元へ突きつけられる。
「そして」
男の腕から赤黒い煙が消えた。
「測定した範囲内なら、制限できる」
「能力を……!」
「止められる」
少女が槍を振った。男の身体が地面へ叩き伏せられる。一撃だった。あれだけSが殴っても倒れなかった男が。
「確保完了」
少女は耳元へ手を当てた。
「こちら三枝。侵入者一名を確保。新規覚醒者を確認」
誰かと通信しているらしい。僕は嫌な予感がした。
「……あの」
少女――三枝先輩がこちらを見る。
「何?」
「新規覚醒者って、僕のことですよね」
「そう」
即答だった。
「その……このあと僕、どうなるんでしょう」
三枝先輩は少しだけ考えた。そして、
「検査」
「検査」
「事情聴取」
「事情聴取」
「能力測定」
「能力測定」
「場合によっては保護」
「保護……?」
――監禁だろ。
(やめてよ!)
三枝先輩は僕の顔をじっと見る。
「それと」
嫌な間。
「人格検査」
心臓が跳ねた。
「……なんで?」
「あなた」
槍の先が僕の胸へ向けられた。
「途中で別人になったでしょう」
空気が止まった。僕の頭の中も止まった。
――殺すか?
(なんでその発想になるの!?)
「能力による精神変質か」
三枝先輩の目が鋭くなる。
「あるいは――」
少しだけ。ほんの少しだけ声を落とした。
「元々、二人いるのか」
僕は答えられなかった。答え方が分からなかった。すると頭の中でSが笑った。
――バレたな。
最悪だ。覚醒したその日に僕の人生最大の秘密は政府の人間らしい美人な先輩に、あっさり見抜かれた。




