痛いなら、痛いって言え
白い霧の中へ飛び込むと、一歩、二歩、三歩で何も見えなくなった。
「三枝先輩!」
『聞こえてる! 対象は校庭中央!』
イヤホンから三枝先輩の声が返る。
『能力はM/Mist! 霧そのものに毒性は確認されてない!』
「じゃあ安全?」
『視界の先を見てから言って!』
直後、白い壁が横から叩きつけてきた。
「ぐっ!」
身体が吹き飛び、地面を転がる。霧じゃない。大量の水分を含んだ空気そのものが、圧力の塊になっている。受けた衝撃がMomentumのMPへ変わり、身体の奥に少しだけ熱が溜まった。
――一発だけだぞ。
Sが言った。
(分かってる)
立ち上がる。
――今の顔は分かってねぇ。
(ちゃんと避けるよ!)
――お前の「ちゃんと」は信用ならねぇ。
ひどい。でも否定できない。また霧が揺れる。今度は正面。僕は横へ飛んだ。
圧力が、さっきまでいた場所を通り抜ける。
「避けた!」
――報告すんな!
「真白君、独り言!?」
三枝先輩の声が飛ぶ。
「違います!」
――違わねぇだろ。
ややこしい!
霧の奥に人影が見えた。倒れている生徒だ。僕は駆け寄る。
「大丈夫?」
「う……」
意識はある。呼吸もしている。僕はその生徒を抱えて、霧が薄い場所まで運ぶ。一人。次。また一人。
三人目を運ぼうとした、その時だった。
――待て。
(何?)
――いつまでやる気だ。
足が止まる。
(倒れてる人が)
――管理局が後ろから来てる。
確かに、遠くから職員たちの声が聞こえる。
――お前の役目は原因止めることだろ。
僕は校庭中央を見る。見えない。でも、あの子がいる。ずっと人工的に痛みを与えられながら。
「……うん」
僕は走った。今度は、倒れている人を見ても止まらなかった。助けないんじゃない。任せる。それだけなのに、胸が痛んだ。
◇
「来ないで!」
少女の声が近い。霧の向こうにようやく姿が見えた。制服姿で、胸元には赤いランプを点滅させる黒い装置が付いている。
少女は自分の身体を抱きしめるように震えている。
「痛い……!」
装置が光る。
「やだ……もう……!」
霧が爆発する。来る。僕は反射的に腕を構えた。
――避けろ!
身体を伏せる。頭上を圧力の塊が通過した。危なかった。また受けようとした。
「その装置! 外せない!?」
僕は叫ぶ。
「無理……!」
少女が胸元を掴む。
「触ると……もっと……!」
装置が光った。少女が絶叫する。
「ぁあああっ!」
霧はさらに濃くなる。
『真白君!』
白峰主任の声だった。
『装置が痛覚へ直接刺激を送っている!』
「止める方法は!」
『解析中だ!』
「遅い!」
少女が膝をつく。僕は駆け寄ろうとした。その瞬間、霧の向こうで、人影が一つ動いた。
現れたのは、ガスマスクと黒い服の男だった。手には小さな端末を持っている。
「……誰」
男がこちらを見る。そして端末を操作した。少女の装置が赤く光る。
「やめろ!」
僕は走る。男は笑った。
「近づけば出力を上げる」
指がボタンの上。僕の足が完全に止まった。
「そうそう。いい子だ。実験の邪魔をするな」
「実験……?」
「貴重なんだよ」
男は少女を見る。人を見る目じゃない。
「痛覚刺激だけで、M型がどこまでMPを生成できるか」
「この子は苦しんでる!」
「だから?」
その一言で、身体が勝手に動きそうになった。
――待て。
今度はSが止めた。
(でも!)
――あいつの指見ろ。
男の指は端末のボタンにかかっている。僕が近づけば押す。なら、正面からは行けない。
「真白君!」
三枝先輩の声に続いて、通信が入る。
『増援まで二分!』
二分は、この子には長すぎる。
「……僕に付け替えて」
口から言葉が出た。男が「は?」と眉を上げる。Sが低く呼ぶ。
――おい。
「その装置。僕もM型だ」
なら、僕へ移せば少女は苦しまなくて済む。男の目が興味深そうに細くなる。
「へえ」
――湊。
Sの声が怖いくらい静かだった。
――今のもう一回言ってみろ。
(だって)
――言ってみろ。
(この子から外せるなら)
――それでお前につける?
(僕ならMomentumで)
――関係ねぇ。
声が強くなる。
――痛ぇのは同じだ。
僕は黙った。
――またそれか。誰かが苦しい。じゃあ俺が代わります。それしかねぇのかよ。
「でも!」
思わず声に出た。男が怪訝な顔をする。
「何だ?」
僕は少女を見る。泣いている。苦しんでいる。助けたい。その気持ちは間違ってない。でも、僕が代わりに苦しむことだけが助けることじゃない。
――使え。
Sが言う。
(何を)
――俺を。
心臓が鳴った。
「……分かった」
僕は男を見る。一回。それだけ。計画的に。
「S」
――おう。
(任せる)
――任された。
意識が切り替わる。
◇
「はぁ」
Sが肩を回した。男が一歩下がる。
「人格交代……!」
「見世物じゃねぇぞ」
「来るな!」
男が端末へ指を伸ばす。Sは動かなかった。Speedを使うためのSPがない。今のSは、まだ速くない。
男が気づいて笑う。
「何だ。大したこと――」
Sが足元の石を蹴った。男の顔へ。
「うわっ!」
反射的に男が顔を庇う。その瞬間、Sは走った。普通の速度で。
「なっ」
Sは男の腹へ一発だけ拳を叩き込む。
「ぐっ!」
攻撃が入った。得られたSPは少量。
「一発」
Sが呟く。溜まったSPを全部Speedへ。世界が少しだけ遅くなる。それで十分。男の指がボタンを押すより一瞬だけ速い。
Sは端末を奪った。
「返――」
追撃はしない。男を蹴り飛ばしたい。殴りたい。もっと殴ればSPが増える。もっと速くなる。でも。
――S。
頭の中で僕が叫ぶ。
(もういい)
「分かってる」
端末を見る。赤いボタンに、出力、接続、解除。どれが正解だ。
「主任!」
『右上! 黄色いアイコン!』
「分かりづれぇUI作んな!」
『私が作ったんじゃない!』
黄色いアイコンを押す。少女の装置からランプが消えた。
「……っ」
霧が止まり、ゆっくり薄くなっていく。少女の身体が前へ倒れた。Sが受け止める。
「大丈夫か」
「……痛い」
少女が小さく言った。Sの表情が少しだけ固まる。
「そりゃそうだ」
「え……」
「痛ぇ時は、痛いって言え」
少女が目を丸くする。
「我慢したって、誰も得しねぇから」
――それ、僕のこと?
(絶対僕のことだよね?)
「うるせぇ」
少女が少しだけ笑った。
◇
三枝先輩が到着した時、霧はほとんど消えていた。黒服の男は拘束され、少女は救護班へ運ばれている。僕たちは校庭の端に座った。身体を動かしているのは、まだSだ。
短時間で戻らない。それが三枝先輩との約束だった。
「他は?」
Sが聞く。先輩の表情が少し曇った。
「三十二校すべてで発生。二十七校は鎮圧済み」
残り五校。まだ終わっていない。
「被害は」
「分からない」
Sの中で僕が何か言おうとする。
――行くとか言うなよ。
(……)
――おい。
(言わない)
少し苦しかった。でも言わない。僕たちが今から行っても間に合うとは限らない。ここを離れていたら、この子も助けられなかったかもしれない。
(S)
――何だ。
(僕たち、一校しか助けてない)
Sは少し黙ってから、
「違ぇだろ」
口に出した。三枝先輩が「何が?」と聞く。Sは校庭を見る。救護されている生徒。泣いている少女。
「一校は助けたんだよ」
僕は何も返せなかった。でも、その言葉を忘れないようにしようと思った。
「全部を助けられなかった」と「一つも助けられなかった」は、同じじゃない。
その時、白峰主任から通信が入った。
『装置のログを解析した』
三枝先輩が端末を開く。学校名、覚醒人数、適性、成功、失敗。大量の数字の中に、生徒たちがまるで試験結果のように並べられていた。その一番下に、僕たちが止めた少女の記録がある。
【M適性――87%】
その横に、見慣れない項目が追加されていた。
【選抜対象:適合】
「選抜……?」
三枝先輩が呟く。白峰主任の声が低くなる。
『Mass Testは、覚醒させることだけが目的じゃない』
画面には三十二校の一覧が並び、その中からいくつもの名前が抽出されていく。
『人工覚醒に耐えられる人間を選んでる』
僕はその名簿を見つめた。学校を襲ったのは実験だった。でも、それだけじゃない。誰かが、もっと大きなことを始めるために能力者を選び、集めようとしている。




