61話
「ん……ケホッ!」
気が付けば、鼻の中に鉄臭さが一気に入っていく。その匂いに伊音は思わず咽せ体を揺らした。その際に自分の状態がおかしくなっていることに気づき、眠ったままの脳はそれにより一気に覚醒する。
「何これ……ここどこ?」
目に映る光景は薄暗く清潔感など無い。そこらに鎮座する機械類は錆に蝕まられており汚れも埃も大量にあった。きれいに掃除されていたカフェとは一変、潔癖症が見たら気絶するような場所に伊音はいた。
それに加え頑丈そうな鎖が体に巻き付き太い柱に固定されている。必死に体を動かそうにもギチギチに縛られ身動きも取れなかった。
「私……どうなったんだっけ……」
取り敢えず状況を把握するため最新の記憶を思い返そうとする。彼女が最後に覚えていたのは自分が何かの呑み込まれる光景、急に店の中に入ってきたそれは手足を縛りあっという間に伊音を包んでいった。その途中であまりの恐怖に気絶してしまったのだろう。
しかし緊迫した状況や死闘に慣れていない一般人の伊音でも自分を襲ったその正体には見覚えがあった。以前鎧蟲と甲虫武者の戦いを目前で見た時に凄まじい勢いで伸びていたのを覚えている。
そうして心の中でその名を挙げようとしたその時、それより前に同じく覚えのある声が入ってきた。
「お、起きたか」
「貴方は……面義さん!」
階段をゆっくり上がりながら顔を見せたのはメンガタクワガタの橙陽面義、伊音とも面会はあり彼女にとって英の仲間の1人という認識であった。
ボロボロのズボンのポケットに手を入れながら余裕綽々といった感じで歩み寄り時間を気にしている。いつまで経っても自分を助けようとしないその姿を見て伊音はこの騒動の犯人が面義であることに気づく。
「面義さん……貴方がこれを……?」
「ああ、簡単に言うと君を誘拐させてもらった。悪いね」
そんなとんでもない事実をあっけらかんとした態度で伝える面義、彼はそのまま伊音が括られている伊音と向き合うように壊れた機械へ腰を下ろす。
誘拐、その単語を聞いたことはあった。しかしまさか自分がその被害者になろうとは思ってもいないだろう。ニュースやドラマとかいうフィクションの世界でしか聞いたことのない犯罪用語に伊音の頭は一瞬真っ白になった。
「ここはカフェ・センゴクから少し離れた廃工場、俺は君の誘拐を依頼されたんだ」
「……私を?何のために?」
面義が求めているのは金になる鎧蟲の死骸、それは伊音も把握していた。だからこそ自分に誘拐する程の価値があるとは思えなかった。それは彼女自身の自己評価が低いからという理由もあるのだろう、しかし自分はしがない一般人。その考えが頭から離れなかった。
「さぁね、それは俺にも分からない。だけどあいつらが君をどうしても欲しがっているのは確かだ。報酬金の額を見ればそれは分かる、何せ1億なんだからな」
「い、1億!?」
そして自分に懸けられたその金額に伊音は思わず大声を上げて驚いてしまった。さっきも言った通り自分にそんな価値があるとは思えない、寧ろなんでそんなに払うのだろうか?誰だって口を大きく開けて驚愕するだろう。
それと同時に、伊音は何故面義が自分を攫ったのかを理解した。確かにそんな大金を得られるのなら例えお金に困っている彼でなくとも誑かされるだろうと。
「見損なった?所詮は金の為なら何でもする男だったのかってな感じに」
「どうして……どうしてこんなことをするんですか!?お金が欲しくても貴方はそんなことをするような人じゃなかったはずです!」
伊音が感じた感情は軽蔑ではなくただ単純の疑問、確かに橙陽面義という男が大金の為に動く男だとは知っていた。それでも決して犯罪には手を染めないぐらいの信念は持っていると信じていたからだ。
そう考えれば疑問だけではなく怒りも含まれているだろう。信じていたのに、どうして裏切ったのか――というものを。
「……覚悟を決めたんだよ、もう手段なんか選んでられない。どうしても俺には金が必要なんだ!!」
感情の昂りと共に面義は勢いよく立ち上がり、詰め寄るように伊音に歩み寄る。そして撫でるようにその顎に触れ、無理やり視線を合わせてきた。
沈黙、2人の視線が交差しそれが続く。そんな目線と共にお互いの感情もぶつけ何も言わない見つめ合いが続いた。
「英さんは貴方を信じていました。なのに貴方は……!」
「……ッ!」
しかし彼女の強い意志の籠った目に圧倒され、バツが悪そうに面義は離れていく。例え鎖で縛られていようとも伊音の心は折れずできる限りの抵抗を続けた。そのまま必死にもがくも流石に鎖の縛りが緩くなることはなかった。
「俺だって、別に人の心が無いわけじゃない。だけどもう時間が無いんだよ……!」
「え……それってどういう意味……」
その発言が気になった伊音がそのことについて聞こうとする前に面義は階段から降りてその場から立ち去っていく。カツンカツンと鋭い足音を鳴らしながら携帯を取り出し通話を始める。
「面義だ、神童鴻大の娘……神童伊音を攫ったぞ。今廃工場だ」
『――ご苦労様。それにしても、この間は断ったのにどういう心変わりかしら?』
相手は何度もあっている組織の一員である女性、彼女に伊音を誘拐したことを伝え報酬金を持ってくるよう頼んだ。
『だけど詰めが甘かったわね、あのカフェの荒れようを見て神童鴻大と黒金大五郎、そして雄白英がその子を探しているわ。そこが見つかるのも時間の問題よ』
「あー……やっぱりか、鎧蟲と戦っている間に攫えばいいと考えたけど……」
『神童鴻大は兎も角、最早あの2人は蟻の足軽に苦戦するような相手じゃないということね』
そして英達が伊音と面義を探していることを確認し、一体どう対処すればいいのかという話になる。甲虫武者特有の虫の知らせさえあれば鎧蟲じゃなくとも助けの声を叫び続ける少女1人見つけるのは容易いだろう。
となればどうにかそれを食い止めなければこの誘拐作戦は失敗に終わる。いざこうして伊音を攫い英たちを裏切った面義だが、一番敵に回してはいけない相手は分かっていた。
『神童鴻大と戦うことはお勧めしないわ、彼は甲虫武者の中でも指折りの実力者。いくら貴方の盾だろうがあっと言う間に倒される』
「じゃあどうすればいいんだよ?」
『……仕方ない、私が近づいてきた奴らの足止めをして、その間に鴻大伊音の受け取りと報酬金の支払いは他の人を向かわせる』
「オイオイ、今アンタ自身が戦うことを勧めないって言ったばかりだぜ?大丈夫なのかよ?」
『一応貴方より強い自信はあるけど、あの男相手に勝てるとも思っていないわ。だから足止め』
そうして助けに来る鴻大たちはその女性が迎え撃つことになり、伊音の受け取りは他の仲間が向かうことになる。
一番の脅威は鴻大、武将勝家と互角以上に渡り合い圧倒的な強さを面義に見せつけた。厄介なのがそんな男と誘拐対象が親子関係にあることで、この行為は最もヤバい奴を怒らせることになるわけだ。
「じゃあ任せたぜ、ギラファの姉御」
そう言って面義は通話を切り、そのまま階段を上がってその廃工場で一番高い場所に足を置いた。そこからは街が一望でき、丁度太陽が沈みかけ空の色が青から夕日の彩になる時だった。
その景色を見渡していると、まるで自分が一番偉いと言い張るように大きな円を見せる太陽と向き合う。そしてスクリーンのように英たちとの思い出がそこにビジョンとして映し出されていき、その良心が面義の心に訴えかける。
――まだ間に合う。今からでも彼女の鎖を……
「……ッ!!」
しかし気づけば伊音のことを助け出そうと考えている自分に面義は気づき、首を何度も振り回してその良心をまるで邪念のように扱って払おうとする。そして頬を叩き眠気を覚ますように自分の体を責めていった。
(何が「覚悟を決めた」だ……結局のところまだウジウジしてるじゃねぇか)
そのまま鉄柵を両手で掴んで俯き、自分の心の弱さに失笑しヘラヘラと震える。
この場合の心の弱さとは金に目がくらんで犯罪を犯すものではなく、一度自分が決めたことをいとも簡単に覆そうとすることだ。あんなに悩み苦しむ思いで決断をしたはずなのに、いざこうして実行して見れば迷走が続く。
(いっそこれから来る英たちを殺して、もうこれ以上後に戻れないようにするのも有りかもな……!)
しかし次第にそんなことを考えるようになるまで落ち着き、街全体に響き渡らせる勢いでゲラゲラと笑い始める。
果たして今のは冗談なのか、それすらも分からなくなって面義は狂ったように笑い続けた。
「俺は生きるぞ!その為なら、鎧蟲だろうが悪魔にだろうが、頭下げて命乞いでも何でもしてやるッ!!」
そしてもう二度と心が折れないようにその決意を夕日の空に投げつける。廃工場の屋上から響き渡ったその叫びは、虚しく大気へと消えていった。
「雄白、お前にはこっちの方に行ってもらいたい」
一方その頃英たち3人は早速伊音と面義の捜索に向かおうとしていた。しかしその前に英は黒金に1枚の紙を受け取る。
「んだよこれ……病院の名前?」
「それは橙陽面義と初めて会った時の次の日に俺が調べさせた奴の素性だ。それによるとあの男は月に1回その病院に通っていたらしい」
そこには病院の名前以外にも様々な面義に関した情報が載っており、いくら製菓会社の社長とはいえ知るはずのないものまで書かれていた。それに対し英は「社長だから色々あるんだな」と自己解決しそれ以上何も聞かず、その紙に目を通す。
「……ってなんでそんなことしないといけないんだよ!今は伊音ちゃんを探す方が重要のはずだ!」
「もしかしたら奴がどこに隠れているのかのヒントがあるかもしれないだろう、まずはその病院に向かえ。何かわかるかもしれん」
そう黒金から指示を受けても英は乗り気にはなれなかった。確かにこういう時の黒金の決断力に間違いはない、だが伊音のことを直接探した早いと少し焦りを感じているのだ。
「……いざ奴と会ったら、説得するつもりなんだろ?その材料が見つかるかもしれんぞ」
「黒金……!」
面義が裏切った事実を受け止めることはできた英だったが、かといって面義を完全に敵とはまだ思えなかった。その為口では伊音を心配し一早く助けに行こうと言ってるが、それと同時に何とか面義を説得で止めることも捨てられないのだ。
黒金はそんな英の迷いに気づきその情報を渡す。前までの黒金だったら説得など下らないと一蹴していただろうに、今となっては雄白英がどういった人物なのか理解していた。
「伊音は俺たちが探す――早く行ったほうがいい、お前の説得を待てる自身は無い……!」
「師匠……分かりました!」
そして一番この中で向かいたいのは鴻大であり、それを踏まえた上で英にそれを任していた。自分に大きなものが託されていることに気づいた英は一時黒金たちと離脱しその病院へと向かうのであった。
では黒金と鴻大は一体何をするのか?それは勿論伊音と面義の捜索である。
「黒金、最大限の虫の知らせで辺りを探し続けてくれ。きっと人目の付かない場所にいるはずだ」
「了解」
そう言って2人は己の虫をフルパワーに使い周囲にそれらしき人影と動きが無いか探していく。この近くにいないことが分かると歩きながら虫の知らせを展開していき、ある程度怪しい場所を目で確認していった。
やがて数分その捜索方法を続けていると鴻大が一早くその存在を察知した。場所は廃工場、ドンピシャだった。
「いたぞ!あそこの廃工場だ!」
「ほう……雄白には悪いが、これはまた思う存分暴れられる場所だな」
そして黒金もそれに気付き、廃工場の内部に2人分の気配も感じ取った。それが伊音と面義のものであるという確証はないが、親子の繋がりがあるためか鴻大は本能的に娘がそこにいると感じ取る。
早速乗り込もうと右手の痣を翳すと、その前に1人の女性が割り込んできた。
「悪いけど、邪魔はさせないわ」
「貴様……面義の仲間か」
紺色のスーツを着てスラリと長い身長の体に引き締まった風格を纏わせ、その黒い長髪は服の一部かと思うくらいあまりにも綺麗だった。大人の女性とはどんな感じなのかと問われたら、間違いなく目の前のこの女性を指名するだろう。
そんな彼女を黒金が面義の仲間だと判断したのはその発言、伊音を助けようと走り出した自分たちを「邪魔させない」と制止させ、こうして敵意を放っているなら当然だ。
それに加え右手の痣――それが自分と彼女が同じ存在であることを示唆している。
「黒金大五郎に神童鴻大、こうして顔を合わせるのは初めてね。あの男とは仲間ではなくビジネスフレンド、別にそこまで仲が良いわけではないわ」
「お前が……俺の娘を誘拐するよう面義に依頼したのか!?」
その女が敵だと分かった瞬間、鴻大は怒りの表情となりそのことについて問いただす。いわば今回の騒動の元凶ともいえる「組織」の一員、自分たちの敵ではないわけがなかった。
「貴方の娘……神童伊音は我々にとって必要な存在、だから少々乱暴なことをさせてもらった。ただそれだけのことよ」
「悪ぶれる様子もないか、じゃあ俺たちも少し乱暴なことをさせてもらうとしよう」
そう言って黒金は痣を構え臨戦態勢に移行。女性に対し戦う構えを取るのは紳士として駄目とかそんな甘い思想は無く、黒金も鴻大も目の前の女性を「得体のしれない敵」としか認識していなかった。
そんな姿勢を見て女は鼻で笑い、右側の袖を引く。そしてクワガタの痣を掲げ糸を放出していく。
「そう言えばまだ名乗ってなかったわね……ハッ!」
そのまま蛹の中で鎧を身に纏い、生まれ変わったその姿を曝け出す。
今までの甲虫武者と比べてその鎧は厳つさなど無く動きやすいものとなっていた。長い髪も纏められ総髪となって揺れている。
しかしそんな凛とした姿とは裏腹に、その手で持つのはその体と同じくらいの長さを持つ長刀。黒金のようにそれを二刀流として扱っていた。その威圧感に2人は思わず引き下がってしまう。一振りしただけで彼女の周りはバッサリと斬られそうだ。
「ギラファノコギリクワガタ――取り敢えずそう名乗らせてもらうわ」




