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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第九章 三花聚頂(三つの花が天宮に集まる)
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三花聚頂 4

「あれは、誰の(はく)なんですか?」

 応接セットの(あおい)の隣、一人掛けの椅子に浅く腰掛けていた守が口火を切った。


 皆は、講義を受ける時と同じように居間に集合していた。三人掛けのソファーには育と皓華(こうか)が身を寄せ合って座り、皓華の右隣には、人が一人座れるよりもさらに広い空間が空いている。いつもそこにいるはずの、夏芽(なつめ)の姿はどこにもなく、辰矢(たつや)と育の間には、武志(たけし)が予備の丸椅子を持ってきて座っていた。


「魄? そうだな、魄か――」

 蒼は、顎に手を当てて考えていた。

「あれは魄というよりは、やはり『鬼仙(きせん)』の類いだろう」

「『きせん』?」

 その言葉を初めて耳にしたのは、守だけではないようだった。この場にいる誰もが蒼に注目し、続きを話し出すのをただじっと待っている。


「『(みち)』を得て真の『人』になるには、『(たん)』を煉るだけでは駄目なことは話したな。『精』を煉ってできた『丹』から真気を発生させ、さらに『陽神(ようしん)』へと変化させる。『三花聚頂(さんかしゅうちょう)』と呼ばれるこの段階になると、実に美しい内景(ないけい)が見られるようになるという。五色(ごしき)の雲が棚引(たなび)き、金、銀、(くれない)の花が咲く。まるでさっき見た光景のような――」

 蒼は静かに続けていく。

「だが、それらに心を奪われてはならない。それは『陽神』の中に()じる陰邪(いんじゃ)が見せているものだからだ。前にも言ったが、この陰邪を含む『陽神』を純粋な『陽』にするために、煉丹(れんたん)の最終的なプロセスの一つとして、陽火(ようか)を起こし、陰邪を焼き尽くすという作業がある」

 蒼は一気にここまで言うと、「では、陰邪とは何か」と改めて皆に問いかけた。そしていつものように、やはり誰の答えも待たずに先を続ける。


「それは、陰鬼(いんき)、外魔、三尸(さんし)七魄(ななはく)九蟲(きゅうちゅう)のことだといわれている」


 守の脳裏には、去年の暮れに図書館で見た、逃げ惑う、奇妙な生物の姿が浮かび上がった。

「それらを全て焼き尽くし、純陽となった『陽神』を、(からだ)という形骸(けいがい)から超脱させる。それを行うことで初めて『陽神』は『(きょ)』に還り、『道』と合わすことができるようになるのだ」

 その段階になれば本人の意思によって、立ち去ることも、形骸である身体(からだ)に戻ることも可能となる。たとえ形骸に戻っても、陰邪が消え尽きているから死ぬことはないという。

「この時一番大切なのは『純陽』ということだ。『陽神』だけではなく、その器である形骸(からだ)も煉り、純陽化させなければならないのだ。何故ならば、(からだ)は『陰』に属し、(つかさど)るのが魄だからだ」

「魄……」

「道家では、(かたち)を煉ることなく、ただ心のみを修する者は、喩え超脱することができたとしても、超出するのは『(よう)(しん)』でなく、『(いん)(しん)』だといわれている。つまり、精霊の()である『鬼仙』だというのだ。ならば陰邪を焼き尽くすことなく超脱した者をもまた、鬼仙と呼ぶことができるのではないだろうか――」

 そして、蒼は「そろそろ、守の問いに答えるとしよう」と言った。


「あの鬼仙は、僕の師姐(ししゃ)に当たる方だ」

姉弟子(あねでし)ということですね」

 蒼は、守の言葉に「そうだ」と頷いた。

「本来ならこの門派を導いてくれるはずの方だった。類い稀なる資質の持ち主で、何人(なんぴと)も及ばぬ功夫(こうふう)を積んでいた。僕にとっても最も尊敬する人の一人。偉大な先達(せんだつ)だった」

「なら、何で鬼仙なんかに……?」

「守。人の執着する心とは、とても怖いものなのだよ」



 あの後、蒼は鬼仙が最初に出現した育の練功房から、必要な物だけを運び出して封鎖し、念のために他の練功房の使用も禁止とし、さらに道観(どうかん)も、同じように封印した。

 真武廟(しんぶびょう)の中は、辺り一面に蛍光灯の破片が飛び散っていて危険だったし、無機とはいえ蛍光灯に使われている水銀のことも心配だった。だが一番の原因は、邪気が廟内に満ち満ちていたからだ。周りの塑像(そぞう)は無事だったが、何故か主神の真武の像だけは、頭から足まで亀裂が入り、左右二つに割れていた。

「これを浄化するのは、容易なことではない」

 蒼は深く溜め息をついて扉を閉め、その上に呪符を貼った。そして、道観の門を閉める時には、無残に引き千切られた門神(もんしん)を見て、眉間のシワをさらに深めた。



「『(こう)一寸(いっすん)高くなれば、魔が一丈(いちじょう)高くなる』。この『功一寸、魔一丈』の喩え通り、どんなに偉大な者でも、いや、偉大になればなるほど、成就することを阻止しようとする力は、強く働くといわれている」

 蒼の言葉の中には、いつになく悲しみが溢れていた。

「師姐は、初めから家庭的に恵まれていなかった」

 生まれてすぐに母親を亡くし、父親とも二十を迎える前に死別した。継承者として独立したが、先代の肝神だった後見人の伯母とも死に別れ、当時、たった一人の肉親の、双子の妹とは仲を(たが)えて離れ離れになったまま。その後父の弟子と結婚したが、夫との縁も薄く十年ほどで離婚したという。

「とても気の毒なことだったと思う。だが、そんな安易な同情をするのも憚られるほど、師姐は大変な努力を重ね、己の運命を変えたのだ」

 そしてそれが認められ、十三代目の掌門人(しょうもんじん)にも選ばれた。

「役所で働き、息子を女手一つで育てながらだ。それは並大抵のことではなかったと思う」

 だがそんな彼女に、今までないほどの、さらなる試練が待ち受けていた。

「夫と別れてから師姐は再婚することなく、三人いた息子のうち、一人残った末の息子に愛情を注ぎ続けた。その気持ちは僕にも解る。やはり、自分の子供は可愛いものだ」

 蒼は育と武志へ交互に視線を注いだ。育は微かに身動(みじろ)いだが、武志の表情に変化はなかった。

「だが、それも度が過ぎてしまえば、足枷(あしかせ)になる。師姐の鍛錬には、愛すべき息子が大きな障害となった」

「息子がですか?」

 守が訊く。

「そうだ」

「でも、愛しているんですよね?」

 蒼は守の問いに頷くと、『愛』という字の成り立ちについて話し始めた。


「『愛』という字は、元元は『(すでのつくり)』と『(こころ)』と『(すいにょう)』の組み合わせで、その本義は、深く厚い真摯な感情とあり、『説文解字(せつもんかいじ)』では『(かお)(めぐ)らす』となっているのだ。つまり、後ろ髪を引かれて振り返ってしまうほど気になるのが、『愛』ということになる」

 さらに蒼は、『()』には息が詰まる、『(すい)』には足を引きずるという意味もあり、必ずしも本来の『愛』は、善い意味合いだけではないのだと言った。

「心温まるものだけが、『愛』ではない、と――」

「ああ。『愛』には多くの異体字がある。よく辞書で見かけるのは、『旡』と『心』だけで『夊』がない、(いつくし)む、という意味の字だ。だが『旡』は、甲骨文では座した人が顔を背けている象形とされ、食べ飽きるという意味もあるのだ。また『愛』の古字は、『心』と『夊』だけだったとも言われている」

「心が重くて、足を引きずっている――」

「あるいは、足を引きずるほど心が重くなってしまうのが、『愛』とも言えるな」

 それは、進もうとしているのに気になって進めない、という状態なのだろう。

(だから、足枷なのか――)


「だが、だからといって息子が悪いわけではない。ものの善悪など絶対的なものではなく相対的なものだが、一般的な人としての善し悪しでいえば、彼は非常に善良だ。親思いで思慮深く、いつも冷静で、そしてとても親切だ」


 蒼の説明を聞いていると、守の頭の中には自然と含明(がんめい)の顔が浮かんでくる。

 打ち消せば打ち消すほど、その姿は克明になっていった。

 信じたくはないのだが、すべての事実が『そうだ』と告げている。


「やっぱり、あれは含明さんのお母さんなんですね」


「そうだ。含明の母、角柳青(かくりゅうせい)師姐だ」


     *


「育についててやらなくていいのか?」

 先に部屋に戻っていた守に、武志が訊いた。

 武志は育以外の誰の前でも、育を『姉さん』と呼んだりはしなかった。

「龍煙さん、つーか、実のお父さんと一緒だろ。その方がオレなんかより、ずっと安全だからな。それよか、おまえこそ一緒にいなくていいのかよ。せっかく家族が揃ったってのに」

「おまえ、何を聴いてたんだ」

「え?」

「あの人は、おれの父親じゃない」

「何だよ、おまえこそ。あんな話、信じんのかよ」

 守の口調が自然ときつくなった。掌門人の(あおい)より、鬼仙を信じるほうがどうかしている。けれど武志は顔色も変えずに、「まあな」と返した。

「昔から、そういう話はあったからな」

「え……」


 小さな頃から知っていたなら、それも仕方がないことなのだろうか。けれど武志の態度はあまりにも人事のようだった。

 守はふと、育のことを思い出した。

 育は悲しみに飲み込まれないように、常に冷静に物事を観るように努めていた。たぶんそれは武志も同じなのだろう。

 だが武志の場合、『努めて』という意識的なものを通り越し、もっとより無意識に近いものになっているような気がする。

(こんなことに『功夫(こうふう)』積んだって、しょうがないだろうに……)

 守がそこまで考えた時、武志が「何だ?」と不審そうに訊ねた。

「おまえの冷静さには、ホント、呆れるよ」

「おれだって、おまえの直情型の性格にはついていけないさ」

 守が武志を睨みつけた。

 武志もことさら感じの悪い視線を守に投げつけてくる。

 ところが――

 やがて、どちらからともなくニヤリと笑った。

「まあ、羨ましいと思うこともあったけどな。でも、おれはおれ、おまえはおまえだから」

 武志に『羨ましい』と言われて、守は何だか不思議な気持ちになった。武志が、自分のことをそんな風に考えていたなどとは思ってもいなかった。


「そ、そういえばさ、ちびマルはどうなったんだ?」

 守が照れ隠しに話題を変える。武志は一言「ああ」と言うと、この間の台風の時に、ちびマルが心配でわざわざここへ戻って来た、と話した。

「ここに台風が来ることは、滅多にないんだ」

「いつだよ、それ?」

「七日の日かな」

「ふ~ん。それで、か」

 含明のところへ『武志発見』の一報が入ったのは、蘇州を観光した日、立秋の日の夜だった。

「湖岸で見つけて、叔父さんに預けておいたんだ」

「じゃあ、龍耀(りゅうよう)さんとこにいるんだ」

「そうだ。ちびマルは、自分の居場所を見つけたんだ」

「え?」

 守は聞き返したが、いつものように、武志はそれには答えなかった。

 その代わり――

「おれがちびマルに初めて会ったのは、上海市街の花鳥市場だった」

 と、話し出した。

「あの、前に言ってた亀専門店か? おやじが二人でやってるっていう」

「ああ。そこでセマルハコガメの幼体を見つけたんだ」

 武志はいつになく興奮したように、「幼体が売られているのは珍しいんだぞ」と付け加えた。

「どんな奴らよりも小さいのが一匹いた。甲羅の長さが、三センチぐらいなんだ。十センチ角の透明なガラスケースに入れられていて、そいつが、おれの方をじっと見てたんだ」

「それがちびマルだったのか」

「ああ。おれが動くと動いた方へ顔を向ける。右へ動けば右へ、左に動けば左に」

「可愛いな」

 武志は、初めて見るようなにこやかな笑顔を守へ向けると、唐突に、中学の時に突然いなくなった後のことを話し出した。


安徽省(あんきしょう)の片田舎にいた時、雌のセマルハコガメを見つけたんだ。そいつは愛嬌があって、おれの言ってることが解るみたいで、何か面白かった。おれの後をついて来るし、心配そうにじっと見つめてたりするんだ」

「飼ってたのか?」

「いや、たまに餌をやったりはしたが、別に飼ってたわけじゃなかった。いつ移動するか判らなかったし、飼えるほどの知識もなかった。半端な気持ちで飼ったりしたら、それこそ飼われたほうはいい迷惑だ」

 およそ半年で、武志はその地を離れたという。

「店で見てすぐに、おれはそいつがマルの子供だと直感した」

「それで、買ったのか?」

「何だか、放っておけなかったんだ」

 武志は感慨深げな面持ちで言い、ふと黙り込んだ。


 ちびマルに対する武志の想いは特別だった。卵から孵れば、独りで生きていかなければならないという自然の摂理。そんな過酷な状況が、自分の姿と重なったのだろうか。

 守は急に、武志が自分の父親に会いたいと、思っているかどうかが気になった。育はクルーザーの中で、「お父さんに会いたい」と言っていた。

「あのさ――」

「おれは別に、会いたいとは思わないぞ」

 武志は守が訊くよりも早く答えた。

 守が驚いて目を瞠る。

「訊きたかったんだろう?」

「あ、ああ……」

「父親の代わりは、何人かいた。でも、やっぱり一番よく面倒を見てくれたのは、辰矢(たつや)叔父さんかな」

「辰矢さんって、龍耀さんだよな。どっかで見たことがあると思ったよ」


 守は、武志がいなくなった時に、雨の中を必死に走っていく辰矢の後ろ姿を思い出していた。あの頃の武志は、守が思っていた以上に幸せだったのかもしれない。

 と同時に――

 守は武志が蒼のことを『あの人』と呼んでいたことも思い出した。


 武志は、蒼のことをどう思ってるのだろうか。


龍煙(りゅうえん)さんは――」

「師としては立派だと思う。でもな――」

 武志は、またもや、守が最後まで話し終わらないうちに答え始めた。


「あの人は、子供よりも自分の女を取った男だ」



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