三花聚頂 2
多少ですが残酷な表現があります。愛犬家の方、申し訳ありません。
一人になって考えようと宿舎を出た守は、道観の奥のにある練功房へ向かった。
島で一番高い場所にある三畳ほどのその部屋は、守のために用意された、守だけの空間だった。敷地内には結界が張られ、静功を行うための場として最適化されている。守はまだ独りで周天の練習はできないが、物を考えるのにここまで適した場所はない。宿舎の部屋にいるよりも、ずっと静かな気分で落ち着けるのだ。
道観への道の途中で一匹の犬と擦れ違った。主人にしか馴れることのない凶暴なドーベルマン。だが、守には見向きもしない。
不思議なことに犬たちは、夏芽が危惧していたように、守や育、皓華に向かって敵意を見せるようなことはしなかった。
「何で、オレたちは平気なんでしょうね?」
ある時、守は龍耀に訊いてみた。龍耀は「そうですね」と首を傾げ、寂しげな笑みを浮かべた。
「たぶんあなた方の発する『気』が、師父や兄のものと近しいことを、感じ取っているのでしょう。『先天』を感じる力は、野生のもののほうが優れていますから。僕がここに来た時は、ほとんど練功はしていませんでしたからね」
その後、守はしばしの間、自分の思慮のなさを恥じることになった。
急な坂道を登り、道観の脇を通って練功房に辿り着く。影壁の横を通って、回廊から中庭に一歩足を踏み入れようとした守は、爪先が地面に着く前に足を止めた。一番奥の育の練功房に、小さく明かりが点っている。どうやら育は、今日も部屋には戻らずにここに籠もるつもりらしい。
(育は、何を考えてるんだ?)
守は、育の心を慮った。
あれほどまでに望んでいた弟との再会。
それは育の心に、何をもたらしたのだろう。
(もしかしたら――)
守は、育がクルーザーの中で言っていたことを思い出した。
『弟が生きてるのなら、父も生きているのかも――』
一つの望みが叶ったら、さらにもう一つと考えるのが人情だ。
育は武志が言っていたように『幸せな子供じゃなかった』のだから。
遺体が見つかっていないなら、と希望を持つのも当然だった。
けれど――
育の父の蒼が生きていたなら、大きな疑問に行き当たる。
どうして蒼は、育や武志の前から姿を消したのだろう。
たとえ致し方ない理由があったとしても、十四年もの間、迎えに来もしないのは何故なのだ。
赤の他人の守でさえ、ここまで考えてしまうのだ。
ならば当事者の育なら、もっとずっと――
(いや。きっと何も考えなくてもいいように、ここにいるんだ)
守はそこに思い至って、育の邪魔をしないようにと踵を返した。辺りの気配を乱さないよう注意しながら、練功房を後にして湖畔へと向かう。
いつの間にか、星も見えない暗い空から、細かい雫が落ち始めていた。
前回の台風の影響で増水した松花湖は、ここ何日かの晴天や放水にも関わらず、まだ完全に元の水位には戻っていなかった。
守は足早に歩きながら、何気なく、闇に支配されて色を変えた湖に目を向けた。
すると――
満満と水を湛えたその上に、ぼうっと白い『もの』が浮かんでいた。
墨を流したような水面に、ぽっかりと浮かんだ白銀の光。
光源が何処にもない不思議な光に、守は目を凝らす。
と、あやふやな輪郭が次第に浮かび上がってくる。
(え?)
腰までの長い髪。
ほっそりとしたその体を黒っぽい羅の着物で包んでいる。
(女だ……)
粗い織り目から覗く白い襦袢が朧気に光り、
それが淡い銀の光となって全体を包み込む。
髪が。
袖が。
片流しの半幅の帯が。
風を孕んで、ゆらゆらと揺れている。
その姿がゆっくり守を見返った。
白い面に、
白い素足。
白い手を、真っ直ぐ守に伸ばしている。
そして、白い面に貼りつく薄紅の唇が――
何か言いたそうに、微かに動いた。
その時――
闇の中にけたたましく、犬の哭く声が響き渡った。
守は我に返り、声がした方向へ視線を向ける。
常在の家のほうだった。
嫌なものを感じて、守は走りだす。
途中で一度振り返ったが、湖の女は何処にもいない。
跡形もなく、きれいさっぱり消えていた。
(何だったんだ?)
気にはなったが、守は先を急いだ。
今はそんなことよりも、もっとずっと気になることがある。
守が門の前に着いた時には、すでに武志がそこにいた。
身を屈めたその前に、黒く大きな塊が落ちている。
どうやら、武志はそれを調べているようだった。
「どうしたんだ?」
守が声をかけると、武志が立ち上がった。
「殺られた」
「え?」
「吠える前に噛みつくように仕込まれてるから、こいつら、滅多なことでは吠えないんだ。だから、おかしいと思って来てみたら……」
武志の視線が地を這った。
守も釣られて目を向ける。
その目に飛び込んで来たのは、変わり果てた犬の姿だった。
開いた口からは、長い舌がだらりとはみ出している。
手足は奇妙に捩子曲がり、首はあらぬ方向を向いていた。
大きく見開いたその目には、いったい何が映っていたのだろう。
痛ましい姿に、守は思わず目を背ける。
その時――
玄関の扉がゆっくりと開いて、中から龍耀が顔を覗かせた。
「どうだった?」
武志の問いに、龍耀は珍しく眉間に皺を寄せ、左右に小さく首を振った。
「夏芽に何と言ったらいいのか……」
「おじさんが悪いわけじゃないよ」
「でも、兄さんに頼まれていたのに――」
龍耀が言葉を詰まらせる。そこへ遅れて皓華が現れた。
オフホワイトのワンポイントのTシャツに、紺地に白と黄色のラインが入った、ジャージの上下を身につけている。
「何? ドウシタ?」
「そうだよ、維名。何があったんだよ?」
武志は少しだけ躊躇って、龍耀の方へ視線を送った。
龍耀は、それに力無く頷いて見せる。
武志が口を開いた。
「常在が死んだ」
「エッ?」
「何だってぇ?」
龍耀に導かれて守たちが家の中へ入ると、常在の世話をしていたらしい中年の男女が、泣きながら廊下の隅に蹲っていた。そしてドアの隙間から覗くベッドの上には、常在の変わり果てた姿が横たわっている。
守が眉をひそめると、龍耀が皓華を慮って扉を閉めに行く。
その間、武志が年嵩の男に中国語で声をかけた。
皓華もそれに倣って女のほうに話しかける。
「黒い靄?」
聞き返す武志に、
「魄が来たのか?」
守が訊いた。
「らしいな」
「誰の?」
「………」
武志は何も答えなかったが、どうやら見当はついているらしい。
皓華の聞き取った内容も、ほとんど同じようなものだった。
「それより――」
突然、武志が周囲に目を配る。
「育は?」
ここにはいない、もう一人の名を口にする。
「ア、アタシ、一緒、ナイ」
「オレがさっき練功房へ行った時には、いたけど――」
皓華に続いて守が言うと、武志が思いきり顔をしかめた。
「見てくる」
と、言うが早いか、家を飛び出す。
後を追いかけようとする守に、龍耀が声をかけた。
「非常事態ですから必ず二人で行動してください。武志のこと、頼みます」
「はい!」
雨は本降りにならずに止んでいたが、その代わりに、ゴロゴロと雷が鳴り始めていた。守は武志の後を追って、宿舎の横の木戸を潜る。この先には、練功房の裏手に向かう急な坂道が続いている。少し濡れて滑るそれを、守は一気に駆け登った。そのほうが、道観から回るよりもずっと早く目的の場所に辿り着ける。
守が追い着いた時、武志は育の練功房の北側にある、明かり取りの窓の手摺りに掴まり、ぶら下がるようにして中を覗いていた。
「玄明は?」
武志は手摺りから手を放して着地すると首を左右に振った。
「じゃあ、他の部屋か?」
「見てみよう」
二人は急いで南側へ移動し、門から中に入ろうとした。
「ん?」
守は、短い悲鳴を聞いたような気がして振り向いた。
道観のほうからだ。
「どうした? 丹下」
「なあ、何か、聞こえなかったか?」
武志が眉根に皺を寄せて、気配を探る。
一瞬瞠った黒目がちな目が、瞬く間に険しくなる。
武志は驚くほどの速さで坂を下り始めた。飛ぶように下り、道観の裏門に取り付くと、勢いよくそれを開いて中に駆け込んで行く。
「待てよ!」
滑る坂を急いで下りながら、守も後を追いかけた。
*
雲が切れて月が顔を出していた。
守は道観の脇の路地を通って、石畳が敷かれた前庭に出る。
と、多くの神神が祀られている真武廟の、大きな扉が開いていた。
その扉の向こうに――
黒い靄。
いや、濃い青か。
ボウッと煙る月明かりの中。
疎らに散らばる青い粒子が、育を部屋の隅に追い詰めていた。
それが、何かの形になろうというのか、一か所に集まり始める。
次第に疎と密のところがはっきりし、人型の輪郭を形成していく。
黒と見紛うばかりの藍色の人民服。
肩までの髪は、後ろで一つに束ねられ、丸く纏められている。
(女、か?)
「止めろ! それは櫻子じゃない!」
武志の声に、藍の女が振り向いた。
細面のその顔の、黒縁の眼鏡の奥に潜む禍禍しい憎しみ。
武志はその憎しみを真正面から受けながら――
「早く助けろ!」
振り向きもせずに、守に叫んだ。
守が藍の女を迂回するように育のところへ行こうとする。
女は、憎しみが籠もる視線を守に向けた。
途端に、鋭く激しいバイブレーション。
「!」
動けない。
あの時と同じだ。
上海の郊外にできたばかりの花鳥市場。
あそこで出遭った黒い靄が――
(この女?)
だが戒めはいつまでも続かずに、唐突に解ける。
武志が、右手に結んだ剣指で虚空に何かを書きつけ、飛ばしたのだ。
「小賢しい。私に、そんなものが効くと思うのか」
疳高い声が 廟内に響き渡った。
武志は「ふん」と 嘲るように短く笑う。
「少しは、効いてるみたいじゃないか」
中国語で交わされている会話だった。
だが虎丘の時と同じように、守の頭の中で勝手に日本語に変換されていく。
「早くしろ!」
武志がもう一度日本語で叫ぶ。
守は育に駆け寄り、抱え起こした。
「だいじょぶか?」
育は守の腕に手をかけて、力無く頷いた。
武志は、守の知らない口訣を繰り返し唱え続けている。
それはあの石窟で聞いた、育が唱えていたものに似ているように思う。
だのに、女は一向に苦しむ素振りを見せなかった。
それどころか、ニタリと笑う。
手を振り上げ、
そして、一気に振り下ろした。
点いていない部屋の電気が鋭く発光し――
その全部が一瞬で弾けた
武志が衝撃で飛ばされる。
守はとっさに育を庇う。
耳を聾するばかりの轟音と激しい震動。
どうやら、真武殿の避雷針に雷が直撃したらしい。
武志がゆっくりと立ち上がった。
「ほう、命拾いをしたな。なら、これはどうだ?」
女がもう一度手を上げる。
「止めるんだ!」
道観の入り口に、龍煙が現れた。




