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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第九章 三花聚頂(三つの花が天宮に集まる)
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三花聚頂 2

多少ですが残酷な表現があります。愛犬家の方、申し訳ありません。


 一人になって考えようと宿舎を出た守は、道観(どうかん)の奥のにある練功房(れんこうぼう)へ向かった。


 島で一番高い場所にある三畳ほどのその部屋は、守のために用意された、守だけの空間だった。敷地内には結界が張られ、静功(せいこう)を行うための場として最適化されている。守はまだ独りで周天(しゅうてん)の練習はできないが、物を考えるのにここまで適した場所はない。宿舎の部屋にいるよりも、ずっと静かな気分で落ち着けるのだ。


 道観への道の途中で一匹の犬と擦れ違った。主人にしか馴れることのない凶暴なドーベルマン。だが、守には見向きもしない。

 不思議なことに犬たちは、夏芽(なつめ)が危惧していたように、守や育、皓華に向かって敵意を見せるようなことはしなかった。


「何で、オレたちは平気なんでしょうね?」

 ある時、守は龍耀(りゅうよう)に訊いてみた。龍耀は「そうですね」と首を傾げ、寂しげな笑みを浮かべた。

「たぶんあなた方の発する『(もの)』が、師父(しふ)や兄のものと近しいことを、感じ取っているのでしょう。『先天』を感じる力は、野生のもののほうが優れていますから。僕がここに来た時は、ほとんど練功はしていませんでしたからね」

 その後、守はしばしの間、自分の思慮のなさを恥じることになった。


 急な坂道を登り、道観の脇を通って練功房に辿り着く。影壁の横を通って、回廊から中庭に一歩足を踏み入れようとした守は、爪先が地面に着く前に足を止めた。一番奥の育の練功房に、小さく明かりが点っている。どうやら育は、今日も部屋には戻らずにここに籠もるつもりらしい。


(育は、何を考えてるんだ?)


 守は、育の心を(おもんぱか)った。

 あれほどまでに望んでいた弟との再会。

 それは育の心に、何をもたらしたのだろう。

(もしかしたら――)

 守は、育がクルーザーの中で言っていたことを思い出した。


『弟が生きてるのなら、父も生きているのかも――』


 一つの望みが叶ったら、さらにもう一つと考えるのが人情だ。

 育は武志(たけし)が言っていたように『幸せな子供じゃなかった』のだから。

 遺体が見つかっていないなら、と希望を持つのも当然だった。

 けれど――

 育の父の(あおい)が生きていたなら、大きな疑問に行き当たる。

 どうして蒼は、育や武志の前から姿を消したのだろう。

 たとえ致し方ない理由があったとしても、十四年もの間、迎えに来もしないのは何故なのだ。

 赤の他人の守でさえ、ここまで考えてしまうのだ。

 ならば当事者の育なら、もっとずっと――


(いや。きっと何も考えなくてもいいように、ここにいるんだ)


 守はそこに思い至って、育の邪魔をしないようにと(きびす)を返した。辺りの気配を乱さないよう注意しながら、練功房を後にして湖畔へと向かう。

 いつの間にか、星も見えない暗い空から、細かい雫が落ち始めていた。


 前回の台風の影響で増水した松花湖(しょうかこ)は、ここ何日かの晴天や放水にも関わらず、まだ完全に元の水位には戻っていなかった。

 守は足早に歩きながら、何気なく、闇に支配されて色を変えた湖に目を向けた。

 すると――

 満満と水を湛えたその上に、ぼうっと白い『もの』が浮かんでいた。

 墨を流したような水面(みなも)に、ぽっかりと浮かんだ白銀の光。

 光源が何処にもない不思議な光に、守は目を凝らす。

 と、あやふやな輪郭が次第に浮かび上がってくる。

(え?)

 腰までの長い髪。

 ほっそりとしたその体を黒っぽい()の着物で包んでいる。

(女だ……)

 粗い織り目から覗く白い襦袢(じゅばん)が朧気に光り、

 それが淡い銀の光となって全体を包み込む。

 髪が。

 袖が。

 片流(かたなが)しの半幅の帯が。

 風を孕んで、ゆらゆらと揺れている。

 その姿がゆっくり守を見返った。

 白い(おもて)に、

 白い素足。

 白い手を、真っ直ぐ守に伸ばしている。

 そして、白い面に貼りつく薄紅(うすくれない)の唇が――

 何か言いたそうに、微かに動いた。

 その時――


 闇の中にけたたましく、犬の哭く声が響き渡った。


 守は我に返り、声がした方向へ視線を向ける。

 常在(じょうざい)の家のほうだった。

 嫌なものを感じて、守は走りだす。

 途中で一度振り返ったが、湖の女は何処にもいない。

 跡形もなく、きれいさっぱり消えていた。

(何だったんだ?)

 気にはなったが、守は先を急いだ。

 今はそんなことよりも、もっとずっと気になることがある。


 守が門の前に着いた時には、すでに武志(たけし)がそこにいた。

 身を屈めたその前に、黒く大きな塊が落ちている。

 どうやら、武志はそれを調べているようだった。

「どうしたんだ?」

 守が声をかけると、武志が立ち上がった。

()られた」

「え?」

「吠える前に噛みつくように仕込まれてるから、こいつら、滅多なことでは吠えないんだ。だから、おかしいと思って来てみたら……」

 武志の視線が地を這った。

 守も釣られて目を向ける。

 その目に飛び込んで来たのは、変わり果てた犬の姿だった。

 開いた口からは、長い舌がだらりとはみ出している。

 手足は奇妙に捩子曲がり、首はあらぬ方向を向いていた。

 大きく見開いたその目には、いったい何が映っていたのだろう。

 痛ましい姿に、守は思わず目を背ける。

 その時――

 玄関の扉がゆっくりと開いて、中から龍耀(りゅうよう)が顔を覗かせた。


「どうだった?」

 武志の問いに、龍耀は珍しく眉間に皺を寄せ、左右に小さく首を振った。

夏芽(なつめ)に何と言ったらいいのか……」

「おじさんが悪いわけじゃないよ」

「でも、兄さんに頼まれていたのに――」

 龍耀が言葉を詰まらせる。そこへ遅れて皓華(こうか)が現れた。

 オフホワイトのワンポイントのTシャツに、紺地に白と黄色のラインが入った、ジャージの上下を身につけている。

「何? ドウシタ?」

「そうだよ、維名(いな)。何があったんだよ?」

 武志は少しだけ躊躇って、龍耀の方へ視線を送った。

 龍耀は、それに力無く頷いて見せる。

 武志が口を開いた。

「常在が死んだ」

「エッ?」

「何だってぇ?」


 龍耀に導かれて守たちが家の中へ入ると、常在の世話をしていたらしい中年の男女が、泣きながら廊下の隅に蹲っていた。そしてドアの隙間から覗くベッドの上には、常在の変わり果てた姿が横たわっている。

 守が眉をひそめると、龍耀が皓華を慮って扉を閉めに行く。

 その間、武志が年嵩(としかさ)の男に中国語で声をかけた。

 皓華もそれに倣って女のほうに話しかける。

「黒い(もや)?」

 聞き返す武志に、

(はく)が来たのか?」

 守が訊いた。

「らしいな」

「誰の?」

「………」

 武志は何も答えなかったが、どうやら見当はついているらしい。

 皓華の聞き取った内容も、ほとんど同じようなものだった。


「それより――」

 突然、武志が周囲に目を配る。

「育は?」

 ここにはいない、もう一人の名を口にする。

「ア、アタシ、一緒、ナイ」

「オレがさっき練功房へ行った時には、いたけど――」

 皓華に続いて守が言うと、武志が思いきり顔をしかめた。

「見てくる」

 と、言うが早いか、家を飛び出す。

 後を追いかけようとする守に、龍耀が声をかけた。

「非常事態ですから必ず二人で行動してください。武志のこと、頼みます」

「はい!」


 雨は本降りにならずに止んでいたが、その代わりに、ゴロゴロと雷が鳴り始めていた。守は武志の後を追って、宿舎の横の木戸を潜る。この先には、練功房の裏手に向かう急な坂道が続いている。少し濡れて滑るそれを、守は一気に駆け登った。そのほうが、道観から回るよりもずっと早く目的の場所に辿り着ける。

 守が追い着いた時、武志は育の練功房の北側にある、明かり取りの窓の手摺りに掴まり、ぶら下がるようにして中を覗いていた。

玄明(げんみょう)は?」

 武志は手摺りから手を放して着地すると首を左右に振った。

「じゃあ、他の部屋か?」

「見てみよう」

 二人は急いで南側へ移動し、門から中に入ろうとした。

「ん?」

 守は、短い悲鳴を聞いたような気がして振り向いた。

 道観のほうからだ。

「どうした? 丹下(あかもと)

「なあ、何か、聞こえなかったか?」

 武志が眉根に皺を寄せて、気配を探る。

 一瞬瞠った黒目がちな目が、瞬く間に険しくなる。

 武志は驚くほどの速さで坂を下り始めた。飛ぶように下り、道観の裏門に取り付くと、勢いよくそれを開いて中に駆け込んで行く。

「待てよ!」

 滑る坂を急いで下りながら、守も後を追いかけた。


     *


 雲が切れて月が顔を出していた。

 守は道観の脇の路地を通って、石畳が敷かれた前庭に出る。

 と、多くの神神が祀られている真武廟(しんぶびょう)の、大きな扉が開いていた。

 その扉の向こうに――


 黒い靄。


 いや、濃い青か。


 ボウッと煙る月明かりの中。

 疎らに散らばる青い粒子が、育を部屋の隅に追い詰めていた。

 それが、何かの形になろうというのか、一か所に集まり始める。

 次第に疎と密のところがはっきりし、人型の輪郭を形成していく。

 黒と見紛うばかりの藍色の人民服。

 肩までの髪は、後ろで一つに束ねられ、丸く纏められている。

(女、か?)


「止めろ! それは櫻子(さくらこ)じゃない!」


 武志の声に、藍の女が振り向いた。

 細面のその顔の、黒縁の眼鏡の奥に潜む禍禍しい憎しみ。

 武志はその憎しみを真正面から受けながら――

「早く助けろ!」

 振り向きもせずに、守に叫んだ。

 守が藍の女を迂回するように育のところへ行こうとする。

 女は、憎しみが籠もる視線を守に向けた。

 途端に、鋭く激しいバイブレーション。


「!」


 動けない。

 あの時と同じだ。


 上海の郊外にできたばかりの花鳥市場。

 あそこで出遭った黒い靄が――


(この女?)


 だが戒めはいつまでも続かずに、唐突に(ほど)ける。

 武志が、右手に結んだ剣指(けんし)で虚空に何かを書きつけ、飛ばしたのだ。


「小賢しい。私に、そんなものが効くと思うのか」

 疳高(かんだか)い声が 廟内に響き渡った。

 武志は「ふん」と 嘲るように短く笑う。

「少しは、効いてるみたいじゃないか」

 中国語で交わされている会話だった。

 だが虎丘(こきゅう)の時と同じように、守の頭の中で勝手に日本語に変換されていく。

「早くしろ!」

 武志がもう一度日本語で叫ぶ。

 守は育に駆け寄り、抱え起こした。

「だいじょぶか?」

 育は守の腕に手をかけて、力無く頷いた。


 武志は、守の知らない口訣(くけつ)を繰り返し唱え続けている。

 それはあの石窟で聞いた、育が唱えていたものに似ているように思う。

 だのに、女は一向に苦しむ素振りを見せなかった。

 それどころか、ニタリと笑う。

 手を振り上げ、

 そして、一気に振り下ろした。

 点いていない部屋の電気が鋭く発光し――


 その全部が一瞬で弾けた


 武志が衝撃で飛ばされる。

 守はとっさに育を庇う。

 耳を聾するばかりの轟音と激しい震動。

 どうやら、真武殿の避雷針に雷が直撃したらしい。


 武志がゆっくりと立ち上がった。

「ほう、命拾いをしたな。なら、これはどうだ?」

 女がもう一度手を上げる。


「止めるんだ!」


 道観の入り口に、龍煙が現れた。



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