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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第一章 止念(考えない)
3/99

止念 3

「ねえ、『落ちたことにしてくれ』って、どういうこと?」

 ついさっきまでニコニコしていた母の眉間に、深い縦皺が刻まれている。

 (まもる)は自宅の居間のローテーブル越しに、母と向かい合っていた。


 合格発表を見に行った守は、受験番号を見つけたらすぐに家に電話することになっていた。ところが香子(きょうこ)が落ちたごたごたで失念し、玄関で母の顔を見るまではその約束を思い出しもしなかった。何とか慰めようとする母に、守は合格したことを告げたのだが、落ちたと思い込んでいた母は、すぐに正確な意味が理解できず、守は何度か同じ言葉を繰り返さなければならなかった。

「もう電話ないから、ダメだって思っちゃったじゃない。帰ってこないのだって、香子ちゃんに慰めてもらってるから、とか――」

「ゴメン」

 母の何回目かの文句に、守も何回目かの「ゴメン」を繰り返した。よほど心配していたのだろう、母がここまでしつこいのは珍しい。

「でも、ホントに受かってよかった。お父さんも珍しく何度も電話して――あっ、いけない」

 電話、電話と立ち上がると、母は子機に手を伸ばした。守はそれを引き止めて、父には落ちたことにしてほしい、と告げたのだ。


「オレさ、鴛鴦(えんおう)に行きたいんだよね」

 守は、香子が第一志望の大学に落ちたこと、そして何故か鴛鴦には受かったことの両方を話した。

「だから、落ちたことにしろ、ってわけ?」

「ダメ、かな?」

 母は渋い顔で「う~ん」と唸った。

「ウソはつきたくないかな。っていうよりも、ウソついたってすぐに判っちゃうんじゃないの。だって、あのお父さんなんだよ」

「だよな。やっぱ、ダメかぁ」

 守は「はぁ」と肩を落とした。

 正直に話せばいい、と母は言うが、本当のことなど話したらなおさら聞いてもらえない。『何で自分で決められない』。父なら絶対そう言うに決まっている。

「そうそう。『自分の将来なのに、どうして彼女に左右されるんだ』。お父さんならそう言うかもね」

「だろ」

 守はさらに深くため息をついた。

「でも、言われたっていいじゃない。がんばって説得したら?」

「えーーーっ、無理だよ」

「だって香子ちゃんと同じ大学に行きたいんでしょ。文句は言われるかもしれないけど、言うだけ言って気が済んだら、許してくれるかもよ」

「まっさかぁ。ないない。あの親父だぞ」

「あ~ら、あのお父さんだからじゃない」

 母は、思わせぶりに三日月型に目を細めてみせた。

 母がこういう顔をする時は、たいがい父に対して何らかの切り札を持っている時だった。守は身を乗り出して、「何でだよ?」と訊いてみる。何だかんだとはぐらかし、母は教えてくれなかった。その代わり――

「オシドリの方が就職には断然有利でしょ。なら反対する理由もないんじゃない」

 守の脳裏に明るい未来を浮かばせる、魔法の言葉を呟いた。

「そっか。そうだよな。――つか、オシドリって何?」

「もう、『鴛鴦』ってオシドリのことでしょ」

 受験生のくせにと嘆く母は、在籍している女子の間では、自分たちの学校をそう呼んでること、口さがない他校の生徒や自虐的な男子は、『オ』と『ド』を取ったり、さらにもっと品のない、別の言葉を使っていたと話した。

「あ~あ、ケツ校ね」

「何で言うわけ?」

 せっかく言わずに済ませたものを、と母は思いきり顔をしかめた。ゴメンゴメンと軽い息子に、「もう、ホント、そう言うところは……」とため息をつく。

 何か言いたげなのは判ったが、そこに触れるとさらに面倒なことになりそうで、急いで守は話題を変えた。

「でもさ、何でオシドリなんだろうな。タカとか、ワシとか、ハヤブサとか、もっと勢いがあってカッコイイ鳥はたくさんいるよな」

 少数精鋭で上を目指せというコンセプトなら、鳥は鳥でも猛禽類(もうきんるい)の方がふさわしい。それに対してオシドリは、夫婦和合の象徴で、結婚の縁起物的存在だった。

 どんなにめでたくても、学校の名称としてはどうなのだろう。

 おそらくあの学校ができた頃は、まだ少子化問題などなかったはず。それに本当のオシドリは、毎年(つが)いの相手が変わるという。

「お父さんが言うには、ね。『鴛鴦』は『陰陽』の暗喩(スラング)なんだって。ほら鴛鴦って、『(えん)』がオスで『(おう)』がメスのことでしょ」

 他に、オスとメスの漢字を組み合わせからできた動物の名称は、麒麟(きりん)鳳凰(ほうおう)翡翠(かわせみ)などいろいろある、と母は言った。

「それが全部『陰陽』のスラングなのか?」

「あ、ごめん。そうじゃなくて、完全にスラングなのは『鴛鴦』だけ」

 中国語で『鴛鴦』は、『陰陽』とほとんど同じ音になるという。

 同音の別字に置き換えるのは、中国では日常茶飯事的に行われていることだった。始皇帝が焚書(ふんしょ)などの言論統制を行ったことや他民族に支配された経験から、いろいろと『隠す技術』が発展した、というのが父の推理だ。

「でもね、何でオスの『(えん)』が『陰』で、メスの『(おう)』が『陽』なのかは判らないみたいよ。イヤそ~うな顔で『俺に訊くな』って言ったもの」

 母が披露したちょっとした豆知識よりも、両親の微妙な力関係の方が興味深かった。もともと知りたくて振った話題ではないから、学校の名前など、守にとっては本当にどうでもいいことだ。

 それよりも――

 守の両親は、どちらかといえばおしどり夫婦と言えるだろう。ただ、表面上は夫が先の夫唱婦随に見えていても、内実は妻が先の婦唱夫随に近かった。つまりそれは、どんなに父が足掻(あが)こうと最終的に母の言うことを聞く、ということで、やはり母を先に攻略しようとした守の考えは、間違っていなかったということになる。

 先が見えて余裕がでたのか、守は急に、何故父がそんなことを知っているのか気になった。母に訊くと不思議そうに小首を傾げ、「高校の時、第二外国語で中国語を採ってたからでしょ」と当然だと言わんばかりに答えた。

「第二外国語? 高校なのに?」

「鴛鴦は私立だから、第二外国語まであったの」

「――って、親父、高校、鴛鴦だったの? じゃあお袋も?」

「何驚いてんの。あの学校は、お父さんの方のお祖父ちゃんが創った学校でしょ」

「は?」

 母の答えは守の予想を遙かに上回っていた。平均的な中流家庭からはとても想像できない現実だった。

 しばらく呆然としていた守は、ショックから抜けだした途端、「マジで?」と「ホントに?」を何度か交互に繰り出した。父母が通っていたらしいことは途中から察せられたが、まさかそこまで深い関わりがあるなどとは――

「つか、オレ、マジでただのコネ入学なわけ?」

「強いてあげるなら家族枠かな。お父さんのお姉さん、あの学校の理事だから」

「ウソだろ……」

 絶句する守に、「やだ、冗談だってば」と母は笑った。そして普通に自己推薦だったこと。内申書は悪くなかったこと。よくがんばった、と伯母からお褒めの言葉があったことなどを付け足した。

(何だ、冗談なのは家族枠の方か)

 守がホッとしたのも束の間、母は「とにかく」と目を光らせた。

「いろいろ驚くことがあるかもしれないけど、あまり気にしないこと。それに、行くからにはしっかり勉強して、お祖父ちゃんと伯母さんの顔、潰さないようにしてよね。それから――」

 自分が『行きたい』と言ったことを、絶対に忘れるな。

 母はここでも、守に太くて長い釘を刺した。


 鴛鴦大学に入学するとしばらくの間、どこへ行っても守の周りは見に来る人間で溢れていた。学生だけでなく、何故か教授や職員、稀に中高生の制服姿もあった。特に幼等部から鴛鴦だった、本校の出身者が多かった。何しろ守は創立者の孫というだけでなく、いろんな意味で伝説を残した生徒会長の息子だったからだ。

 ところが、背が高い以外見た目も含めて守が極めて普通なことが判ると、それも次第に収束した。辺りに漂うがっかり感は半端でなかったし、哀れみの視線も感じたが、それはいつものことなので、守に何ら責任はない。

(悪いのは親父……いや、むしろオレの運だな)

 そしていつもの問いが頭の中を過ぎっていった。

 何で、あの父親の子供に生まれたのだろう。

 自分も弟も、父には全然似ていないというのに。

(お袋も、もっとよく考えて結婚すればよかったんだ。つーか、オレってホントに親父と血の繋がり、あんのかよ)

 けれど母似の顔は別としても、一八〇越えの身長や筋肉質な体型は、父方の祖父の若い頃によく似ているという。


 授業が終わり、学食で待っていると、香子が小走りに駆け寄ってきた。

「ねえねえ、本校から来てる子に聞いたんだけどね」

「ん?」

「スゴかったんだね、マモちゃんのお父さん」

「何が?」

「ホント、いまだに燦然と輝いてるらしいよ」

「だから、何が?」

「鴛鴦学園美少年ランキングの歴代総合一位だよ」

「何だ、そりゃ?」

 香子の話では、コンテストは毎年写真部主催で行われ、守の父は初等部から高等部、さらに各学年部門も総なめだったらしい。ちなみに美少女部門は、幼稚園から短大まで在籍していた人で、守の父と同じ時期に学校にいた人だった。

「二人で写ってる写真とか見せてもらったんだけどね――」

「えっ、見たのか?」

「うん。もう見た目がいいどころの騒ぎじゃないよね。マジ、アタシたちと同じ人間だとは思えなかったよ」

「………」

「でね、アタシたちの二個上に、その超絶美少女の娘さんがいるんだって」

 その娘は母親似で凄い美人らしく、皆が守を見に来たのも、その人が在校していたせいだった。

「その先輩、マモちゃんと同じ科みたいなんだけど、会ったことある?」

「……ないよ。つか、香子まで止めてくれよな。オレ、ヤなんだよ。親父と比べられんの」

「あ……」

 息を飲んだ香子は、すぐにひとしきり謝ってくれた。

「でも解る気するよ。アタシもママがスゴい美人で比べられたら、絶対ヤだもん」

「いいよ、気ぃ遣わなくて。オレの運が悪いだけなんだ」

「運?」

 あの父の息子に生まれたのが人生最大の不運。守はいつの頃からか、ずっとそう思っていた。というよりも、そう思わないことにはやってられなかった、という方が近いのかもしれない。

「そっか。でもね、アタシ思うんだけど。実は一番スゴいのは、マモちゃんのお母さんなのかな、って」

「何で?」

「だってアタシ、マモちゃんがマモちゃんのお父さんみたいだったら、一緒に歩くのヤだもん」

「え?」

「だってよっぽどのことがない限り、絶っ対に言われるんだよ。『釣り合わない』って。それに『わたしの方がふさわしい』とか言ってくる人だっていると思うんだよね。それ以上にもっとひどいことだって言われちゃうかもしれないんだよ。だから、アタシ、今のマモちゃんで本当によかったって思うよ」

「マジで?」

 守の目をじっと見て、香子は大きく「うん」と頷いた。

「そっか……そうだよな。オレたち、普通でよかったんだ」

 守がしみじみ納得していると、授業が終わったら守のアパートに行っていいか、と香子が訊いてきた。友達の家に泊まることになっているから、ゆっくり旅行の話をしようと言う。

「え?」

「初めてのお泊まり、ドキドキだよ」

 香子は頬を染め、恥ずかしそうに微笑んだ。


 夏休みが始まる少し前、バイトから帰った守のアパートに、香子が旅行会社の封筒を抱えて現れた。昨日、旅行の申し込みを済ませたと嬉しそうに報告する。

「けどさぁ、何で上海なわけ?」

 守はパンフレットをパラパラと捲っていた手を止めて、香子を見た。

「オレ、香港って言ったよな」

 封筒の中の旅行のパンフレットは、何故か上海になっていた。

「それがね――」

 香子曰く、守が楽しみにしていた例の『家』は現在は閉まっていて、バスで前を通るぐらいしかできないらしいこと。また上海には香子の親戚の知り合いがいて、いろいろな所を案内してもらえるのだという。

「それに武術とかも、本場の本格的なのは、やっぱり大陸の方じゃないとダメみたいなんだよね。香港ってさ、ほら、イギリス領だったじゃん。マモちゃんは、別に朝の公園でやってる、健康太極拳や気功ダンスを見たいわけじゃないんでしょ」

「そりゃ、そうだけど」

 向こうは縁故(えんこ)の世界なんだ、と香子は言った。よく知らない外国人観光客、それも日本人には、そう簡単には見せたりしないらしい。

「反日感情だって高まってるのに……」

 だったらなおさら香港の方が、と守は反論した。その根拠はつい二年前までイギリス領だったというだけなのだが。

「もう中国に返還されたから変わんないよ。っていうか、かえって警戒してるかも。だったら、知り合いがいた方が断然安全だし、いろいろ融通してもらえるんだよ。それに、ちょっと習ったりもできるようにしてくれるんだって」

「マジで?」

「うん。だから観光は初日だけで、あとはフリーのプランにしておいたからね」

 香子は「一応、書いとくね」とパンフレットの余白に何か数字を書き込んだ。現地に住んでいる知り合いの電話番号なのだという。

「あと、パスポートを取りに行って、大使館で個人ビザ取って、荷物の準備をすればOKだから」

「大使館? ビザって自分で取りに行くんだ」

「あっ、それなんだけどね――」

 通常中国へのツアー旅行は団体ビザだが、今回はたまたまツアーの応募者に報道関係者がいたため、安全のため他の人たちは個人ビザになった、と香子は言った。

「安全?」

「ほら、向こうは自由主義の国じゃないでしょ。で、団体ビザって、旅行中に問題ある人が一人でもいると、その団体のメンバー全員が止められちゃうんだよ」

「え? 出国できない、ってことか?」

「らしいよ。でね、報道関係者は、仕事じゃなくても必ず団体ビザじゃないといけないんだって。だから、何かあった時に巻き込まれないように、アタシたちは念のために個人ビザね」

「ふ~ん」

 日本と中国では国の体制が違うことは知っていても、具体的にどう違うのかは、守もほとんど知らなかった。この時初めてその片鱗に触れたのだが、それでもまだ「何か、大変だな」というありきたりな感想しか持てなかった。

「でも普通の観光客なら大丈夫。って言うか、正直、今から楽しみだよ」

「だな」

 言いくるめられた感は拭いきれなかったが、香子は守のためを思ってやってくれた、と無理やり自分の心を納得させた。実際話を聞いてみると、(つて)もなく、ただ観光地を回るだけの香港よりも、数倍内容があるのは事実だった。

 その後も、面倒なことのほとんどは香子がしてくれた。守は必要書類を母に頼んで揃えてもらい、書くものを書いて香子に託し、言われるままに一緒に様々な場所に出向いただけだ。

 ところが――


 旅行当日、香子は約束の時間に待ち合わせ場所に現れなかった。

 電話をすると声が掠れ、スンスンと鼻を啜っている音が聞こえてくる。どうやら風邪を引いて熱があるらしい。守も今回は諦めようと思ったが、香子に強く勧められ、独り空港へ足を向けた。

 今まで人任せだった守は、空港に着くまであれこれさんざん迷ったが、それでも時間に遅れることなく、何とか無事に飛行機に乗り込めた。


ビザに関しては、実話です。


追記 16/05/25

 2003年9月1日より、滞在日数が15日以内なら、中国の観光ビザ(Lビザ)は不用になったらしいです。

 この話は、1999年の設定です。


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