入薬起火 1
これはあくまでも創作です。実在の場所や物が出てきますが、現象はすべて作者の妄想です。
守は育を探すのを諦め、残りの時間で明日香の他の遺跡を回ることにした。
本来の目的に対する収穫は大してなかったが、せっかく母が融通してくれたのだから、せめて観光ぐらいはしておこうと思った。
徒歩で橘寺、川原寺を見学し、南東に伸びる道を歩いて行くと、開けた空間に大きな石がいくつも積まれている場所に行き着いた。
飛鳥時代の遺跡の中でも最も有名な石舞台古墳だ。
道を挟んで少し離れた駐車場には、観光バスが何台か止まっていた。石舞台までの道に、数組の団体客が細く長く蛇行した列を描いている。
その中ほどに、薄紅のショートコートの育がいた。
「あいつ……」
育は少し離れた所から石舞台を眺めていた。遠目から見ているだけで、他の観光客のように中に入ろうとはしない。守は育に判るように近づくと、わざと横を通って、声もかけずに玄室へ向かった。
何故か、育が慌てたように追いかけてくる。
「止めたほうがいい」
そう言っただけで、今度は守の腕は掴まなかった。
「何でだよ?」
振り向きざまに守が訊いた。育は何も答えない。守は大きくため息をつく。
「あんた、いつでも、話したくないことにはだんまりだな」
険のある声に、少し離れた所にいた若い男女が振り向いた。
それでも、育は答えなかった。
「いいよ、もう。そうやって人を無視して勝手にするなら、オレだって自分の好きにするさ」
女が何かをヒソヒソと相手の男に耳打ちする。どうやら痴話ゲンカだと思われたらしい。そう思うと守は余計に腹が立った。
「オレは、こいつとは関係ないんだ」
ボソリと小さく呟いて、守は育を無視し玄室へ向かう。残された育はただ独り、それを見ているだけだった。
数人の観光客と一緒に、守は上円下方墳の横穴式の玄室へと足を踏み入れた。ガイドブックによると、石舞台は蘇我馬子の墓ではないかと推測されている。
半地下になっている玄室は、以前テレビで観たどこかの古墳の中とは違い、人が何人も立ったまま入れるほど広かった。大きな石をいくつも組み合わせてできているのに、思ったほど圧迫感もない。それは天井が高いだけでなく、構成する石と石の隙間から、ところどころに青い空が覗いているからだろう。石の向こうがすぐ『外』というのは、思った以上に安心できるものだった。
意識が外に向かった守は、ふと、育はどうしているだろうと振り返った。縦長の出入り口の先に見える育は、まだ元いた場所に立っていた。
(今度は逃げないんだな)
守は不思議に思ったが、思い直して頭を振った。
(別に関係ないさ。あいつが逃げようと逃げまいと、オレには全然関係ない)
他の観光客と一緒にぐるりと玄室の中を廻り終え、守は足早に出口へ向かった。陽の当たる石畳に一歩足を踏み出そうとしたその時──
ゾクリ。
守の背に冷たいものが走った。
急いで振り返る。
だが、そこにいたのはさっきのカップルだけ。人目も構わずキスをしたり、触れ合ったりと、イチャイチャと戯れているだけだった。
「あいつら……」
ホッとするのと同時に、守は無性に腹が立ってきた。
見苦しい。
声に出して言おうとして止めた。この状況では、どうしたって僻んでいるとしか思われない。
「ちくしょう」
小さな声で節度よく毒突いて、守は玄室を後にした。そしてまだいた育をわざと無視して足早に立ち去った。
守はイライラしながら歩いて行く。けれど五分ほど歩いた所で立ち止まった。
明後日の方向を向きながらも、八方目を使い後方を確認する。と、守の左目の端に白っぽいモノが映り込んだ。
「は? あいつ、何でついてくるんだ?」
不思議に思いながらも再び大股で歩き出す。
足早に、今度は後ろも見ずに歩み続ける。
ところが――
歩くにつれ、最初は勝っていた怒りが落ち着いてきた。それに呼応するかのように歩くスピードも落ちて行く。守は知らないうちに、後を追いかけてくる育のことを気遣って、歩調を緩めている自分に気づき首を傾げた。
(何でだ?)
守は、自分の気持ちがよく判らなかった。
最初に育を見かけた時、儚く優しげな姿に心を奪われたのは確かだった。
けれど実際育と対面していると、何だか妙に腹が立ってくる。
それは、守に対する態度が冷たいからだけではないのだろう。だいたい初対面の相手に、気になるのに受け入れてもらえなくて拗ねているなどありえない。それにそういうことはしてはいけないと、守は幼稚園の時に、母からさんざん言われていた。結局気を引くためにそれをすると、自分の気持ちがきちんと伝わらないだけでなく、決定的に嫌われてしまうこともあるからだ。
そんな刷り込みが功を奏してか、今まで告白してつきあうまではわりとスムーズに進行した。最大の難関は父だったが、父と会わせなければ何と言うこともない。現に、香子とは三年もの間、問題なく続いていた。
だのに――
育に限っては、母の教えが上手く働かない。
というよりも、いつもと全然勝手が違う。
何で、あんなに腹が立つのか。
何で、こんなに気になるのか。
そこには何か、もっと特別な理由があるはずだ。
(ん?)
僅かな隙を突くように、微かにあの『イヤな感じ』が襲ってきた。
冷たく湿った重い空気。育の守に対する軽蔑の視線だろうか。
口調や態度とは相反するものを、見透かされているということか。
その時――
(そういえば……)
守は似たような感じの悪さを思い出し、すぐに「そういうことか」と納得する。
似ているのは、視線というよりも育の目だ。
育の目許が、武志のそれと似ているのだ。
家を知っていたことと、顔が似ていることを考え合わせれば、育はおそらく武志と血の繋がりがあるのだろう。維名の血筋が武志以外に途絶えているのなら、母方の親戚の可能性が高かった。ならば、従姉妹ということも――
(マジかよ……)
もし育が維名家の関係者なら、守への態度も頷けた。不思議とはいえ、人が亡くなっている事故なのだ。興味本位や面白半分で調べていいことではない。
もちろん守にも、行方不明になった武志を見つけるという、正当な理由はある。けれど遇ってからの育に対する守の態度は、そう誉められたものではなかった。
たとえ、向こうの態度が悪くても。
たとえ、武志に似ていたとしても。
対抗するように、けんか腰に振る舞っていいはずがなかった。
それに――
育は、守にナンパされたと思っている。
(これが一番、問題だな)
背中には、いまだひしひしと冷たい視線を感じていた。
それ以上に『イヤな感じ』が増している。
とりあえず誤解だけは解いておこうと、守が振り向いた。
「!」
その視界いっぱいに広がるのは、黒い粒子。
上海で守と武志を襲った――
あの黒い『靄』。
(――逃げて!)
誰かの声が脳内いっぱいに響き渡った。
守は反射的に駆けだした。
*
起伏のある山道を駆けて行く。
回りに民家はない。
あったとしても頼りにならない。
ヤツらは毛穴にすら入り込もうとするものだ。
一般の家屋では密閉性が低すぎる。
守は、ただひたすらに道を走った。
時折、分岐点になると指示が飛んでくる。
守は無意識にそれに従う。
教えてくれるのは誰なのか。
それが正しいのか、正しくないのか。
考えている余裕はなかった。
本能で感じるだけ。
すべての感覚を研ぎ澄まし、ただそれに従うしかない。
何本目かの坂を登る途中、右側に石造りの洞窟が出現した。何かの古墳の一部だろう。ここにはそんなものがたくさんある。
と――
「こっち!」
その前で育が手招いていた。
(いつの間に……)
頭の片隅で守が思う。
と同時に――
今まで自分を導いてくれたのが、育だという確信を持った。
育が石窟の中に飛び込んだ。
「早く! 奥に!」
守を呼び込む育に倣って、守も石窟に飛び込んだ。
だが、その先は――
行き止まりだ。
「先に行けないぞ!」
「大丈夫! 下がって!」
育は守を背中に庇うように、入り口に向かって立ちふさがった。
入り口に神経を集中する。
「ダメだ。アレは危ない!」
守は育の手首を取って外に出ようとした。今ならまだギリギリ逃げられる。だが育は手首を上手く返して、小指から守の手をあっさり振り解いた。
「いいから下がって!」
育は剣指の右手を鼻先に構え、左手は不思議な形に拳を握って小指側を臍下に押しつけた。
と、何か短い文言を、素早く繰り返し呟き出す。
ボソボソと低く力強い声。
これだけ強く言うのなら何か勝算があるのかもしれない。
おそらく、育はこうなることが判っていて、守を助けるために見捨てずに付いて来てくれたのだ。女に庇われるのは情けないが、今は育に任せてみよう。
同時に――
守は上海でのことを思い出し、自分がどうやって逃れたのかを確認する。
もし育が失敗したのなら、自分が何とかしなければならない。
そうあの時は、体に纏わりつかれて死に物狂いだった。突然目の前が朱くなり、『靄』が一瞬で蒸発した。
他にも何かあったはずなのだ。だが今はそれを思い出している暇はなかった。
とりあえず『靄』が襲いかかる前に、自分が盾になればいい。今はそのことさえ判れば十分だ。同じような状況に陥れば、もう一度何とかできるかもしれない。
守は奥まで下がらずに、すぐ飛び出せるよう育の斜め後ろに陣取った。入り口に注意を向けながらも、育の動向をも目の端に捉える。息継ぎもそこそこに、育は相変わらず何かを繰り返し呟いていた。
「来たぞ!」
守が叫んだ。だが、育は臆さず口訣を唱え続けている。
育の目が少し吊り上がり、次第に大きく見開かれる。
青みがかった澄んだ白目が今は赤く充血し、育の体が細かく振動を始めた。
振動は少しずつ大きくなる。
育の体が脈打って、傍目にも力が漲っていくのが判った。
あの細い体のどこに、そんな力があるのだろう。
脱色された髪が静電気を帯び、小さな火花を散らしながら逆立っていく。
漆黒の闇のような瞳孔に、黒い炎が燃え上がった。
それはあの日上海で見た、武志の目の中にあったものと似ている気がする。
すると――
淀みなく口訣を唱える育の右手が動き始める。
結んだ剣指の、揃えた二本の指先が、ひとりでに入り口へと向かって行く。
その先には――
黒い『靄』。
育を包み込むように大きく広がった。
だのに、育は動じない。
守が育の腰に手を伸ばそうと身構えたその時――
「来て!」
育が叫んだ。
剣指を結んだ指先から、白銀の光が煌めいた。
迫り来る『靄』を阻むように光が大きく広がった。
シュウ、
シュウ、
シュウ。
勢いよく水が蒸発する音が耳を打つ。
光に触れた途端、『靄』は瞬時に掻き消えた。
「スゲェ!」
守が思わず声を上る。
「あんたスゴイよ!」
振り返った育は頬を染め、たいしたことはない、と言いたげだ。
そこには今まで守に見せていた、冷ややかな表情はみられない。
と――
突然大地が縦に揺れた。
「うわっ!」
「キャッ!」
音を立て、天井の岩が崩れ落ちてくる。
守はとっさに育を掴んで自分の懐に引き寄せる。
そして、庇うように覆い被さった。
*の部分で二つに別れていたのを、まとめてあります。




