止念 13
武志が行方不明になったのは二学期の中間試験の最終日、学校も午前中で給食もなく、早く帰ることができた日だった。
その日、守の母は弟を連れ、泊まりがけで親戚の法事に出かけていた。父は仕事で、どんなに早くても夜の七時を過ぎなければ帰って来られない。守は独り家で留守番しているのもつまらなかったので、真っ直ぐ家へは帰らずに、誘われるまま亮二の家に立ち寄った。
「母が朝、昼用にって、弁当を持たせてくれたんで、それを亮二のうちで食べました。その後、権現様の和昭の家に行こうってことになったんです」
守たちは、亮二の家を出るとすぐに武志に遇った。守は今朝も出がけに母から「武志くんと仲良くしなさい」と言われたばかりだったので、「一緒に行くか」と聞いてみた。
「断ると思ったんです。あいつはオレが誘うと絶対に来ない。いつもそうだった。けど、この時は違っていました」
「ほう。どう違っていたのですか?」
「珍しく、『一緒に行く』って言ったんです。オレは内心舌打ちしました。でも、亮二は嬉しそうでした。あいつはオレたちの間に挟まって、いつも困ったような顔をしてましたから」
守と武志と亮二の三人は連れ立って、歩いて五分ほどの神社へと向かった。神社の境内は、お寺の境内や分校の校庭と共に、公園などないこの辺りの子供の遊び場になっていた。
三人は、武志と亮二の家の間の、竹に囲まれた緩やかな下り坂を進んでいった。坂を下りきると右側の視界が開け、遠くに火の見櫓が見えてくる。そこに続く道の両側には、小規模な畑があり、何軒かの家が固まって建っていた。右に折れずに真っ直ぐ進めば、遠い中学校へ行く大きな道路にぶつかる。しかし神社へ行くためには、その道を右に曲がらなくてはならなかった。
火の見櫓の下まで来ると、道は村の中央をうねるようにのたくる本道へと繋がっている。その少し先に、守の住む寺の門があった。
家に寄って鞄を置き、水を張った洗い桶に弁当箱を浸け置いて、守は武志と亮二と一緒に本道へ戻った。もう一軒のお寺の前を通り過ぎ、さらに先へと進んでいく。この辺りは集落の中心部で、民家が固まって建っている所だった。
道の左右に連なる家の、何軒目かの切れ目を右へ曲がると、再び小規模な畑が見えてくる。道はその先にある、濃い緑の、こんもりとした杜へと続いていた。
集落の中で一番高いその場所の、鎮守の杜の中に、権現さまと親しまれる神社があった。
三人は駅へと向かう本道から逸れ、鳥居をくぐり、登り慣れた石の階段を上っていった。階段はかなり急だったが、社務所の裏手にあるもう一つの階段よりはましだった。両方とも回りの土手に太さの違う無数の木の根が覗いていた。杉の木立に囲まれた薄暗い境内にも、罠のようなゴツゴツとした根が這い回っている。
その境内の道路寄りに、社務所兼雑貨屋の和昭の家があった。ガラス戸を開けて声をかけると、和昭はすぐに顔を出した。
初めは境内でキャッチボールをして遊んだ。飽きると和昭の店で駄菓子を買い、社務所の裏手の階段で学校や友達の噂話をして盛り上がった。
こういう時、武志はいつも聞いているだけで参加はしない。
そういうところも気取っているようで嫌だった。
ザワザワザワ――
風が木々を揺すり始めていた。まだ昼間というのに空が急激に暗くなっていく。西の空が明るく光り、少し間を置いてゴロゴロと雷鳴が轟いた。
誰かが「帰ろう」と言いだすのに、そう時間はかからなかった。
「そしたら駅からの道に、女の人が歩いてこっちに来るのが見えたんです。知らない人でした。そのおばさんはオレたちを見ると、声をかけてきました」
「何か特徴はなかったのですか?」
「そうですね、何だか言葉が変でした。発音かイントネーションがおかしかったんです。それに色こそ黄土色でしたが、服の形はオレたちが着てた詰め襟の学生服によく似ていました。今考えると日本人じゃなかったかもしれません」
「なるほど。中山装なら、中国人ですね」
「ちゅうざんそう?」
「人民服と言った方が日本の方には解りやすいですか?」
考案したのは、中国で『国父』と呼ばれている孫文、あるいはその側近だった日本の陸軍将校、あるいは発注先の洋装店の店主と、いろいろな説があるという。
「この中でも表向き一番偉い孫文が、日本にいる時に中山樵と名乗り、その後も孫中山と称したことから中山装と呼ばれ、中国の民族礼服になりました。欧米では、毛沢東主席が着用していたことから、マオシャツと称されているそうです」
また一般人が普段着ているものを人民装といい、礼装用の中山装とは分けられているともいう。人民装は綿素材で、色も紺、焦げ茶、モスグリーンなど暗い色が多く、文化大革命の頃には多くの男女が身に着ていた。
「この人民装が日本でいわれている人民服です。ですが、今はもうほとんどの人が普段着としては着用していないのです。そういえば、貴方は現在十九でしたね。では、生まれたのは一九八〇年ですか?」
自分の生まれ年などいったい何に関係しているのだろう、そう疑問に思いつつも、守は素直に「はい」と答えた。
「私が日本の高校を卒業し、中国に帰国したのが一九八〇年の春でした。文化大革命が終わって数年も経っていないその時期なら、着用している人もかなりいましたが、貴方が中学生だった九十年代の中頃なら――そうですね、お年寄りが着ているのをごくたまに見かけるくらいだったでしょうか。確かうちの母も、もう着ていなかったと思います。それに黄土色は、芥子色をさらに渋くした感じですよね。その色は人民装では珍しいかもしれません。ならば、礼装的な意味合いがあった可能性も……」
最後は独り言のように呟いて、含明はふと笑みを漏らした。「すみません、これは余計なことでした」と言い、守に先を促した。
「そのおばさんは、『武志という子供を探しているけれど、知らないか?』と聞いてきたんです。オレたちは互いに顔を見合わせました。異質な者に対する警戒心もあったと思います。みんなどうしようか迷っているようでした。その時――」
守は、そこで一度言葉を切った。
「――和昭が、維名を指差しました」
素直に歩み出た武志は、中年の女を睨みつけていた。女はニッコリと微笑みかけ、武志に何かを囁きかけた。
「維名の表情が凍りついたように見えました」
「何と言ったのです?」
「それは判りません。維名以外は、誰もその言葉を聞いていないんです」
武志は女を促して守の横を通り過ぎ、境内への階段を上っていった。
「武志が連れていったのですか?」
「そうです。二人は社の階段に腰を下ろして、何かを話し合っていました」
守たちは、その光景を遠巻きに眺めていた。
空が光って雷鳴が轟き、亮二が守の袖を引いて「帰ろう」と言った。
守と亮二は、和昭と別れて家路に就いた。
さっき三人で来た道を、今度は二人で帰っていく。
二人は何も話さなかった。
一粒、二粒と、水滴が頬に当たった。
ポツポツと雨が降り出していた。
火の見櫓の下で亮二と別れ、守は急いで家の中へと駆け込んだ。
家の中は、暗く、誰もいない。
いつもいるはずの母と弟は出かけている。
誰もいない家に、独りきりなのは初めてだった。
単純に寂しかった。
ふと、家の裏が墓地なのを思い出した。
ゾクリ。
一瞬、守の背筋が怖気立った。
気温が下がったのか。
濡れたせいなのか。
それとも裏が墓場だからか――
夏の肝試しの時は楽しいが、こんな時期には有り難くない。
(独りは、嫌だ)
守は思う。
けれどこの時間では、父が帰って来るはずもなかった。
頭を振って不安を払い、守は違うことを考えようと試みた。
今一番、気になること――
それは武志のことだった。
(あの女は、いったい誰なんだろう?)
黄土色の、あまり見ない服の女。
発音とイントネーションが微妙に違っていた。
女に話しかけられた時の、武志の凍りついたような表情。
けれど、感情は如実に表れていた。
いつも醒めた目の中にあったのは、驚きと怒り――
そんなことは、初めてだった。
(あのおばさん、いったい何て言ったんだ?)
守は、急に居ても立ってもいられなくなって、傘を持って家を出た。
降りだした雨は、まだ本降りになっていなかった。
裏口を出て火の見櫓の下まで来た時、脇道から本道に誰かが飛び出してきた。
あっという間に小さくなる後ろ姿の、チラリと見えた横顔は、あまり見たことがない男のものだった。けれど全然知らないわけではなく、その特徴ある丸いメガネは、確かにどこかで見た記憶がある。
(もしかして、維名の叔父さん?)
守は急いで傘を閉じ、濡れた中央を鷲掴みにすると全速力で駆けだした。
武志に何かあったのだろうか。
あの様子は、ただごとではない。
だが、中二にしては大きい方だとはいえ、大人の足に敵うはずもなかった。
守は武志の叔父にどんどん引き離されていく。
見失いながらも、何とか神社の階段まで辿り着いた。
その時――
ピカリ。
空が光って、すぐに雷鳴が轟いた。
守は、傘を打ち捨てて一気に階段を駆け上がった。
大粒の雨が、バラバラと顔に降り注いでくる。
上から五段目の所で右足が滑り、体が宙に浮いた。
「うわっ!」
ひときわ明るく闇の空が瞬く。
耳を聾するほどの大音響。
空気が激しく振動し、俯した体がジンジンと震えた。
しばらくしてそれが収まると、守は這いずるように階段を上った。
そこには――
生木の焦げる嫌な臭いに、木の燃えるメキメキという音。
立ち込める、黒い煙のその中に武志の叔父が倒れていた。
武志と見知らぬ女は――
どこにもいない。
遠くに聞こえ始めた半鐘の音。
それを合図にしたように、ザーザーと冷たい雨が降り注いできた。
「それきり、維名は戻ってきませんでした」
守の一家は、それから一月半後に引っ越していて、その後のことは記憶にない。
「それで、貴方はどこが引っかかるのですか?」
「雨です。それにオレが必ず維名を誘っていて、あいつがそれを断らない」
「それだけですか?」
「いえ、もう一つ。……あの時――」
守の体が、無意識にガタガタと震え始めた。
「黒い煙が立ち昇る境内に、煙とは何か異質な、どこか質感が全然違う――」
「何です?」
「昨日みたいな、黒い『靄』がいたんです」