止念 11
「やはり、戻っていないようです」
翌朝早く、含明は前日と同じようにさわやかな笑顔で現れた。
「よく眠れなかったようですね」
守は、含明とは対照的な空ろな顔で頷いた。
「昔の夢をたくさん見ました。小さい頃のことばかりです。昨日みたいに、あいつが突然いなくなった時のこととか――」
「確か、ご友人の名は……」
「維名武志です」
「実は、そのことなのですが――」
切り出した含明の言葉に目を瞠り、どういうことか、と守は聞き返した。含明の話では、武志は彼の生徒だったという。
「昨夜、話さなくて、すみませんでした」
「いえ。オレのことを考えてくれたんですよね」
確かに聞いてしまっていたら、さらにあれこれ思い悩んでいただろう。
用意してくれた簡単な朝食を取りながら、含明が武志のことを話してくれた。
初めて武志に会ったのは、武志が十五になる年の秋。古い知り合いから、日本人の子供を預かってほしいと頼まれたという。
「日本人の彼が、何故独りでこの国に来たのか、その経緯は判然としません。知人も人から頼まれただけで何も知らないとのことでした。武志は何も話そうとしませんし、私もまた無理に問い質そうとは思いませんでした」
武志が自分で話し始めるのを待っていた、と含明は遠慮がちに付け加えた。
「でも、維名は話さなかったんですね?」
「そうです。私の力不足です」
目を伏せた含明は、じっと一点を見つめていた。それは自分の力量に対する後悔というよりも、どう話せば判りやすいか、言葉を選んでいる感じだった。
やがて顔を上げると、含明はその薄い唇を開いた。
「当時、武志はこの国の言葉を、ある程度理解することができました。けれど話すことはできませんでした。ですから、私が最初にしたことは、彼に『国語』を教えることでした。上海語よりは、使える範囲が広いからです」
中国は、広大な国土に様々な民族が集まってできた多民族国家だ。それぞれの地域、民族にそれぞれ固有の言語がある。含明の言う『国語』とは、北京方言の発音を平易にした、北京官話を基にして作られた、普通話と呼ばれる共通語のことだった。東京弁が日本の標準語でないように、厳密に言えば、北京語も中国の共通語ではない。
「私は武志に武術の練功の仕方を教え、国術大学に推薦しました」
含明はもう一度視線を落とし、ひとしきりテーブルの上に置かれている自分の手を見つめていた。少しして何かを思いついたのか、「そういえば」と顔を上げる。
「貴方は、子供の頃に武志が突然いなくなった、と言いましたね」
「はい」
「それは、いつ頃のことですか?」
「中二の冬だから、十四の時です」
「貴方は、今、いくつですか?」
「十九です」
「では、五年前ということですね――」
守に確認するというよりも、自分に言い聞かせているようだった。
「それきり武志は戻って来なかったのですか?」
「はい。どこを探してもいなくって、行方不明になりました。オレたちは昨日、あの大学で偶然会ったんです」
「偶然ですか――」
腑に落ちないという表情で、含明は繰り返した。
「貴方をそこへ連れて行ったのは、秋という人でしたね」
「皓華さんです」
「昨日から思っていたのですが、ずいぶんと偶然が重なっているように思うのですが……」
「えっ、どういうことですか?」
もったいぶった言葉に、守は言い知れぬ不安を覚えた。「それが――」と含明は少しだけ言い淀む。
「秋皓華と私は、同門の徒なのです」
「同門の徒?」
「同じ門派の武術を学ぶ門人ということです。彼女は私の妹弟子にあたります」
「い、妹弟子? 皓華さんが!」
守は、明るい皓華の、意志の強そうな心持ち角張った顎を思い出していた。
「三年前、ここに来たばかりの武志は、誰にも心を開こうとしませんでした。いくら言葉を憶えても、使わなければ上手くなりません。言葉は意思の疎通を図ると共に、感情の伝達をもします。言葉の通じぬ国で、心を許せる相手がいないのはとても心細いものなのです。それは、貴方も十分にお解りでしょう」
「そうですね」
守も昨日一日で、嫌というほどそれを実感していた。
「だのに武志は言葉を使おうとせず、友達も作ろうとしませんでした。ですから、私は武志に武術を教え、その練功の時に皓華を参加させました。彼女は武志と歳も近いですし、少しなら日本語も理解できます。それに細かいことに拘らないさっぱりした性格は、武志の心を開くには適任のように思われました」
「確かに、彼女は体育会系のノリですからね」
「ん? 海苔、ですか?」
含明が怪訝な顔で聞き返した。
守は、含明に解らない言葉があるのを不思議に思った。そして改めて、目の前にいるこの男が日本人でないということを思い出す。
「調子づく、という意味の『ノリ』です」
「ああ、なるほど」
含明は納得したような笑顔になった。
「とにかく武志は皓華の影響もあって、少しずつですが、私たちに心を開くようになったのです。そして現在に至ります」
話が一区切りついたのを機に、守は含明から与えられた情報を思い起こし、疑問に思ったことを訊いてみた。
「あいつがここに来たのは十五の時でしたよね。でも、いなくなったのは十四の時です。だったら、その間の一年間はどこにいたんでしょう」
「さきほども言いましたが、事情は一切判らないのです。彼を連れてきた知人とは、すぐに連絡が取れなくなってしまいました」
「パスポートは?」
「ちゃんと持っていましたよ。取得年月日はここに来る一年ほど前です」
「ビザはどうなっているんですか? 必要ですよね」
「留学生ビザです。一年ごとに更新しています」
武志が上海でどんな暮らしをしていたのかは何となく判った。だが、何故ここに来たかまでは不明だった。
「ところで、あいつらは何なんですか?」
「何のことでしょう」
「オレと維名を襲ったあの黒い『靄』のことです」
「ああ……」
含明は言葉ともため息ともつかぬ音を漏らした。やはり昨日と同じように「判りません」と返ってくる。そして反対に「貴方はどう思いますか?」と訊いてきた。
視線を外して腕を組み、守は思い切り宙を睨んだ。そのまましばらく、何もない空間を睨み続けている。だが、ふとそこに黒い『靄』が沸き出るような感覚を得て、慌てて含明に視線を戻した。
「『靄』のことは解りませんが、気になることがあるんです。でも、もしかしたら全然関係ないことかもしれません。けど……」
「話してください」
含明は真剣な面持ちで促した。
「真実がどこでどう繋がっているのかは、当事者にはよく判らないものです。誰かに話すことで、見えなかったことが見えてくることもあります。話すことによって忘れていた何かを思い出すこともあるのです」
「そ、そうですよね」
そうは答えてみたものの――
何かの戒めをかけられてしまったかのように、守はなかなか話しだすことができなかった。
この話の年代は1999年です。
2003年9月1日より、滞在日数が15日以内なら、中国の観光ビザ(Lビザ)は不用になったらしいです。