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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第一章 止念(考えない)
10/99

止念 10

「何か判りますか?」

 (まもる)が問いかけると、目の前の男は腕を組んだまま、困ったように首を傾げた。

「う~ん、何と言ったらいいのか……」

 小さく唸った含明(がんめい)は、「お役に立てそうにありませんね」と首を振った。


 食事を終えた守は、急須で入れたジャスミン茶をごちそうになりながら、促されるままに上海に来た経緯と、自分の身に降りかかった出来事について話した。

 もちろん黒い『(もや)』に関しては、守も信じてもらえるとは思っていなかった。

 最悪、病院や警察に連れて行かれる可能性も頭の隅を掠めたが、それらも顧みずに話してしまったのは、ひとえに含明から与えられる安心感からに他ならない。

「ですよね……」

 と、相槌を打ってから、守は何故かひどくがっかりしている自分に気がついた。どうしてそう考えたのかは判らないが、含明なら何か知っているはずだ、と無意識に思っていたらしい。

「ですが、明日ならできることもありますよ」

「明日ですか?」

「ええ。ご友人は大学に戻っているかもしれません。ですから、そちらの方へは、私が問い合わせてみましょう」

「あ、はい。お願いします」

 守は、勢いよくきっちり四十五度に頭を下げた。顔を上げると含明は少し困ったような表情を浮かべていた。

「それから、ホテルからこちらに移ってきたほうがいいかもしれませんね」

「はい?」

「近くにいたほうが連絡も取りやすいですし、まだ伺いたいこともありますから」

「あ……そ、そうですね」

 まさか『靄』の襲撃に備えてか、とあらぬ妄想が炸裂したが、主に事務的な理由だと判って納得する。

(まあ、信じられないよな……)

 実際そこに居合わせ、襲われた自分でさえ『夢』ではないかと疑うほどだ。身内にさえ笑い飛ばされそうなこの状況で、赤の他人が信じるとは――

「それに、何かあったとしてもこちらの方が対処がしやすいですしね」

「え?」

「けれど、まあそれも明日のことです。とにかく今日はゆっくり休んでください」

「あ、で、でも……」

 よく判らないものをよく判らないままにしておくことが、守は苦手だった。できることなら、白黒はっきり着けてしまいたい。それが守の性格だった。

「納得がいかないと嫌ですか? しかし、いくら頭で考えても答えが出ないこともあるでしょう。そういう時は、考えないのも一つの手です。もう、今日できることはありません」

「しかし……」

 それでも、守は食い下がった。

「情報が足りないのです。答えが出ないと判っていて何かを考え続けるなら、何も考えずに休んだほうがいい。それが今の貴方に一番必要なことだと思いますよ」

 それでもなお逡巡する守に、含明が中国語で何かを言った。

「あの……」

「『心猿不定(しんえんふてい)意馬四馳(いばしし)』。書き下すなら、『心は猿のように定まらず、意は馬のように四方に()せる』、ですかね」

「えーと、それは?」

「『心猿意馬』。日本では『意馬心猿』。その元になったとされる言葉です。人の心や意識は猿や馬のように、一時もじっとしていない。放っておくとすぐどこかへ行ってしまう。そういう意味になります」

 おそらく『心猿』は上下の広がりを、『意馬』は左右や四方だけでなく、全方向的な平面的広がりを表している、と含明は説明した。さらに『心猿』は、上下の移動だけではなく、猿が木の合間に突然出現するように、制御されない思考があちこちに飛ぶ様子をも表しているだろうという。

「それに『性命双修(せいめいそうしゅう)』という言葉もあります。『性』は『こころ』、『命』は『からだ』のことです。そして心を修める『修性(しゅうせい)』と、体を修める『修命(しゅうめい)』の両方行うことが『性命双修』なのです」

 守は、意味が解らなくて首を傾げた。

「中国では、(こころ)(からだ)は互いに影響し合うものだと考えられています。辛いことがあれば、元気がなくなるし、楽しいことがあれば逆に元気にもなる。けれどそれも長くは続かない。まさに『猿や馬のごとく』常に移ろっているのです。また辛いことでも楽しいことでも、心を動かされ続けていれば、体もそれだけ疲弊します。ですから体を休めるためには、心も休ませなければなりません」

「はあ……」

 含明の言いたいことも、理屈も解る。けれど守にはその方法が判らなかった。

 この世の中に、『何も考えるな』と言われて、『はい、そうですか』とすぐに実行できる者が果たしてどれくらいいるだろう。

 守がそう考えていると、突然「すみません」と含明が謝ってきた。

「何も考えるなと言われても、方法が判らないですよね」

「あ……は、はい」

「では、コツを教えましょう」

「はい?」

「『何も考えない』、コツです」

 そんなものがあるのか、と守は驚いて聞き返す。含明は、もちろんと言わんばかりにニッコリと微笑んだ。

「実はこの場合の『考えない』は、初心者の場合、まったく何も考えないということではありません。正確には『考えを発展させない』ということです」

「はぁ……」

 何か考えが浮かぶことは、人間であれば仕方がないことだ、と含明は言った。

 たとえ何もせずにじっとしていたとしても、生きている限り心臓は鼓動し、肺は呼吸を繰り返し、地球は回り、宇宙は広がり続けているのだ、と。

「時が流れ続けている限り、体の中や周りの状況は刻々と変化していきます。それに対応するために、人は無意識レベルで、常に五感を使って情報を収集、分析し、危険がないかどうかを判断しているのです。ですから、簡単に何も考えないという状況を作り出すことができません」

「だから、考えが浮かぶことは仕方がない、と?」

「そうです。問題なのは浮かんだ考えに囚われ、それを発展させ続けてしまうことなのです。例えば、『お腹が空いた』と浮かんできたとします。その後、貴方なら何を考えますか?」

「えっと、『何を食べよう?』、ですかね」

「では、今何を食べたいですか?」

「ぎゅ、牛丼?」

「牛丼ですか? いいですね。日本に留学している時、古書店街へ行った帰りに食べた記憶があります」

「え? 古本屋街の、どこですか?」

「確か、大きな交差点から国鉄の――」

「あの、国鉄ってJRのことですよね」

「そういえば、民営化されたのでしたね」

「あ、でも大丈夫ですよ。うちの父も母も、いまだに『国鉄』って――」

「そういうことです」

「はい?」

 守は一瞬、新しい名前を昔の名で呼び間違ってしまうことかと思ったが、きっとそうではない。というよりも、何で国鉄の話になったのだろう。

 守は思い出そうと記憶を辿る。

 ところがその答えに行き着く前に――

「今のような会話を、頭の中で、一人で発展させていく状態が『考える』ということなのです」

「あ……な、なるほど」

「ですから、何かが浮かんでも、そこで終わり。それ以上発展させずに放っておくことが『考えない』ということになります」

「リセットしろ、ってことですか? それを何度も繰り返す――」

 この場合問題なのは、考えが浮かぶことではなく、浮かんだ考えを発展させることで心が動いてしまうことだ、と含明は続けた。

 そして心が動くとは、様々な感覚や感情が湧き出ることだ、とも。

「楽しいものならまだいいのですが、いったん辛いものになると、どんどん悲観的な方へ考えが向かってしまいます。人によっては解決しようのない問題にまで辿り着き、堂々巡りになってそこから動けなくなってしまうのです」

 確かに『牛丼』という言葉一つ取っても――

 口に入れた瞬間に感じた味覚に対する、幸福感。

 食べ終わった後の、満足感。

 食べたいと思う、渇望感。

 異国の地で簡単に得ることのできない、残念感。

 等々の、様々な感情が()()ぜになって湧いてくる。

 これが『父』や『母』となったら、さらに想いは募っていくだろう。

 守は、自分が置かれている現在の状況を思い出し、ホームシックにならないよう、含明が話を途中で止めてくれたことに気がついた。

(優しい人なんだ)

 頼る人もいないこの国で、この優しさはありがたい。

 含明は「それからこれを」と、日本のメーカーのロゴがプリントされたテレビのリモコンを差し出した。

「日本の海外向けの衛星放送が入りますから、多少は気晴らしになるでしょう」


『意馬心猿』の空間的解釈は、あくまでも個人的な見解です。

正しいかどうかは不明なので、ご注意ください。

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